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[93] 神を慕う時に 投稿者:ブラザー・ローレンス 投稿日:2007/10/21(Sun) 22:25  

私が常日頃とっている態度とは、単純に神に心を傾け、絶えず神を慕い、神を仰ぎ見ることです。それで私の心は、嬉々として母親の胸にすがる乳飲み子にも勝る幸福と喜びにしばしば溢れんばかりなのです。こういう表現をあえて用いるならば、私が味わい、経験している、ことばに尽くせない幸せについて、この状況を「神のふところ」と描写させてください。

時に、どうしても必要なときとか、弱さのゆえにか、脇道にそれることがありますが、たちどころに甘く魅力的な内なる声に迫られて呼び戻されます。その麗しさは到底言いようもありません。私の定めている祈りの時間も、やはり同じことの連続です。時々、私はちょうど自分が、彫像を作ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻師の前に置かれた石のように感じます。私は神のみ前に自分を置いて、私の魂のうちに神の完全なイメージを刻んでください、そして私を神ご自身と完全に似るものとしてくださいと乞い願うのです。

他のときにも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力もいらずそのまま続きます。さわやかに、動かされること無く神の内に憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。

このような状態を怠惰とか、自己欺瞞とか、自己愛と言う人もいるでしょう。たしかに聖なる怠惰、祝された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあることは認めます。魂がその中にあるときには、今この時、神を交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。そのようなものは、かえって神との交わりを妨げるだけです。しかし私は断じてそれを欺瞞とは呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神をのみ求めるからです。

神は私たちの最も必要としているものをよくご存知です。そして神がなさることはすべてにおいて益となるものです。もしも神がどんなにか私たちを愛しておられるかを知ることができたならば、私たちにとって楽しいことも、苦しいことも、等しく神の御手から受ける備えがいつもできているはずです。神の御手から来るものは最も苦痛なこと、最も困難なことでさえ、私たちにとって甘美で喜ばしいことです。最も烈しい苦しみにとうてい耐え切れないように思えるのは、私たちの考えなのです。神が御手によってその試練を与えておられるのだと信じ、また愛に富む天の父が私たちを低くし、悲しみも苦しみも与えておられるだと分かれば、すべての苦しい思いは取り除かれ、ただ喜びとなるのです。

私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです。そして、愛は知識によって測られるものですから、知識が広くなればなるほど、愛もまた大きくなっていくのです。このようにして神への愛が大きくなれば、苦しみの時にも喜びの時にも等しく神を愛するものとなります。


[92] 神様の愛 投稿者:聖書 投稿日:2007/10/19(Fri) 17:29  

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

(ヨハネの手紙一 4章 7〜12)

[91] 神様の愛 投稿者:聖書の福音 投稿日:2007/10/18(Thu) 12:35  

聖書は時間をかけてたくさんの人によって書かれています。しかし、その内容は一貫しており、全体を通して神様の愛が示されています。

世界には、神様と呼ばれるものがたくさんあります。人は、本当の神様を見失うと、神様とは違うもの(偶像)を拝んでしまいます。本当の神様というのは、この世界を造った御方で、最も偉大な御方であります。さらに、この偉大な御方は、私達一人一人を愛して下さっています。

ルカによる福音書14章の放蕩息子の話を読むと、この息子は財産の分け前をもらって自由が与えられたことが書かれています。息子は自分の判断で、お父さんから財産の分け前をもらって遠い国に行き、湯水のようにそれを使ってしまいました。その息子が悔い改めて帰ってきた時、お父さんはそのことについては何も言わずに喜んで彼を迎え、一番良い着物を彼に着せました。

私達にも、この息子と同じように自分の人生を選択する自由が与えられます。しかし、私達が神様のところに帰った時、神様はこのお父さんのように喜んで迎えて下さるのです。また、私達は罪人であって、神様の前に出られるような着物を持っておりません。神様の前に出るためには、神様の与えて下さったイエス・キリストを着なければなりません。(神様がキリストという一番良い着物を与えて下さるのです)

私達は皆罪人なので、良い行いによっては天国にゆくことはできませんが、神様はこのような私達を愛して下さって、愛するひとり子、主イエス様を、私達の代わりに十字架の上でさばくことによって、私達に救いの道を用意して下さいました。信じる者は誰でも、この救いを受けることができます。

神様から与えられる愛は、どんな人にも与えられる無条件の愛です。

[90] 神様の祈りにかなった助け 投稿者:平和を得るためのヒント 投稿日:2007/10/17(Wed) 12:21  

恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。(出エジプト記14:13)

これは、神様が紅海を奇跡的に分けられる直前に、モーセがイスラエルの民に言ったことばです。彼らは非常に困難な状況におかれていました。こちら側には強力なエジプトの軍隊が押し寄せていましたし、向こう側には激しい荒れ狂っている紅海がありました。動きがとれない状態にいますから、民の心は恐怖に満たされていました。死への罠に見えるような状況に導いたモーセに対して怒りにもえるたのも無理もないことでしょう。そこに神様は突然、それも普通では考えられないような不思議な方法で、御手を差し伸べられました。

時に恐怖感は静めることができなくなるほど大きくなります。私たちは、思いがけない恐れに備えて、普段から神様に期待することを学ぶ必要があります。しばしば神様の救助作業は、私たちが祈り求めるより先にもうすでに始まっていることがあります。そして、私たちは困難な状況を奇跡的に乗り越えた後に、どうして神様を疑ったりしたのかと思ってしまいます。神様のとられる方法を私たちが予知することは不可能です。いったいどのように助けてくださるのか、全く見当もつきません。いつも神様には驚かされます。神様はいつだって必ず助けに来るくださいます。神様からのたすけを確信をもって期待しましょう。

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[89] 冷静に自分を見つめる 投稿者:恵泉 投稿日:2007/10/16(Tue) 12:48  

冷静に自分を見つめる「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」 詩篇42篇11節

この詩篇の作者は、絶望を体験しています。絶望とは、自分の人生がもう終わりだと思えることです。人間の力ではもうどうにもならない限界状況に達していることです。底が割れて、行きつく所に行きついたことです。このような体験をしたことがあるでしょうか。この詩篇の作者ほどでなくても、そういう気持ちを味わったことがあるという人は多いのではないでしょうか。この作者は、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と言っています。彼の悲しみ、苦しみの深さが表されています。

この人は人々から嘲られ、そしられています。「おまえの神はどこにいるのか。」と、繰り返しののしられています。彼は公に神様の旗印を掲げて彼の仕事や生活を行ってきた様です。彼の失敗、彼の苦難は、神様の失敗、苦難だと人々が思うほど、彼は神様を看板に掲げるようにして生きてきたのです。彼の絶望的状況を見て、人々は「彼の神はどうなったのか。」と非難しているのです。私の働きの成功、不成功が神様の威信にかかわるという生き方とはどんなものなのでしょうか。このことを意識して私たちは歩んできたのでしょうか。それほどまでに真剣に神様の旗印を掲げて生きてきたのでしょうか。

この作者から教えられることは、彼が冷静に自分を見つめていることです。絶望して涙していますが、神様の御前で思い乱れている自分の姿を冷静に見ています。いわば客観的に自分をとらえることができています。感情の大波のもまれ、自分を見失うような様にはなっていません。なにゆえ、彼が冷静に自分を人間の限界状況の中で見つめることができたのでしょうか。それは彼が神様のみことばをしっかりと持っていたからです。みことばは私たちにゆとりを与え、嵐の中でも平安を与えてくれます。彼は神の御前に静まっていたのです。

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[88] イエス様の十字架からよみがえりまで 投稿者:SU 投稿日:2007/10/15(Mon) 12:30  

マタイの福音書27章50節〜28章15節
この箇所には墓という言葉がたくさん出てきます。人間は誰でも必ず死にます。また、どんなに富んでいても、栄えていても死んで墓に行くときには何も持ってゆくことは出来ません。人間は死について分からず、死後について分からないので死を恐れています。また、考えないようにしています。

しかし、全ての人は生まれたときから確実に死に近づいています。聖書にはその死についての解決が明確に書かれているのです。(体・魂・霊)霊というのは神様との交わりのためにあります。しかし人間はその神様との交わりから離れてしまいました。それが罪であり、罪によって死があるのです。

聖書には、イエス様の十字架とよみがえりによる「福音」が書かれています。イエス様の死は普通の人の死とは明らかに違い、イエス様が死なれたとき不思議なことがたくさん起こりました。また、イエス様の墓には封印がされ、ローマ兵が墓の番をしましたが、そのようなものもイエス様の復活の妨げにはなりませんでした。祭司長達と民の長老たちは、兵士に多額の金を与えて事実を曲げようとしました。しかし、イエス様の死とよみがえりは事実であり真理であるので曲げることが出来ませんでした。その事実を無視して生活することは出来ますが、死と死後の裁きは必ずあるのも忘れてはなりません。

 この聖書は神の言葉であって警告の書でもあります。この聖書の言葉を無視することは出来ません。イエス様がよみがえられたことは真実であり、そこに救いと希望があることは事実です。

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[87] カルバリの愛 投稿者:エミーカーマイケル 投稿日:2007/10/13(Sat) 19:27  

わたしを透きとおる空気にしてください。
どんな色をも通して、
歪めることのない空気にしてください。
あってないわたくしという空気を通して、
神の愛の美しさが輝きますように。

神の愛の力強い栄光、
神の御心の深い憐れみ、
絶えることのない愛の光が、
この世に射しこみ、
このあなたの世界に満ち溢れますように。

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[86] 自己憐憫 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/10/12(Fri) 12:37  

1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

あなたは今、自分は愛されていない、取るに足らない人間だ、と思っていないでしょうか。もしそうなら、この詩篇の根底に流れる真理を探しってみましょう。神様は、あなたのことを、そして、あなたの人生におけるほんのささいなことまで限りなく関心を寄せておられます。そして、あなたはそのような測り知れないほどの愛に包まれているのです。私たちは感染に理解できませんが、このことは素晴らしすぎるほど真実です。コンピューターで探り当てようとするなら、その容量をはるかに越えるほどの神秘なのです。それは「なぜ」ということばが神様には存在しないからです。

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[85] 柔和は平和な謙遜な本心から来るのです。 投稿者:ドナルド・L・マリー 投稿日:2007/10/11(Thu) 12:01  

イエスは人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗巣にしてしまった。」 (マルコ福音書11:17)

多くの人は、イエスがどうして説得力があり力を持っていて、なお柔和であられたのか、理解に苦しんでいます。私はある日、事務所に行くためにエレベーター乗ろうとして、一人の女性が話しているのを小耳に挟みました。友達がいくじなしで、自尊心のかけらもない、と言うのです。私は目的の階で下りたとき、「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ(マタイ5:5)」という山上の説教の聖句を思い出しました。

今日の社会で、私たちは柔和と、勇気と自尊心のなさと混同していることがあります。けれども、柔和は聖書の中では強烈な深い意味を持っています。柔和とは私たちの力を神の支配のもとに置くことです。神へ献身と謙遜によって成長し、心の平和に至るものです。イエスは私たちにこの柔和を求めておられるのです。その一方で、私たちは大胆になるべきときもあります。特に私たちの信仰を言い表すときはそうです。

イエスは、神殿の境内から商人を追い出したとき、恐れや弱気などどのかけらも見せられませんでした。イエスは恐らく勇気や自尊心も持っておられたのです。イエスは神の前には柔和で謙遜な方でしたが、神の真理を語るときは大胆だったのです。

祈祷:神様私たちが柔和であっても弱くならないよう、そして大胆であっても尊大にならないようお導き下さい。アーメン。

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[84] 間違った人生観を持っていませんか 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/10/10(Wed) 12:02  

私たちは、たびたび平安を失ってしまいます。それは、私たちが間違った人生観を持っているからではないかと思います。自分本位になり、この世のものだけに目がいってしまうことが原因ではないでしょうか。しかし、物質的なものだけでは、決して心は満たされません。さらに不平不満が出るだけです。このように、この世の中のことに心がとらわれて息のつまりそうな生活をしている人たちはたくさんいます。

カメラの焦点が合っていないと被写体ははっきり見えません。自分のことしか目に入らない人生も、ぼんやりしてはっきり見えません。これでは、フラストレーションと失望を招くことになります。

私たちは、イエス様に焦点を合わせていかなくてはならないのです。この、あっと言う間に過ぎゆく人生を、イエス様だけが満たすことができるのですから。イエス様に目を向ければ向けるほど、私たちの中にイエス様の再臨への期待が大きく膨らんでいきます。

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[83] 何を選ぶか? 投稿者:聖書の福音 投稿日:2007/10/09(Tue) 12:47  

神様が天地万物と人間を創造されたとき、神様は人間に「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われました(創世記2章15〜17節、3章4〜6節)。しかし蛇は、「あなた方は決して死にません。・・・。」と神様と正反対のことを言いました。女の人エバが、その蛇の言葉を聞いてその実を見ると、大変よくおいしそうに見えました。そしてその実を食べてしまいました。本当は、神様の言葉を判断の基準にしなければならなかったのですが、女の人は蛇の言葉に惑わされてしまったのです。

ルカ10章38〜42節を読むと、マルタさんは給仕をするために忙しく働いていました。一方、マリヤさんはイエス様の足もとに座ってみ言葉に聞き入って言いました。それが大切だと判断したからでした。マリヤさんのその判断はあっていました。

パウロは、人間は律法の行いによって神様に受け入れられると考えていました(ローマ人への手紙3章23〜25節28節)。しかし、救われた後のパウロは、神様と自分との仲介者がイエス様であると告白しています。(23節:人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない。24節:人は、神様からの恵みとイエス様の犠牲によって義と認めたれる。28節:人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく信仰による)。すなわち、パウロは行いによって神様に近づくのではなく、イエス様を救い主として信じる信仰によって神様に近づくことを知ったのです。

神様は私達を滅ぼすのではなく救うことを選択し、イエス様はそのために命を捨てられました(ローマ5章6〜11節)。私たちも、神様のみ言葉を聞くこと、イエス様を信じることを選択して救いにあずかりましょう。

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