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[71] 切り倒されない美 投稿者:ゲリー・トーマス 投稿日:2007/09/24(Mon) 12:50  

ある時、南西部ワシントンで開かれる夫婦の修養会で説教したことがあります。そこに行く途中、「木の国」と呼ばれる広大な植樹林を通過します。この植樹林の所々に、鮮明な痕跡を残す伐採開発地がありました。地面にくっきりと痕跡を残す伐採は、実に見苦しいものです。しかし、幹線道路を運転しながら、また別の伐採地を通過したとき、ある光景が私の視線を釘けにし、あやうく道からはみ出そそうになりました。驚いたことに、ぼろ布のような荒地に、秋の色に染まった、1本美しく紅葉した木が立っていたのです。伐採人たちが切り忘れたのでしょう。

荒地と鮮やかなコントラストによって、その木はなおさら美しく見えました。美しいものに囲まれている美は、時間がたてば陳腐になりますが、無秩序なものや、みすぼらしいものの中にある美は壮観なものです。そういう美は、私たちの視線を釘付けにします。荒れ果てた殺風景な土地の残骸の中で、この木は私の想像力をとりこにしました。荒れ果
傷ついた土地に立つ、一本の栄光の木は、神の崇高な真理を宣言していました。

心の奥底で私たちは、このような「切り倒されない美しさ」をきりに望んでいるのだと私は信じています。人々が自己中心的な生き方をし、残酷な事件が頻發し、罪の広がりは止まるところを知らず、連日、暴力な犠牲者が絶えない世の中で、私たちは、切り倒されない美しさを示すことができるのです。それは、神の国をまず求める、他の人たちを優先する、へりくだった生き方です。それは、あらゆる時代の教会を輝かせてきた美しさでもあるのです。

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[70] 信仰、人格を守ること 投稿者:リック・エゼル 投稿日:2007/09/22(Sat) 11:28  

私は、「アラバマ物語」という映画が好きです。1930年体初期を舞台にしたこの映画の主人公は、アラバマの弁護士アティカス・フィンチという(俳優:グレゴリー・ペック)人物で、彼は当時白人の女性を強姦した疑いで訴えられた、ある黒人弁護をすることになります。フィンチがこの事件を引き受けたことで、周囲の人々は破廉恥な黒人の弁護をするのかと彼を非難し、あざ笑いました。訴えられた黒人は潔白で、フィンチは彼の無罪を立証あいますが、陪審員団は有罪判決を下しました。

裁判の時、フィンチ弁護士の二人の子供たちも法廷にいました。下の階には席がなく、バルコニーで町の黒人牧師の隣に座ることになりました。判事が席を立つと、法廷にいっぱいだった人々も一人二人と出て行きました。フィンチ弁護士の娘、スカウトは父親の顔をじっと見つめていました。彼は誰もいない法廷に一人残って書類を鞄に入れ、上着を着て中央通路を通り扉へと歩いていきました。裁判で負けても、彼の精神はそれに屈しませんでした。その時、誰かがスカウトの肩に手を触れました。振り向いて見ると、先程までバルコニーで裁判を見ていた人たちが皆立っていました。そして、黒人牧師は彼女の肩をもう一度叩いてから、「立って敬意を表してください。お父様が通られます」と言ったのです。

バルコニーにいた人たちは、フィンチ弁護士の人格に大きく感動しました。私たちは生きていく中で人に非難されたり、あざ笑われたり、また騙されたりすることがあります。けれどもしっかりと信仰的な人格と信念を守り抜けば、いつかは人々が私たちに敬意をわ表すでしょう。

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[69] 神は砂漠のような場所に、泉を用意しておられます 投稿者:教会を探している人のため 投稿日:2007/09/20(Thu) 12:16  

神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。創世記21:19

私はまた泣き出しました。私は夫の仕事のため、仕事や子供、孫、親しい友人や教会の人々から4,000キロ以上離れた場所にやって来たのです。夫は新しい役目が与えられて喜んでいかしたが、私は寂しく、何もする気になれず、つらかったのです。

窓の外を見ると、教会の高い塔が見えましt。電話帳を開き、幾つか電話おかけた後、女性のための聖書研究会や夫婦で参加できるプログラムのある教会がみつかりました。教会へ初めて行った時、神が私たちをそこに置いて下さったことを知りました。私は神の愛の滋養に富んだ泉に深く根を下ろし、成長し始めました。

神は生ける水を私たちに備えておられあす。失望の時、与えられいる泉が見えるように眼を開いてください、と私は神に願います。私の問題の解決となる人や答えが見つかったり、心の変化が起きたりしまうが、いつも泉はみつかります。窓の外を眺めて、教会の塔を見るたびに、私はこの真理を思い出しています。

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[68] 知恵 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/09/19(Tue) 12:49  

わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、
それをあなたの目から離してはならない。
それはあなたの魂の命となり あなたの首の飾りとなる。
こうして、あなたは安らかに自分の道を行き、
あなたの足はつまずくことがない。
あなたは座しているとき、恐れることはなく、
伏すとき、あなたの眠りはここちよい。
あなたはにわかに起る恐慌を恐れることなく、
悪しき者の滅びが来ても、それを恐れることはない。
これは、主があなたの信頼する者であり、
あなたの足を守って、 わなに捕われさせられないからである。
 (箴言3:21〜24)

知恵について、何か大切なこととわかっていても、多くの人はそれを絶対に必要なこととは思っていないのではないでしょうか。それは、知恵についてそれが何かを知らないからです。知恵は尊い宝石であり、神様から与えられます。しかし、神様を礼拝するという敬虔な思いがなければ、与えられません。また、それは実際に用いるなら、不安な心に平安訪れ、夜も安らかに寝眠れるようになります。このように、知恵を実際に用いることによって、平安の道を一歩一歩進んでいけます。この貴重な宝を見つけ出し、どんどん用いてみましょう。

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[67] イ・スンジャン 投稿者:傲慢という遺伝病 投稿日:2007/09/18(Fri) 12:30  

1982年の夏、私はスイスのラブリで一ヶ月ほど過ごしたことがあります。当時フランシス・ジェーファー博士は癌治療を受けながら闇病生活をしていました。それから随分時を経ちましたが、今でも私はあるアメリカの青年の質問と博士の答えを忘れることができません。青年はこう尋ねました。「イエス様は私たちが他の人のために奉仕し、自らを犠牲にすることを望んでおられます。ならば、私たちが目標を立て、全力を尽くし、自分のやりたいことをするのは利自的な罪となるでしょうか?」ジェーファー博士はこう答えました。「人を堕落する前はそんな葛藤は存在しなかったでしょう。しかし人を堕落してからその心が腐敗し、自己成就と奉仕が葛藤する関係になったのです。・・・私は他の人に仕えるために本を書きは始めたのですが、本を出版されいろんな人たちに読まれるようになり、満足感を覚えるのも事実です。」

人間が堕落する前は「傲慢」が人類を病ませることはありませんでした。劣等感や自己卑下で自分を成就虐げることもありませんでした。良い意味で自分自身に対して自信とプライドを持つことは、明るく豊かな実を結ぶ人生を生きるための必要な条件だと言えるでしょう。ですが「傲慢」という人類の遺伝病は、私たちを霊的も盲人にします。私たちがイエスを信じ、生まれ変わったと言っても、この自己中心の柵から出るのは難しいので。だから私たちには自分の傲慢さを認め、神の前で正直に告白し、神の助けを求める誠実な態度が必要なのです。


[66] 沈黙 投稿者:黙想 投稿日:2007/09/17(Mon) 19:53  

沈黙には三つの種類があります。言葉の沈黙、欲望の沈黙、思考の沈黙。一番目は、完全です。二番目は、さらに完全です。三番目は、最も完全です。言葉と欲を捨てることで、また、倫理を捨てることで、私たちは内的な道の中心に至ります。そこは、神が私たちの内なる人とみことばを分かち合う場所です。そこで、神は私たちのたましいとの対話を分かち合われ、私たちの存在の最も深いところで、ご自身について教えてくださいます。
神はご自身の最も神秘的で秘められた心を私たちに語るために、そこへ私たちを導かれます。もし、みなさんの内面に語られる神の御声を聞きたいと願われるなら、完全な沈黙を通じてそこに入らなければなりません。

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[65] 父の臨在 投稿者:黙想 投稿日:2007/09/16(Sun) 12:56  

あなたの出で立つのもかえるのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
私たち兄弟は、父から読書の楽しさを学びました。兄弟の一人一冊の本を買うと、私たちはその本を回しを読みして、全員で同じ本を読んでいました。私はいつも、父が読み終わった本を読むようにしました。というのは父は読むとページにつめで折り目をつけていたからです。本を読んでいて、父のつけた折り目に出合うと、嬉しくなりました。父は3ヶ月前になくなりました。私が今読んでいる本は、父のつめ跡に出合える最後の本です。
同じように、私たちの日常生活の中にも、神様の手が私たちの世界に触れたことを示す印があります。普段の日に私花を見、鳥の声を聞き、さっと通り過ぎる風を感じます。私は顔をほこえおばせます。こうした印は、神様が私より前にここにおられたことを知らせてくれます。又、おうした印は、神が常に私たちを見ていて下さり、私たち一人一人のために天に場所を備えてくださっているを思い出させてくれます。

祈祷:神様、意外なところであなたの臨在の形跡を見ることを感謝します。アーメン。

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[64] 礼拝の種を蒔け 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/09/15(Sat) 10:21  

とうもろこしや麦の種を蒔くとき、その種はとても貴重なもので、農夫はそれをすこしずつ蒔くものです。しかし、まいたわずかの種が、刈が入れの時には、巨大な量のとうもろこしと麦の種を残します。ですから、あなたが今、生活していくのに充分な量の種がなくても、今こそが種を蒔く時なのです。そうすれば、後で大きな収穫を得ることができます。

いつか、天国から地を見下ろして証人たちの中に、あなたも座るときが来たなら、モーセにその従順という杖を蒔くいたできる事について尋ねてみましょう。また、ダビデには十数年の苦しみの歳月、その乾き切った地の中に、自分に預言された未来を蒔いたことについて尋ねてみましょう。彼は、時が満ち、神の御心を刈り取ることをしんじていました。イエスにはその命を蒔かれたことについて尋ねてみましょう。そして、それぞれの人に、その行いよってどれほど素晴らしい報いを受けることができたかを尋ねてみましょう。

さあ、神を礼拝してください。礼拝はあなたの最も暗い夜を最も明るい昼に変える力があります。あなたが、幸福の源であられる神を褒め称えるとき、絶望と落胆、悲しみと不安の勢力が衰え始めるのです。
 礼拝してください!、今すぐに!、人生の壊れたかけらを集めて、立ち上がって前進しましょう。

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[63] 貧しい心とは? 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/09/14(Fri) 12:34  

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 」マタイ5:3

心の貧しさとは、天の御国の姿とクリスチャンの品性を見せる核心的な言葉です。では、心の貧しさとはどのようなことを指すのでしょうか。
それは聖なる神の御前に立った罪人の心です。言い換えれば、神の素晴らしい栄光と聖さの前に、粉々になった罪人の姿であり、死と怒りの裁きの前で赦しの恵みを経験する心です。「神様、憐れんでください。私は死に値するほどの罪人です」という告白と共に、カルバリの丘で流された血潮で罪赦されたことに感激し、涙を流しながらその恵みにおこたえしょうとする心です。

クリスチャンに貧しい心がなくなってしまったら、それはキリスト教最大の危機を意味します。貧しい心欠けたいかなるリバイバルや成長もいつかは崩れてしまいます。貧しく謙遜な子どものような心から、キリスト教は芽が出、花が咲き、実を結ぶのです。 

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[62] きょう一日 投稿者:ハン・ウンジェ 投稿日:2007/09/13(Thu) 12:14  

ホームランは、打ったことのある選手だけが打てるものです。その選手には、バットにボールが当たったときに、すでにどれぐらいの距離を飛びかがわかります。みことばの完全さと美しさはそれを経験してみた人でない限り、実際に理解することはできません。完全にその人のものにはならないという意味です。完全な神の道であり、精密で正確なもことばは、戦争中の盾のように強く頼りgいのあるものです。

人生に関して私たちは盲人です。前を見て予想することができないという意味においてです。未来は隠されていて、明日も私たちの手の中にはありません。それにもかかわらず、私たちはまるですぐに自分の人生の方向を、自分の手でどうにかできるかのように錯覚によってでるくわした多くの遭難や難破船の例があります。私たち、いや自分に与えられたきょう一日の中にも、いろんな闇や壁があります。もちろんそれを無視することもできますが、決して良い判断ではありません。

ですから、ダビデという先輩の話に耳を傾けます。そしてその忠告が示している精密で正確な神様のみことばに、完全な主の道に目を向けます。きょうという私の一日は、それによって左右されるのです。

主よ、きょう一日私の歩む道を照らし
私と共に歩んでください。
主にこの一日をささげます

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[61] 偽の罪意識 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/09/12(Wed) 12:51  

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Tヨハネ1:9)

罪が一度限りで始末されるためには、赦しが必要です、罪というのは、それが言い表され、捨て去られてしまうまでは、私たちの良心を侵食していきます。しかし、罪悪感の中には、罪とは関係ないものがあります。これは、偽の罪悪感です。この種の罪意識は、私たち自身が自分で作り上げた厳格で非聖書的な規則を守られなかった時に生じてきます。例えば、毎日、聖書を2章ずつ読もうと決めた人が一日読むのを忘れた時や、1章だた読んで眠ってしまった時などです。そして、次の日にはもう罪の意識に苦しみ始めます。これは、本当に罪だと言えるでしょうか。いいえ、決してそうではないのです。一日どれだけ聖書を読むかについて、聖書のどこにも命じられていません。

ゴールを設定するのはよいことです。少なくともそれが、私たちとって方向づけとなるからです。しかし、ゴールが人生の土台となってはならないのです。個人的好みや基準に従えなかったからと言って、罪の意識に悩まされることはないのです。しかし、反対に、罪深い行ないからくる真の罪意識について、私たちは言い訳をすべきではありません。

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