みんなの掲示板はキリスト教についての証し、福音を分かち合いたいこと、宗教話題についての掲示板です。
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[181] 平安への道 投稿者:平安を得るためのヒット 投稿日:2008/10/18(Sat) 15:36  

詩篇1
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、
繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

「瞑想」、このことについて本を書いている人はそう多くいません。東洋の奇妙な宗教儀式のためでしょうか、瞑想することについて私たちは、多少疑い深くなっています。でも、この失われた方法を完全に無視してしまうと、私たちは霊的にバランスを欠いてしまいます。瞑想は平安と静けさへの最善の道なのですから。

聖書が勧めている瞑想はろうそくの灯った儀式や、東洋の敷物の上でのヨガの姿勢を要求しません。それは、みことばを心の中にあふれさせることを言います。みことばのひとつひとつがしずくのようになり、さざ波をたててきらきらと輝き、それが魂の穏やかなアシスとなっていくまで、心の思いの合間合間に小滝のように降りらせるのです。これが現実的な問題を解決する最善の方法であり、聖書が勧めている瞑想です。みことばを瞑想することによって現実の最も真実な面への理解が、私たちに与えられます。


[180] 決してあきらめない 投稿者:マリン・リトル 投稿日:2008/10/13(Mon) 11:56  

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。  ガラテヤ書6:9

私は花が大好きです。色鮮やかで様々な種類の花々は幸せな景色を創りだします。私は園芸の達人ではありませんが、それでも花を植えては咲くのを見て楽しんでいます。植物を買う時、私は必ず植える時期や場所、水のやり方が記されているラベルの説明を読みます。ラベルにはその植物が成長してどれくらいの大きさになるか、またいつ花が咲くかということも書かれています。

しかし、きちんと指示に従っても、時期どおりに花が咲かないことがあります。それでも、私はその植物の手入れを続けますが、咲かせる望みをあきらめることもよくあります。そしてある日、全く期待していない時に、花が咲いているのを発見するのです。本来花は咲く時期に咲かなくても、問題はありません。いつで会っても花が咲けば喜びを与えてくれるからです。

そのような意味で、人々は花のようなものです。同じ速度で花を咲かせ、成長するわけではないからです。しかし、神は私たちに対して見切りをつけるべきではないでしょう。ふさわしい心配りといのりによって、私たちは皆、神の定めた時に花を咲かせることが出来るのです。

祈祷:創り主である神様、私たちの周囲にあるあなたの創造物の美しさを感謝します。あなたの言葉と愛によって私たちが成長し、あなたの恵みのうちに成長できるようお助けて下さい。アーメン。

今日の黙想:種まきをし、収穫のために神を信頼しましょう。

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[179] それほど多くの証拠 投稿者:ステラ・バークハルター 投稿日:2008/10/11(Sat) 14:00  

私は時として、神が真実な方であると信じ難しいことがあります。これまで度々多くの証拠を見せられてきているのに、です。神は私の目を聞き、何か真理であるか示して下さいました。しかし、ふと振り返ってこう思うこともあるのです。”あれは私の思いこみからくる妄想だったかも知れない”私はそれが、弟子たちが疑ったとき(ルカ24:36−53)と同じように思えるのです。復活された後、弟子たちはイエスが本当の方か信じるために体に触れる必要がありました。

神が私を聖書に導かれる時、私はイエス・キリストは生きておられることを知らされ、イエスが私に触れて下さるのを感じるのです。その感覚は例えば私が好きだった男の子が初めて私の手を握ってくれた時のように、電気が走ったような感じです。それは例えば、生まれたばかりの赤ちゃんの頬が、そっと私の胸に触れているときのような優しさです。それは例えば、新しく出来た友人が初めて私を抱きしめてくれたときのような喜びです。私たちが今、互いにそういう挨拶を交わせるほど親しくなったことが分かります。それは例えば、母が亡くなった後、長い間疎遠になっていた兄が抱きしめてくれたときと同じ慰めです。キリストは生きておられるのです。

祈祷:愛の神様私たちの信仰を強めて下さい。私たちがいつもあなたに手を伸ばしていること思い出して下さい。あなたの霊はいつも私たちに触れるほどそこにあります。アーメン。

今日の黙想:神の愛と慰めは本物です。自分でそれを探し、見ましょう。

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[178] 思いやりは伝染する 投稿者:ジョン・A・フォード 投稿日:2008/10/05(Sun) 20:10  

わたくしたちは、あたえられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。  ローマ書12:6

マーカスは職場で毎日、出会う人誰にも笑顔で挨拶をしていました。ドアを開けてもらいながら私が「やぁ、元気ですか?」と聞くたびに「有難うございます。今日も素晴らしい日ですよ、今日一日神様があなたを祝福してくださいますように」と生き生きした顔で挨拶を返してきます。私はマーカスに一日に何度も会いますが、いつでも笑顔と励ましの言葉を絶やすことはありませんでした。

マーカスは、私たちが働いていり会社の守衛として働いていました。マーカスの満面の笑顔、輝いた眼、心からの喜び、活力溢れる姿はいつも私の心を勇気づけてくれました。この人の思いやりと励ましは多くの人々に伝わっていきました。マーカスは神の愛を映し出し、そうしたいと常に願っている私の思いを揺り動かしました。

ローマ書12:6〜8を読む時、私はいつもマーカスとその特別な賜物と励ましのことを思います。この世的な見方ではマーカスは裕福でも有能な人でもありませんが、神の賜物を積極的に用いるこの人の行為は私を変えました。神が私たちすべてを特別な賜物であることが、マーカスを見ているとはっきり分かります。私たちが人々を励まし、勇気づけるとき、神は喜んで下さる、と私は信じています。人々に笑顔と思いやりの輪を通して喜びを広める機会を求めましょう。

祈祷:愛の神様、あなたが私たちに与えて下さった賜物を感謝します。その賜物を、人々があなたの無条件の愛を見たり体験するために用いさせて下さい。アーメン。
今日の黙想:人々を励ますために、私は何をしようとしているでしょうか?

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[177] 聖書を読む時をもつ 投稿者:ロイ・ゴウェンダー 投稿日:2008/08/15(Fri) 13:08  

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。

クリスチャンとして歩み出したばかりの頃、私は聖書を学ぶよう勧められました。ところが、初めて聖書通読をしようとした時、創世紀を数章読んだだけで、興味を失くしてしまいました。数ヵ月後、もう一度試しみた時には、もう少し先まで読みましたが、またしても興味を失い、通読を止めてしまいました。やがて私は問題に気づきました。私は読んだところをすべて理解して、試験勉強のように出来事や細部を覚えようとしていたのです。
私はもう一度やってみることにし、今度は神の言葉を味わう時間を取るという現実的な目標を定めました。このやり方に助けられて、私はその年、聖書全体のほぼ3分の2を読むことが出来ました。それは私にとって大きな励ましでした。その翌年、私は初めて聖書全体を通読できたのです。

それから長い年月が過ぎ、私は聖書のいろいろな訳を読みました。今も聖書を読むことは豊かな、実りの多い経験だと思っています。イエスから教えを説き明かされた素晴らしい経験をもつ弟子たちの心境が、ある程度分かるようになりました。聖書を読みながら神と共に時間を過ごすという日々の弟子として訓練の中で、この心境たびたび経験しています。

祈祷:神様、あなたの聖なる言葉である聖書を通して、私たちに語りかけて下さることを感謝します。人々に聖書を読みたいという大きな願いをもつするよう祈ります。アーメン。

今日の黙想:聖書を読むことは、神の偉大な真理を学ぶ確かな道です。

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[176] 人生という贈り物 投稿者:オソリオ 投稿日:2008/08/13(Fri) 12:00  

生涯の日を正しい数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。   詩篇90:12

詩篇によれば、神は永遠であり、すべてのものはつかの間のことです。私たちの人生は短いのです。「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去り(詩90:9〜10)」私たち日常の中に美しさを経験しているでしょうか?鳥のさえずりを聞き、朝の喜びに包まれているでしょうか?それとも、何かに心を奪われ、苛可ち、不安になりながら人生の終わりに向けて急いでいるのでしょうか?人生は神の贈り物です。神は、私たちが毎日もたらされる恵を楽しみ、憂いのない人生の美しさを映し出すよう促しておられます。どの瞬間も特別の時であると私たちが悟るとき、心ゆくまで人生を楽しむことができるのです。

祈祷:主よ、あなたが私たちに与えて下さった人生という贈り物を楽しむよう教えてください。人生の美しさを見えるように。アーメン。

今日の黙想:人生を深く味わいましょう。それぞれの時は特別のものなのです。

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[175] 私たちの岩、避け所 投稿者: ウオルター・N・マリス 投稿日:2008/08/12(Tue) 19:29  

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。 詩篇73:26

最近私は、自分がすることなすことすべてが悪くなっていくように思える日を経験しました。私がすることはみな、例えば二つのグループの間の仲裁をしようとした時などもそうでしたが、私が努力し始めた時よりかえって複雑になってしまったように思えました。私は失望し、自信を失っていきましたが、その後、神が私の苦労をご存知であり、私の避け所であることを祈りのうちに思い出しました。

詩篇62編の冒頭で、この詩篇の作者は明らかに弱さを感じ、自信喪失でいっぱいになって、今遭遇している困難を語り、力を求めて神に向かって叫んでいます。作者は神について書きながら、神が私の避け所であると知ることで得られる平安を表すしています。

私たちも、この詩篇の作者と同じように、事態が厳しくなると神に寄り頼むか。自分でやり遂げるかの間で行きつ戻りつしていることが分かります。自分で何もかもしようとを忘れて、大失敗をしたり、たじろいだりしたことを、私たちは何度繰り返したことでしょう。

詩篇はわたしたちにこう述べています。「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ(詩篇62:9)」私たちの経験することのすべてで神を呼び求めるとき、私たちは神の力を思い出し、神の加護と私たち一人一人に対する愛を知ることで平安を得るのです。

祈祷:私たちの岩であり、避けどころである神様、日々私たちの信仰が成長するようお助けください。アーメン。

今日の黙想:何もかもうまく行かない時でも、私たちは神の臨在のうちに平安を見出すことが出来ます。

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[174] 仕事と祈りとの一致 投稿者:スティーブン・D・ブライアント 投稿日:2008/07/19(Sat) 20:07  

「私は二つの世界に生きています」私たちのグループのある若い者が、自分の生活の中の、教会と仕事での立場を述べて、こう告白しました。「私は常に、世俗的なものと霊的なもののよびかけとの網引きの中で生きています。日曜日の朝に教会ですることと、職場ですることとの間にはどんなつながりがあるのでしょうか」と、この若い者は説きました。

パウロがこの問題についてどう触れているか、耳を傾けましょう。パウロは、私たちの生活の霊的な一致をこう述べています。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい(コロサイ3:17)」パウロは、世俗的なものと霊的なものを、「現実の」世界と信仰を分けるような線引はしていません。これらすべてが、私たちの修練の一部なのです。

もし私たちがパウロの提言を実行するならば、私たちの日々の生活を変えることが出来ます。私たちが行っているすべての行動を神の前に差し出し、捧げるのです。私たちが常に仕事を神に捧げることによって、自分の仕事を祈りに変え、絶えず祈っている自分に気づくようになります。もっとキリストに似たものための労働としてなら、最も楽しい仕事も最も煩わしい仕事も変わることなく、私たちは「何でも」することができます。

ディートリッヒ・ボンへファーはこう書いています。「クリスチャンの祈りは、定められた時間を越えて(個々の)仕事の中心に到達する。祈りは一日全体に及ぶが、そうすることが仕事を促進し、肯定し、その意味と喜びを与える。このように、クリスチャンの全ての言葉、全ての仕事、全ての労働が祈りになるのである」

今日そして毎日、私たちは仕事を祈りに変えることが出来ます。そうすれば、私たちが想像したこともない方法で、私たちの人生が変わるのです。

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[173] 与える精神 投稿者:パメラ・A・ウイリアムス 投稿日:2008/07/12(Sat) 10:01  

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。(使徒言行録4:34)

娘は幼かった頃、よく、このおもちゃは私の物だよ、子供たちに知らせまわっていました。「わたしのよ!」と、おもちゃを取り戻そうとしてはまくしたてていました。今日、私たちの社会の大人たちも、自分の財産が心配になると、これとさして変わらぬ態度をとります。しかし、1世紀のクリスチャンはそうではありませんでした。

使徒言行録4:32−37は、与える精神を持ってキリストを信じる新しい人たちのことを述べています。この人たちは家や土地を売り、自分たちが持っている物を分け合っていました。自分たちの持ち物を手放ためには、自分中心の考え方から離れなければなりません。しかし、キリストの思いを分かち合うことで、人々は進んで与えることが出来たのです。人々は自分の財産を困っている人々に分配するために、使徒たちの前に差し出すことができました。

私たちは神の前に何を差し出すことが出来るでしょうか?神から与えられた才能でしょうか?時間?それともお金でしょうか?私たちはどうしたら自分中心の野心を捨てて、与えるというキリストの精神を取り入れることが出来るでしょうか?

今日の黙想:私は自己中心でしょうか?キリスト中心でしょうか?

祈祷:主よ、私たちが持っているすべてを、私たちの存在のすべてをあなたのために役立てるようお導き下さい。アーメン


[172] 神様の傑作 投稿者:ボブ・ティッピー 投稿日:2008/07/06(Sun) 20:35  

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。(詩篇19:2)

私は毎朝、暗いうちに職場へ車で出かけます。途中の画材店では、店主が陳列室の明かりを灯したままです。展示室の窓から見える何十という絵は重なり合い、多色のモザイクのようになって、私のその日一日を輝かせてくれます。

しかし、私の心の高揚は、夜明け前の美しい華やかな色彩によってもたらされるものではありません。神の創造のあるひと時に特別の意味を見出す才能を買われた画家が、カンバスの上に表現した「特別な意味」、その画家の画力を、私はそうした絵の一つ一つの中に見ているのです。画家が画こうとしているい意図とは関係なく、私はこれらの作品は神から私に発せられたメッセージであると考えています。

私たちには神は見えません。それでも私たちは生きて、神が描こうとされる傑作の特別の部分になっているのです。これは何と素晴らしい作品なのでしょうか。その絵が最も大切なのは、それによって私たちは決して終わることのない創造の業に参加し、私たちがその中に見出す意味を互いに分かち合い、世界中どこにいても創造主の作品を見ることです。神が私たちに与えていて下さるありとあらゆる導きです。

今日の黙想:私たちはそれぞれが神の傑作の一部なのです。

祈祷:惜しみなく備えて下さる主よ、あなたの創造とその中にある私たちの命の賜物を感謝します。私たちがあなたから頂いた全てのものを創造的に用いるようにさせて下さい。アーメン。

[171] お母さんの財布 投稿者:For Mother's Day 投稿日:2008/05/11(Sun) 18:39  

3年前、中国人の姉妹と姉妹の兄と話があった。・・・

姉妹が、亡き母の形見の財布を見せる、と言い出した。兄はきょとんとした表情で、「そんなもの持ってるのか」と聞いた「うん」と答えて出したものは、5センチ四方の白色の布切れで作った手製の財布。これか?一瞬目を疑った。姉妹が尊敬する母の財布。この母の財布を手にすると、すべてを神様にささげた母の心が伝わってくるのだという。

この財布については随分前から聞かされていたが、頭に描いていたイメージとは随分違った。産婦人科医をし、お金には困らなかったという母、そんな母の財布であれば、大きな皮製、あるいは伝統手芸なりが施された立派なもので、ぼろぼろに使い古された財布かと思っていたのだが、見事に予想が外れた。中には、亡き当時そのままの紙幣が折りたたまれて、さらに、自分の病院の処方箋の裏紙に、すらすらと走り書きした母自作の詩が折りたたまれて入っていた。姉妹が兄に翻訳してとせがんだ。兄も始めた見た様子で、驚いた表情で、私のために翻訳して聞かせてくれた。

「神様、私に信じる心を与えてください。神様のために生き、世と世の思い、世の中の全てのものを捨て去る力を与えてください。私の足が滑らないようにお守りください。残り僅かの人生を生き抜くことができるように、どこでもいつでも神様が私を守ってくださいますように。94年8月15日」

同年11 月6日召天。(70歳)

読み進む内に兄の眼から涙があふれてきた。ちらっと見ると妹も同じだった。「お前どうしてお客さんの前でこんな、・・・すいません、なんだか変なところ見せてしまって」「だって、お見せするって約束したんだもん」「約束だなんて・・・もう駄目じゃないか」涙をぬぐう兄。そしてちゃっかりと、この財布は今日から僕のものだとポケットに忍び込ませた。「だめよ。それは私の大切な宝」「じゃ一日だけでいいから、一日だけ貸してくれ。一日だけ母と一緒にいたい」「だめだめ。F先生に見せるために持ってきた、F先生に見せてあげて」なんとか、妹は、母の財布の奪還に成功したようだった。

兄が言う。「母の葬式は大変なものでした。母は医者でしたから、母にお世話になり、キリスト教を信じた人は数知れません。葬儀の時には、四列で 200メートルの行列が出来ました。納骨する時には、皆で静かに賛美歌を歌ったんです」キリスト教の宣教が閉ざされていた中国で、そんな出来事があったのか。母親の財布に感動、その母親の詩に感動、その詩に心を通じ合わせる兄妹の姿に感動、三重に心が満たされる思いがした。しかし、果たして自分の子供たちは、自分の死後、こんなに自分を思ってくれることなんてあるんだろうか。無理かも・・・。やはり子供たちが誇りとする生き方をしたいものだ。

「中国のクリスチャン人口は今や7000万人です。そして地方では村ごとに改宗するという出来事が起こっています。中国政府は、法倫功や統一教会など新興宗教には極めて厳しい取締りをしていますが、プロテスタントやカトリックなど既成の宗教には結構穏健なんです。」神の御業は全世界でなされている。やはり現場に出てみないとわからないことがたくさんある。私が聞いている中国の宣教事情とは少し違う印象の世界がある。いずれ中国に行ってみたい。世界宣教のフィールドの広がりと、その必要を感じる思いがした。

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