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[115] 信仰によって義とされる 投稿者:スー・マッコウロー 投稿日:2007/12/05(Wed) 14:14  

信仰によって義とされる

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。(ガラテヤ書2:16)

日曜日、教会に近づいたとき、私はクリスチャンではない友人が来ていると、言われました。その友人は全く幸せそうに席に着いていました。その時「教会員」の一人が入ってきて、何も考えずにこう言ったのです。「すみません。そこは私の席ですよ」私は、何が起きたのか教会日誌で説明しました。しかし、この場合、受けたダメージはもう取り返しがつかないものでした。

教会の中でのこうした態度は今に始まったことではありません。今日の聖書の中でもこうした例があります。せっかちな使徒べトロが、全くの善意から、まだよく理解する前に口をはさむことがあったのもこの類だと思っています。ですから、私は、パウロがべトロを叱って偽善者と呼んでいる箇所を読むとドキドキしてしまいます。それより前にペトロは異邦人の信者と喜んで時を持っていましたが、その後ユダヤ人クリスチャンの一団がやって来て、その影響を受けたペトロは、今度は異邦人を避けるようになります。これはある種の人々が他の人々より良い扱いを受けることにつながる行為です。

しかし、ペトロは単純に善意から、争いを避けたかったのでしょう。同じように、今日の教会は、キリストは分け隔てなくすべての人を救うという原則に人生と引き替えに力を得た人たちの幸せ維持させることに焦点を当てています。カラテヤ書は、私たちが律法を守ることでは義とされず、救いは特権的な僅かな人のためだけにあるのではない、と私たちを論しています。救いは、私たちが誰であっても、何をして来た人であっても、神の恵みと、イエスが私たちのためにして下さったことを信じる信仰にかかっているのです。

祈祷:主イエス様、すべての人に救いのメッセージを伝えるよう私たちを助け下さい。アーメン。

今日の黙想

キリストを探している人々を妨げているものを、どうしたら取り除くことが出来るでしょうか

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[114] 憐れみ深い神様 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/12/04(Tue) 13:40  

主の憐れみは尽きない。(哀歌3:22)

神様は本当に憐れみ深い方です。それなのに、私たちは神様の憐れみをそのまま受け入れることができないで入る時があります。特に、同じ失敗を重ねた時など、思わずこんなふに言ってしまいます。「これでもうおしまいだ。今回こそ神様も私のことを赦してくださらない」と。しかし、神様がご自分の子供たちを見限ってしまうことなど決してありません。それは、神様が憐れみ深い方だからです。

人からひどいことをされた時に私たちはその人をなかなか赦すことができません。ですから、私たちが同じように神様対して罪を犯した時も神様が赦してくださるということを受け入れことが困難なのです。自分の受ける感情をそのまま神様にもあてはめているからです。ここに問題があります。そして、これほど真実からかけ離れている考えはないでしょう。確かに、私たちが罪を犯せば、神様は懲らしめをお与えになります。しかし、それには、私たちが成長するという神様の意図があってのことです。

神様は私たちを決して「捨て去り」ません。心の緊張を解いて、神様の尽きない憐れみを喜び、もし神様から懲らしめがきたとしても、そのことを感謝しましょう。

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[113] 神様とチームを組みましょう 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/12/03(Mon) 13:11  

馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。(箴言21:31)

まるで競走馬のように走り抜けた、という日があります。翌日のまた長い一日のことを考えると、うんざりします。はたしてこんな調子で耐え抜いていけるのだろうかと思ってしまいます。

ここで、ひとつ覚えておくべきことは、問題に直面した時に私たちは責任を持って取り込んでいかなくてはならないことです−−「馬は備えられる」−−ということです。しかし、すべては神様がコントロールしておられる、ということを忘れてはいけません−−「救いは主による」−−からです。ふたりのクォーターバックが同時にプレーをするフットボールチームなんてありません。あなたはボールを取って、走ってください。でも試合の指揮は、神様にお任せするのです。先ずチームプレーが大切するですから、チームプレーができる選手になりましょう。

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[112] 憐れみをかける 投稿者:ダン・アームフィールド 投稿日:2007/12/02(Sun) 12:36  

人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。(コヘレトの言葉2:24〜25)

ある朝、ささいなことで私は落ち込んでいました。昼食のために事務所を出て、人々がアヒルに餌を与えたり、散歩をする湖の近くに車を止めました。そんな静かな美しい風景の中にいてもなお、私は自分の悩みのことばかり考えていました。その時、一台のバンが出入りして、心に問題を抱えた若い人たちをここに連れてきました。この素晴らしい日に外に出て、アヒルに餌を与えるなんて、この人達は何と幸せだろう、と私はしばらく見ていました。そして、神が私に自分を憐れむことについて語ろうとしておられることが分かりました。

あの若い人たちは豊かな神の世界を存分に楽しんでいます。どうして私はそうしないのでしょう。健康にも、家族や友人、仕事にも恵まれ、物質的な豊かさにも恵まれていながら、なぜ私は自分を取るに足らない者であると思うのでしょうか。

あの若い人たちは、湖のそばで、神が下さったあの素晴らしい時の中で喜びを見出していたのです。あの人たちは私が富や地位では持つことも、買うことも出来ないものを持っていました。

私は頭を垂れ、神の祝福を感謝し、この身に余る神の永遠の愛を思いました。幸せな気持ちで職場に帰った私は、自分ばかりに目を向けるのでなく、どのようにしたらこの人生を用いて神を賛美できるか、ということに心を向けるようになりました。

祈祷:愛する神様、あなたの多くの祝福を感謝しながら生きるようにさせてください。アーメン。

今日の黙想

喜ぶ能力は賜物であって、私たちはそれを無視することも用いることも出来ます。今日、どちらになるでしょうか?

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[111] 神は私たちの祈りを聞かれる 投稿者:ベニグノ・カミーナ 投稿日:2007/11/30(Fri) 22:43  

イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。(ルカ福音書8:25)

私たち家族は、親戚の集まりから帰る途中でした。私たちは新しく出来た道を通ることにしました。道には街灯はなく、人の住んでいない広い土地を通っていました。進むうちに稻光と突風をともなった暴風雨に出会いました。稻光が道を照らし、子供たちは怖がります。

そのうち車の調子がおかしくなり、ついに風の真っ只中で完全に止まってしましました。私は車の外に出て、ボンネットを開けて原因を調べましたが、電器系統の部品が濡れていて、どうすることも出来ません。私はハザード・ライトを点けて、誰かが私たちを助けるために停まってくれることを願いました。しかし、誰も通りませんでした。

嵐はますます激しさを増し、恐怖におののく子供たちの顔が見えました。私は一番下の子供に、「ギリー、私たちのためにお祈りしてくれないか」と言いました。その子は熱い信仰を持って祈りました。祈り終わって間もなく、普段はこの道を通らないのに、一台のバスが来て、私たちの車の横に停まったのです。運転手が助けを申し出てくれました。私たちは道に車を残してバスに乗り、家に帰りました。

神は、暴風雨の最中に私の息子の祈りを聞いて下さいました。それは、神が突風の中で小舟に乗っていた弟子たちの叫びを聞かれたのと全く同じでした。

祈祷:神様、私たちは弟子たちと同じように「わたくしどもの信頼を増して下さい(ルカ17:5)」と願います。アーメン。

今日の黙想

神様どんな時でも、どんな所でも私たちの祈りを聞いておられます。

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[110] 神の庭 投稿者:マーク・カーピンスキー 投稿日:2007/11/16(Fri) 13:44  

わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。 (ヨハネ福音書6:44)

私は完全主義者です。この性格は学生時代とその後の仕事で薬品関係に携わっている間に備わったものです。しかし、完全主義者であるということは往々にして、不確かな要素が含まれる行動を避けることにつながります。ミスや不出来を怖れるあまり、確実に成功できると思える任務以外は避けるようになるのです。

伝道は私にとってこうした任務の一つです。私は自分の信仰を人前で語るのは大変なことです。特に初めて出会う人たちの前ではそうです。”もし間違ったことを話したらどうなるだろう。人々はどんな反応をするだろうか。感情を害した人たちが私の話を拒否したらどうしょう”などと考えてしまうのです。しかし幸いなことに、パウロがTコリント書の中で、私たちではなく神が人々を信じるようにさせて下さる、と教えてくれています。私たちのうちの誰かが信仰の種を蒔き、他の人が水を与えますが、その種を成長させて下さるのは神なのです。

このことを知って、私は言葉と行動によって信仰の種を蒔き、水を与えるよ、今は確信を持って最大の努力をすることが出来ます。私は、自分の信仰を語ることに完全であろうと恐れる必要はないのです。その恐れは、種を育てる庭園の主である神に委ねることにしています。

祈祷:愛する神様、私たちが愛を持って行動し、話すことのすべてによって信仰の種を蒔き、水を与えられるようお助け下さい。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

今日の黙想
私たちの努力が不完全であっても、すべて神が用いて下さいます。

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[109] 子供の心をもつ 投稿者:ブレンダ・カリー 投稿日:2007/11/16(Fri) 13:43  

イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ福音書19:14)
休暇で朝の浜辺を散歩していたとき、近くで二人連れがお互い小声で話し合い、ちらっと私の方を見ました。私は黒人ですが二人白人でしたから、その意味も私は色々と勘ぐってしまいました。たとえ知らない人でも、誰とでも挨拶を交わすのが南部の習慣ですが、私はその日、散歩中はもう誰にも話しかけない、真っ直ぐ前を見て歩こうと決めました。

ところ泊まっているホテルに戻る道で、幼い子供を連れた若い二人連れに出会いました。私がそのまま無視を続けようとすると、その小さな金髪の男の子が真っ直ぐ私を見ながら、精一杯大きな声で「ハーイ」と言ってきたのです。私はすぐに、「あら、こんにちは」と返しました。そしてその子の両親とも暖かな挨拶をまじわしました。

私は、”キリストが、私たちが子供のようにならなければ天の国に入ることはできない、と言われたとき、キリストが言おうとされたことはこれだわ”と思いました。大人はよく、落胆や拒絶、痛みを避けるよう計算し、用心します。しかし純真な子供たちは恐れも警戒心もなく答えてきます。子供たちには、私たちを分けている人種や、皮膚の色、宗教、年齢、その他の違いは目に入らないのです。これはキリストが、私たち一人一人に子供のようになる命じておられる道の一つです。

祈祷:愛する神様、私たち一人一人は年齢に関係なく、ずっとあなたの子供です。私たちのうちに純粋な心を創って下さい。アーメン。

今日の黙想:私たちがもっと子供のようになる必要があるのはどこでしょうか。

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[108] 新しいオーナーのもとで 投稿者:カレン・モアロド 投稿日:2007/11/16(Fri) 13:42  

わたしたちとあなたがたをキリストに固く結び付け、私たちに油を注いで下さったのは、神です。神はまた、私たちに証印を押して、保証としてわたくしたちの心に”霊”を与えて下さいました。(Uコリント書1:21〜22)

最近、しばらく改装のために閉じまっていたレストランが開店しました。店は明るい生き生きとしたすてきな色で塗装され、敷地は入り口に通ずる道も含めて全体を見渡せるつくりになっていました。看板も作りかえられ、伝言板には、「オーナーが変わり、名前はそのままですがメニューは新しました」と書かれていました。

このメッセージから、私はクリスチャンになった時のことを思い出しました。私は同じ名前で呼ばれていますが、変えられたのです。もう罪の縄目に縛られた古い私ではありません。キリストによって新しく造られた者です。私の人生は、人々に与えたいと心から願う、全く新しいメニューとなったのです。私はもっとすてきな人物になりました。というのは私の心には主のの喜びがあり、キリストへの扉に通じる招きの道になろうとしているからです。

今は、私は主に属するということの意味を知っています。又、「新しいオーナー」のもとにいるのです。名前は変わりませんが、新しい愛と献身をもって仕えるようとしています。

祈祷:愛の主よ。私たちをあなたの子供として下さるよう絶えず見守っていて下さり、私たちを新しく造られたものとして下さり、イエス・キリストの愛を通してあなたに属するものであることを確信させて下さり感謝します。アーメン。

今日の黙想
クリスチャンとして、私たちはすべて新しいオーナーのもとにいます。

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[107] すがることのできるもの 投稿者:カレン・モアロド 投稿日:2007/11/16(Fri) 13:40  

私は主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。(詩篇77:12〜13)(口語:11〜12)

教会で教え、幾つかの計画書を書き終えて、その日は神に仕えるすばらしい日となりました。疲れましたが、床につきながら小声で感謝を唱えました。「神様、今日、あなたにとって用いられたという素晴らしさを感謝します。奉仕の日すべてが素晴らしい経験ではないからです」私はこのことをよく分かっていました。牧師夫人になり、キリスト教教育のリーダーになって、私はすべての日が同じように順調ではないことを教えられたのです。うまく機能しない教会活動、私たちを失望させる人々、自発的な奉仕者が本当に与えられるのか、という先の見えない不安などを思い出します。

人は、何かがうまくいかなかった時、立てた目標の方をよく分析します。しかし、床についたあの夜、私は突然、うまくいった時それ自体に一つの価値があるのですが、その価値が、うまくいかない時にすがることが出来る何かを与えてくれるということに気づいたのです。詩篇77の著者はこのことを知っていました。この人は挫折の中で神に向かって叫ぶことから始めています。しかし、やがてそれは神のこれまでの誠実さを讃えることに変わります。

一般に言われているように、困難な時は成長につながるのです。どんな状況にあっても神に信頼することを忘れなければ、その時期を生き抜くことが出来るのです。

祈祷:神様、私たちの人生のすべてが、あなたの目的と私たちの良いものに変えられることを感謝します。あなたの誠実さから決して離れないようお助け下さい。アーメン。

今日の黙想
わたくしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない(詩篇103:2)

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[106] 道をそれて 投稿者:へーゼル・V・トンプソン 投稿日:2007/11/13(Tue) 16:55  

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた (マルコ福音書6:31)

グラストン修道院の敷地を散歩していたときのことです。そこでは修道院のすぐ外側の市街地に通じる大通りを走る自動車が見えますが、音はほとんど聞こえませんでした。私は何百年も続く祈りの場の静けさ包まれました。そして数分前まで魔力をもったブランドの数々に惑わされ、店から店を渡り歩いていた時に感じていた不快な重荷は完全に取り去られました。修道院の中の平安と美しさは、まるで別世界に入ったようでした。

私は、イエスの話を聞きたいと叫ぶ群衆に囲まれた弟子たちに対し、イエスがそこを離れるよう促したことに注目しました。イエスは弟子たちの混乱した気持ちを知っておられました。弟子たちは空腹で、疲れて、最近イエスとともに経験したことすべてについて語り合いたかったのです。休息は小舟に乗っている間だけでしたが、それでも満足でした。その後再び、弟子たちは群衆の重圧に立ち向かうことができました。

私たちの主は、この与えられた時の中で私たちがどうのように感じ、何を求めているかをご存知で、困難を回復するために特別な時間を備えて下さいます。どこか静かなところへ引き込むことがいつでもできるとは限りません。しかし、私たちが何処にいても、私たちと共におられるキリストに気持ちを向ければ、平安を見出すことが出きるのです。

祈祷:主イエス・キリスト様、私たちを取り巻く重圧から私たちを引き出して、あなたの臨在のうちに静かな時を与えて下さることを感謝します。アーメン。

今日の黙想

キリストは私たち一人一人に「こちらへ来て、私の前で休みなさい」と声を掛けておられます。

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[105] 最後のお別れの挨拶 投稿者:レッシー・ハーウエー 投稿日:2007/11/13(Tue) 16:54  

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。(ローマ書6:8〜9)

愛する誰かの死のために準備したことがありますか。私は父の死が近づくまでは、備えをしようと思っていました。しかし、病状がますます悪化し、やせ衰えていく父の体を見ながら、私は自分の思いを表す言葉に窮しました。父は私にとってどんなに大きな存在であったかをどのようにいったらいいのでしょうか。私は眼を閉じて、父を慰める言葉を必死に考えました。すると、心の内に今までの良い思い出がいっぱい浮かんできました。私は嬉しくなって目を開け、父のの一生が私には何故特別であったかを話し始めました。父は私が話すことに微笑んだり、時には笑ったりもしました。しばらく私たちは、今は寂しい時であることも忘れ、過去の楽しい時にひたりました。

私たちが愛する人の生涯をほめたたえることは、神が私たちに与えられた特別の贈り物です。神は、火の戦車がエリヤとの間を分ける前に、エリシャがエリヤと歩み、語ることを許されました(列王下2:1〜12)。最後のお別れの言葉を言うことは悲しいこと離されるのは、皆ほんの一時的なことなのです。キリストは生きておられますから、私たちも生きるのです。それが死に臨む信じる者の希望なのです。

祈祷:主よ、私たちの愛する人をあなたの腕の中に委ねられますように。私たちが再びその人と会えることを信じる力と信仰を与えて下さい。アーメン。

今日の黙想
愛は死よりも強いのです。愛する人の死に向き合っている人のために。

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