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[159] 寛容な心 投稿者:ダレル・ブーン 投稿日:2008/04/05(Sat) 10:03  

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かったいるのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(Tペトロの手紙4:10)

私の教会の老齢の男性が最近亡くなりました。成功を収めて退職したジャックは、教会や地域では、その親しみやすい、やさしい人柄と思いやりのある寛大な行為でよく知られていました。しかし、その死後まもなく、人々は更に大きなジャックの善行に気がつきました。ジャックは匿名で多くの聖職者を支える働きをしていたのです。そのおかげて、ジャックが亡くなった後もその人たちは奉仕を続けていくことが出来ました。

ジャックが支援していた幾つかの計画のことを知ったとき、私も実は、”もっと財産があれば、本当にそうしたことの幾つかをしてみたい”と考えていたのです。しかし、更に考えるうちに、ジャックの善行は自分の小切手帳から生じたのではなく、心の中から生じたものであることが私にも分ってきました。ジャックは惜しみなく、自分に与えられた賜物を分かち合ったのです。

私には出来ないことが幾つかありますが、その鍵は寛容な心を育つことです。もし私が与えられた賜物を心から分かち合いたいと願うならば、神はきっと実を恵んで下さいます。
祈祷:愛する主よ、私たちが他人の賜物をうらやむことなく、あなたが私たちに与えて下さったものを用いることによって良い管理者としてなるようお助け下さい。ある人の生き方を通して私たちがあなたのことをもっと分るようにして下さった、その人のことを感謝します。アーメン。

今日の黙想:私に与えられているものをもって人々にどのように役立てているでしょうか。 

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[158] 休息をとっていますか 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2008/03/31(Mon) 23:30  

霊的な休息を私たちは充分にとりません。私たちはいつもあわてふためいた日々を過ごしています。そういった状態は、私たちの中で、早まわりのメリーゴーランドのように次々と何かが起こっていることを示しています。病気、転職、勉強、緊急事態や惨事などの困難に出会うと、私たちの心の中は激しくかき乱されます。

適度な休息は、なかなか習慣づけることが難しいものです。イエス様の足元にただじっと座っていることは怠慢だ、と私たちは思ってしまいます。マルタのように、私たちはいつも忙しくしていなくてはならないと思ってしまいます。しなければならないことがたくさんあるのに、じっと座っていられるマルヤののような人たちに、私たちはどうもなじめません。

霊的な休息は、怠慢とはちがいます。責任を僻けて通るということではありません。それは、神様が計画どおりに御業をなしてくださる、という確かな思いからくる休息なのです

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[157] 未来につながれている人 投稿者:チョン・ビョンウク 投稿日:2008/03/25(Tue) 23:46  

使徒たちが復活の力を信じられないなら、それは過去に縛られて生きているのです。信じていると言いながらも、日々、落ち込み、後悔し、恐れ、弱さに溺ているのです。復活の力を体験できない人、過去に縛られている人は、落ち込んでいてイエスを見ることできません。新しい道も、新しい希望も見るこtができないのです。

私は、私たちの教会の高齢の女性たちを最も尊敬しています。年は70、80歳を越えていますが、話しを聞いてみると過去の話をする方はほとんどおられません。それどころか皆が未来の地へ向かうための夢を語ります。なぜでしょうか。それは復活の力を信じているからです。その人の中に復活の力があるかないかは、その人の話の内容を聞けば分かります。復活の主に出会った人々は、燃えるたましいを持っています。その中で神のみことばが炸裂し働くのです。

復活の主は今も御言葉によって私たちの内面を癒されます。落胆しているならば希望に、否定的な考えがあるならば肯定的な考えに変え、曖昧な過去の中に陥っている人たちをビジョンのある人々へ変えさせることは、復活の力によって人生が変わるならば、信徒は熱い夢を持つようになるのです。

今日の祈り
私を主の復活の子としてくださったことを感謝します。険しい旅路のようなこの世に心を奪われず、からだの復活と永遠のいのちを望みとして生きさせてください。

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[156] 主を選ぶ 投稿者:バーバラ・チャルファント 投稿日:2008/03/20(Thu) 15:55  

「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」   ルカ福音書24:5〜6

イースターは色彩の楽しみと喜びです。新しい着物を着、帽子や明るいリボンを着けた子供たちを目にします。家族は共に祈り、子供たちは隠されたイースター・エッグを探し回ります。私たちは沢山のご馳走を食べ、愛する人を訪問します。

弟子たちにとってのイースターは違っていました。話を伝わり、噂が何を意味しているのかひそひそと話し合うために弟子たちが集まるのに、恐らく数時間はかかったでしょう。イエスは本当に死から甦られたのだろうか。弟子たちはラザロの甦りを見ていましたが、ラザロは十字架には架けられなったし、番兵のいる墓には葬られなかったのです。イエスの遺体は盗まれたのでしょうか?イエスの死と甦りによって、弟子たちとイエスの間にある絆の確かさと安心感はゆらぐのでしょうか?次に死ぬのは弟子たちなのでしょうか?

私たちにとって、イースターには疑問と答えの両方があります。答えは私たちの救いです。イエスは死に打ち勝ち、そのことによって、イエスを通して私たちの命が救われるのです。しかし、イースターが神の契約のしるしである一方で、私たちはその疑問――私たちは誰に伝えるのだろうか?という疑問――に答えなければならないことを忘れています。愛と犠牲と赦し、そしてイエス・キリストによって明らかにされた力を見て、神の愛の道を歩むか、自分自身の道を歩むか、私たち一人一人が選ぶよう命じられています。このイースターに私たちはどちらを選ぶでしょうか?

祈祷:甦りの主よ、あなたの驚くべき愛が私たちを溢れるほどに満たしています。私たちの生涯と奉仕があなたの私たちへの間の答えとなるようにさせてください。アーメン。

今日の黙想
私は愛の道を歩むことを選ぶでしょうか。

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[155] いつも共にいる 投稿者:キング・E・ウイリアムスJr. 投稿日:2008/03/18(Tue) 23:17  

草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。イザヤ書40:8

冬の朝、キッチンの窓の外でスイセンが花が咲かせているのを見ると、春が近づいていることが分ります。スイセンは確かな春の前触れです。このスイセンの球根は、祖母のことを偲ばせてくれます。

スイセンはしおれても再び芽吹きます。イエスは死なれましたが生き返られました。イースターは、キリストが生きておられ、神の愛と力が私たちの永遠に続く避け所となる祝いの日です。詩篇の作者は、主にあって喜び、私たちが所有するすべてを神に捧げなさい、と呼びかけています。私たちが神の御心を信じ、従うならば、神はいつも私たちと共にそこにおられることを見出すのです。私たちは「(私たちの)心の願い」を神に求めることが出来ます。

スイセンが春が来る毎に花を咲かせるように、神は私たちと共におられ、決してしおれたりすることはありません。主は、私たちに永遠の愛の偉大な周期を私たちに知らせるために、花のような小さなものを用いておられるのです。何と素晴らしいことでしょう。

祈祷:愛する神様、あなたの御子を私たちに送って下さり感謝します。私たちが沈んでいるときも共におられることを知り、私たちがあなたの御心を行うことによって、イエス様ようなものなるように、お助け下さい。アーメン。

今日の黙想:季節が巡るように確かに、神の愛は繰り返し私たちにもたらされます。

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[154] 証人となった者の生き方 投稿者:キム・フエグォン 投稿日:2008/03/17(Mon) 00:14  

イエスの復活は、歴史的に証明出来ない事として残っています。これは何を意味するのでしょうか。つまりイエスの復活とは「一般的な証明」で証明されるものではない真理だということです。イエスの復活を立証する間接的な証拠は、ほとんど意味がありません。空っぽの墓説、死体盗難説、気絶説、蘇生説など批判したところで、イエスの復活が証明されるわけではありません。それらはイエスの復活を立証することはもちろん、反証することにも不十分です。

イエスの復活は科学的に証明して一般の人々を説得させるものではないことをはっきりとみとめなければなりません。いえすの復活を証明するにはその方法が重要になりますが、それは証人の力量にかかっています。イエスの復活を信じることができるのです。イエスの復活をガリレオやケプラーのように証明することはできませんが、人生を通してイエスの復活を生きる人は、人々がそれを事実として信じることができるようにします。復活の証人ならば法廷の陳述のように証拠の力を持ち、信憑性のある言動と生き方を見せなければなりません。イエスの復活を信じる人は、その復活の価値を自らのものとし、肉の死の権威を圧倒する生き方をしていくのです。

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[153] 王族 投稿者:マリアン・ターンブル 投稿日:2008/03/13(Thu) 23:25  

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 ペテロ第一の手紙2章9節

イギリス王室は大家族です。王女の子供たちは生まれながらに特権を持っていますが、同時に大きな責任も負っています。王族の人々は常にマスコミの目にさらされ、すべての行動に注目が集まります。どこに行ってもカメラマンが待ち構えています。悪いことをすればすぐにたたかれ、王室全体の不名誉となります。

神の家族に生まれた者である私は、どんな王国の王子や王女が王国に対して待つより、もっと大きな特権を与えられ、神をほめたたえて生きる大きな責任を負っています。私の人生は常に人々の目にさらされ、それが神への讃美となるか不名誉になるかは、私の行いにかかっているのです。

この世で、王室の一員として生きることは重荷でしょうか。イギリス王室の子供たちにとっては、そうかもしれません。王室の一員といってもただの人間であり、正直、私自身そのような立場になりたいとは思いません。しかし、すべてのクリスチャンには、キリストによって、神に栄光を帰するような人生を送る恵みと能力と与えられているのです。

祈祷:聖なる神様、今日、光の子として歩み、出会うすべての人にあなたの光を分け与えることができるように、私たちにあなたの恵みを与えて下さい。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

今日の黙想
クリスチャンはだれでも、愛に生きることで、神に栄光を帰することができます。

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[152] 試練の中で 投稿者:平和を得るためのヒント 投稿日:2008/03/11(Tue) 21:17  

恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。
出エジプト記20:20

これはモーセの言ったことばです。神様への恐怖心を病的なまでに抱かせ、私たちを移転させようとサタンはします。このモーセが言ったことばを適用し、サタンのことばに耳を傾けないで拒否しましょう。神様は、私たちの敵ではありません。びくびく怖がる必要はないのです。

でも、忘れないでください。確かに神様は、私たちの信仰を試したり、調べたるするため、私たちをストレスに溢れた状況の中におかれます。私たちの神様への信仰を試すことの霊的な試験は、後から振り返って見ると私たちの信仰の成長にとって大きな助けであることがわかります。また私たちの優先順位を正すのにも役たちますし、神様や人とのかかわりの中で、自分のどういうところを変えていかなくてはならないか、ということにも気づかされます、神様からの試練は、神様とみことばに対して敬虔になるように促します。その結果、神様への信仰と知識が養われていき、私たちの生活態度も正され、罪を避けていくことができます。

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[151] 恵みの絵 投稿者:マグダ・ゼマンコウィックス 投稿日:2008/03/09(Sun) 12:22  

あなたの慈しみはわたくしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。詩篇26:3

恵みは神から頂く贈物です。それは私たちに良いことがあるからでも、又、必要だからでもありません。私たちの主は、私たちがいつ、どこで助けが必要かご存知です。だから与えて下さるのです。

退職してから、私はよく窓の外を眺め、周りの丘や道を通る人々を見つめます。最近私は、年老いたご夫婦がゆっくりと、小さな歩幅で歩いていくのに気づきました。奥さんより頭一つ背が痛いのです。
私の気を引いたのは、二人の歩き方と奥さんの肩を抱くようにしているご主人の腕でした。ご主人は杖も持っていましたが、しっかり歩きために奥さんに体を預けていたので。歩きながら空いているほうの手でいろいろなそぶりをして、ご主人は奥さんを喜ばせているように見えました。

私は二人を見て、神の尽きぬ恵みの絵の一枚として、二人の長い年月を思い描きます。私に見えるのは、弱い体で互いをかばい合い、愛をもって互いを支えてきた二人の姿でした。神の恵みとはこのようなものです。

祈祷:天の神様、あなたが私の上に恵みを注いで下さることを感謝します。私があなたに添って歩み、日々寄り頼むようにさせて下さい。アーメン。

今日の黙想
神様の恵みは日々私をどのように支えているでしょう。

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[150] 運転は神様にお任せしましょう 投稿者:平和を得るためのヒント 投稿日:2008/03/07(Fri) 23:31  

さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。(ヨブ記22:21)

神様を相手に論じようなんて、これほど途方もない話はありません。しかし、あなたはどうでしょうか、神様と論じ合っていないでしょうか。私たちは、自分の人生を自分でコントロールしようとします。神様に干渉されて、自分の立てた計画が邪魔されないように、神様を後ろへと追いやります。それでいて、思い通りに計画が運ばないで失敗に終わると、どうしてこんなことが起こるのを神様はお許しになったのか、ちゃんと説明してほしいなどと言います。そのような時の神様からのお答えは、いつもおなじです。「運転は私に任せなさい。」

今日という日に、神様と和解し、すべてをおゆだねしましょう。そして、運転は神様にお任せしましょう。

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[149] 苦々しい 投稿者:平和を得るためのヒント 投稿日:2008/03/06(Fri) 23:29  

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。(エペソ4:31)

苦々しい思いは、心の中に小さくとどまっていません。悪い思いを根に持っていると、それを餌にして、苦々しい思いが大きくなっていきます。その根を無視したり、そこには存在しないと思うようにしても、それはより深く根をはっていきます。しばらくの間は隠れているので、それが広がっていくさまははっきり見えません。でも、いつの日か、破壊的な怒りとなって、爆発する日がきます。そのようになって時には、安らぎも心の健康も、すでに損なわれているでしょう。苦々しい思いを、それがまだ蕾のうちに、摘み取ってしまいましょう。赦すことが自然にできるようになることを求め、そして赦す時は惜しまずに赦してあげましょう。甘い土から苦しい実がなることは、まずないのですから。

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