ルカ18:18~23
18: また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
19: イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
20: いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
21: すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
22: イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
23: 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
最後の一つを求めに来た青年
人生を自信満々に生きて来た青年を一人を紹介します。その青年は良い仕事をしている人でした。そして、若さという素晴らしい財産がありました。若さには限りない可能性とビジョン、エネルギーと無限な想像力があります。彼は失敗をも決して恐れませんでした。
そんな彼がイエスの前に来て、ひざまずきました。そして驚くべき質問をしました。「何をしたら、永遠のいのちを得ることができるでしょうか。」
若くて、すべてのものを持っている若い者がわざわざイエスを訪ねて、永遠のいのちについて質問をするのですから、驚きます。その青年は、自他ともに認めるほどの素晴らしい人でしたが、彼には最後に認められたいと願う方がいました。それは神でした。
すべてが備わった青年の問題
あなたは神に会いたいと思いますか。それとも、神に認められたいと思うのでしょうか。もし、神に認められたいなら、神に会うことはできないでしょう。しかし、神に心から会いたいと願う謙虚な心があるなら、神はあなたに会ってくださいます。そのような人には主が見えます。しかし、主に認められたいなら、いくら捜し求めても主を見ることはできません。
この青年の質問、「神様、私が何をすれば永遠のいのとを得ることができますか」は、神に喜ばれる質問です。しかし、彼は心の中で「神様、どのようなことを聞かれても私はみな答えられます。少こなくとも、神様が願うことは私はすでにみなしてきましたから」と考えていました。そこで「私が永遠のいのちを得るためには何をもっとすればよいのでしょか。私に足りないものは何でしょうか」と堂々とイエスに尋ねて来たのです。
しかし、そのような人はなかなか主に会えません。謙虚な心で、悲しむ心で主を求める人に、主は見え始めるのです。事実、金持ちの青年は、永遠のいのちを得たいというよりは、主に認められたいという気持ちで来たのです。あなたは本当に主に会いたい、神に会いたいと願っていますか。
神に会うためには、まず謙遜にならなければなりません。だから、自分が何かを持っていると思っている人は神に会うことが難しいのです。神を試み、神に認められるために来る人には、神は見えません。自信ありげに「神に一度聞いてみよう」などと考える人には、神は絶対に現われてくださらないのです。
だとしたら、救われるために私たちがすべきことは何でしょうか。信じることしかありません。救いは行いによるものではありません。自分が何をしたかではなく、自分がだれであるかに焦点があるのです。
この青年は永遠のいのちに関心がありましたが、それを得る方法を誤解していました。ですから、彼のように論争をしてキリストをしんじようと思わないでください。信仰は論理的に得られるものではなく、聖霊を通して得られるものです。主をただ信じなければなりません。主を知っているから信じるのではなく、信じるから知るようになるのです。
隠された内面の偽善
人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。、
イエスは青年に、法律の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない、偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。
「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」このことばを聞いた青年は非常に悲しみました。
律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にある偽善と虚像をしり、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみなまもりましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者にに分け与え、わたしについて来なさい」と言われたのです。ここで、金持ちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。
私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題を抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的に、また哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。残念なことに、青年は財産のことで苦しみ悩みました。そして。主ではなく財産を選びました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。
たましいのつるべを失った理由
この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです。彼らのようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神様の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりせず、ただ「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。
第二に、傲慢な態度を見せました。神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を慕い求める心で出て来てください。
第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人をがどのような人になるかによって救われることを覚えてください。
第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福されるのです。
これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。こどものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。
神様の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。
祈り
主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
世の中での正しい経済観
みなさんに食べるものと着るものがあるなら、それに満足し感謝してください。なぜなら、この世に生まれた時間も持って来なかったように、この世離れる時も何も持っていけないからです。子供に遺産を残してあげたからといって、ありがたく思うこどもがいるでしょうか。多くの子供は当然のように思います。それが人間です。
聖書は、お金を愛することがすべての悪の根源であると述べています。お金を愛さずに使ってください。お金に支配されずにお金を治めてください。そうすれば大丈夫です。お金が自体が悪いわけではありません。お金を稼ぐことはよい事です。しかし、神がその主人どなるようにしてください。お金を愛し、お金が儲けようとすれば、あれこれ考えて夜も眠れなくなります。お金が出たり入ったりするばかりで、お金はたまりません。これからお金を支配してください。
永遠のいのちとは
永遠のいのちは、単なる永遠不滅ではなく、神の時間を意味します。また、永遠に生きておられる神の人格的な生活に共にあずからことを意味します。神のない永遠な時間は不安です。神のない無限な世界は考えるだけでも不安で恐ろしいものです。
永遠のいのちとは、死後の無限の世界ではなく、永遠なる神に属することを意味します。また、永遠のいのちとは、キリスト自身を意味します。永遠に生きておられる神が人間の身体でこの世に来られました。。その方がキリストです。キリストの中にまことの永遠があります。
永遠のいのちとは、死がありません。死を超えるからです。永遠のいのちを持つ人は肉体に意味を持ちません。肉体には、大きな意味がありません。失敗を恐れません。永遠のいのちを持つ人は状況がどんなに苦しくても絶望しません、なぜならキリストにある神の聖霊を所有しているためです。
ですから永遠のいのちを持つ人には自由があり、平安があります。
隠された内面の偽善
人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。
イエスは青年に、律法の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さいときから守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。
「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」この言葉を聞いた青年は非常に悲しみました。
律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にあると虚像を知り、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみな守りましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者に分け与えわたしについて来なさい、」と言われたのです、ここで、金もちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。
私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的にまた哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。
たましいのつるべを失った理由
この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです、彼のようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりぜず、ただ、「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。
第二に、傲慢な態度を見せました、神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を羨い求める心で出て来てください。
第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人がどのような人になるかによって救われることを覚えてください。
第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福してくださるのです。
これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。子どものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。
神の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。
祈り
主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。この機会に必ずキリストに出会えるように導き、祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。