キリスト教

恵みの証し

恵みの証し、大募集!

主から与えられた恵みを、主の名を呼び求め兄弟姉妹たちと分かち合いたいと思いませんか。御言葉を通して語られた主の御声を500~1000字程度にまとめて、神様の領域のお問い合わせフォーム(info@godarea.net)まで送りください。

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キリスト教福田 真一

3人の信仰

イエス キリスト

聖書に出てくる3人の人の信仰を考えてみましょう。
1人目は長血を患っている女性です(マタイによる福音書9章20節)。女はイエス様のことを耳にしてやってきました。長血は12年も患っている当時の医者でも治せない難病でした。しかし、この女性はイエス様ならきっと直ると確信して来ました。 イエス様はその女性の信仰にこたえ、病気を直して平安をも与えて下さいました。

僕の名前はご存知の通りモーセといいます。不思議だと思う人はいないかもしれないけれど、張鋭という本名があるのになぜ意味不明のモーセという名で呼ばれるのだろう?と、僕が小さいころから変だと思ったので、好奇心におされ、名前を付けてくれた祖母に「ねえ、何で僕はモーセなの?」って聞いて見ました。それは「これからの信仰生活でいろんな困難や誘惑に遭うでしょう、それをモーセのように根気よく乗り越え、たくましく生きてほしい」というこたえでした。そのときは「何を難しいこというんだ!」と思ったんですが、たくましく生きるということだけはわかりました。それはぼくがクリスチャンになって成長した第一歩だと思います。

2人目は百人隊長です(ルカによる福音書7章2節)。病気になった部下を心配した百人隊長は、イエス様のことを聞いてやってきました。イエス様がお命じになれば、どんなに離れていてもしもべの病気はきっと直ると確信していたのです。イエス様はその信仰を褒められ、百人隊長のしもべの病気を直して下さいました。

3人めは罪深い女です(ルカによる福音書7章37節)。罪深い女はイエス様が食卓についているのを知ってやってきました。その女は、高価な香油をイエス様のためにささげ、髪の毛でぬぐい、み足に口づけしました。これは、この女が精一杯イエス様を愛したことの証でした。イエス様はその女の信仰を評価してその女の罪を赦されました。

このように信仰とは聞くことから始まります。そして、目に見えないものを確信させるものです。どのような困難にもイエス様は救いのみ手を差し伸べて下さいます。私たちは、イエス様を実際に見てはおりませんが、彼らと同じように信じることができます。今なお、実際に生きているイエス様は私たちの信仰を受け入れてくださり罪という病を癒し、赦して下さるお方です。

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恵みの証し吉村 妙子

聖書と出会い

「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10節)

友達に誘われるままに、聖書講演会に出席して、早や20年が過ぎました。  その場にいる自分に違和感を感じ、また、初めて聞く“神の存在”に、戸惑いながらも、幸いにして私は「このことについては、またいつか聞くことにしよう」とは思いませんでした。それは、「義人はいない。一人もいない。」(ローマ人への手紙3章10節)という聖書のことばが私を捕らえていたからです。

義人はいない一人もいない  人間は、善であると教えられてきた私には不思議な言葉でした。  私は小さい頃から、いわゆる良い子!でした。先生の言う事を良く聞き、親には心配をかけず、反抗もせず…。友達までもが私をそんなふうに見ていました。そして、最も悪いことに私自身が、私を正しい人、良い人と思い込んでいました。  ところが人間、歳を重ねれば重ねる程、自分の内に善が住んでいない事に気づきます。人を憎み、妬み、羨み、自己中心で自分勝手…。どうしようもないくらいに。

良い人でなくてもいい  良い人であり続けなければならないという、目に見えないプレッシャー…。私は人前では明るく振るまっていましたが、心の内には、いつも葛藤がありました。「義人はいない」と言う言葉に、そんな事はないと、腹を立てる人がいるかも知れません。でも私はこの言葉に助けられました。“良い人”であり続ける必要がなくなったのです。私の心を知って下さっている方がおられる。それだけで安心でした。

心に残る聖書のことば  聖書には「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」というものや「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえにただ神に感謝します。」(ローマ人への手紙7章18、24、25節)ということばがありました。私には、目にする一つ一つの、聖書のことばが新鮮でうなずける事ばかりでした。疑う余地などひとつもありません。けれども、かなり頑固な私にとって、創造主(神)を信じて、従って行きたいと決心するまでには、更に7年という歳月が必要でした。

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キリスト教エミー

父の臨在

あなたの出で立つのもかえるのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩篇121:8)

私たち兄弟は、父から読書の楽しさを学びました。兄弟の一人一冊の本を買うと、私たちはその本を回しを読みして、全員で同じ本を読んでいました。私はいつも、父が読み終わった本を読むようにしました。というのは父は読むとページにつめで折り目をつけていたからです。本を読んでいて、父のつけた折り目に出合うと、嬉しくなりました。父は3ヶ月前になくなりました。私が今読んでいる本は、父のつめ跡に出合える最後の本です。

同じように、私たちの日常生活の中にも、神様の手が私たちの世界に触れたことを示す印があります。普段の日に私花を見、鳥の声を聞き、さっと通り過ぎる風を感じます。私は顔をほこえおばせます。こうした印は、神様が私より前にここにおられたことを知らせてくれます。又、おうした印は、神が常に私たちを見ていて下さり、私たち一人一人のために天に場所を備えてくださっているを思い出させてくれます。 祈祷:神様、意外なところであなたの臨在の形跡を見ることを感謝します。アーメン。

キリスト教王永天

主は、私たちのためにお選びになる

主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを(詩篇47編4節)

世の人は自分の利益が最大にできるような事業を選ぶ。このような事業は大体利害関係がある。アブラハムのおいロトこのような一例: 裏の災いも気づかず利益だけを目前にし、ソドムの近くの平野を自分の事業として選んだ過ち。

信仰を持つ人は、先ず神の奉仕を考え、神様に自分の事業を委ねる。神様が選んでくれた事業は高尚で、将来の災いもなく、美しくバックアップされたたものです。この事業によって私たちは掲げられ、人格的に誉れが与えられ、子孫にも栄光を残すこともできる。このような事業は汚すことも、壊すこのも、衰えることもできない、天の事業発展の基礎として残せるものです。

私たち持っている全ては神様が選んでくれたものであるように。私たちがそれを心から感謝して受け留められるように。このようであれば、私たちは安らかな喜びを感じることができる。なぜなら、それらは私たちが強奪、搾取、詐欺をして得たものではなく、私たちがそれらを用いて人々に潤いを分けて、幸福を社会にもたらさなければならないからです。神様が用意してくれたものは末世に現れる救いである。

祈祷:神様感謝致します。私たちの糧を毎日与えてくださって。主よ、私たちに人を愛する心を与えてください。また、私たちに神様が用意してくださった事業を受け継ぐことのできる心お与えください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

キリスト教王モーセ

受洗の証し

約一ヶ月前にこの証という宿題が出されました。先生の話によると内容は:
 ①信じる前の自分について ②信じたときの自分、③信じたあとの自分の三つで構文することですが。そのときは困っちゃいました。なぜかというと、僕はクリスチャン家族からうまれたので、自分のデータベースが作動し始めたときのもう自分はクリスチャンだ、教会に行くべしというようなデータが知らぬ間に保存されてしまっていたのです。つまり、多分①、②の自分は存在していなっかたと思いますので、③で許してください。

僕の名前はご存知の通りモーセといいます。不思議だと思う人はいないかもしれないけれど、張鋭という本名があるのになぜ意味不明のモーセという名で呼ばれるのだろう?と、僕が小さいころから変だと思ったので、好奇心におされ、名前を付けてくれた祖母に「ねえ、何で僕はモーセなの?」って聞いて見ました。それは「これからの信仰生活でいろんな困難や誘惑に遭うでしょう、それをモーセのように根気よく乗り越え、たくましく生きてほしい」というこたえでした。そのときは「何を難しいこというんだ!」と思ったんですが、たくましく生きるということだけはわかりました。それはぼくがクリスチャンになって成長した第一歩だと思います。

それから何年間教会に行ってるうちに身も心も成長し、だんだんと自分は罪びとであることを認識し始めました。そこで、これまでずっと間違って思っていた重要なことが一つありました。ぼくはこんな自分みたいな罪びとは本当に救われるのだろうか、そしてどうしたら救われるのだろう、どうしたら、モーセというようなにふさわしい人間になれるのかとずいぶん悩みました。だから、聖書を読み「悔い改めなさい、天のみくにが近づいたから」(マタイ4.17)をみて、こう思いました、「悔い改めるというのは、もう二度と罪を犯さないこと、でもそれは不可能だから、よい行いをし、いい人間になって挽回しなくでは!」と思い込む傾向がありました。それにようやく解決を得られたのは最近です、洗礼準備クラス会で「すくいについて学びました、「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2.8)最初はこんなおいしい話あるかい!?と思ったのですが、しかしよく考えて見ると。たとえば、ある子供はとっても悪い子で、おやのいうこと聞かないし、いたずらするし。しかし、もしもこの子は病気や怪我、危険にさらわれた、としたら、この子は悪い子だといってそのまま見殺す親はいません。むしろ、自分の命をほりだしでも、愛するわが子を助けてやろうとするはずです。よって、ぼくと神の間もそのような関係です、御子イエス・キリストによって救われたのですから、自分の行いによって救われたのではなく、ただ恵みのゆえに、救いの賜物をいただくことができたことを感謝致します。何ヶ月の間毎週谷下牧師先生のクラスで信仰を固めて、そしてずいぶん悩んでいる問題を解決を得ることが感謝致します。

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キリスト教加藤 優

ザアカイの救い

(創世記 1章1節)神様は目に見えない方ですが、いろいろなことを通してご自身の存在を示しておられます。神様は、もともと人間それぞれに平等に必要な全てものを与えてくださいました(天、地、時間など)。しかし、人の罪の性質はさらに多くのものを手に入れたくなるのです。

収税人のザアカイさんは、お金持ちになることで満足しようとしましたが、その心は満足することはありませんでした(ルカによる福音書19章)。そのような時にザアカイさんは通りかかったイエス様を見ようとして、木に登りました。ザアカイさんは背が低く、群衆のためにイエス様を見ることができなかったのです。イエス様を知るために求めて努力をすることは、大切なことです。お金持ちになることを目標としていたザアカイさんは、神様から与えられた時間を無駄にしていました。そればかりではなく、決して満たされることのないお金に執着していました。

しかし、イエス様を求めて行動し、イエス様を受け入れてから彼は変わりました。罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じたのです。そらからの彼の人生の時間は決して無駄にはなりませんでした。そして、本当の心の満足を得ることができました。  

神様無しの生活は、決して満足することなく、神様から与えられているもの全てを無駄にしています。本当の幸な人生の条件は、お金持ちになることではなく、罪を悔い改めてイエス様を受け入れることです。 イエス様は、私たちが永遠のいのちを持つためにこの地上に来て、十字架に架かり死んでくださいました。イエス様は、時間を無駄にすることはありませんでした。 多くの人は、自分の幸いな居場所が分からずにいます。イエス様の所に本当の安らぎがあり、最も幸いな所があるのです。

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キリスト教ビル・ハイペルズ

最高のプレゼントを抱かせよ

私は20代の初めにトリ二ティ大学のギルバート・ビレッジキアン教授から聞いた教訓えを通じて、霊感と確信を得ました。当時、教授は青少年の働きをしている人たちにこのように話しました。「人は誰でも、快楽、財産、人気、権力等、それぞれ他の何かに人生をつぎ込みます。イエスの弟子は主の願いを知っているので、他の人のために自分自身をささげます。何よりも、キリストの信仰にあって、人々を導くことに一生をささげます。神への標識となって仕える人生ほど高貴で美しいものはありません。

神のあがないと変化の力を真に信じる人が、他の人々に贈ることのできる最高のプレゼントは、神と正しい関係を結ぶ方法を教えることです。主は今でも私たちに言われます。「その昔、私が宇宙の果てからやって来たのだから、今こそ、あなたがたが渡って行く番です。毎日、出会う人々に、私のところに来る道を教えなさい。彼らが神を知り、神の知恵と戒めを受け入れれば、より良い人生を歩むことでしょう。罪責感でせずに、従う心で行いなさい。」

キリスト教ピリー・グラハム

永遠なもの

ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。ローマ11:33

私たちは神が私たちより強いという点は簡単に認めようとしないものです。もちろん、口ではそのように言いますが、決定的な瞬間が来れば、その言葉通り行動しようとしません。神の知恵が完璧だと信じるなら、そして、私たちも知恵深くなりたいと願うなら、私たちも神のみことばを絶えず学ばなければなりません。マルティン・ルター/宗教改革家

私は中国で生涯を宣教師として過ごした一人の老人にあったことがあります。その方はいつも健康で、非常に丈夫な方でした。そんな方が癌にかかり、体中に癌細胞が転移しました。私はその方を慰めに行って帰って慰められました。その方は稀にしか見られない、喜びと光を放ちながら床から起き上がり、私が車を駐車していた所まで見送ってくれました。そうして、明るく笑いながら両手を振り、「ビリー、福音を伝え続けなさい。私は年を取るほど、キリストが素晴らしい方であることを感じるよ」と話しました。

世の中のことにこだわり続け、永遠の世界を見ることができなければ喜びを失います。万が一、天国の栄光を実際に感じ、霊的なものと永遠なるもののために生きるなら、私たちの心が簡単に世のものに揺れ動くことはないでしょう。

ある友人が、ロンドンの通りでバグパイプを手に弾き語りをしていた人の話をしてくれました。明るく微笑みながら「アメイジング・グレイス」を演奏していた彼に、友人が故郷はスコットランドかと尋ねると、「いいえ、私の故郷は天国です。私はこの世では旅人に過ぎません」と答えたそうです。

キリスト教トミー・テニー

礼拝の種を蒔け

とうもろこしや麦の種を蒔くとき、その種はとても貴重なもので、農夫はそれをすこしずつ蒔くものです。しかし、まいたわずかの種が、刈が入れの時には、巨大な量のとうもろこしと麦の種を残します。ですから、あなたが今、生活していくのに充分な量の種がなくても、今こそが種を蒔く時なのです。そうすれば、後で大きな収穫を得ることができます。

いつか、天国から地を見下ろして証人たちの中に、あなたも座るときが来たなら、モーセにその従順という杖を蒔くいたできる事について尋ねてみましょう。また、ダビデには十数年の苦しみの歳月、その乾き切った地の中に、自分に預言された未来を蒔いたことについて尋ねてみましょう。彼は、時が満ち、神の御心を刈り取ることをしんじていました。イエスにはその命を蒔かれたことについて尋ねてみましょう。そして、それぞれの人に、その行いよってどれほど素晴らしい報いを受けることができたかを尋ねてみましょう。

さあ、神を礼拝してください。礼拝はあなたの最も暗い夜を最も明るい昼に変える力があります。あなたが、幸福の源であられる神を褒め称えるとき、絶望と落胆、悲しみと不安の勢力が衰え始めるのです。

礼拝してください!、今すぐに!、人生の壊れたかけらを集めて、立ち上がって前進しましょう。

キリスト教マックス・ルケード

乏しきことなし

あなたに一つ質問してみたいと思います。あなたの喜びを奪い去っていくものは何ですか。「○○なら幸せになれるのに。」
体さえ丈夫なら?昇進さえすれば?給料が上がれば?結婚さえすれば?億万長者にさえなれれば?空いているところに何が入りますか。

この答えを心に留める、次の質問に答えてください。乗るはずの船が来なくても、夢が叶わなくても、今の状況がかわらなくても、それでも、あなたは先に答えたことさえなし遂げられるなら、幸せになれますか。もし本当にそう思うなら、あなたが羊飼いなる神の中で、すでに得たものをもう一度振り返ってみてください。

私たちには耳を傾けてくださる、羊飼いなる神様がおられます。私たちの後ろには愛の力が、私たちの内側には聖霊が、私たちの前には天国があります。
羊飼いがいるということは、すべての罪を赦してくださる恵みと詳細な地図、隅々まで見渡せるろうそく、風の中でも守ってくれる錨があるということです。
一言でいうなら、私たちはすでに必要なものを手に入れるいるのです。

キリスト教ゲリー・トーマス

切り倒されない美

ある時、南西部ワシントンで開かれる夫婦の修養会で説教したことがあります。そこに行く途中、「木の国」と呼ばれる広大な植樹林を通過します。この植樹林の所々に、鮮明な痕跡を残す伐採開発地がありました。地面にくっきりと痕跡を残す伐採は、実に見苦しいものです。しかし、幹線道路を運転しながら、また別の伐採地を通過したとき、ある光景が私の視線を釘けにし、あやうく道からはみ出そそうになりました。驚いたことに、ぼろ布のような荒地に、秋の色に染まった、1本美しく紅葉した木が立っていたのです。伐採人たちが切り忘れたのでしょう。

荒地と鮮やかなコントラストによって、その木はなおさら美しく見えました。美しいものに囲まれている美は、時間がたてば陳腐になりますが、無秩序なものや、みすぼらしいものの中にある美は壮観なものです。そういう美は、私たちの視線を釘付けにします。荒れ果てた殺風景な土地の残骸の中で、この木は私の想像力をとりこにしました。荒れ果

傷ついた土地に立つ、一本の栄光の木は、神の崇高な真理を宣言していました。

心の奥底で私たちは、このような「切り倒されない美しさ」をきりに望んでいるのだと私は信じています。人々が自己中心的な生き方をし、残酷な事件が頻發し、罪の広がりは止まるところを知らず、連日、暴力な犠牲者が絶えない世の中で、私たちは、切り倒されない美しさを示すことができるのです。それは、神の国をまず求める、他の人たちを優先する、へりくだった生き方です。それは、あらゆる時代の教会を輝かせてきた美しさでもあるのです。

キリスト教バン・ジイル

心を尽くす人生

修道院が盛んだった時代に、アントニオというある修道士が修道院にいりました。彼は長くそこで修練し、これぐらいならいいだろうと自信を持って修道院を出ました。その時、ちょうど修道院の門前で靴屋さんが靴を直していました。修道士は彼に自分の靴を治してもらい、待っている間に話しかけました。
「家族は何人ですか?」
「子ども八人妻と私で十人です。」
「収入はどれくらいあるのですか?家族がそんなに多くては靴を直すだけではお金が足りないのではないですか?」
「……」
彼は何も言わずにただ黙々と靴を直し、少ししてからこう答えました。
「先生、私はただ主に仕える人たちが、長く楽に靴をはけるように最善を尽くすだけです。私の家族のことは神様が責任を持ってくださいますから。」 それを聞いた修道士は、自分の足りなさを悟り、修道院に戻っていったそうです。 この靴屋こそ、心を尽くし、神を中心に生きる人ではないでしょうか

キリスト教リック・エゼル

信仰、人格を守ること

私は、「アラバマ物語」という映画が好きです。1930年体初期を舞台にしたこの映画の主人公は、アラバマの弁護士アティカス・フィンチという(俳優:グレゴリー・ペック)人物で、彼は当時白人の女性を強姦した疑いで訴えられた、ある黒人弁護をすることになります。フィンチがこの事件を引き受けたことで、周囲の人々は破廉恥な黒人の弁護をするのかと彼を非難し、あざ笑いました。訴えられた黒人は潔白で、フィンチは彼の無罪を立証あいますが、陪審員団は有罪判決を下しました。

裁判の時、フィンチ弁護士の二人の子供たちも法廷にいました。下の階には席がなく、バルコニーで町の黒人牧師の隣に座ることになりました。判事が席を立つと、法廷にいっぱいだった人々も一人二人と出て行きました。フィンチ弁護士の娘、スカウトは父親の顔をじっと見つめていました。彼は誰もいない法廷に一人残って書類を鞄に入れ、上着を着て中央通路を通り扉へと歩いていきました。裁判で負けても、彼の精神はそれに屈しませんでした。その時、誰かがスカウトの肩に手を触れました。振り向いて見ると、先程までバルコニーで裁判を見ていた人たちが皆立っていました。そして、黒人牧師は彼女の肩をもう一度叩いてから、「立って敬意を表してください。お父様が通られます」と言ったのです。

バルコニーにいた人たちは、フィンチ弁護士の人格に大きく感動しました。私たちは生きていく中で人に非難されたり、あざ笑われたり、また騙されたりすることがあります。けれどもしっかりと信仰的な人格と信念を守り抜けば、いつかは人々が私たちに敬意をわ表すでしょう。

キリスト教イ・スンジャン

傲慢という遺伝病

1982年の夏、私はスイスのラブリで一ヶ月ほど過ごしたことがあります。当時フランシス・ジェーファー博士は癌治療を受けながら闇病生活をしていました。それから随分時を経ちましたが、今でも私はあるアメリカの青年の質問と博士の答えを忘れることができません。青年はこう尋ねました。「イエス様は私たちが他の人のために奉仕し、自らを犠牲にすることを望んでおられます。ならば、私たちが目標を立て、全力を尽くし、自分のやりたいことをするのは利自的な罪となるでしょうか?」ジェーファー博士はこう答えました。「人を堕落する前はそんな葛藤は存在しなかったでしょう。しかし人を堕落してからその心が腐敗し、自己成就と奉仕が葛藤する関係になったのです。・・・私は他の人に仕えるために本を書きは始めたのですが、本を出版されいろんな人たちに読まれるようになり、満足感を覚えるのも事実です。」

人間が堕落する前は「傲慢」が人類を病ませることはありませんでした。劣等感や自己卑下で自分を成就虐げることもありませんでした。良い意味で自分自身に対して自信とプライドを持つことは、明るく豊かな実を結ぶ人生を生きるための必要な条件だと言えるでしょう。ですが「傲慢」という人類の遺伝病は、私たちを霊的も盲人にします。私たちがイエスを信じ、生まれ変わったと言っても、この自己中心の柵から出るのは難しいので。だから私たちには自分の傲慢さを認め、神の前で正直に告白し、神の助けを求める誠実な態度が必要なのです。

キリスト教チャールズ・コールソン

共同体を一つにする愛の絆

私は廊下を通りすぎるとき、時々目頭が熱くなります。障害あるの学生が車椅子でトイレに行くと、一般の学生がトイレの扉を開けてあげます。自閉症の学生が一人で立っていると一般の学生が静かに近づき、手を取って共に歩いてあげます。普通、一般の学生が、障害のある学生を助けていると考えます。とんでもありません。かえって障害のある学生が、一般の学生の成熟を助けているのです。障害のある学生は何ら訓戒もなしに、その存在だけで、一般の学生の自尊心と頑固さを砕き、子どものような幼稚さを捨てさせるのです。さらに、一般の学生が得るものがあります。神から与えられたいのちを貴く感じ、愛する心をもつようになることです。

これは本によって教えられるのではなく、共に生活する共同体の愛を通じて学ぶことできるのです。ゆえに、私は統合教育を締めることができません。今よりも何倍もの経済的損失を出すとしてもです。私はいつも子どもたちに話しています。「君たち、君たちは障害のある学生を助けるのではないんだ。障害のある学生も助けを受けるのではない。君たちはお互いにあるがまま、共に生活すればいいんだ。」

神は私だけを召されたのではなく、私たちみなを召されたのです。

キリスト教ジェラルド・L・シーチャー

祝福しなさい

私たちの挨拶は言葉と身ぶり以外にも他に必要なものがあります。それが、祝福です。私たちは既に知っている人と初めて会う人すべてに、信仰によって祝福する必要があるのです。

私と妻は毎晩寝る前に4人の子供たちの部屋に行って頭の上にそっと手を置き、彼らのために祈りました。妻は子供たちに神の祝福を祈りました。子供たちは本当にそれを必要としているのです。それならば、子供を祝福しない人がどこにいるでしょうか?私たちは心から溢れ出る喜びに満ちた挨拶をし、心の中で祈りを通して、神様の恵みと平和、そして神様の祝福を伝える責任があります。

私たちと敵対するクリスチャンたちもその祝福を必要としています。私たちと対立するクリスチャンたちと出会う度に、友好的な状況であれ、敵対する状況であれ、神様の恵みが臨むよう祈ることによって彼らの心が和らげられるように願うのです。彼らは私たちと同じく、神様に属する人たちで、神様を信じ必要とします。意見の差や対立関係自体は変わらないかもしれませんが、彼らに挨拶することを通して神様の祝福を祈るなら、霊的な関係と会話の方法は変わっていくことでしょう。このように挨拶は、まず私たちの方からすべきで、しかも、心からなすべきだということを覚えましょう。たとえそれが、報われないとしてもです。

キリスト教ジェームス・スミス

与えられるものを与えないでいるには

親切な一言を必要としている人に、その言葉を惜しむには、痛み苦しむ人の呻きを聞こえないふりをするには、助けを求める人を見てみぬふりをするには、いのちのみことばを聞く機会を先延ばしにするには、知り合いが苦しむとき、彼のために祈らないでいるには、送りたかった励ましの手紙を書かないまま過ごしてしまうには、人生はあまりにも短いものです。

命の危ない病気にかかった子供にぬいぐるを送ってあげないでいるには、疲れ果てた夫婦の子供の面倒を見てあげないでいるには、同僚に花束を渡さないでいるには、人生はあまりにも短いものです。

隣家の前に積もる雪の雪掻きをしてあげないでいるには、午後に老人ホームを訪問しないでいるには、愛する人に手紙を書く朝の一時を惜しむには、誰かに「ありがとう、本当にそこまでやってくれなくてもよかったのに…」という一言を聞かずに一週間を過ごしてしまうには、人生はあまりにも短いものです。

私たちの親切な行動は小さく見えるかみしれませんが、お互いのための行いに秘められた重要性は無限なのです。ヘルマン・メルウィルもこう指摘しています。「我々はお互い数千の繊維組織で繋がっています。こんな組織網の中で、特に思いやりという繊維によって我々が親切にした行動はまた我々自身に戻ってきます。」

キリスト教ジョージ・プレントリ

誠実を選びなさい

誰も見ていない時あなたは何をしますか?仕事の出張先でどんなテレビ番組を見ますか?一人で旅行するとき、乗り継ぎの飛行機を待つ間、あなたはどんな雑誌を読みますか?こういった質問に対する答えが、その人の心がどれだけ誠実かを表わします。なぜなら、神様が見ておられるとき、あなたがどういう人あるかによって、あなたがどんなに誠実であるかが決まるからです。

誠実でない人は、誰も見ていなければ自分の罪を隠せると思い、自分を騙します。しかし、本当に気を使うべき方は、いつも私たとぉ見ておられ、その真理は変わりません。その方は眠らず、私たちの罪が見えなくなるほど遠くへも行かれません。私たちの人生の中で行われるすべての事を、神は見逃さず見ておられます。

誠実であることより大切なことはありません。永遠の安全と救いへの確信は自分の心の中を点検することからくるのです。私たちの心が誠実でないことに気づいたとき、私たちは御前に出て行き、悔い改めなければなりません。ほんの小さいな罪だからと無視してはいけません。小さな罪は首にできた引っ掻き傷のようにどんな大きくなり、やがては私たちのいのちを脅すすものとなるからです。どんなに些細な罪であっても、私たちはすべての罪を神の前に持って行き、解決しなければならないです。

 

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