みんなの掲示板はキリスト教についての証し、福音を分かち合いたいこと、宗教話題についての掲示板です。
これ以外目的での話題が削除させていただきますので。ご了承お願い致します。
This BBS is only for sharing our happiness, worship and conveying the gospel about christianity.
except these, everything will be deleted
http://godarea.net/
[留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]
 
おなまえ
Eメール
タイトル
コメント
参照先
暗証キー (記事メンテ用)
 

[38] 現実逃避していませんか 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/08/15(Wed) 11:47  

恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。そこで私は言いました。「私にはとのように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。」 (詩篇55:5,6)

  学校を無断欠席したくなったり、仕事に行くのがいやになったりしたことがないでしょうか。全てのことから逃げて、どこかほかの場所でまったく新しい人生をはじめてみたいような、そんな気持ちになったことがないでしょうか。私たちはしばしば重圧から逃れたいという思いに駆られますが、縄抜けの名人、フ−ディニのように鮮やかに逃れる人はまれです。隣の芝生は青く見えるでしょうが、その場所でもまた、新たな落とし穴があるものなのです。人生の試練に立ち向かい、その中で成長していくことのほうが、よほどいいのです。私たちのために、神様学ぶべき教訓を用意しておられ、そしてそれは、避けられるものではありません。神様からのチャレンジを受け入れることによって、私たちは、賢く生きるための道具を身に備えたものに変えられていきます。

http://godarea.net/

[37] 4月10日 恩寵を気づかないヨブ 投稿者:荒野の泉 C・H・スポルジョン 投稿日:2007/04/10(Tue) 12:09  

 「わたしは神に申そう・・・・・何故わたしと争われるかを知らせてほしい」  (ヨブ 10:2)

 ああ、試みられる魂よ、恐らく主はあなたを恩寵に進歩させようとして、このことをなしたもう。あなたが持っている恩寵の中で、試みられなければ決して恩寵として発見されないものがある。あなたの信仰は夏には、冬のようにすばらしく立派には見えないことを知らないのではないか。愛はしばしばほたるのように暗黒に包まれなければ光らない。希望はちょうど星のようなもので、繁栄の陽光では見られない。それはただ逆境の夜にのみ発見される。苦難は黒いくぼみのようなもので、神はその子供らの恩寵の宝石をこれにはめて、更に善く輝かせなさる。

 あなたは跪いて「主よ、わたしは信仰のないことを恐れます。願わくは、わたしに信仰のあることを知らせて下さい」としばらく前に祈ったことがあるでしょう。

この祈りは、多分自覚してはいないが、実は試練あれかしと祈ったのではなかろうか。あなたの信仰が実際に役立つまでは、どうして信仰があると知ることができよう。

 神はわたしたちに恩寵を発見させるために、また恩寵の存在を確かめさせるために、試練を送りたもう。しかもそれは単なる発見ではなく、真に恩寵に成長するのは、清き試練の結果である。

 神は安逸とぜい沢の天幕において、その兵卒を訓練したまわない。しかし、彼らを送り出して強制的な行軍と、困難な働きに用いたまうのである。神は彼らをして流れを渡らせ、川を泳がせ、山々をよじ登らせ、彼らの背に重いバッグをしょわせて、長い疲れる行軍をさせなさる。
キリスト者よ、このことはまさしくあなたがたが通過しつつある苦難の原因ではなかろうか。これこそ神があなたがたと争いたまいつつある理由ではなかろうか。

C・H・スポルジョン

 サタンに悩まされずに居ることは祝福の証拠ではない。

http://godarea.net/

[36] 待つ勇気を持つ 投稿者:恵泉 投稿日:2007/08/13(Mon) 12:58  

「待ち望め。主を。雄雄しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」詩篇27篇14節

  クリスチャンの人生は、オフロードです。スポーツとして、バイクや車でわざとデコボコ道を走り回ることが流行しています。きれいに舗装された道よりも、デコボコ道を走る方が快感なのでしょうか。わざわざデコボコ道を走らなくても、私たち自身の人生そのものがオフロードを走るようなものです。毎朝の聖書と祈りの時間のために役立つデボーションガイドの本としてよく利用されているものに、「荒野の泉」があります。この書名から伝わる編集者の考えは、「人生は荒野を旅するようなものだ」ではないでしょうか。クリスチャンの歩みを「順調な、問題のない、容易なもの」と私たちが考えているなら、それは大きな誤解です。

  その荒野を旅する中で、私たちは、しばしば、数々のプレッシャーに押しつぶされて、耐えかねて、ついに目的の道からそれてしまう危険を経験するのです。また数々の失敗や問題によって、自信を失い、心が弱くなり、失望してしまう危険があるのです。しかし聖書は私たちに励ましを与えています。「待ち望め。主を。」と二度も繰り返して私たちを励ますのです。問題にぶつかったり、試練に直面してどうにもならなくなった時こそ、主である神様を待ち望むべきです。なぜなら神様は待つに値するお方だからです。誰を待つのででしょうか。この世界が私たちを真に助けてくれるのでしょうか。創造者なる神様以外に私たちの必要を知り、その必要に応えてくださるお方がいるでしょうか。

  待つことは、勇気のいることです。しかしぜひ覚えていただきたいのです。クリスチャンの人生を表現する言葉として、「待ち望む」が一番ぴったりしています。私たちの神様は天の父ですから、必ず、私たちの祈りに応えてくれます。大きな信頼をもって、期待して待ち望みたいものです。

http://godarea.net/

[35] 霊想 投稿者:みちの光 投稿日:2007/08/12(Sun) 12:53  

見よ。神は私の救い。
私は信頼して恐れることはない。
主は、私の力、私のほめ歌。
イザヤ書12:2

いつまでもうなだれていたり、心配していたり、暗い気持ちでいないであります。神様に思いを向けることが必要であります。神によって希望をいただき、神により頼んで心を強くすることが予想通りにうまくいかないこともあるでしょう。けれども、不必要にそれによって自分の気持を暗くし、心を傷つける必要はありません。問題や事情によって心に出血をさせてはなりません。心を弱らせないでいるならば、現在の、問題を乗り越えて、勝利に進む力は神によって心の中に動くでしょう。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
移り変わるものを頼りとするな。
神に心を向ける習慣を養え。
心は広くせられ、豊かになるであろう。

お祈り
天の父なる神様、何を力とするよりも、あなた様を力とし、何を頼りとするよりも、あなた様を頼りとして強く生きる者にしてください。

http://godarea.net/

[34] 心を尽くす人生 投稿者:バン・ジイル 投稿日:2007/08/06(Mon) 12:12  

修道院が盛んだった時代に、アントニオというある修道士が修道院にいりました。彼は長くそこで修練し、これぐらいならいいだろうと自信を持って修道院を出ました。その時、ちょうど修道院の門前で靴屋さんが靴を直していました。修道士は彼に自分の靴を治してもらい、待っている間に話しかけました。
「家族は何人ですか?」
「子ども八人妻と私で十人です。」
「収入はどれくらいあるのですか?家族がそんなに多くては靴を直すだけではお金が足りないのではないですか?」
「……」
彼は何も言わずにただ黙々と靴を直し、少ししてkらこう答えました。
「先生、私はただ主に仕える人たちが、長く楽に靴をはけるように最善を尽くすだけです。私の家族のことは神様が責任を持ってくださいますから。」
それを聞いた修道士は、自分の足りなさを悟り、修道院に戻っていったそうです。
この靴屋こそ、心を尽くし、神を中心に生きる人ではないでしょうか。

http://godarea.net

[33] 心の思いが漂っていませんか 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/08/03(Fri) 12:26  

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。イザヤ書26:3

心の思いが、まるで広い海の中を漂っていることがあります。空想という波の上をあてもなく漂っているのです。ありもしないことに思いを駆せては時間を費やし、神s間の約束に焦点を合わせるどころではありません、神様の赦しの海―神様の愛―にたどり着いたならば、そこに錨をおろすのが賢明です。そして、この箇所にあるように、しばらすはそのところに留まるのです。

http://godarea.net

[32] 幸福の始まり 投稿者:ハ・ヨンジョ 投稿日:2007/07/29(Sun) 23:00  

人生の追求は幸福の追求です。

人は誰でも幸福に渇いています。
砂漠で一滴の水を希望するように
人は幸福を探しに探し
長い長い旅をします。
しかし、幸福は絵に描いた餅のように手に入れることができません。

幸福は一体どこにあるのでしょうか。
空の上にもなく
地の下にもなく
私の心にもありません。
それにもかかわらず、幸福をあきらめられないことが
私たちの人生です。

幸福はただ、一人のお方にあります。
イエス・キリストです。

今日から幸福の旅を始めてください。
この方と共に。

http://godarea.net

[31] 人生の選択 投稿者:オウサン工房 投稿日:2007/07/27(Fri) 12:30  

あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え…もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。ヨシュア記24:14-15

  基本的に、私たちは神によって選ばられるが、神を選ぶことができない。しかし、神が私たちをお選びにならないかつ私たちが神を選ぼうとしない限り、私たちは神の中に属することができない、また神のご意志は私たちの中に成就することもできない。

  放浪息子が父の家から離れ、父と一緒にいることを選ばなかったから、父は彼を呼び止めることができなかった。

  人生はいろんなときに選択をしなければなりません。仕事、結婚、品行.....全て選択です。その中で、神のために奉仕しようという選択は一番偉大です!なぜなら神が私たちの中にいると私たちは重心、方向、目的、支え、勇気、力を有することができるようになるからである。そして、私たちは、勇敢に足を踏み出せる、空振りのない、ストレスの感じない、失敗することもなくなります。

  ヨシュアの選択は神に仕えることだった。神は彼に「強くあれ、雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行くどことでも、あなたとともにあるからである。」と命じた。そして、ヨシュアは晩年のときに「主が、あなた方について約束した全ての良いことがひとつもたがわなかったことを。それは、ひとつもたがわず、みな、あなた方に実現した。」と証をしたのである。賛美感謝。

http://godarea.net

[30] 重荷を負いあいましょう 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/07/26(Thu) 23:10  

互いの重荷を負いあい、その様にしてキリストの律法を全うしなさい.......人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ6:2〜5)

 この二つの聖書箇所は、お互いに矛盾しているように見えます。しかし、ここで、使徒パウロは、それぞれ自分で背負わなければならない通常の精神的な荷(5節)を自分自身で背負うようにと、ただし、兄弟姉妹の精神的な荷がかれたに取って一時的に重過ぎるときは愛を持って助けてあげなさい(2節)、と勧めています。しかし、私たちは他の人が自分で負える荷まで、背負ってあげようとします。その結果、私たち自身がその重荷に押しつぶされてしまいます。うまく重荷を背負ってあげたとしても、相手の人にとっては何の助けにもなっていません。自分に与えられた責任を果たすことができないからです。決してその人のためになりません。しかし、一人では負いきれない一時的な重荷をできるだけ負いあうなら、その助け合う愛は、キリストの律法を全うします。

http://godarea.net

[29] 試練の中で 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/07/26(Thu) 23:09  

恐れてはいけません。神が来られてのはあなた方を試みるためなのです。また、あなた方に神への恐れが生じて、あなた方が罪を犯さないためです。(出エジプト20:20)

これはモーセのいった言葉です。神様への恐怖心を病的なまでに抱かせ、私たちを動転させようとサタンはします。このモーセが言った言葉を適用し、サタンの言葉に耳を傾けないで拒否しましょう。神様は、私たちの敵ではありません。びくびく怖がる必要はないのです。
 
 でも、忘れないでください。確かに神様は、私たちの信仰を試したり、調べたりするために、私たちをストレスにあふれた状況の中に置かれます。私たちの神様信仰を試すこの霊的な試験は、後から振り返ってみると私たちの進行の成長にとって大きな助けであることがわかります。また私たちの優先順位を正すのにも役立ちますし、神様や人とのかかわりの中で、自分のどういうところを変えていかなくてはならないか、ということにも気づかされます。神様からの試練は、神様と御言葉に対して敬虔になるように促します。その結果、神様への信仰と知識が養われていき、私たちの生活態度も正され、罪を避けていくことができます。

http://godarea.net

[28] 平安への道 投稿者:平安を得るためのヒント 投稿日:2007/07/20(Fri) 23:30  

まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった水のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える(詩篇1:2,3)

 「瞑想」、このことについて本を書いている人はそう多くいません。東洋の奇妙な宗教儀式のためでしょうか、瞑想することについて私たちは、多少疑い深くなっています。でも、この失われた方法を完全に無視してしまうと、私たちは霊的にバランスを欠いてしまいます。瞑想は平安と静けさへの最善の道なのですから。

 聖書が勤めている瞑想は、ろうそくの灯った儀式や、東洋の式物のうえでのヨガの姿勢を要求しません。それは、みことばを心の中にあふれさせることを言います。みことばのひとつひとつがしずくのようになり、さざ波を立ててきらきらと輝き、それが魂の穏やかなオアシスとなっていくまで、心の思いの合間合間に小滝のように降らせるのです。これが現実的な問題を解決する最善の方法であり、聖書が勤めている瞑想です。みことばを瞑想することによって現実のもっとも真実な面への理解が、私たちに与えられます。

http://godarea.net

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18]

処理 記事No 暗証キー