神様の領域十字架上の七つの御言葉 Seven of the cross term

十字架のイエス

【聖書箇所】マタイ27:35~44、マルコ15: 24~32、ルカ23:33~43、ヨハネ19:18~30

「世の罪を取り除く神の小羊」である主イエス・キリストが十字架の上で、午前9時から午後3時までの6時間の間に語られた七つの言葉のひとつひとつのことばに耳を傾けてみたい。そして、その一言、一言を心に刻みつけたいと思います。ここには、イエスがなにゆえに死ななければならなかったのか、神の側からの事情が見えてきます。」
No.1~3のことばは午前9時~正午まで、No.4~7のことばは正午~午後3時までに語られた言葉です。

passion
 
No.十字架上のイエスの最後の御言葉 マタイマルコルカヨハネ
1父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、
自分でわからずにいるのです。
23:34
2まことにあなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます。 23:43
3女の方、そこにあなたの息子がいます。そこに、あなたの母がいます。 19:26,27
4わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 27:4515:34
5わたしは渇く。 19:28
6完了した。 19:30
7父よ。わが霊を御手にゆだねます。 23:46
 

イエス・キリストが尊く偉大なご生涯の後に、十字架に掛けられて死なれたことは、どなたでもご存じのことと思います。しかし、その十字架上で、キリストは「七つのことば」を発していますが、その一つ一つは実に驚くべき神の救いと愛のみわざを示していることをご存じでしょうか。ちなみに、聖書の中で「七」という数字は完全数を表しています。では、イエス・キリストが十字架上で語られたその七つのことばについて、ごいっしょに少しだけですが、考えてみませんか。

【1】御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)。

「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)。 

   イエス様が十字架上で語られた七つのことばは、「父よ。」で始まっていますが、十字架上の最後のことばも「父よ。」で終わっているのです。イエス・キリストは実に「神の御子」であられる御方であり、永遠の昔から御父と御子として少しの妨げもなく親しいお交わりの中にあられたのです。聖なる神に対して、「父よ。」と呼びかけることのできる御方はイエス・キリスト以外には一人も存在しないのです。この神の御子が私たち罪人(全人類)のために救い主として、人の姿を取っ御父のみもとからこの地上に来てくださったのです。そして、その神の御子イエス・キリストがそのご生涯の最後に、十字架に掛けられたのです。
イエスの御体を十字架につけたその釘が手首の肉に食い入り、骨を削り、木に突き刺さって血が流れました。そして、十字架のイエスは、裂ける手足の激痛に身もだえしつつ、血を吐くような苦しみの中で「父よ。彼らをお赦し下さい。・・・・・」と、とりなしの祈りをささげてくださいました。一体「彼ら」とは、だれなのでしょうか。イエスを釘づけにしたローマの兵士、イエスに死刑の判決を言い渡した総督ピラト、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、イエスを妬んでピラトに訴えたユダヤの律法学者たち、イエスを見捨てて散って行った弟子たちなど、みな含まれているでしょう。しかし、実はイエスが「彼ら」と言われたとき、今日生きているあなたや私を含めて全人類の罪の赦しのためにとりなしの祈りをなさったのです。

【2】イエスの約束のことば。

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23:43)。

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられました。当然、十字架は極悪人が磔(はりつけ)にされる極刑であります。両側には二人の強盗がつけられ、しかしその真中には全く罪の無かったイエス・キリストが十字架につけられていたのです。キリストの十字架は罪人(全人類)の身代わりのゆえです。しかし、二人の強盗は最初はどちらもイエスを罵倒し、嘲っていましたのですが、途中で強盗の一人に明らかな変化が起こりました。十字架上のイエスのあまりにも崇高なお姿を見て、彼はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。

【3】思いやりのことば。

「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(ヨハネの福音書19:26)。
「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネの福音書19:27)。

十字架刑は、世界で最も残酷な処刑の方法であると言われています。たった三つの傷口に体重をまかせ、しかもその傷口を絶えず広げることによって、血を絶え間なく、絞り取っていくのです。その苦痛がどれほどのものであったかは想像を絶するものがあります。このような苦しみの中では、通常は他人のことを考えたり、思いやるなどという余裕はないのが常であります。人間というのは、自分が辛いとき、苦しいときには、自分を悲劇の主人公のように思い、他人からの同情を自分の方に引こうとするのが普通ではないでしょうか。もちろん、苦しみに会えば会うほど、他人に同情できるような思いやりの心が生まれることも事実ですが‥‥。
しかし、イエスという御方は実に偉大であり、不思議な方です。その十字架の苦しみの足もとにイエスの母マリヤが立っていたのです。イエスは、そのマリヤに目を注いで、そしてついに声をかけられました。「女の方よ。」と。マリヤはイエスが幼少の時からずっと愛を持って育み、わが子として見守って来ました。しかし、イエスと母マリヤの関係は特別な関係であり、神の御子が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのであり、イエスの母であると同時にマリヤも含めて全人類の救い主として来られた御方です。ですから、この「女の方」という言い方には特別に深い意味が込められているのです。
それと同時に、マリヤはイエスの母であることに間違いありません。イエスはご自分が十字架で死んだあとの母の老後のことを気にかけてずっと十字架まで従って来た愛弟子ヨハネに、母親を託することばを優しく語られたのです。人間的には、イエスは親孝行をしたいお気持ちもあったはずです。でも、今イエス様はご自分がやがて息を引き取ろうとしている間際にも母のことを案じて、このような思いやりのある暖かいことばをかけられたのです。普通の人には、苦しみの絶頂の中にあってこのような細やかな心配りは決してできないことです。

【4】神に見捨てられたことば。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46)。

 まず、このことばは旧約聖書の詩篇22編1節と同じことばなのですが、そこには、やがて来られるメシヤの十字架の場面が預言されています。聖書によると、イエスの御口からこのことばが発せられたのは「午後三時ごろ」でした。そして、それは「大声で」叫ばれたのです。十字架に掛けられたのは、朝の九時頃ですから、その時から六時間も経過して、血は流れ続け、喉は渇き、死の一歩手前まで来ている時に、全力を振り絞って、「大声」で叫ばれたのです。昼の十二時には、全地は暗くなって三時まで続きました。
 暗くなってから三時間の沈黙があって最初のことばがこれです。それも大声で叫ばなければならないほど重要なことばでした。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:12)とありますように、罪無きイエスが私たちの代わりに神に捨てられたのです。この三時間の暗やみについて私は全部説明することはできません。しかし、イエスにとってそれがどんなに恐怖であったかは、想像するに難くないと思います。神に捨てられるということが、どれほど恐ろしいことかお考えになったことがあるでしょうか。それは、みな私たちの救いのためであったのです。

【5】死の苦しみのことば。

「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)。

 体から血が流れ出る時はとても喉が渇くということを聞きました。六時間の十字架の苦しみです。ずっと、傷口はえぐられ続けており、血は絶え間なく流れ出ていました。ですから、体液が極度に薄くなっていたことは確かであります。その渇きは限界に達したとき、イエスは「わたしは渇く。」と言われたのです。それを聖書の記者は、「聖書が成就するために」と注釈しています。「私が渇いたときには酢を飲ませました。」(詩篇69:21)の成就です。そして、そのとおりに、ローマの兵卒は「酸いぶどう酒」をイエスの口元に差出し、その渇きはさらに増したのではないでしょうか。

【6】救いの完成のことば。

「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。

 口語訳聖書では、このことばは「すべてが終わった。」でしたが、それを読むと「すべてが終わってしまった。もう駄目だ!」というような意味に誤解されやすいですが、「完了した。」の方が意味が明確に分かるように思います。イエスは死を迎えられる瞬間に「完了した。」と言われました。この箇所の意味は、旧約聖書にも預言されていた人類救済の贖いのみわざがすべて「完了した」ということです。キリストが受肉され、赤子として誕生されたのも、多くの迫害や試練を通られたのも、三年半の公生涯も、すべてはこのみわざを完成するためであったのです。十字架の六時間の苦しみ、特に後半の三時間の闇の中の沈黙の時間もすべてはこのときのためであったのです。イエスの生涯の目的は、すべて十字架の死にあったのです。そして、このキリストが成就された救いのみわざは、「完了した」のですから、人間がこれに加えるものは何もないのです。

【7】父なる神にゆだねることば。

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。

 イエスの六時間にわたった十字架の苦しみの最後のことばも最初と同じ、「父よ。」であったのです。「わが神」ではなく、「父よ。」であったのです。イエスはなすべきすべてが完了して、ご自分の肉体の死が間もなくやって来ることをご存じでした。そのわずかの間、イエスは目を天に向けて御父を見ました。多分、この時には暗闇が晴れていき、闇間から光が射していたかもしれません。この時のイエスの心は安らぎが満ち、幼児の父親に対する呼びかけにも似た純粋なものではなかっただろうかと推測します。その時の御父は、「わが神。」と叫んだ時のものではなく、昔と変わらなぬ慈愛に満ちた御父の御顔であったでしょう。イエスは一切のことを御父にゆだねて、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、間もなく息を引き取ったのです。あなたも、最後に息を引き取る瞬間に愛なる神にすべてをゆだねることが出来る人生を選択して下さい。

 

十架七言

路加福音23∶32-49)

保罗说∶“我曾定了主意,在你们中间不知道别的,只知道耶稣基督,并他钉十字架。”(哥林多前书2∶2)这十字架的道理,可以从主耶稣在十字架上所说的七句话得着明白。

一、“父啊!赦免他们;因为他们所做的,他们不晓得。”(路加福音23∶34)

主耶稣说∶“要爱你们的仇敌。为那逼迫你们的祷告。”(马太福音5∶44)主耶稣爱仇敌,为仇敌祷告,所以他也这样告诉我们,他被钉在十字架上,“从那里经过的人辱骂他,摇头说∶‘咳!你这拆毁圣殿,三日又建造起来的;可以救自己从十字架上下来吧!’祭司长和文士也是这样戏弄他,彼此说∶‘他救了别人,不能救自己。以色列的王基督!现在可以从十字架上下来,叫我们看见,就信了。’那和他同钉的人也是讥诮他。”(马可福音15∶29-32)下面还有钉他的兵丁,主耶稣看他们,不但不痛恨,反生怜悯替他们祷告。约翰福音中说∶“从来没有人看见上帝;只有在父怀里的独生子,将他表明出来。”(约翰福音1∶18)约一4∶8,16说∶“上帝就是爱。”所以主耶稣所表现的就是爱,有了上帝的爱才能爱仇敌、为仇敌祷告。十字架的道理是爱的道理、也是赦罪的道理。主耶稣被钉在十字架担当世人的罪,使凡信靠他的,罪过得到赦免。主耶稣不但为那些钉他的人和鞭打他、讥诮他的人求赦免,他也为犹大、彼拉多、该亚法,就是直接陷害他的人求赦免。我们要扪心自问,我们曾否像犹大出卖主;像彼拉多违背良心,定耶稣死罪;像该亚法妒忌而控告耶稣。我每天在自省中都觉得有错处使主忧伤,但他在父上帝面前替我们祷告。保罗说∶“并要以恩慈相待,存怜悯的心,彼此饶恕,正如上帝在基督里饶恕了你们一样。”(以弗所书4;32)主耶稣在太18∶23-35说那个欠主人一千万银子的人,蒙主宽恕,但他却不宽恕欠他十两银子的人。这叫我们得着提醒,我们是否像那个人?主耶稣说∶“你们各人若不从心里饶恕你的弟兄,我天父也要这样待你们了。”

主耶稣对反对他的犹太人说∶“但主耶稣代求的理由是因为“他们所作的,他们不晓得”。犹大与彼拉多是明知故犯者,但其他的人是因被仇恨蒙蔽。马可福音2∶5-7记载∶“耶稣见他们的信心,就对瘫子说∶‘小子!你的罪赦了。’有几个文士坐在那里,心里议论说∶‘这个人为什么这样说呢?他说僭妄的话了!除了上帝以外,谁能赦罪呢?’”马可福音14∶61-65记载“大祭司又问他说∶‘你是那当称颂者的儿子基督不是?’耶稣说∶‘我是,你们必看见人子,坐在那权能者的右边,驾着天上的云降临。’大祭司就撕开衣服,说∶‘我们何必再用见证人呢?你们已经听见他这僭妄的话了;你们的意见如何?他们都定他该死的罪。”有一次耶稣说∶“‘我与父原为一。’犹太人又拿起石头来要打他。┅┅我们┅┅是为你说僭妄的话;又为你是个人,反将自己当作上帝。”(约翰福音10∶30-33)他们看耶稣是人,不是上帝,所以反对他、攻击他,这是他们的无知。彼得应用主的话对犹太人说∶“弟兄们!我晓得你们作这事,是出于不知,你们的官长也是如此。”(使徒行传3∶17)保罗也同样认为,“他们若知道,就不把荣耀的主钉在十字架上了。”(哥林多前书2∶8)无知而犯的罪比明知而犯的罪较轻。保罗说∶“我从前是亵渎上帝的,逼迫人的,侮慢人的;然而我还蒙了怜悯,因我是不信不明白的时候而作的。”(提摩太前书1∶13)

二、“今日你要与我同在乐园里了”(路加福音23∶43)

这是主耶稣告诉同钉十字架悔改的强盗的话。“人子来,为要寻找拯救失丧的人。”(路加福音19∶10)他在十字架上最痛苦的时候仍是注意寻找,看在十字架旁边两个强盗、十字架下面钉他的兵丁和戏弄他的人中有没有悔改信他的人,有没有求告的声音。就听到这个强盗向那个讥诮他的强盗说∶“你既是一样受刑的,还不怕上帝吗?我们是应该的;因我们所受的,与我们所作的相称;但这个人没有作过一件不好的事。”这表明他已知罪悔改并信耶稣是上帝,没有做过一件不好的事,真是上帝纯全的羔羊、人类的救主、以色列人所盼望的弥赛亚。这些话主耶稣都听见了。他在注意看他有求告没有,就听到那强盗求告说∶“耶稣啊!你得国降临的时候,求你记念我。”耶稣对他说∶“我实在告诉你,今日你要同我在乐园里了。”圣经说∶“凡祈求的就得着。”(马太福音7∶8)“凡求告主名的,就必得救。”(使徒行传2∶21)这个强盗没有加入任何教会,也没有受过点水礼或浸礼,因他没有加入教会和受洗的机会,但他却是一个真正得了救的人。加拉太书6∶15说∶“受割礼不受割礼,都无关紧要,要紧的就是作新造的人。” “若有人在基督里,他就是新造的人。”(哥林多后书5∶17)

三、“母亲!看你的儿子!又对那门徒说∶“看你的母亲!”(约翰福音19∶25-27)

主耶稣在十字架上“见母亲和他所爱的那门徒站在旁边,就对他母亲说∶‘母亲!看你的儿子!’又对那门徒说∶‘看你的母亲!’从此那门徒就接她到自己家里去了。”主耶稣在作孩童和成人的时候都是孝敬父母,他最后的遗嘱就是把母亲托付门徒约翰奉养,因他的养父约瑟早故,他自己不能再奉养她,又没有遗产,所以他把母亲托付门徒约翰,这是孝之终也。保罗说∶“若寡妇有儿女,或有孙子孙女,便叫他们先在自己家中学着行孝,报答亲恩;因为这在上帝面前是可悦纳的。”(提摩太前书5∶4)

三十多年前,马利亚带着婴儿耶稣到圣殿去献祭的时候,遇见老祭司西缅。他把孩子接过去抱在手中说∶“‘ 主啊!如今可以照你的话,释放仆人安然去世;因为我的眼睛已经看见你的救恩,就是你在万民面前所预备的;’┅┅又对孩子的母亲马利亚说∶‘这孩子被立,是要叫以色列中许多人跌倒,许多人兴起;又要作毁谤的话柄;叫许多人心里的意念显露出来;你自己的心也要被刀刺透。’”(路加福音2∶25-35)当西缅预言这话的时候,马利亚似乎是隐晦难明,而且是近乎不可能的。现在她站在十字架下,眼看爱子耶稣受苦、受死的情况,她的心如刀刺透。

四、“我的上帝!我的上帝!为什么离弃我?”(马太福音27∶46)

主耶稣曾遭受人的离弃,他自己的兄弟不相信他;他的同乡拿撒勒人要杀害他。约翰福音1∶11说∶“他到自己的地方来,自己的人倒不接待他。”约翰福音6∶66说∶“从此他门徒中多有退去的,不再和他同行。”他遇难时,犹大出卖他;彼得不承认他;其余的门徒也大都离开逃走了。主耶稣说∶“看哪!时候将到,且是已经到了,你们要分散,各归自己的地方去,留下我独自一人;其实我不是独自一人,因为有父与我同在。”(约翰福音16∶32)现在父上帝离弃他,叫他非常的难过,呼叫说∶“我的上帝!我的上帝!为什么离弃我?”我主耶稣在世上三十三年半,父上帝一直与他同在,只有他被挂在十字架上的六小时,父上帝转脸离弃他,这时候普天下万代、万族的人的罪孽都归在他身上。以赛亚书53∶6说∶“我们都如羊走迷,各人偏行己路,耶和华使我们众人的罪孽都归在他身上。”因此父上帝离弃他、掩面不看他,因为上帝是圣洁的。

主耶稣被挂在十字架,从上午九时到下午三时,有六小时之久。头三小时,他的身体曝露于暴日之下;现在又经过三小时的黑暗。45-46说∶“从午正到申初,遍地都黑暗了。约在申初,耶稣大声喊着说∶‘我的上帝!我的上帝!为什么离弃我?’”这是引用诗22∶1的话。大卫说∶“我未曾见过义人被弃。”(诗37∶25)但唯一真正的义人,现在被弃了,因为他担当我们的罪。“就是义的,代替不义的。”(彼得前书3∶18)

五、“我渴了”(约翰福音19∶28)

前一句“我的上帝!我的上帝!为什么离弃我?”那呼喊是因为灵性痛苦,现在说∶“我渴了”,这呼喊是因为流血过多肉体的痛苦。人在经过手术开刀以后,因流血过多,当他醒过来时都是呼喊我渴了。主耶稣经过一连串非法的审判以后,又受了残忍的鞭打,这鞭是镶嵌着铁钉和骨块的。这种鞭打非常惨酷,有时犯人就因此致死。他受鞭打以后,就被钉在十字架,这其间就包含了无数的痛苦。例如手脚的被扎、荆刺的冠冕刺入他的头颅、骨头脱节、四只肿胀、在烈日之下三小时的曝晒、全身发烧,使他舌焦唇乾。约翰福音19∶28-30说∶“这事以后,耶稣知道各样的事已经成了,为要使经上的话应验,就说∶‘我渴了。’┅┅他们就拿海绒蘸满了醋,┅┅送到他口。耶稣尝了那醋,就说∶‘成了。’”这要应验诗69∶21“他们拿苦胆给我当食物;我渴了,他们拿醋给我喝。”

六、“成了”(约翰福音19∶30)

主耶稣在工作开始的时候,就说∶“我的食物,就是遵行差我来者的旨意,作成他的工。”(约翰福音4∶34)“因为公牛和山羊的血,断不能除罪。所以基督到世上来的时候,就说∶‘上帝啊!祭物和礼物是你不愿意的,你曾给我预备了身体;’┅┅那时我说∶‘上帝啊!我来了为要照你的旨意行。我的事在经卷上已经记载了。”(希伯来书10∶4-7)约翰福音17∶4耶稣祷告说∶“我在地上已经荣耀你,你所托付我的事,我已成全了。”

“成了”是主在十字架上所作的胜利宣告。以前是被弃之言,今则变成为欢呼之声。以前是被害者痛苦的哀声,今则为胜利者凯旋的欢呼。希伯来书10∶12说∶“但基督献了一次永远的赎罪祭,就在上帝的右边坐下了。”从此以后就不需要再为赎罪献祭,“因为他只一次将自己献上、就把这事成全了。”(希伯来书7∶27)“既成就了经上指着他所记的一切话。”(使徒行传13∶29)成就了救赎大功,成就了自己所说的话,要舍命做多人的赎价(马太福音20∶18-28,5∶38-48)。

七、“父啊!我将我的灵魂交在你手里。”(路加福音23∶46)

这是主耶稣在十字架上的最后一句话,他说完了这话,气就断了。(马太福音27∶50)这句最后的话是祷告,而又是引证诗篇31∶5,可见主耶稣是一位祷告的人,也是一位读经的人,他的两个特质是何等的自然地调和在他最后一句话内。主耶稣肉体被钉死,仍将灵魂交在天父手中,这是主耶稣给我们留下榜样。

使徒行传7∶59-60说∶“他们正用石头打的时候,司提反呼吁主说∶‘求主耶稣接收我的灵魂。’又跪下大声喊着说∶‘主啊!不要将这罪归于他们。’说了这话,就睡了。”他结束的话也像主耶稣一样,“求主耶稣接收我的灵魂”。他所关心的不是身体的受苦、受死,乃是灵魂的保守。据说许多古代圣使徒在殉道前,都使用主的这句话作为他们死前的祷告。

希伯来书2∶9说∶“唯独见那成为比天使小一点的耶稣,因为受死的苦,就得了尊贵荣耀为冠冕,叫他因着神的恩,为人人尝了死味。”世上有许多味,如酸、甜、苦、辣、咸等。甜,是人最喜爱的;苦,是没有人喜爱。还有一个滋味比苦更可怕的就是死的滋味。虽然我们这些人没有人尝过死的滋味,不知道死的滋味到底是苦,到底怎样的苦。但人心中最怕的就是死,死的滋味没有人愿意尝,所以在生病时,虽然吃苦药,还是愿意吃;虽然经过开刀的痛苦,还是愿意受,因为不愿意尝死的滋味。可知死的滋味最苦、最可怕。但是“按着定命,人人都有一死,死后且有审判。”(希伯来书9∶27)主耶稣是上帝,毫无罪恶、免受死的痛苦。他因爱我们为我们受死,尝了死味,并且受了最惨痛的死,就是死在十字架上。

 

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