今週の聖句2008.03.02

今の私をなす神の恵み

コリント人の手紙第一 15:1~11
1: 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
2: もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
3: わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
4: そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
5: ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
6: そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
7: そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、
8: そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
9: 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
10: しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
11: とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。

要約
使徒パウロコリントの教会に伝えた福音は、イエス・キリストの死と復活に関するものです。パウロは本来神の教会を迫害した者でしたが、神の恵みにより、復活されたイエスに出会った後、使徒となり、福音の証人となります。

復活の証人だち(コリント人の手紙第一 15:1~8)
復活の出来事は神話や架空の話ではありません。数多くの人々が共に見聞きし、議論し、伝えられてきた歴史的な真実です。そのような歴史的な事実の上に教会の信仰が立てられたのです。それに対する証人と証拠はあまりにも多く、明らかであり、だれも否定することはできません。いえすの復活はそのお方を慕っていた一人が二人の夢の中に一瞬現われた幻ではなく、何人かの想像の産物でもありません。復活のイエスが数言多く人々の前に現われることで、十分に証しされたのです。復活のイエスを直接見た証人たちは、使徒パウロがコリント人へ手紙を書いた当時も大部分生きており、それを確実に証人することができました。イエスの復活はだれも否定できない歴史的な真実です。

○真理は言葉を必要とせず、復活の力は言葉を超越します。主の臨在を味わうために日ごとひざまずいていますか。

ただ神の恵みのみ(コリント人の手紙第一 15:8~11)
使徒パウロは極めて謙遜にこの手紙を書きました。彼は復活されたイエスに出会った人々の名前の一番最後に自分の名も挙げ、復活の主が自分にも現れたと証ししました。これは全的に主が主体となられた事件です(使9章)パウロは使徒の中で自分が最も小さい者であり、使徒と呼ばれる資格すらない者が主の働き人となったのは、完全に主の恵みによるものであると告白しました。彼はどの使徒よりも多く労苦した人です。しかし、それさえも神が自分と共におられ、与えてくださったものの成すこともあります。しかし、すべての時間となされたことは、すべて神の恵みであることを忘れないでください。

○過去の主にあっての私の姿、未来の主にあっての私の姿における夢とビジョンを黙想してみてください。

黙想
パウロは使徒たちのなかで一番影響力のある使徒でしたが、徹底して謙遜でした。ただ神が自身に恵みを豊かに注いで下さったゆえに、今の自分があることをよく知っていたのです。本当の謙遜は自分を通して神が動かれることを認めることです。あなたの存在を神の視点から見てください。そしてあなたの才能を開発するための神の恵みを認めてください。

今日の祈り
パウロの告白のように、私の今の姿が主の恵みであることを告白します。いつも主の恵みによって生かされていることを忘れないように守ってください。

★証人となった者の生き方
イエスの復活は、歴史的に証明出来ない事として残っています。これは何を意味するのでしょうか。つまりイエスの復活とは「一般的な証明」で証明されるものではない真理だということです。イエスの復活を立証する間接的な証拠は、ほとんど意味がありません。空っぽの墓説、死体盗難説、気絶説、蘇生説など批判したところで、イエスの復活が証明されるわけではありません。それらはイエスの復活を立証することはもちろん、反証することにも不十分です。

イエスの復活は科学的に証明して一般の人々を説得させるものではないことをはっきりとみとめなければなりません。いえすの復活を証明するにはその方法が重要になりますが、それは証人の力量にかかっています。イエスの復活を信じることができるのです。イエスの復活をガリレオやケプラーのように証明することはできませんが、人生を通してイエスの復活を生きる人は、人々がそれを事実として信じることができるようにします。復活の証人ならば法廷の陳述のように証拠の力を持ち、信憑性のある言動と生き方を見せなければなりません。イエスの復活を信じる人は、その復活の価値を自らのものとし、肉の死の権威を圧倒する生き方をしていくのです。

今週の聖句2008.03.09

復活信仰を持っていますか

コリント人の手紙第一 15:12~28
12: さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
13: もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
14: もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15: すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
16: もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
17: もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
18: そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
19: もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
20: しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
21: それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
22: アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
23: ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
24: それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
25: なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
26: 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
27: 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
28: そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

要約
使徒パウロはキリスト教信仰における復活の重要性を強調します。もし、イエスの復活がないなら、私たちの信仰と証もむなしいものなります。すべての人は復活されたイエスの中でいのちを得、イエスは天地を支配されるのです。

復活は信仰の基礎(コリント人の手紙第一 15:12~19)
復活されたイエスは私の信仰の中心です。「もし」という単語が短い段落の中に4回も出てきます(13、16、17、19節)。使徒パウロは「もし」という仮定法を用いて、イエスの復活の出来事についての絶対性を強調します。もし、主の復活されなかったなら、私たちの信仰はむなしいものとなり、私たちはみな嘘つきになってしまいます。もし、主が復活されなかったなら、私たち相変わらず罪の中にとどまり、死んだものなのです。もし、目に見える地上の生活がすべてであるなら、この世で復活の信仰によって永遠のいのちの望みに従って生きた数多くのクリスチャンたちは、最もあわれな人々となってしまいます。このように、パウロは復活がなければ自分の存在はないのだと逆説します。

○復活を否定するなら、私たちの信仰、望み、ビジョンはどなりますか。あなたは復活信仰を堅く握っていますか。

主の復活、私の復活(コリント人の手紙第一 15:20~28)
復活はすべての信じる者の望みです。前で「もし」という単語よってあり得ないことを仮定した使徒パウロは、今「しかし」という単語でそのすべての仮定を完全に否定しました。イエス・キリストが死んだ者の初穂となられたという歴史的な出来事のために、そのすべての仮定は一気に力を失います。ひとりの人アダムを通して入ってきた死は、世のすべての人を死に追いやりました。ですから、ひとりのお方イエスを通して実を結んだ復活は、真のいのちの主がだれであるのかは確実であり、イエスは全世界を従わせ、完全な統治者となられます。その復活の力がきょう、私たちを生かすのです。

○あなたの中に復活を疑う狡猾な理論はありませんか。復活のイエスを主として完全に従って生きていますか。

黙想
復活の出来事とその神学的な意味は、「使徒の働き」での使徒たちの説教の主題をなし、今日までも力強い福音の中心的メッセージとして生き続けています。生きておられる主は、罪と死をすべて支配されました。私たちは、究極的な勝利がイエスのものであり、また私たちのものであるということを知っているからこそ、勝利できるのです。

今日の祈り
私を主の復活の子としてくださったことを感謝します。険しい旅路のようなこの世に心を奪われず、からだの復活と永遠のいのちを望みとして生きさせてください。

★未来につながれている人
使徒たちが復活の力を信じられないなら、それは過去に縛られて生きているのです。信じていると言いながらも、日々、落ち込み、後悔し、恐れ、弱さに溺rているのです。復活の力を体験できない人、過去に縛られている人は、落ち込んでいてイエスを見ることできません。新しい道も、新しい希望も見るこtができないのです。

私は、私たちの教会の高齢の女性たちを最も尊敬しています。年は70、80歳を越えていますが、話しを聞いてみると過去の話をする方はほとんどおられません。それどころか皆が未来の地へ向かうための夢を語ります。なぜでしょうか。それは復活の力を信じているからです。その人の中に復活の力があるかないかは、その人の話の内容を聞けば分かります。復活の主に出会った人々は、燃えるたましいを持っています。その中で神のみことばが爆裂し働くのです。

復活の主は今も御言葉によって私たちの内面を癒されます。落胆しているならば希望に、否定的な考えがあるならば肯定的な考えに変え、曖昧な過去の中に陥っている人たちをビジョンのある人々へ変えさせることは、復活の力によって人生が変わるならば、信徒は熱い夢を持つようになるのです。

今週の聖句2008.03.16

復活の信仰、聖なる情熱

マタイ福音書 28:1~20
1: さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
2: すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
3: その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
4: 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
5: この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
6: もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
7: そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
8: そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9: すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
10: そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
11: 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
12: 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
13: 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
14: 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
15: そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。
16: さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
17: そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
18: イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
19: それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
20: あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

要約
イエスは復活された後に12弟子をはじめ、多くの人々に何度が現れます。しかし、祭司長と長老たちはイエスの復活隠そうとします。イエスは昇天される前、弟子たちに世の終わりまで福音を伝えなさいという命令を残されました。

復活後の二つ反応(マタイ福音書 28:1~15)
イエスの復活は世の人々を二つの部類に分けました。イエスの復活を信じ、その方の弟子として生きる人々とイエスの復活を偽りとして反対して生きる者です。その中間はありません。イエスを愛したアリヤは偉大な復活の朝に主に出会い、感謝の礼拝をささげ、その知らせを伝えるために喜びに満たされて弟子たちのもとに走って行きました。しかし、マリヤの言葉を聞いた人々は、自分たちの名誉や権力を失うことを恐れ、嘘の話を作り出します。真理は世を二つに分裂させます。真理の前に従うことでいのちを得る人がいる反面、一時的な価値のために真理を拒否し、死を選ぶ人がいます。人生は選択が重要な理由は、やがてその結果を刈り取る時が来るからです。

○真理は言葉を必要とせず、復活の力は言葉を超越します。主の臨在を味わうために日ごとひざまずいていますか。

偉大な命令、確実な保証(マタイ福音書 28:16~20)
クリスチャンの人生は主の命令を守り行う”いのちのある人生”です。成し遂げなければならない”任務のある人生”です。クリスチャンの人生の領域は、家の囲いの中ではありません。神が美しく造られた全世界がその働きの場です。クリスチャンの使命は、自分の夢と野心をなすことではなく、神がゆだれられたみことばを世の中で完全になすことです。このような点から、クリスチャンはみな”使徒”なのです。使徒とは”特殊な任務を受けて遣わされた者”という意味です。イエスは無責任な司令官ではありません。私たちがその任務を遂行できるよう助けてくださいます。「私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(20節)。これよりも確実な保証はありません。

○過去の主にあっての私の姿、未来の主にあっての私の姿における夢とビジョンを黙想してみてください。

黙想
私は愛の道を歩むことを選ぶでしょうか。

今日の祈り
復活の主の力で私の中にきよい願いを与えてください。すべての民を弟子としなさと言われた主の命令に完全に従えるようにしてください。

★主を選ぶ
「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」   ルカ福音書24:5~6

イースターは色彩の楽しみと喜びです。新しい着物を着、帽子や明るいリボンを着けた子供たちを目にします。家族は共に祈り、子供たちは隠されたイースター・エッグを探し回ります。私たちは沢山のご馳走を食べ、愛する人を訪問します。

弟子たちにとってのイースターは違っていました。話を伝わり、噂が何を意味しているのかひそひそと話し合うために弟子たちが集まるのに、恐らく数時間はかかったでしょう。イエスは本当に死から甦られたのだろうか。弟子たちはラザロの甦りを見ていましたが、ラザロは十字架には架けられなったし、番兵のいる墓には葬られなかったのです。イエスの遺体は盗まれたのでしょうか?イエスの死と甦りによって、弟子たちとイエスの間にある絆の確かさと安心感はゆらぐのでしょうか?次に死ぬのは弟子たちなのでしょうか?

私たちにとって、イースターには疑問と答えの両方があります。答えは私たちの救いです。イエスは死に打ち勝ち、そのことによって、イエスを通して私たちの命が救われるのです。しかし、イースターが神の契約のしるしである一方で、私たちはその疑問――私たちは誰に伝えるのだろうか?という疑問――に答えなければならないことを忘れています。愛と犠牲と赦し、そしてイエス・キリストによって明らかにされた力を見て、神の愛の道を歩むか、自分自身の道を歩むか、私たち一人一人が選ぶよう命じられています。このイースターに私たちはどちらを選ぶでしょうか?

今週の聖句2008.03.23

イエスの香りが漂う信仰生活

テサロニケ人への手紙第一 1:1~10
1: パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
2: わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、
3: あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。
4: 神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。
5: なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
6: そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、
7: こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。
8: すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。
9: わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、
10: そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。

要約
パウロはテサロニケの教会の信仰の歴史、愛の労苦、望みの忍耐に感謝します。彼らは患難の中でも喜んでもことばを聞き、主にならって信じる人々の模範となりました。彼らは偶像を捨て、神に仕える、主の再臨を待ち望んでいました。。

福音の三つ要素(テサロニケ人への手紙第一 1:1~5)
イエスを信じることは大きな特権であり、最高な祝福です。この特権と祝福を受けた人々に現れる特徴があります。最初に、生活の中に祈りと感謝が止むことなく続くことであり、第二に、福音の力が具体的に現われることです。信仰には権威の御業がいつも伴います。例えば、信じる者たちの言葉と行動にはクリスチャンの実が現れます。主に対する愛が真実な言葉と行動として隣人に伝わります。祈りが応えられ、日々変えられていく姿は、周りの人々に良い影響を与えられます。また、まことの信仰を持つ人はどんな状況に出会っても揺らぎません。その理由はきリストの中に生きた望みがあるからです。すべての聖徒は選ばれた者であり、自分の生活に福音の証をもって生きて生きます。

○生活の中で祈りと感謝が続いていますか。周りの人々に福音証しが聖霊の力の確信として伝わっていますか。。

信じる者に現われる御業(テサロニケ人への手紙第一 1:6~10)
信仰はどれだけ難しい状況も乗り越え、喜びと感謝があふれる生活をもたらします。信じない人々は福音の力を経験して生きる聖徒たちを恐れながらも、同時にうらやみます。自分たちもそのように生きたいと願います。これがまさに初代教会のリバイバルの秘密です。今日私たちも同じ福音と神を信じています。福音は言葉で伝えられますが、その言葉が信じられるためには、聖徒の生活の中に福音の力が現れなければなりません。神の生きているみことばと福音の力は、苦労して宣伝しなくとも、キリストの香を四方に放ちます。しかし、そのような生き方を可能にする最も強い力はイエスの再臨です。主の再臨はすべての信じる者の望みであり、確信であり、力の源です。

○あなたの信仰生活は、周囲の人々にキリストの香りを放っていますか。主の再臨が人生の根拠であり、望みですか。

黙想
聖・フランチェスコは「福音を述べ伝えなさい。そして必要なときに言葉を使いなさい」という有名な言葉を残しました。彼の言葉にも一理ありますが、福音は人々が聞いて信じなければならないメッセージなもです。しかし、私たちが忘れてはいけないことは、私たちの変えられた人生を通して福音が伝えられるとき、そのメッセージがさらに大きな力と説得力を持つということです。

今日の祈り
主を伝えるとき、御霊の力に頼ることができますように。主のもことばと御霊の力が人々を変えることを信じ、大胆に伝えられるようにしてください。

★言行一致のキリスト教
私の霊的な旅路において最も大きな影響を与えた人たちは、おそらくリンダとジェリーでしょう。彼らは私にとって光と塩のような存在でした。リンダとジェリーは私たち家族の近所住んでいて、私の娘サラととても親しい友だちだったので、お互いよく知っている仲でした。リンダとジェリーは気付かなかったかも知れませんが、私たちは日ごろから彼らの生活リズムを細かく観察していました。彼らがはっきりクリスチャンだと話したため、私たちは彼らが本当にクリスチャンかどうかをしりたかったのです。

長い間彼らの生活を観察しながら、どのような面を発見したでしょうか。私たちは彼らが決して完璧な人ではないことが分りました。それだけでなく、彼らは決して完壁な振りもしないということも分りました。私たちが彼らから特に見つけたものは、私たちを受け入れてくれる温和な心、葛藤があればしっかり和解しようとする心、自分の性格の愚かな部分を、はっきりと認め整えようとする努力、クリスチャンとしていつも幸せな振りをしないこと、自分たちの時時信仰に対し葛藤を覚えることを認める態度でした。

しかし、何よりもこのような態度の基となっている精神、少しずつイエスに似ようとするの正直な望みでした、彼らは本当のクリスチャンでした。彼らは光と塩であり、妻と私は彼らの生き方を見て神の御国の民になりました。

今週の聖句2008.02.02

近くいるほど大切に

オパデヤ書1:10~16
他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなた(エドム)もまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。 あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。

要約
エドムに神のさばきが下った理由は、彼らがイスラエルと兄弟であったにもかかわらず、イスラエルの災難の日にただそれを眺め、むしろ他の国々と共に、あるいはそれ以上にイスラエルを迫害したからです。

同盟国も役に立たない(1:10~14)
エドムの徹底した滅亡の裏には、イスラエルに対してエドムが行った暴虐がありました。エドムはエサウの子孫であり、エサウはヤコブの兄です。両者は互いに憎みあう間ではありませんでした。神はイスラエルに、エドムは兄弟の国であるので、憎んではならないと言われました(申23:7)。しかし、エドムは違いました。ユダが滅び去る機会が来ると、だれよりもひどい暴虐を行い、バビロンがユダを捕囚としたとき、ためらうことなく賛同しました。”兄弟の国”ならば、ユダが艱難と苦難に遭ったとき、略奪に加わったり、眺めているべきではありませんでした。しかし、彼らは兄弟の国、イスラエルの財宝を強奪し、逃げる者の前に立ちはだかり、生き残った者を敵軍に引き渡すという暴虐を行います。

○私たちはむしろ近い人にいい加減な傾向があります。兄弟を愛さずに、隣人を愛すると言えますか。

万国をさばかれる日(1:15~16)
神様のさばきは万国に向かってなされ、人々は行いの通りにさばかれます。これに先たって、預言者は、エルサレムが艱難に遭う日、すなわち、エドムが喜び日に対して言及します。今、預言者はこの日を再び語り、その日は主が万国を”罰せられる日”になると言いました。この特別な日は、預言者ヨエルを始め、様々な預言者が語った”主の日”を指します。この日は神の救いの日であると同時に、さばきの日になるのです。「あなたがしたように、あなたにもされる。」神のさばきは決して任意に臨むものではありません。預言者は主の聖なる山で酒を飲み、歓楽に酔ったエドムのように、すべての国々が滅ぶと宣言しました。神は歴史の裏側に立ち尽くしている方ではなく、歴史の主人です。

○神は罪を見過ごされる方ではありません。このような神の前で罪に対して敏感になり、きよい生活をしていますか。

黙想
神の民は互いに憎み合ったり、圧追し合ってはいけません。互いに少しずつ異なる点があっても、キリストの血潮の福音を信じる限り、私たちは互いにひとつの兄弟です。兄弟の中で憎まれたり、圧追を受ける人は、むしろ神様の憐れみを受けますが、憎み、圧追する人は、エサウが受けたさばきを受けることになるのです。

今日の祈り
神様は他人の失敗を見て喜ぶ心を喜ばれません。クリスチャンであっても、心の中で罪を犯し、他の人を傷つけていないか悔い改める心を持てますように。

今週の聖句2008.01.26

共に成長していく共同体

ヨハネの手紙 1:9~15
9: すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10: 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11: 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12: しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13: それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14: そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15: ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。

要約
ヨハネは兄弟たちの妨げとなり、キリストを受けいれもぜず、むしろ受け入れようとする者たちを妨害するデオレベスを責め、彼の行為を見習わないよう注意します。クリスチャンは悪を見ならわず、善を見ならすべきです。

悪を見ならってはなりません(ヨハネ1:9~11)
教会にいつも毒麦がいるものです。敵は教会の内部にいることもあるのです。教会は福音を伝えることにも力を注ぐべきですが、聖徒の信仰を養育することにも力を注がなければなりません。私たちは利己心のために、或いは間違った考え方によって、神の教会に害を及ぼし得るものです。デオテレペスが行ったことは、本来の使命を忘れた教会が、どれほど神の栄光を遮ってしまうかをよく示しています。彼がこのような間違った行動をしたのは、かしらになりたいという高慢さのためです。彼は自らも善い行いをしないばかりか、自分が持っている権威を利用し、他の人も善いことをできないよう妨げたのです。私たちも同じ間違いをしないよう、歴史から教訓を得なければなりません。

○教会が目指す優先順位をまず考え、教会に仕えていますか。それとも認められたという高慢さが先に立っていますか。

すべての人に称賛される者になりましょう(ヨハネ1:12~15)
デオテレパスの間違った行いにも関われず、デメテリオは善い行いの手本を示しました。デメテリオはすべての人に認められ、神の真理のみことばに照らして誠実な人して認められました。指揮者になるためには、他の人から認められなけれななりません。また、神の教会は有名、無名の真実な人々によって立てられていきます。善と悪が共存しても、神の国は建てられていきます。状況が異なることもありますが、神の教会を愛し、真理のもみことばに従う心は、いつでも教会の成長に必須です。神の子どもはいつでも教会を建て上げることにおいて、ともに顔を合わす人々です。神は個々人の信者ではなく、各教会ではなく、共に働くことのできる聖徒と教会をくださいました。

○どうすればすべての人の称賛を受ける指導者になれますか。また、どのように神の御国を共に立てあげていきますか。

黙想
互いに挨拶することはとても意味のあることです。この地から天の都に行く旅で、愛の挨拶は兄弟姉妹に誠実さと優れたことを追求し続けていくようにという励ましです。「神の恵みを共に相続した仲間よ、耐え抜いていきましょう」と語るのです。賛美歌の歌詞のように、私たちはシオンに向かって進んでいます。その旅の途中で、私たちは仲間の旅行者を助けてあげなければなりません。愛の挨拶は共に旅を続けられるよう動機を与え、霊感を与えます。

今日の祈り
神様の教会を建てることの助けとなれますように。利己心と優越感を捨て、謙遜になることで、神様に仕え、聖徒に仕え、信仰の手本とならせてください。

今週の聖句2008.01.19

知恵あること、愚かなこと

ローマ人への手紙16:17~27
17: さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。
18: なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。
19: あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。
20: 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
21: わたしの同労者テモテおよび同族のルキオ、ヤソン、ソシパテロから、あなたがたによろしく。
22: (この手紙を筆記したわたしテルテオも、主にあってあなたがたにあいさつの言葉をおくる。)
23: わたしと全教会との家主ガイオから、あなたがたによろしく。市の会計係エラストと兄弟クワルトから、あなたがたによろしく。
24: 〔わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように、アァメン。〕
25:26:願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、
27: すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。

要約
ローマ教会にいる偽教師たちは、教会を分裂させ、自分たちの腹だけを満たしていました。ですから、パウロはローマ教会の聖徒たちに、彼らから離れることを進めます。パウロは最後に同労者たちの安否を伝え、神に栄光を帰します。

間違った教えに対する警告(16:17~20)
パウロはローマの聖徒たちに教会の中で間違った教えによって真理を混乱させ、聖徒たちを誘惑し、紛争を起す者たちを警戒し、彼らから遠ざかるよう強く警告します(17節)パウロはそのような人々を指してサタンだと断言します(20節)そして、善にはさとく、悪にはうとくあるよう勧めます(19節)。また、遠からず神が、まじりけのない真理と教会の一致を壊そうとするサタンの妨げを踏み砕かせてくださると断言し、彼らに惑わされないようにと励まします。自らの利己的な欲を満足させるため、教会の純潔を壊し、教会の中に紛争を起すことは、サタンのなすことです。神が彼らを必ず踏み砕かれるという確信と恐れが聖徒たちにはなければなりません。

○教会に分裂を引き起す不平と非難の言葉に同調していませんか。教会が真理の上に立てるようとりなしていますか。

祝福と賛美(16:21~27)
最後にパウロはコリントにいる同労者たちのあいさつを、ローマの聖徒たちに伝えます(21~23節)。全地に散らばっている聖徒たちが、キリストを同じ主として仕えているというただひとつの理由によって互いにあいさつをかわすことは、神が聖徒たちに福音を信じ、従うようにされ、福音によって聖徒たちにくださった美しい特権です。このような特権は、神が聖徒たちに福音を信じ、従うようにされ、福音によって聖徒たちを堅く立たせてくださった結果です。パウロはローマの聖徒たちに、彼が伝えた福音の主題と起源、目的と力が何であるかをもう一度まとめながら、神にささげる荘厳な賛美をもって書信を結びます。「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

○同じ主に仕えるいるという理由だけで、苦難にある国や地域にいる聖徒たちのためにとりなしていますか。

黙想
クリスチャンは悪に対しては愚鈍で、善いことに対しては知恵深くなければなりません。「善にはさとく、悪にはうとく」ということは、その善を知るだけでなく、それを行う方法を知ることです。しかし、善と距離を置いて生きてきた人々は、善を知らないだけでなく、行おうとしても、どこからはじめるべきかわかりません。善にさとく、悪にうとくあることが、クリスチャンの姿勢です。

今日の祈り
私の究極的な義務は、パウロのように最後まで”送られた者”になることであると悟らせてください。そして、すべての民が主を信じ、救われますように。

今週の聖句2008.01.12

みことば、いのち、そして、実

ローマ人への手紙15:1~6
1: わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
2: わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
3: キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。
4: これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
5: どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
6: こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

要約
聖徒はキリストの共同体の中で、一つの心を持たなければなりません。強い者は弱い者の欠点を受け入れなければなりません。イエスもそのようにされたからです。私たちがそうするべき理由は、神の栄光のためなのです。

信仰が弱い者に対して(1~3節)
信仰の共同体の中には信仰の成長をなす聖徒もいますが、まだ初歩段階にとどまっている聖徒もいます。問題は信仰が成熟した聖徒が自分の喜びと満足を追求しようと、自分の信仰を自慢の種とすることです。個人の信仰の強さが神様の賜物であることを忘れ、個人の業績や自慢とみなすとき、信仰共同体には葛藤と分裂が起こるものです。パウロはこれに対して明らかな指針を提示します。自らの喜びではなく、他の人が喜ぶように行動し、善をなし、徳を立てようとする姿勢で行動せよということです。すらわち、信仰が強い者が信仰が弱い者を助けなければならないということです。これは、信仰が強い者の霊的成長のために自分の立場を低くする謙遜な姿勢を言います。

○謙遜に、信仰が弱い聖徒を配慮していますか。挑戦的な言葉よりも、聖徒を立てる称賛の一言をかけてみましょう。

みことばを学び、適用する理由(4~6節)
私たち神のみことばを学び、適用する理由は、なぐさめの中で忍耐し、神の国に対する望みを持つためです。みことばを学び、適用するほど、その心の中には、神の国に対する望みが大きくなります。苦難の中でもその望みを放廃ぜず、忍耐となぐさめを豊かに味わうのです。みことばを学び、適用しながらも、こうした恵みを味わっていないなら、みことばを正しく学び、適用できずにいるということの反証です。神のみことばは単純な知識ではなく、聖徒に霊的な活力を供給する神のいのちそのものです。みことばを学び、適用することで、神のいのちが私たちの心の中に種として蒔かれ、育ち、やがて、忍耐と望みへと実を結び、この実によって父なる神に栄光をささげるのです。

○心が苦しいとき、みことばの中でなぎさめと励ましを得ていますか。それとも、他のものになぐさめを見出しますか。

黙想
私たちの周りの人々とのまことの交わりのために、どれだけ私たち自身の益を犠牲にし、譲って生きていますか。私たちは兄弟姉妹の弱点を受け入れるために、自らどれだけ犠牲を払っていますか。私たちは相手の益のために自分を犠牲にできる交わりをしなければなりません。これがまさにクリスチャンの交わりの態度です。私たちの中で、まことの交わりを願っておられますか。それなら、お互いを喜ばせるために力を注ぐ人になってください。

今日の祈り
神様を知る知識が深く、広くなるほど、この地に来られた主を覚えます。今日もイエス様が謙遜に仕えられた姿を、私の生活の中で表せますように。

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