神様の領域十字架の贖い 

あなたに For You

「無条件の愛!」

「あがない」とは、神が創造された被造物をご自分のもとに取り戻されることを意味します。わたしたちは本来神の所有物なのですが、正しく帰属されていません。罪によってサタンの支配化に落ちてしまったと聖書は述べております。そこから「のろい」つまり死や病や滅び持ちこまれました。
サタンから私たちをあがなうために、神は罪の赦しと清めという方法を取られました。 それが御子イエスさまの十字架であります。イエスさまは私たちの罪を取り除くために十字架にかかり、血を流されて私たちの罪を負われました

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イエスさまを信じて頼ってください。罪は取り除かれサタンから解放され、聖霊さまがあなたの霊の中に住まわれあなたは神に帰属し、神の子とされます。 さて神はあなたの霊だけでなく、心も体も聖霊さまで満たしたいと願っておりますから、意志の弱い方は意思を主の血潮によって洗っていただきましょう。 主を見上げて主の血潮に頼りつつ「私の意思をあがなってください」と祈りましょう。 聖霊さまが意思に臨まれて強い意思の人と変えれます。

感情や理性の面で問題を感じているときは、その面をあがなっていただき聖霊さまの思いと知恵で満たしてくださいと祈りましょう。 あなたは神と人に喜ばれるすばらしい人格と品性を与えられます。
体にいやしを必要とされる方は、血潮を仰いで健康を祈りもとめましょう。主は体をも創り、保っておられるお方です。 奇跡を期待して熱心に願ってください。聖霊さまが肉体に触れられ、再創造の奇跡をなさります。
生活の面、経済的な貧しさにあるとき、祝福を祈り求めましょう。又人間関係に悩んでおられる方、そこに主が介入してくださってよい関係が築かれるよう求めてください。 しばしば争いはサタンが介在している場合があるのです。ちょっとした誤解や言動を用いて人をお互いに疑惑の思いに誘ってきます。 思いを血潮によって洗ってもらいましょう。 そして聖霊さまの愛と喜びで満たしてもらいましょう。

あなたの将来もあがなわれています。私たちは栄光の神の都が用意され、やがて復活して神とイエスさまをこの目で見る日がやってきます。 神は私たちを愛するあまり、私たちにご自身と同じ家族の御子を与えて下さり、信仰とともに創造主なる聖霊さまを住まわせてくださいます。 神は永遠の神のファミリーの中から、その大切なお方を私たちのために惜しげもなくプレゼントしてくださいました。
まさしく神の「自己贈与」の愛です。
それによって私たちも神のファミリーに迎えられ、神に帰属する者とされました。 そして永遠の神の国を相続する者にされました。

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神様の領域十字架の贖い 

十字架の贖いとは、

このような疑問を持った方はいませんか?

「キリストは、約2000年も前に死んだのに、なぜ私たちの罪の犠牲になることができるのですか・・・?」これは、当たり前な疑問であり、聖書を考える上でとても重要なことです。
まず、“神の時間と人間の時間”を理解する必要があります。人は空間(地球)という制限の中で生きています。また、そこでは時間が支配しています。今こうしている時間もすぐに過去に追いやられて、後戻りはできません。もちろん先に進むこともできません。
一方、神はどうなのでしょうか。聖書には「この空間(宇宙)を創り、時間も創った」(創世記1章)とあります。神が創られたのですから、神は時間や空間に縛られることがなく、この制限の外におられます。

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言葉を換えて言えば、神の前では時間というものは、過去・現在・未来という時間の経過がないので、すべてが“一瞬の今”として捉えておられる、と考えられます。まず、このことを理解しておかなければなりません。
聖書は「私たち人間は、罪人だ。」と言います。正確には、「罪の性質を持っているので、誰でも罪を犯してしまう。だから、罪人だ。」なのです。罪の結果は、死と死後の裁き(身体は死にますが、霊はいつまでも生き続けます。)です。神は完全な方ですから、罪を赦すことはできません。(もし赦してしまえば、自分を不義に陥れることになる)
そこで、愛する人間のために驚く方法で罪から救おうと決めました。それが、「身代わり(十字架の贖い)」なのです。

イエスが生まれる前の旧約の時代

ヘブル人への手紙9・10章から説明していきます。旧約の時代は幕や(大型のテント)を造り、聖所と至聖所に分けて礼拝や罪の赦しのための生け贄を捧げていた。至聖所には大祭司だけが動物の血を携えて入って行き、犯した罪の赦しのために身代わりとなる動物の血を捧げていました。
「動物の血を捧げるなんて、残酷だ。」と考えるかもしれませんが、それは間違いであることが分かるでしょう。罪の結果は、死と永遠の裁きでした。それを“身代わり(十字架の贖い)”で赦してもらえるのです。それなら、対価として人間の考えられる最高の価値あるものを差し出すはずです。
それが、“動物の血”なのです。血はいのちです。地上では価値がある金や銀、宝石などは神にとって、何の意味もありません。いのち(血)だけが唯一、神の基準を満たすものなのです。
ところが、「動物の血では神の赦しは受けたが、罪を取り除くことができない」(9:9、10)(10:4、11)と書いてあります。それでは、旧約の人々は、罪が取り除かれていなかったのでしょうか。
また、何(誰)が罪を取り除くことができるのでしょうか・・・?
「救い主であるイエス・キリストだけが罪を取り除くことができる」(ヨハネ1:29)のです。
タイトルの「時空を超える、十字架の贖い」とは、神の目には動物の犠牲の生け贄でも、御子イエスの贖いとしてご覧になられる。つまり、時間の制限のない神には、イエスの十字架刑をいつでも今のできごととして受け取ってくださいます。
このことを聖書は遺言に例えて説明しています。遺言は書いた人が死んで初めて効力を発揮します。同様にイエスが十字架で死なれて初めて効力を発揮するのです。(9:16、17)
そして現在も、イエスの“罪の贖いと永遠のいのち”という遺産が相続人である私たちに与えられているのです。
こうして、旧約の時代の人々に“十字架の贖い”が成就(影が実態となる)しました。

イエスが死なれた後の、新約の時代(私たち)

旧約の時代は、イエスの代わりとして動物を犠牲にしました。そして、イエスは十字架にかかって死なれました。
「どうして、自分がまだ生まれていないのに、イエスが身代わりになることができるのか?」と質問された方がいました。もっともな疑問です。
犠牲であるならば、旧約の時代のように何度でもイエスは十字架にかかる必要があるのでしょうか。
「時空を超える」とした意味は前回説明しました。神にとっての時間は、過去も現在も未来もすべて、“今の時”として見ておられるのです。(人間の便宜上、時間を創ったのでは)
ヘブル人への手紙には「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」(7:24)とあり、「・・・・・ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」と説明しています。さらに「・・・・ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とハッキリと書かれています。
「ただ一度」「永遠の」とはなんということでしょう。もし、この地球と人類がこれから先100年、200年と存続していくとしたら、「イエスの贖い」の効力は続いていくことになります。
これから生まれる子どもや、まだ救われていない方々の罪の贖いのために、イエスに再び十字架にかかっていただく必要はありません。このイエスがなされた“贖いの功績”に与ればよいのです。
それには、ただこのことを“信じて受け取る”のです。
なぜなら「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これほどまでに、この世(人々)を愛しておられるからです。
旧約の時代は、神に選ばれた大祭司だけが血を携えて至聖所に入って行き、神と会いました。現在は主イエスの血をとおして、私たちイエスによって贖われた者は大胆に至聖所に入って行き、神の御前に近づくことができるのです。(ヘブル10:19.20)こういうわけで、私たちにはいつでも神に直接祈ることができるようになり、そして礼拝できるのです。なんという特権ではないでしょうか。
すべてが主イエス様の十字架の贖いのゆえです。ですから私たちは、「主イエス・キリストの十字架以外に誇とするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)

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神様の領域十字架の贖い 

イエス・キリストの贖罪

イエスの最も大切な使命! 最も重要なメッセージ!

世界史上最大の出来事である贖罪は、ゲッセマネの園と十字架上のイエスの苦しみを通して成就しました。限界ある人間の考えではとうてい完全に理解することはできなくとも、私達の罪のためにイエスがどれほど苦しまれたかについては、聖典を読めばゲッセマネの園でイエスが人類の罪の重荷のため、体のすべての毛穴から血の滴る苦痛を感じられたということを知ることができます。
その後、イエスは十字架上に掛けられ、人間が作り出した最も残酷な処刑方による苦痛の死を自ら進んで忍ばれました。
この苦悩に満ちた経験を味われた救い主ご自身が、「見よ、わたしは…すべての人に代わって…人々が…苦しみを受けることのないようにした。」と述べておられます。

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神の御子としてイエス・キリストは、私達の罪を贖うために無窮の犠牲を払うことができる唯一のお方でした。イエスは贖罪に於けるご自分の役目を果たされましたが、私達がイエスの贖いを完全に生活に用いるためには、 福音の第一原則に従わなければなりません。すなわち第一に、イエス・キリストを信じる信仰、第二に私達の罪を悔い改めること、第三に神から授けられた正当な神権の権能によってバプテスマを受けること、第四に(同じく正当な神権の権能を持つ神権者の)按手によって聖霊の賜物を受ける必要があります。そして最後に私達が死んでこの地上を去る日まで神の戒めに従う必要があるのです。

もし私達がこれらのことを行うなら、贖罪の益は、わたしたち個人の生活に及び、イエス・キリストと天父と永遠に住むためにその御許に帰ることができるのです。私達は恵みによって救われると教えていますが、それはつまり私達が神の戒めに従い、罪を悔い改め、愛ある者となり、「わたしたちが清められて御子と同じようになれるよう」私達の心を変えるためにイエスの愛ある影響を受けて、私達のできるすべての努力をした後にのみに救いを得られるのだとういことです。

 

ゲッセマネの園と十字架

イエス・キリストの贖いは、福音の教義の中心であり、世界史上最も重要かつ無私の行為です。
"Atonement"(贖い) という用語は、 at-one-ment、すなわち、引き離れていたものが和解或いは一致する行為を示しています。イエス・キリストの贖罪は、アダムとエバが善悪を知る禁断の木の実を食べ、この世に死をもたらすことになったアダムの背き或いは堕落のゆえに必要となり、肉体から霊が引き離れされる肉体の死だけでなく、またすべての人々は完全で神聖な神からも切り離される霊の死を招いたという教義を教えています。

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贖罪を通して、イエス・キリストはすべての人類の罪と苦痛のために、肉体的にも霊的にも苦しまれました。イエスは、生きとし生けるものが死んだ後、再びその肉体を受け、永遠に生きることを可能にしてくださったのです。従って贖罪は文字通り、すべての肉体が無条件に復活することを保証し、キリストに忠実な人が皆、永遠に神と再会できることを可能にします。
贖罪の霊的な贖いの力を個人の生活に取り入れるには、私達はイエス・キリストに対する信仰を育み、罪を悔い改め、バプテスマと聖霊の賜物をを受け、最後まで福音の原則に従うよう忍耐しなければなりません。私達が悔い改める時、主は私達の罪をお赦しになり、私達の心から罪悪感を取り除いてくださいます。イエス・キリストが私達の代わりに苦しんでくださった贖いの力によって、私達の罪は既に支払われたのです。残ることは私達が究極の贖いの犠牲を受け入れるか拒絶するかを自分で決めることです。もし贖いを受け入れることを拒むならば、私達は神の御前からいつまでたっても切り離された状態に留まります。ですから神は私達の罪を贖うことができません。しかし、もし私達が悔い改めて神に従順であるならば、私達の罪からの贖いが可能になり、神は贖いの効力を及ぼして下さるのです。
贖罪について語る時、キリストの堪えられた肉体的苦痛の面を強調しがちです。つまり、救い主の頭に置かれた茨の冠、ローマ兵の残酷な鞭打ち、そして手足に打ち込まれた釘の恐ろしい痛みに注意を払うのです。確かにこれらは言い表しがたい苦痛に満ちた経験でしたし、贖罪の重要な一面ではありますが、キリストの贖いの行為にはさらに霊的な面も含まれていることに注目しなければなりません。
イエス・キリストが十字架に掛けられる前夜、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の使徒の頭とゲッセマネの園へ行かれました。そもそもゲッセマネとは「油絞り」と言う意味です。その場所では何世代にも亘って、明かりと生命の源として重要な資源であった貴重な油を抽出するために、巨大な石の重量をオリーブの実にかけて圧搾されるオリーブ油の製造が行われていました。これは世の光と命としての救い主の贖いの苦しみが、世の罪の破壊的な重荷の下で、イエスの体のあらゆる毛穴から血を滴らせたことを指しているのです。
ゲッセマネの園でイエスが悲しみと重荷にさいなまれ、悩み始められた時、イエスは使徒達に向かって次のように言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」。そしてイエスは「少し進んで行き、地にひれ伏」されました。それから救い主は究極の祈りを声を上げて父なる神に捧げられ、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」と言われました。数時間に亘って主はすべて心の内を祈りに注がれ、その苦痛のために、血が地面に滴り落ちたのでした。この間のある時点で神から送られた天のみ使いが主を強めるために訪れ、救い主がその贖いの犠牲を完了することができるよう助けを与えました。この痛ましい時の流れの中で、イエスはすべての人類の虚弱さと欠点をご自分に引き受けられ、御父と誓約を交わされて、すべてイエスの下に来てあらゆる罪深い、或いは否定的な特性を克服するなら、キリストのような完全な資質に取り替えてくださることを約束なさいました。こうして、キリストを信じてこの誓約を結ぶ人は、少しずつ段階を踏んで、キリストの恵みと憐れみを通して、御父と御子と本当に一つになることができるのです。そして、これらの人々はキリストにあって新しく生まれ変わった聖なる者として一つになることことができるのです。
贖罪の偉大な象徴の一つは、私達一人一人のために流されたイエス・キリストの血です。それは単なる石鹸のような人が作った洗浄剤で汚れを落とすと言った経過とは全く異なるものです。つまりイエス・キリストの血によって清められるということは、聖霊による清めの効果を象徴しているのです。こうして私達がキリストの血によって洗い清められる時、言い換えれば、私達が主のみたまに完全に満たされると、私達にはもはや悪を行う望みなどなくなり、つづけて善を行う望みを持つようになるのです。
救い主は、私達すべての神の子供達の中で、私達の為に贖罪を行うことのできる唯一のお方でした。またイエス・キリストは、救い主としてこの世にお生まれになる前に選ばれたお方でした。さらに肉における文字通り神の独り子、即ち天父から死を克服する力を受け継ぎ、人間マリアを母として死ぬ能力を受け継がれたお方です。イエスは完全な生涯を送られ、かつて生を受けた自らの行動に責任を持つことのできる人間の中で、唯一の罪無きお方でした。そうでなければ、イエスが終局的に苦しまれた贖いの苦痛をその身に引き受けようと試みる人は、誰でも死を回避することはできなかったはずです。
贖罪がなければ、私達死すべき人間は、死や罪を克服する方法がないために、暗闇と悲惨の中でサタンの力の定めの下に置かれた存在として、神の御前から死後永遠に断ち切られ、体の無い状態に留まります。
私達がさらにキリストの贖罪について学び、祈る時に、主のゲッセマネと十字架上での苦しみをより深く感謝することができるようになります。贖いの苦しみを事前にご存知であったキリストでさえ、自ら「恐れおののかれ」、或いは畏敬の念に打たれました。
祈り終わって立ち上がられた後、主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの所へ戻られました。その直後、裏切りの使徒イスカリオテのユダが、偽りの告発でイエスを逮捕した分遣ローマ兵と共に到着しました。その夜とこれに続く朝、救い主はローマ兵とその他が加えた過酷な肉体的、精神的虐待を堪え忍ばれ、幾つもの違法で不正な裁判に引き出されました。最終的に総督ピラトの面前で、イエスは不当にも神の冒涜者として十字架刑に処せられました。その恐ろしい金曜日の朝のおよそ九時ごろから、その午後三時ごろまでの間、イエスは十字架上で激しい苦痛を受けられました。遂に自らの自由意志をもって死につかれ、イエスはその苦しみを全うされ、死者に福音を宣言するために霊として陰府にくだり。その後、イエスの弟子はイエスの体を十字架から下ろし、以前誰も葬られたことのない新しい墓にイエスを埋葬しました。イエスの遺体は(ユダヤ人の安息日が始まる)金曜日の日没から日曜日の朝まで安置されていました。やがてイエスの霊が陰府から戻り、栄光化され完全な不死不滅の体に再び結合しました。こうしてイエスは最初に死から復活した人となられ、復活によって死と罪から勝利を得られました。それ以来、キリストに従う者は、キリストが私達の死後再び神とキリストに忠実な神の子供達と永遠に住むことができるようにしてくださるとういう福音、または「良き音ずれ」を宣言しました。
復活されたお方として、キリストはゲッセマネに於いてのその苦痛について詳細を次のように明らかにされました。「見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」
ゲッセマネにおける「苦い杯」の経験は、救い主に深遠な感動を与えました。贖罪のこの一面です。心と霊と体の苦痛をゲッセマネの園とカルバリの丘の両方で忍ばれ、これらの苦しみが無窮の犠牲を成すと同時に、イエスがこの苦しみを通して私達の罪の代価を払われたことによって、もし私達が忠実にイエスの模範と教えに従うことによってこの犠牲を受け入れるならば、私達は罪に宣告されることから救い出していただけるのです。従ってイエス・キリストの贖罪は、復活において私達の霊が体に戻って再び結合すると同様に、私達が救い主の教えに忠実に従うことによってキリストの贖罪を受け入れるならば、私達の神の御前に再び戻って共に住むことを可能にするのです。

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