プロフィール
東京生まれ。66年ロックグループ「ザ・フローラル」を結成し日本コロムビアよりデビュー。その後、細野晴臣、松本隆らと「エイプリルフール」を結成。 70年代ポップスの基礎を築く。解散後、ロックミュージカル『HAIR』初演に出演。日本ロック界の草分け的シンガー&ソングライター。71年にはマッシュルームレーベルよりソロアルバム『ありがとう』をリリース。フォージョーハーフとの『もっともっと』、瀬尾一三との『はずかしそうに』をリリース後、 75年『HORO』をリリース。この作品は現在のR&B、Jソウルの元祖的な名盤であり、今尚多くのミュージシャンに影響を与えている。その後ティンパンアレイと全国ツアーを行い、CM音楽やNHK「おかあさんといっしょ」の作曲も手掛ける。
76年クリスチャンとなり、 78年日本初のゴスペルミュージックレーベル「ミクタムレコード」を設立。ゴスペル音楽活動を開始し、日本の教会音楽に新風を吹き込む。音楽セミナーやゴスペルミュージックイベントを主宰。 91年よりジェリコシャパン開催代表。同年、日本フォースクエア福音教団秋津福音教会の牧師に就任。93年150ヶ国が参加するグローバル・マーチ・フォー・ジーザスの日本代表等、世界規模の賛美歌運動を普及させている。現在までCD約50枚をリリース。Jゴスペルの生みの親的存在。またアメリカを始め、韓国、インドネシア、スウェーデン、フィンランド、イギリス他各国に招かれ、Singer&Pastorとして神の愛を歌いつづけている。
2000年、ティンパンとの活動を再開。2001年11月、25年ぶりに細野晴臣プロデュースによるアルバム『People』をリリースし、多方面より注目を集めた。2002年より2年間、日本初の音楽宣教神学校「ジャパン・ミッション・ミュージック・スクール」(JMMS)の初代学長として後輩の育成につとめた。2004年12月に、デビュー35年を記念した7年ぶりのゴスペルアルバム『き・み・は・す・ば・ら・し・い』をリリース。小坂忠の音楽の原点を聴くことができ、その美しいギターの音色は至福の音空間を作り上げている。2006年、ミュージシャンとして牧師としての歩みをエッセイに書き下ろし、河出書房新社から『まだ 夢の続き』のタイトルで出版した。まさに、日本のR&Bミュージック、そしてゴスペルミュージックの両
恵みの証し
1975年のある日、僕は家族と妻に実家にいて、夕食を楽しみにしていた。突然、家全体に子供の叫び声が響いた。声の方に行ってみると台所の床の上で娘が叫びながらもがいていた。熱いスープのお鍋をひっくり返して、娘が熱湯をかぶるという事故が起きたのだ。 病院で看護婦さんが彼女のTシャツを脱がせようとすると火傷でただれた皮膚が剥けてしまう。火傷はそれほどひどかった。医師たちは火傷に偽皮膚をはり、体中に包帯を巻いた。包帯がとれるまでの間、心が休まらない日々が続くことになったのである。
ある日、妻の祖母が訪ねて来てくれた、祖母は熱心なクリスチャンだった。娘のために教師に祈ってもらおうと僕は祖母に連れられて初めて教会に行くことになった。しかし、教会に入ることには抵抗があった。到底僕などは歓迎されるはずはない。何しろヒッピーのドラッグ野郎だ。ところが、祈り会が終ると不思議に僕の心は平安になっていた。
それから娘の包帯がとれる日は来た。何とそこには生まれた時のような新しい皮膚が再生していたのだ!わき上がって来る喜び。その時、不思議なことに僕は牧師の祈りを思い出したのだ。あの祈りに神が応えてくれたんだと自然に思えたのだ。
それ以来教会に礼拝に行くようになった。とある日曜日、牧師のメッセージは、イエス・キリストの十字架についてだった。その話を聞きながら、僕は娘の事故のことを思い出いていた。苦しんでいる娘の姿を見ているのが辛くて耐えられなかった。どんな代償がかかろうとも、その痛みを止めるためなら何でもしたことだろう。しかし、父である神はどうしてひとり子を助けなかったのだろう?考えているうちに、それがどんなに大きな愛であったかがようやくわかったのだ。
そのとたんに涙が溢れ出し、「僕もこの神の愛が必要だ。救いが必要だ。それを受けるのは今しかない」と思った。僕はイエス・キリストを受け入れるために祈った。そして、イエス様は僕の人生も、音楽も、僕のすべてを変えてくれた。