分かち合い

メルビン・ルーケンバンク

陰鬱な時

ローマ書6:4
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

レントは陰鬱で地味な期間です。心の涙するという独特の不安があたりに漂い、世界史上のこの恥ずべき事件をクリスチャンに思い出させます。

レントは、私たちの主の最後の日々を思い浮かべるために手を止めながら、深い改心、霊的な再生、畏れの心を持つ時です。灰の水曜日が過ぎました。聖金曜日の暗黒の日が間近に追っています。

イエスを知ろうと試み、レントの間は好きな食べ物や表だった行動を避けるクリスチャンもいます。祈りの時を増やし、深める人もいます。また、ホームレスを助けるために働く人もいます。変化の早い今日の狂気の世界では、レントの季節は慰めを歓迎するための手段となっているのかも知れません。

歳を取るにつれて、私はますます、レントの期間を質素に過ごすという習慣を重んじるようになっています。日々の仕事にとりかかりながらイエスの激しい苦痛のことを考えると心がかき乱される思いがします。時は容赦なく最後の行為へ移るにつれて、ますます激しく感じます。私はその結果を知っています。私はイエスの死という残酷な状況に心を向けます。しかし同時に、私は信じがたい結末に思いを馳せます。イースターという素晴らしい栄光の結末です。

黙想
キリストのために今日、私は何をしようとするでしょうか。

祈祷
赦しの神様、イエスのことを感謝します。イエスの教えと憐れみを永遠に忘れないようにさせてください。アーメン。

イースター特集

ジム・ノーランド

洗足木曜日

ルカ福音書 22:42
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

洗足の木曜日に私たちはキリストが裏切られた夜のことを思い出します。この夜、イエスは弟子たちと友に過越の祭りをお祝しました。イエスは弟子たちの中にイエスを裏切ることになる一人がいることをご存知のいうで祝ったのです。そして死と屈辱を味わうことを知りながら、なおも愛し続けられたのです。

イエスは過越の祭りを新しい契約の食卓に変えられました。聖餐式です。パンと葡萄酒はキリストの体と血を意味します。そして私たちにキリストの愛の犠牲を示してくれています。

私は試練を受け入れようとするキリストの御意志に心を動かされました。キリストは苦痛を望む嗜好はありません。しかし、苦しみを、どんなことをしてでも避けなければならない悪とは見ておられませんでした。死に望んでもなお、イエスが一番に考えることは神の御心を行うことでした。

困難な選択に立ち向かっている時、私はこの夜のこと、苦しみと死を通られたキリストの旅路を思い出します。私は十字架刑はどの苦しみに遭遇したことはありません。私の人生は驚くほど快適でした。それでも、時々、簡単な道を選ぶ際に誘惑に陥ります。私のそれは小さなことで、時には妥協しても問題ないと思えるほどです。しかし、小さい罪を犯す度に、大きな正しい行いはますます難しくなるのです。

黙想
どんな選択が今日、十字架へ私を導くでしょうか。

祈祷
神様、私たちが直面する選択すべての中で、”私の願いではなくあなたの御心がなされますように”アーメン。

イースター特集

リチャード・L・マブリー

墓石と礎石

聖書の時代、石は事件を銘記するための記念碑として用いられました。今日もその習慣は続いていますが、当時とはちょっと違った仕方になっています。岩を積みあげることもなくなり、その代わりに名前を記念として彫りつけます。たとえば”べテル”―神の家といったようにです。今日、誰かが死ぬと、墓石を使って墓場を示します。建物を建てたときはその事業を記念するため文字を刻んだ礎石を置きます。

墓石と礎石。両方とも大きな石で作り、通常は何十年、あるいは何百年のもつように花崗岩か大理石が用いられます。石には磨きが掛けられ、名前や日付が刻まれます。この二つには類似点があります。一方は人生の終わりを、もう一方は物事の始まりを示して、それが永続するよう刻み込んでいるのです。

イエスが十字架に架けられ、死が告けられ、墓に葬られたあと、多くの人々がイエスのために墓石を立て、そこに「成し遂げられた」と書く準備をしました。しかし、ペトロは嘆き悲しみながらも、初期のクリスチャンたちにこう断言したのです。私たちの信仰が拠って立つ「石」は生きた石であり、永遠に朽ちないものであると。十字架刑はイエスの墓石に終わりの日を彫りつけるものにはなりませんでした。それどころかイエスの復活はキリスト教信仰の礎石として置かれ、永遠に続く記念碑となっています。

黙想
今日を生きる私が、どのようにして明日も生きることを祝うでしょうか。

祈祷
神様、私たちが直面する選択すべての中で、”私の願いではなくあなたの御心がなされますように”アーメン。

イースター特集

キング・E・ウイリアムスJr.

いつも共にいる

イザヤ書40:8
草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。

冬の朝、キッチンの窓の外でスイセンが花が咲かせているのを見ると、春が近づいていることが分ります。スイセンは確かな春の前触れです。このスイセンの球根は、祖母のことを偲ばせてくれます。

スイセンはしおれても再び芽吹きます。イエスは死なれましたが生き返られました。イースターは、キリストが生きておられ、神の愛と力が私たちの永遠に続く避け所となる祝いの日です。詩篇の作者は、主にあって喜び、私たちが所有するすべてを神に捧げなさい、と呼びかけています。私たちが神の御心を信じ、従うならば、神はいつも私たちと共にそこにおられることを見出すのです。私たちは「(私たちの)心の願い」を神に求めることが出来ます。

スイセンが春が来る毎に花を咲かせるように、神は私たちと共におられ、決してしおれたりすることはありません。主は、私たちに永遠の愛の偉大な周期を私たちに知らせるために、花のような小さなものを用いておられるのです。何と素晴らしいことでしょう。

黙想
季節が巡るように確かに、神の愛は繰り返し私たちにもたらされます。

祈祷
愛する神様、あなたの御子を私たちに送って下さり感謝します。私たちが沈んでいるときも共におられることを知り、私たちがあなたの御心を行うことによって、イエス様ようなものなるように、お助け下さい。アーメン。

イースター特集

バーバラ・チャルファント

主を選ぶ

ルカ福音書24:5~6
「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

イースターは色彩の楽しみと喜びです。新しい着物を着、帽子や明るいリボンを着けた子供たちを目にします。家族は共に祈り、子供たちは隠されたイースター・エッグを探し回ります。私たちは沢山のご馳走を食べ、愛する人を訪問します。

弟子たちにとってのイースターは違っていました。話を伝わり、噂が何を意味しているのかひそひそと話し合うために弟子たちが集まるのに、恐らく数時間はかかったでしょう。イエスは本当に死から甦られたのだろうか。弟子たちはラザロの甦りを見ていましたが、ラザロは十字架には架けられなったし、番兵のいる墓には葬られなかったのです。イエスの遺体は盗まれたのでしょうか?イエスの死と甦りによって、弟子たちとイエスの間にある絆の確かさと安心感はゆらぐのでしょうか?次に死ぬのは弟子たちなのでしょうか?

私たちにとって、イースターには疑問と答えの両方があります。答えは私たちの救いです。イエスは死に打ち勝ち、そのことによって、イエスを通して私たちの命が救われるのです。しかし、イースターが神の契約のしるしである一方で、私たちはその疑問――私たちは誰に伝えるのだろうか?という疑問――に答えなければならないことを忘れています。愛と犠牲と赦し、そしてイエス・キリストによって明らかにされた力を見て、神の愛の道を歩むか、自分自身の道を歩むか、私たち一人一人が選ぶよう命じられています。このイースターに私たちはどちらを選ぶでしょうか?

黙想
私は愛の道を歩むことを選ぶでしょうか。

祈祷
甦りの主よ、あなたの驚くべき愛が私たちを溢れるほどに満たしています。私たちの生涯と奉仕があなたの私たちへの間の答えとなるようにさせてください。アーメン。

イースター特集

キム・フェグォン

証人となった者の生き方

イエスの復活は、歴史的に証明出来ない事として残っています。これは何を意味するのでしょうか。つまりイエスの復活とは「一般的な証明」で証明されるものではない真理だということです。イエスの復活を立証する間接的な証拠は、ほとんど意味がありません。空っぽの墓説、死体盗難説、気絶説、蘇生説など批判したところで、イエスの復活が証明されるわけではありません。それらはイエスの復活を立証することはもちろん、反証することにも不十分です。

イエスの復活は科学的に証明して一般の人々を説得させるものではないことをはっきりとみとめなければなりません。いえすの復活を証明するにはその方法が重要になりますが、それは証人の力量にかかっています。イエスの復活を信じることができるのです。イエスの復活をガリレオやケプラーのように証明することはできませんが、人生を通してイエスの復活を生きる人は、人々がそれを事実として信じることができるようにします。復活の証人ならば法廷の陳述のように証拠の力を持ち、信憑性のある言動と生き方を見せなければなりません。イエスの復活を信じる人は、その復活の価値を自らのものとし、肉の死の権威を圧倒する生き方をしていくのです。

祈祷
パウロの告白のように、私の今の姿が主の恵みであることを告白します。いつも主の恵みによって生かされていることを忘れないように守ってください。

イースター特集

チョン・ビョンウク

未来につながれている人

使徒たちが復活の力を信じられないなら、それは過去に縛られて生きているのです。信じていると言いながらも、日々、落ち込み、後悔し、恐れ、弱さに溺rているのです。復活の力を体験できない人、過去に縛られている人は、落ち込んでいてイエスを見ることできません。新しい道も、新しい希望も見るこtができないのです。

私は、私たちの教会の高齢の女性たちを最も尊敬しています。年は70、80歳を越えていますが、話しを聞いてみると過去の話をする方はほとんどおられません。それどころか皆が未来の地へ向かうための夢を語ります。なぜでしょうか。それは復活の力を信じているからです。その人の中に復活の力があるかないかは、その人の話の内容を聞けば分かります。復活の主に出会った人々は、燃えるたましいを持っています。その中で神のみことばが炸裂し働くのです。

復活の主は今も御言葉によって私たちの内面を癒されます。落胆しているならば希望に、否定的な考えがあるならば肯定的な考えに変え、曖昧な過去の中に陥っている人たちをビジョンのある人々へ変えさせることは、復活の力によって人生が変わるならば、信徒は熱い夢を持つようになるのです。

祈祷
私を主の復活の子としてくださったことを感謝します。険しい旅路のようなこの世に心を奪われず、からだの復活と永遠のいのちを望みとして生きさせてください。

イースター特集

リー・ストロベル

言行一致のキリスト教

私の霊的な旅路において最も大きな影響を与えた人たちは、おそらくリンダとジェリーでしょう。彼らは私にとって光と塩のような存在でした。リンダとジェリーは私たち家族の近所住んでいて、私の娘サラととても親しい友だちだったので、お互いよく知っている仲でした。リンダとジェリーは気付かなかったかも知れませんが、私たちは日ごろから彼らの生活リズムを細かく観察していました。彼らがはっきりクリスチャンだと話したため、私たちは彼らが本当にクリスチャンかどうかをしりたかったのです。

長い間彼らの生活を観察しながら、どのような面を発見したでしょうか。私たちは彼らが決して完璧な人ではないことが分りました。それだけでなく、彼らは決して完壁な振りもしないということも分りました。私たちが彼らから特に見つけたものは、私たちを受け入れてくれる温和な心、葛藤があればしっかり和解しようとする心、自分の性格の愚かな部分を、はっきりと認め整えようとする努力、クリスチャンとしていつも幸せな振りをしないこと、自分たちの時時信仰に対し葛藤を覚えることを認める態度でした。

しかし、何よりもこのような態度の基となっている精神、少しずつイエスに似ようとするの正直な望みでした、彼らは本当のクリスチャンでした。彼らは光と塩であり、妻と私は彼らの生き方を見て神の御国の民になりました。

祈祷
主を伝えるとき、御霊の力に頼ることができますように。主のもことばと御霊の力が人々を変えることを信じ、大胆に伝えられるようにしてください。

イースター特集

マリアン・クーンブル

王族

ペテロ第一の手紙2章9節
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

イギリス王室は大家族です。王女の子供たちは生まれながらに特権を持っていますが、同時に大きな責任も負っています。王族の人々は常にマスコミの目にさらされ、すべての行動に注目が集まります。どこに行ってもカメラマンが待ち構えています。悪いことをすればすぐにたたかれ、王室全体の不名誉となります。

神の家族に生まれた者である私は、どんな王国の王子や王女が王国に対して待つより、もっと大きな特権を与えられ、神をほめたたえて生きる大きな責任を負っています。私の人生は常に人々の目にさらされ、それが神への讃美となるか不名誉になるかは、私の行いにかかっているのです。

この世で、王室の一員として生きることは重荷でしょうか。イギリス王室の子供たちにとっては、そうかもしれません。王室の一員といってもただの人間であり、正直、私自身そのような立場になりたいとは思いません。しかし、すべてのクリスチャンには、キリストによって、神に栄光を帰するような人生を送る恵みと能力と与えられているので。

祈祷
聖なる神様、今日、光の子として歩み、出会うすべての人にあなたの光を分け与えることができるように、私たちにあなたの恵みを与えて下さい。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

イースター特集

分かち合い

復活はある

復活という木に一つの実が実っています。それはまさにイエスという実です。その実を見れば復活は確実です。すでに死に勝ち勝利された方がおられるので私たちも死に打ち勝つことできます。ところで、イエスが復活されたようにあなたも復活しようとすれば「信仰」を通じてその復活の木につながっていなければなりません(ヨハネ15:4)。死は難攻不落の城ではありません。イエスによってすでに死の力は打ち破られました。そして主が再臨される日、死の力は主の中で眠る者たちにまず先に打ち砕かれ、生きている者たちは決して死を味わうことなく復活します。復活は確実にあります。私たちはすでに復活の木に接ぎ木されています。私たちは神の子どもであり、死の力を打ち砕く復活の子どもです。

黙想
イエスが復活の初穂となられたので私たちの復活も確実です。

イースター特集

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