メッセージ集

メッセージ集2008.03.02

今の私をなす神の恵み

コリント人の手紙第一 15:1~11
1: 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
2: もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
3: わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
4: そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
5: ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
6: そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
7: そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、
8: そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
9: 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
10: しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
11: とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。

要約
使徒パウロコリントの教会に伝えた福音は、イエス・キリストの死と復活に関するものです。パウロは本来神の教会を迫害した者でしたが、神の恵みにより、復活されたイエスに出会った後、使徒となり、福音の証人となります。

復活の証人だち(コリント人の手紙第一 15:1~8)
復活の出来事は神話や架空の話ではありません。数多くの人々が共に見聞きし、議論し、伝えられてきた歴史的な真実です。そのような歴史的な事実の上に教会の信仰が立てられたのです。それに対する証人と証拠はあまりにも多く、明らかであり、だれも否定することはできません。いえすの復活はそのお方を慕っていた一人が二人の夢の中に一瞬現われた幻ではなく、何人かの想像の産物でもありません。復活のイエスが数言多く人々の前に現われることで、十分に証しされたのです。復活のイエスを直接見た証人たちは、使徒パウロがコリント人へ手紙を書いた当時も大部分生きており、それを確実に証人することができました。イエスの復活はだれも否定できない歴史的な真実です。

○真理は言葉を必要とせず、復活の力は言葉を超越します。主の臨在を味わうために日ごとひざまずいていますか。

ただ神の恵みのみ(コリント人の手紙第一 15:8~11)
使徒パウロは極めて謙遜にこの手紙を書きました。彼は復活されたイエスに出会った人々の名前の一番最後に自分の名も挙げ、復活の主が自分にも現れたと証ししました。これは全的に主が主体となられた事件です(使9章)パウロは使徒の中で自分が最も小さい者であり、使徒と呼ばれる資格すらない者が主の働き人となったのは、完全に主の恵みによるものであると告白しました。彼はどの使徒よりも多く労苦した人です。しかし、それさえも神が自分と共におられ、与えてくださったものの成すこともあります。しかし、すべての時間となされたことは、すべて神の恵みであることを忘れないでください。

○過去の主にあっての私の姿、未来の主にあっての私の姿における夢とビジョンを黙想してみてください。

黙想
パウロは使徒たちのなかで一番影響力のある使徒でしたが、徹底して謙遜でした。ただ神が自身に恵みを豊かに注いで下さったゆえに、今の自分があることをよく知っていたのです。本当の謙遜は自分を通して神が動かれることを認めることです。あなたの存在を神の視点から見てください。そしてあなたの才能を開発するための神の恵みを認めてください。

今日の祈り
パウロの告白のように、私の今の姿が主の恵みであることを告白します。いつも主の恵みによって生かされていることを忘れないように守ってください。

★証人となった者の生き方
イエスの復活は、歴史的に証明出来ない事として残っています。これは何を意味するのでしょうか。つまりイエスの復活とは「一般的な証明」で証明されるものではない真理だということです。イエスの復活を立証する間接的な証拠は、ほとんど意味がありません。空っぽの墓説、死体盗難説、気絶説、蘇生説など批判したところで、イエスの復活が証明されるわけではありません。それらはイエスの復活を立証することはもちろん、反証することにも不十分です。

イエスの復活は科学的に証明して一般の人々を説得させるものではないことをはっきりとみとめなければなりません。いえすの復活を証明するにはその方法が重要になりますが、それは証人の力量にかかっています。イエスの復活を信じることができるのです。イエスの復活をガリレオやケプラーのように証明することはできませんが、人生を通してイエスの復活を生きる人は、人々がそれを事実として信じることができるようにします。復活の証人ならば法廷の陳述のように証拠の力を持ち、信憑性のある言動と生き方を見せなければなりません。イエスの復活を信じる人は、その復活の価値を自らのものとし、肉の死の権威を圧倒する生き方をしていくのです。

イースター特集

メッセージ集2008.03.09

復活信仰を持っていますか

コリント人の手紙第一 15:12~28
12: さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
13: もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
14: もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15: すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
16: もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
17: もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
18: そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
19: もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
20: しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
21: それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
22: アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
23: ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
24: それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
25: なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
26: 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
27: 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
28: そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

要約
使徒パウロはキリスト教信仰における復活の重要性を強調します。もし、イエスの復活がないなら、私たちの信仰と証もむなしいものなります。すべての人は復活されたイエスの中でいのちを得、イエスは天地を支配されるのです。

復活は信仰の基礎(コリント人の手紙第一 15:12~19)
復活されたイエスは私の信仰の中心です。「もし」という単語が短い段落の中に4回も出てきます(13、16、17、19節)。使徒パウロは「もし」という仮定法を用いて、イエスの復活の出来事についての絶対性を強調します。もし、主の復活されなかったなら、私たちの信仰はむなしいものとなり、私たちはみな嘘つきになってしまいます。もし、主が復活されなかったなら、私たち相変わらず罪の中にとどまり、死んだものなのです。もし、目に見える地上の生活がすべてであるなら、この世で復活の信仰によって永遠のいのちの望みに従って生きた数多くのクリスチャンたちは、最もあわれな人々となってしまいます。このように、パウロは復活がなければ自分の存在はないのだと逆説します。

○復活を否定するなら、私たちの信仰、望み、ビジョンはどなりますか。あなたは復活信仰を堅く握っていますか。

主の復活、私の復活(コリント人の手紙第一 15:20~28)
復活はすべての信じる者の望みです。前で「もし」という単語よってあり得ないことを仮定した使徒パウロは、今「しかし」という単語でそのすべての仮定を完全に否定しました。イエス・キリストが死んだ者の初穂となられたという歴史的な出来事のために、そのすべての仮定は一気に力を失います。ひとりの人アダムを通して入ってきた死は、世のすべての人を死に追いやりました。ですから、ひとりのお方イエスを通して実を結んだ復活は、真のいのちの主がだれであるのかは確実であり、イエスは全世界を従わせ、完全な統治者となられます。その復活の力がきょう、私たちを生かすのです。

○あなたの中に復活を疑う狡猾な理論はありませんか。復活のイエスを主として完全に従って生きていますか。

黙想
復活の出来事とその神学的な意味は、「使徒の働き」での使徒たちの説教の主題をなし、今日までも力強い福音の中心的メッセージとして生き続けています。生きておられる主は、罪と死をすべて支配されました。私たちは、究極的な勝利がイエスのものであり、また私たちのものであるということを知っているからこそ、勝利できるのです。

今日の祈り
私を主の復活の子としてくださったことを感謝します。険しい旅路のようなこの世に心を奪われず、からだの復活と永遠のいのちを望みとして生きさせてください。

★未来につながれている人
使徒たちが復活の力を信じられないなら、それは過去に縛られて生きているのです。信じていると言いながらも、日々、落ち込み、後悔し、恐れ、弱さに溺rているのです。復活の力を体験できない人、過去に縛られている人は、落ち込んでいてイエスを見ることできません。新しい道も、新しい希望も見るこtができないのです。

私は、私たちの教会の高齢の女性たちを最も尊敬しています。年は70、80歳を越えていますが、話しを聞いてみると過去の話をする方はほとんどおられません。それどころか皆が未来の地へ向かうための夢を語ります。なぜでしょうか。それは復活の力を信じているからです。その人の中に復活の力があるかないかは、その人の話の内容を聞けば分かります。復活の主に出会った人々は、燃えるたましいを持っています。その中で神のみことばが爆裂し働くのです。

復活の主は今も御言葉によって私たちの内面を癒されます。落胆しているならば希望に、否定的な考えがあるならば肯定的な考えに変え、曖昧な過去の中に陥っている人たちをビジョンのある人々へ変えさせることは、復活の力によって人生が変わるならば、信徒は熱い夢を持つようになるのです。

イースター特集

メッセージ集2008.03.16

復活の信仰、聖なる情熱

マタイ福音書 28:1~20
1: さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
2: すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
3: その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
4: 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
5: この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
6: もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
7: そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
8: そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9: すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
10: そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
11: 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
12: 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
13: 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
14: 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
15: そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。
16: さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
17: そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
18: イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
19: それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
20: あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

要約
イエスは復活された後に12弟子をはじめ、多くの人々に何度が現れます。しかし、祭司長と長老たちはイエスの復活隠そうとします。イエスは昇天される前、弟子たちに世の終わりまで福音を伝えなさいという命令を残されました。

復活後の二つ反応(マタイ福音書 28:1~15)
イエスの復活は世の人々を二つの部類に分けました。イエスの復活を信じ、その方の弟子として生きる人々とイエスの復活を偽りとして反対して生きる者です。その中間はありません。イエスを愛したアリヤは偉大な復活の朝に主に出会い、感謝の礼拝をささげ、その知らせを伝えるために喜びに満たされて弟子たちのもとに走って行きました。しかし、マリヤの言葉を聞いた人々は、自分たちの名誉や権力を失うことを恐れ、嘘の話を作り出します。真理は世を二つに分裂させます。真理の前に従うことでいのちを得る人がいる反面、一時的な価値のために真理を拒否し、死を選ぶ人がいます。人生は選択が重要な理由は、やがてその結果を刈り取る時が来るからです。

○真理は言葉を必要とせず、復活の力は言葉を超越します。主の臨在を味わうために日ごとひざまずいていますか。

偉大な命令、確実な保証(マタイ福音書 28:16~20)
クリスチャンの人生は主の命令を守り行う”いのちのある人生”です。成し遂げなければならない”任務のある人生”です。クリスチャンの人生の領域は、家の囲いの中ではありません。神が美しく造られた全世界がその働きの場です。クリスチャンの使命は、自分の夢と野心をなすことではなく、神がゆだれられたみことばを世の中で完全になすことです。このような点から、クリスチャンはみな”使徒”なのです。使徒とは”特殊な任務を受けて遣わされた者”という意味です。イエスは無責任な司令官ではありません。私たちがその任務を遂行できるよう助けてくださいます。「私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(20節)。これよりも確実な保証はありません。

○過去の主にあっての私の姿、未来の主にあっての私の姿における夢とビジョンを黙想してみてください。

黙想
私は愛の道を歩むことを選ぶでしょうか。

今日の祈り
復活の主の力で私の中にきよい願いを与えてください。すべての民を弟子としなさと言われた主の命令に完全に従えるようにしてください。

★主を選ぶ
「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」   ルカ福音書24:5~6

イースターは色彩の楽しみと喜びです。新しい着物を着、帽子や明るいリボンを着けた子供たちを目にします。家族は共に祈り、子供たちは隠されたイースター・エッグを探し回ります。私たちは沢山のご馳走を食べ、愛する人を訪問します。

弟子たちにとってのイースターは違っていました。話を伝わり、噂が何を意味しているのかひそひそと話し合うために弟子たちが集まるのに、恐らく数時間はかかったでしょう。イエスは本当に死から甦られたのだろうか。弟子たちはラザロの甦りを見ていましたが、ラザロは十字架には架けられなったし、番兵のいる墓には葬られなかったのです。イエスの遺体は盗まれたのでしょうか?イエスの死と甦りによって、弟子たちとイエスの間にある絆の確かさと安心感はゆらぐのでしょうか?次に死ぬのは弟子たちなのでしょうか?

私たちにとって、イースターには疑問と答えの両方があります。答えは私たちの救いです。イエスは死に打ち勝ち、そのことによって、イエスを通して私たちの命が救われるのです。しかし、イースターが神の契約のしるしである一方で、私たちはその疑問――私たちは誰に伝えるのだろうか?という疑問――に答えなければならないことを忘れています。愛と犠牲と赦し、そしてイエス・キリストによって明らかにされた力を見て、神の愛の道を歩むか、自分自身の道を歩むか、私たち一人一人が選ぶよう命じられています。このイースターに私たちはどちらを選ぶでしょうか?

イースター特集

メッセージ集2008.03.23

イエスの香りが漂う信仰生活

テサロニケ人への手紙第一 1:1~10
1: パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
2: わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、
3: あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。
4: 神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。
5: なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
6: そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、
7: こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。
8: すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。
9: わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、
10: そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。

要約
パウロはテサロニケの教会の信仰の歴史、愛の労苦、望みの忍耐に感謝します。彼らは患難の中でも喜んでもことばを聞き、主にならって信じる人々の模範となりました。彼らは偶像を捨て、神に仕える、主の再臨を待ち望んでいました。。

福音の三つ要素(テサロニケ人への手紙第一 1:1~5)
イエスを信じることは大きな特権であり、最高な祝福です。この特権と祝福を受けた人々に現れる特徴があります。最初に、生活の中に祈りと感謝が止むことなく続くことであり、第二に、福音の力が具体的に現われることです。信仰には権威の御業がいつも伴います。例えば、信じる者たちの言葉と行動にはクリスチャンの実が現れます。主に対する愛が真実な言葉と行動として隣人に伝わります。祈りが応えられ、日々変えられていく姿は、周りの人々に良い影響を与えられます。また、まことの信仰を持つ人はどんな状況に出会っても揺らぎません。その理由はきリストの中に生きた望みがあるからです。すべての聖徒は選ばれた者であり、自分の生活に福音の証をもって生きて生きます。

○生活の中で祈りと感謝が続いていますか。周りの人々に福音証しが聖霊の力の確信として伝わっていますか。。

信じる者に現われる御業(テサロニケ人への手紙第一 1:6~10)
信仰はどれだけ難しい状況も乗り越え、喜びと感謝があふれる生活をもたらします。信じない人々は福音の力を経験して生きる聖徒たちを恐れながらも、同時にうらやみます。自分たちもそのように生きたいと願います。これがまさに初代教会のリバイバルの秘密です。今日私たちも同じ福音と神を信じています。福音は言葉で伝えられますが、その言葉が信じられるためには、聖徒の生活の中に福音の力が現れなければなりません。神の生きているみことばと福音の力は、苦労して宣伝しなくとも、キリストの香を四方に放ちます。しかし、そのような生き方を可能にする最も強い力はイエスの再臨です。主の再臨はすべての信じる者の望みであり、確信であり、力の源です。

○あなたの信仰生活は、周囲の人々にキリストの香りを放っていますか。主の再臨が人生の根拠であり、望みですか。

黙想
聖・フランチェスコは「福音を述べ伝えなさい。そして必要なときに言葉を使いなさい」という有名な言葉を残しました。彼の言葉にも一理ありますが、福音は人々が聞いて信じなければならないメッセージなもです。しかし、私たちが忘れてはいけないことは、私たちの変えられた人生を通して福音が伝えられるとき、そのメッセージがさらに大きな力と説得力を持つということです。

今日の祈り
主を伝えるとき、御霊の力に頼ることができますように。主のもことばと御霊の力が人々を変えることを信じ、大胆に伝えられるようにしてください。

★言行一致のキリスト教
私の霊的な旅路において最も大きな影響を与えた人たちは、おそらくリンダとジェリーでしょう。彼らは私にとって光と塩のような存在でした。リンダとジェリーは私たち家族の近所住んでいて、私の娘サラととても親しい友だちだったので、お互いよく知っている仲でした。リンダとジェリーは気付かなかったかも知れませんが、私たちは日ごろから彼らの生活リズムを細かく観察していました。彼らがはっきりクリスチャンだと話したため、私たちは彼らが本当にクリスチャンかどうかをしりたかったのです。

長い間彼らの生活を観察しながら、どのような面を発見したでしょうか。私たちは彼らが決して完璧な人ではないことが分りました。それだけでなく、彼らは決して完壁な振りもしないということも分りました。私たちが彼らから特に見つけたものは、私たちを受け入れてくれる温和な心、葛藤があればしっかり和解しようとする心、自分の性格の愚かな部分を、はっきりと認め整えようとする努力、クリスチャンとしていつも幸せな振りをしないこと、自分たちの時時信仰に対し葛藤を覚えることを認める態度でした。

しかし、何よりもこのような態度の基となっている精神、少しずつイエスに似ようとするの正直な望みでした、彼らは本当のクリスチャンでした。彼らは光と塩であり、妻と私は彼らの生き方を見て神の御国の民になりました。

イースター特集

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