神の大いなる計画
マタイ2章13節~23節
一年の回顧をする月となった。この一年を振り返った時、明るいニュースがどれだけ
あっただろうか。一般的な社会のニュースはあまりいいニュースはあまりなかったかのように思える。
世界の動きをみても、イラク問題の泥沼化、テロの攻撃の激化、各地に戦争があり、
日本にいたっては洪水あり、地震あり、親からの虐待あり・・・。このように事件の数
々を思い起こすと、こんな時にクリスマスをお祝いしようという気持ちには、なれない
ものなのかもしれない。
しかし、クリスマスは享楽的で、ただ楽しい出来事といったものではない。神がどの
ようなことを私たちに知らせようとしてくださっているかを知っておかねばならない。
この聖書の箇所の背景は『夜』である。この夜の『闇』はただ単に夜の暗さを表すの
ではなく、この世の『闇』、また『心の闇』を象徴しているようだ。そこへ神の御手が
伸べられ一筋の小さな希望の光を投じてくださっていることを聖書は語っているのであ
る。
2章以降、占星術の学者たちがヘロデに『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は
どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』
との問いかけにより猜疑心の強いヘロデの不安が一挙に噴出し、世の権力者にありがち
な独裁的な考えから、将来自分の地位を脅かしかねない『ユダヤの王』を抹殺すべく、
ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させるといった猟奇的な行動に出る
ことになる。大変な悲劇がこの地方に起こったのである。ここでヘロデについて少し触
れておくが、ヘロデはユダヤ人の人気とりで、巨額を投じて立派な神殿を再建したとい
う一面を持つが、相当猜疑心の強い人で、自分の地位が脅かされると思われる人物につ
いては妻であろうと、息子であろうと舅であろうと叔父であろうとすぐに抹殺した史実
があることから、この聖書の箇所にかかれているベツレヘムの田舎の幼子を皆殺しにす
ることなど、ヘロデにとっていともたやすいことであったであろう。
ここで私たちは一つの問いを持つ。神はどうしてこのような悲劇を放っておかれるの
だろうか、と。
前述のとおり、今日の世界を見ても、テロ撲滅の名の下に小さな子供が死んでいく事
実を私たちは現実のこととして知っているのである。また、地雷によって多くの人が負
傷し命を落としている現実も然りである。
私たちの住むこの国も世界と無関係に生きているのではなく、表向きには経済的に満
たされてはいるが、親が実の子供を虐待したり、大人たちが子供を愛せなくなっている
といる悲しい現実があることも、また否みがたい事実なのだ。またうめきの声をあげる
術もなくその幼い命をおとしていった子供は何人いることであろうか。
聖書を開くとき、何千年にもわたって、変わることのない人間の愚かさ、無力さ、弱
さを痛感する。しかし、聖書は、このような『闇』の部分から離れたところから御子の
誕生を語っているのではない。
神の御子はこのような暗く危なっかしいところへ、危なっかしい仕方で生まれてきたこ
とを聖書は告げている。
まだ結婚していなかった処女マリアへの受胎告知に始まり、自分の理解を超えた事柄
を受け入れ、『この身になりますように』と受け入れていくマリアとともにヨセフがそ
の身重の妻マリアを連れての命がけのエジプトへ逃れていく様子は、神の御子は生まれ
ながらにして王道を備えられたものではないことを物語っている。
無名の人々の助けを得て、かろうじて命からがらエジプトへと逃れていくのである。
私たちの人生は平坦で順調な道を歩むばかりではない。いやむしろ時に逃げるように
生きているのだ。神は私たちに薔薇色の人生を生きるような仕方ではなく、祈りをもっ
て生きるとき、主イエスにつながって生きるとき、神は一筋の光に沿った生き方をさせ
てくださるのだ。
13節~14節にかけてエジプトへ逃れるように主の天使からヨセフにお告げがあった
ことが書かれてあり、15節に『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と
あるが、(これはホセア書11章1節の引用。)このようにエジプトに関する記述は私
たちにモーセの率いる出エジプトの出来事を思い起こさせてくれる。イスラエルにとっ
て忘れることのできない救いの出来事であり、自分たちの出発の出来事である『出エジ
プト』・・。
この出来事は、かつてのイスラエルの民が歩んだように、出エジプトという苦難の歩
みをイエスご自身が歩みなおしてくださったことを告げている。
私たちの人生を『旅』にたとえるとき、旅の一番の困難とは何であろうか。それは重
い荷物(=過去の出来事)ではないだろうか。誰もが生きた分だけ過去をひきづって、
誰もが『あの時、○○していれば・・・』という思いがあるに違いない。これまでの挫
折、失敗、悔いなどが今日の私たちを形づくっているわけだが、それを全て受け入れて
受け止めていくことができれば幸いであるが、そうはなかなかいかないものではないだ
ろうか。それが人間の現実ではないだろうか。過去の様々な重荷から精神的な病いと結
びつくこともあるかもしれない。心理学による成長過程の分析や教訓から学ぶことも大
切なことであるが、過ぎてしまった時間を取り戻すことはできない。今ある状態から私
たちはまた新しく始めなければならない。私たちがこれからなすべきことは過去の分析
をすることだけではない。救われるために、本当に新しく生きるために過去もろとも救
いあげられなければならないのだ。
全てを知っていてくださり、受け止めてくださり、償いようのない罪を赦してくださ
る方がここにいる、ということを知ることが大切なことである。主イエスは出エジプト
のイスラエルの歩みを歩みなおすところから始められた方である。
過去を振り返り、反省するだけでは新しくされない。あなたの罪は赦された、恐れずに
いきなさい、という主の言葉がどうしても大切なのだ。苦しみの多い私たちの人生を主が
共に生きてくださるのだ。今年もクリスマスの季節を前に、クリスマスの電飾で彩られた
美しい界隈を見るわけだが、聖書が語る光は、人工の光ではない。『あなたがたは世の光
である』と言ってくださる主のみ言葉がある。私たちが光り輝くのではなく、神ご自身の
言葉を心に蓄え、その言葉にしたがって生きていくとき、光が灯るのである。それぞれの
場所で、み言葉を聞いてその光を反射するとき、神の目にはどの光よりも美しく小さな灯
火として映るであろう。そのような光とならせていただきたいと願うものである。私たち
に語られた神のみ言葉を受けて生きていこう。主イエスが私に命を与え、罪を赦し、永遠
の命の約束をしてくださり、励ましてくださることを信じて生きていきたいと願う。