「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、」(1コリント15:4-7)
このように、復活のキリストは、生前にイエスを慕い、心を寄せ、愛してやまなかった人々だけに現れたのです。祭司長、律法学者、役人、サドカイ人、パリサイ人、ヘロデ党、ローマ総督、兵卒、エルサレムの住民、諸外国から集まっていた人々は、日曜日の早朝に、何が起きたか知る由もありませんでした。事実、世界はイエスの復活に気づいていなかったのです。そして、今でも、人々は気づいていないのです。
人間の歴史の中で、これほど重要であるにもかかわらず、人目につかない出来事が他にあったでしょうか。どうして神は、イエスの復活をもっと目立つようにしなかったのか、なぜもっと効果的に演出しなかったのか、何故もっと力強く人々を説得しなかったのか、と問いたい気持ちです。殊に、イエスをあのように苦しめ、辱め、残酷な殺し方をした人々に、復活のイエスが現れたなら、どんなに気がすっきりすることでしょう。
しかし、主イエスは、彼を十字架につけた人々が間違っていたことを証明したり、敵対者をろうばいさせたり、アッと言わせたり、恐れさせたりするために甦ったのではありません。そうではなく、イエスが復活したのは、父なる神の愛を確証するためでした。復活は死でさえも、神の愛からわたしたちを切り離すことは出来ない、という神の再創造の業なのです。
ですから、イエスに無関心な人々、求道もしない人々、ましておや、イエスを心よしとしない人々に、復活のキリストは現れることはありません、いや、現れることが出来ないのです。とは言え、イエスとその人々を抹殺しようとした自分に、復活のキリストが自分にも現れた、とパウロが証言しているのは、何故でしょうか。
「そして、最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」 (1コリント15:8)
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