2012年度イースター特集神様の領域ルカ24:13-27

美しい道--エオマ

ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエオマという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがしらなかったのですか。」

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イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。

神様の領域ルカ24:28-32

彼らとともに食卓に着かれる

彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

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神様の領域1コリント 15:1-11

復活の主が現れた人々

一週の初めのイースター主日、復活された主イエスは、どのような人々に現れたのでしょうか。最初に復活のイエスが現れて下さったのは、マグダラのマリヤでした。彼女は金曜日に十字架につけられた主を見つめ、埋葬された墓を見とどけ、一週の初めの日、まだ暗いうちに主の身体に香料を塗るために墓に向かうほど、主を慕い愛してやまなかったのです。福音書は、その後もどのような人々に、復活の主が現れたか書き記しています。イエスの直弟子たちをはじめとする、イエスに心を寄せていた一群です。使徒パウロは、福音書が言っていない人々も含めて、次のように言及しています。

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「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、」(1コリント15:4-7)

このように、復活のキリストは、生前にイエスを慕い、心を寄せ、愛してやまなかった人々だけに現れたのです。祭司長、律法学者、役人、サドカイ人、パリサイ人、ヘロデ党、ローマ総督、兵卒、エルサレムの住民、諸外国から集まっていた人々は、日曜日の早朝に、何が起きたか知る由もありませんでした。事実、世界はイエスの復活に気づいていなかったのです。そして、今でも、人々は気づいていないのです。

人間の歴史の中で、これほど重要であるにもかかわらず、人目につかない出来事が他にあったでしょうか。どうして神は、イエスの復活をもっと目立つようにしなかったのか、なぜもっと効果的に演出しなかったのか、何故もっと力強く人々を説得しなかったのか、と問いたい気持ちです。殊に、イエスをあのように苦しめ、辱め、残酷な殺し方をした人々に、復活のイエスが現れたなら、どんなに気がすっきりすることでしょう。

しかし、主イエスは、彼を十字架につけた人々が間違っていたことを証明したり、敵対者をろうばいさせたり、アッと言わせたり、恐れさせたりするために甦ったのではありません。そうではなく、イエスが復活したのは、父なる神の愛を確証するためでした。復活は死でさえも、神の愛からわたしたちを切り離すことは出来ない、という神の再創造の業なのです。

ですから、イエスに無関心な人々、求道もしない人々、ましておや、イエスを心よしとしない人々に、復活のキリストは現れることはありません、いや、現れることが出来ないのです。とは言え、イエスとその人々を抹殺しようとした自分に、復活のキリストが自分にも現れた、とパウロが証言しているのは、何故でしょうか。

「そして、最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」 (1コリント15:8)

 

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