1.肉体を取られる神
預言者イザヤは、正義と平和をもって世界を治め、このような国々の争いをやめさせる王がダビデの王座から現れると預言したのです。
「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与える。見よ。 処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(7:14)」
インマ ヌエルとは、神が共におられるという意味です。その子は神ご自身による子であり、神ご自身であられます。
そしてイザヤは改めて、この偉大な約束を告げます。イザヤ9:6 節 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与
えられる。」ひとりの嬰児、小さな赤ちゃんです。けれども、この方は神の御子として与えられます。天地を創造された神で ある方が、その独り子を人の赤ん坊として私たちに与えられた、という意味なのです。
この方の称号が四つの名前で記されていますが、それぞれ二つの名詞が組み合わさっています。これらすべてはメシアの神性を示しています。
2.不思議な助言者 (「ペレ・ヨーエーツ」פֶּלֶא יוֹעֵץ) Wonderful Counselor
●並はずれた、驚くべき、人間の考えをはるかに越えたみわざをなす助言者(あるいは政治的な議官、顧問)を意味します。「不思議」と訳された「ペレ」は「ヨーエーツ」(「ヤーアツ」יָעַץの分詞)にかかる連語形であることから、正規には「助言者の不思議」「助言者の驚異」と訳されるべき。
不思議:ヘブル語「ペレ」は、「奇しいこと、驚くべきこと」という意味です。人の考えに及ばないこと、ということです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みな そうである。(1コリント 2:9)」
不思議という言葉が聖書で使われる時は、人ではなく、神 にのみ使われます。
イエス・キリストは驚くべき御業をもって私たちに助言されるのです。英語では、”Wonderful Counselor”となっています。「すばらしいカウンセラー」です。確かに、主はすばらしいカウンセリングをしてくださいます。
けれども、多くの人は、自分に最善をもたらすこの助言に耳を傾けず、自分に災いをもたらしています。
3.力ある神 (「エール・ギボール」אֵל גִּבּוֹר)。The Mighty God
●「エール」(אֵל)は人間とは明確に区別される神であり神性を表します。しかも「ギボール」とは「勇士」とも訳され、働きの実行力が暗示されています。
この方は「力ある神、全能の神」です。指導者を立てて、引きずり降ろすことのできる力をもった神です。この天地万物を創造した神です。この方が、マリヤの胸に抱かれている嬰児のです。
4.「永遠の父」 (「アヴィーアド」אַבִיעַד) The Everlasting Father
●「みどりご」は永遠に御父を啓示する方、証言する方という意味で「永遠の父」と呼ばれます。
イエス様は、何度もご自身と父なる神を 同等の方とされました。「わたしと父とは一つです。(ヨハネ 10:30)」
「...わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父 を見せてください。』と言うのですか。(ヨハネ 14:8,9)」イエス様を見たら、父なる神を見たのです。
「わたしはアルファでありオメガである。今おり、昔おり、やがて来られようとしておられる者、全能者である。」(黙示録1:8)
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録 22:13)
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者 3:11)」
人間の中に過去、現在、未来についてはっきり明確に答えを得ているとしたら、全き平安を得ます。自分が求めている満足、平安、充足、理解、これらのものがすべて与えられます。
5.平和の君 (「サル・シャーローム」שַׂר־שָׁלוֹם) The Prince of Peace
●7節に「その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える」とあるように、これは地上におけるメシア王国(千年王国)を治める王として、そこで実現する限りない祝福の総称としての平和(「シャーローム」שָׁלוֹם)をもたらす方であることを意味しています。
私たち人間は平和を求めますが、平和の君を求めようとしません。自分が主権を持ちたいと思っている限り、自分の欲求、自分
の願望と、自分の主張だけが前面に出るために平和は来ません。自分の主権を、平和の神に移譲しなければいけないのです。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビ デの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。」
限り ない平和が、この方が世界を治めることによって訪れます。
それゆえに、私たちは赤子のイエス様に目を留めるのです。自分というものが前面に出ている時、この方を眺めて恥ずかしくなるのです。
主が与えようとされているのは、私たちがへりくだり、 主に自分を変えていただくよう恋願い、そして砕かれて、柔和な者とさせていただくことにあります。
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