今週の聖句2007.10.27

賛美によって世を目覚めさせよ

ローマ人への手紙11:33~36
33: ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
34: 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。
35: また、だれが、まず主に与えて、/その報いを受けるであろうか」。
36: 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

要約 パウロは神の知恵と知識の豊かさを賛美します。誰も神様の裁きを知ることはできず、そのみこころと計画を知ることはできません。すべての存在の有無が神にかかているからです。パウロはこの神に栄光が永遠にあるように祈りませ。

神の知恵の偉大さを賛美せよ!11:33~34
1~11章でパウロはユダや人と異邦人の救いのために、神の深い計画と主権的な恵みを論証しました。彼は今や長い論証を終えながら、胸に迫る感激を注ぎ出します。まず、救いの計画とその過程で現われた神の知恵と知識の偉大さを賛美します。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう」(33節)。神の計画は私たちは私たちの理解を超越しており、私たちが理解できず、私たちの知識では説明できないという理由で、無限なる神の救いの真理をあざ笑い、拒否することは、本当に無謀で幼稚なことです。事実、神の救いの真理が信じられ、告白されるという自体が驚くべき恵みを受けた証拠です。
理論と理性ではできない聖書の真理が信じられることが神の恵みであり、選ばれた者の特権です。

神の主権の偉大さを賛美せよ!11:35~36
パウロは神がヨブに投げられた挑戦的な質問を思い出させ、神の主権的統治の偉大さを賛美します。「誰がわたくしにささげたのか、わたくしのものだ」(ヨブ41:11)。神が私たちに借りがあり。その代価として救いの恵みを下さったのではありません。神は万物の根源であられ、創造者であられ、実行者であられ、最終的な目的であれます(36節)。この真理を悟った者なら、誰でも感激し、大胆に神に栄光の賛美を歌うしかありません。「この神、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」パウロは救われた聖徒の最後の結論として、神への栄光の賛美をささげ。教理に対する陳述(1~11章)を締めくくっています。
万物を創造し、治められる神の子どもになった喜びに満ちていますか。その神に栄光と尊厳と賛美をささげましょう。

今日の祈り
時に結果ばかりに捉える挫折してしまいます。人生においてどんなことが起こっても、神様の計画とみこころができるようにしてください。

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今週の聖句2007.10.20

人生は競争よりも忍耐だ

詩篇37:1~11
37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

悪者に腹を立てるな(詩篇37:1~7)
1~2節によく表れているこの詩全体のテーマは、悪者によって怒ったり、ねたむなということです。
3~4節は、悪を行う者が周囲にいる時、むしろ神を全的に信頼することを勧めます。
5~6節も”主に信頼せよ”というメッセージを繰り返します。
7節には1節と同じように”耐え忍んで待て”というメッセージが繰り返されます。”忍耐”の徳目は聖霊の9つの実にも入るほど、実に尊い品性です(ガラ5:22~23、Ⅱテモ1:5~7)。大部分の人々が失敗する理由は、”瞬間的に”忍耐できないからです。悪を行う者が、私たちの周りを行き来するとき、その悪者の栄える姿を見るとき、彼をうらやんだり、ねたむ必要はありません。ただ忍耐をもって、信頼によって主を見上げてください。 忍耐は苦いが、その実は甘いということを知っていますか。きょう、あなたが神の前で静かに待ち、沈黙すべき問題は何ですか。

耐えて待ちなさい(詩篇37:8~11)
9節 悪者に対して忍耐できずに憤るなら、結局は罪を犯すことなります。悪者に対して私ちたが自ら解決する必要がない理由は、悪者は神のさばきによって断ち切られるからです。
10節神にゆだねて待ってください。時が来れば、彼らを見つけ出すことはできなくなります。
11節しかし、神を期待する柔和な者は地を受け継ぎます。忍耐という人格は簡単に鍛錬されるものではありません。種を植えた農夫は実を期待し、雑草を抜き、害虫を除去し、秋を来るのを待ちます。秋を来れば、彼は必ず実を収穫します。このような原理は霊的なことにも同じように適用されます。待つことは祈りの生活にも必要です。神の応答が来る時まで、祈って待つことは、まことのクリスチャンの姿です。
祈りの答えが待つずに不安になることがありませんか。祈りの課題の中で、焦らずに神のまつべきものは何ですか。

今日の祈り
待つ時であることを知っていながら、神様が優しさを喜ばれることを知っていながら、弱い私を見ます。自分との戦いに勝利できるようしてください。

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今週の聖句2007.10.13

ハッピーエンド、神様の終り

みことばの要約
イスラエルには神への賛美があります。これは、神が彼らが受けるべき刑罰を除かれ、彼らの敵を追い払られたからです。神はイスラエルを喜ばれ、愛されます。また、彼らを天地万民の中で高められます。

喜び歌え 3章14節~18節
14 シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
15 主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
16 その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
17 あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
18 例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたからのもの。そしりはシオンへの警告である。

遂に預言者はエルサレムに向かって「喜び歌え」と語ります。「断ち滅ばされる」という非常に激しいみことばで預言を始めた預言者は、「心の底から、喜び勝ち誇れ」という賛美で最後を飾ります。主が刑罰を除かれ、敵を取り除かれたのですから、声高らかに賛美せずにはいられません。しかし、それよりもさらに重要な理由があります。主がイスラエルの王として彼らの中におられ、再びわざわいに遭うことがないからです。神が直接臨在され、治められる国に生きるなら、恐れる理由がありません。私たちが渇望する喜びは、イスラエルと国々を回復させる神による喜び(made in heaven)です。神は、私たちから恐れと悲しみを取り除かれ、再び恥を見ることはないと約束されました。

★恐れや恥ではなく、喜びと賛美の人生を味わう道はどこにありますか。個人の成功よりも神の救いに加わることをもっと喜んでいますか。

名誉と栄誉を与えよう 3章19節~20節
19 見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足なえを救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。
20 その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの捕われ人を帰すとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。

神の結論はいつもハッピーエンドです。その時が徒訪れるまで、忍耐して待つ人は、みなその喜びに加えられます。預言者は、ご自身の民に向けられた、神の最後の計画を語ります。神はイスラエルを苦しめるすべての国を罰せられ、いなくなった者たちを捜され、散らされた者たちを呼び集められます。それは、恥を受けた神の民に、名誉と栄誉を与えるためです。神の民は、今は侮辱されて生きていますが、いつかは必ず神の民にふさわしい名誉を与えられます。これが、神のみこころです。神の民イスラエルは、万民の中で名誉と栄誉を受けるのです。平安と安全に対する神の約束を受け入れてください。あなたにも、必ずその回復が訪れる時が来ます。

★”名誉と栄誉”と”謙遜なクリスチャンの人生”はどこか不釣合いに見えます。しかし、神に謙遜に仕える者こそ、名誉と栄誉を受けられます。

お祈り
旧約で一番恐ろしい言葉で始まるゼパニヤ書が、神様から一番熱い愛の言葉で結ばれています。私を愛し救ってくださった神様を喜び賛美します。

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今週の聖句2007.10.6

福音による生活

コリント人への第一の手紙6章
7: そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。
8: しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
9: それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者
10: 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11: あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

コリント人への第一の手紙6章を開いてください。ここでのテーマは、「クリスチャンの倫理」です。「倫理」というと、難しい言葉に聞こえてしまいますが、簡単に言えば、「良いことと悪いことの基準」と呼べは良いでしょうか。殺人は悪いことであり、慈善は良いことですが、善悪の判断をするときの基準を「倫理」と呼びます。この章においては、コリントの教会で起こっていた二つの問題について取り扱われています。一つは、人のものをだまし取る、不正が教会の中であったようです。そこで、ある兄弟が不正を働いた兄弟を、裁判所で訴えています。もう一つは、売春婦と肉体関係を持つ不品行を行なっている者が、教会の中で起こっていたようです。これらの問題を通して、私たちクリスチャンが持っている、善悪のものさしについて考えていきたいと思います。

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今週の聖句2007.9.29

感謝、人生のまことの基礎

詩篇 30

1 主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
3 主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。
4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
5 夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」
7 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御
11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。 あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

いのちによって答えられる神(30:1~5)
ダビデは自分が高慢だったときの苦しみを振り返り(6~10節)、そのような自分を救われ、敵を喜ばせられなかった神をあがめます。彼が、自分の栄えを神に帰していたなら、よみにまで下る苦しみには遭わなかったでしょう。神の中で生きるときに繁栄がありますが、人は腹が満たされ、太り出すと、神から遠ざかるものです。ですから、神の人は繁栄のために祈りよりも、”謙遜”のために、また高ぶらないように祈らなければなりません。ダビデは、再び神に泣き叫んで立ち返り、神は謙遜に神を求めるダビデに”いのち”によって答えてくださいました(2~3節)。謙遜に罪を告白する者に、神はいのちと健康を下さいます。「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある」(5節)

主にとこしえまでも感謝します(30:6~12)
ダビデは栄えていたとき、高慢な心で自分の人生は「決してゆるがされない」(6節)と言いました。しかし、人は繁栄によってではなく、「ご恩寵」(7節)によってゆるがされないのです。順境の中では神の御声をきかないのが「人習慣」(エレ22:21)です。ですから、神の民はいつも”高ぶり”を警戒しなければなりません。ひいては、霊的な豊かさも高ぶりを生むものです(Ⅱコリ2:7)。私たちはいつでも弱さを認め、全能る神の憐みと助けを求めなければなりません。神の助けに頼る人だけが、その悲しみが喜びに変わる恵みを経験できるのです。ですから、私たちは「決してゆるがされない」ことを自ら誓うのではなく、神に「とこしえまでも感謝」して生きなければなりません。

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今週の聖句2007.9.21

クリスチャンの生活規則

ローマ人への手紙 12章9節~21節

09 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

クリスチャンは、教会でどのような奉仕をするかという事は勿論大事です。 しかし、私達の生活の大半はこの世において行われるのであります。 私達は、週の初めの日曜は、教会に来て礼拝をしますが、あとの6日は、専 らこの世でそれぞれの働きをしています。 そして、その仲間は多くの場合、キリスト者ではありません。 職場や学校や家庭、地域の社会などにおいて、私達の周りは、大半はノンク リスチャンです。 ローマの教会も事情は同じでした。 否、もっと厳しかったでしょう。 クリスチャンは少数でした。 そして、まだキリスト教は公には認められてはいませんでした。 ある場合には、邪教と見なされていました。 そのような中で、クリスチャンは、神のみ旨に従った生活をすることによっ て、この世に良き証しをなす責任がありました。 そのようなことをも考慮して、パウロはここで勧めをなしているのです。 キリスト教は、初めから周りの社会から断絶して自分たちだけの生活をした のでなく、この世の中にどっぷりつかって、生活したのでした。 そして、初期の教会は、周りの世界からも好感を持たれていたようです。

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今週の聖句2007.9.16

義人はいない。ひとりもいない

「義人はいない。ひとりもいない。」ローマ人への手紙 3:10
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」ヤコブの手紙1:15
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」マタイの福音書5:22

罪とは的はずれのこと
聖書を読むと「罪」という言葉が出てきます。またすべての人が罪人であるという言葉にも出会います。罪と聞いてすぐに思い浮かべるのは「犯罪」ですが、すべての人が犯罪者、そしてこの私も犯罪者と言われるとあまり気持ちのよいものではありません。  主イエスは、あるところで次のように言われました。
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」
マタイの福音書5章22節
実際に手を下す事が無くても心の中に誰かへの憎しみを抱くならば、すべて殺人者であるということでしょう。問題は心がどうであるかということです。そうすると、聖書の基準は、すべての人が罪人ということになるでしょう。

犯罪とこころの中の罪
さて、この「罪」という言葉には、「的はずれ」という意味があると言われます。的はずれとは、本来の方向からずれてしまうということでしょう。人と人との関係において、的が外れてしまう。本来愛すべき存在であるにもかかわらず、その愛の方向が間違ってしまう。決して愛していないわけではないのですが、その愛の方向がずれて歪んでしまっている。これが罪という言葉の意味するところであるというのです。  そうしますと、すべての「犯罪」が何かこの的はずれということが起因となっていきついてしまった「結果」といえるのではないかと思います。そして、私たちの心の中の「罪」もこの的はずれが起因となって起こっているのではないかと思うのです。  親子、兄弟、友人・・・。本来愛によって結ばれる関係の中でこそ起こってしまう諸問題。決して愛が無いわけではない。しかし、その方向の的をはずしてしまっている、そして歪んでしまっている、そんなことが原因となっていることではないでしょうか。そうであるならば、その愛の方向性を回復せずして人生の祝福はあり得ません。そして、よい人間関係を築くこともできないのです。

神様との関係の回復が新しい人生を作る
 聖書は、この的はずれ状態の最大のもの、神様との関係を回復することが、人と人との関係における的はずれ状態を回復する秘訣であると語ります。そして、主イエスはそのためにこの世界に来てくださいました。まことの神であるにもかかわらず、まことの人となって、神への従順を貫いてくださったのです。十字架にまで従われた主の従順によって私たちと神様との関係が回復されました。このことを心の中に信じることによって、私たちはこの神様との関係の回復を自分のものとすることができます。  神様との関係の回復は、私たちの人生に新しい変革をもたらします。

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今週の聖句2007.9.9

福音伝道のために生きる姿

コリント9:14~19

「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」
パウロは満2年の間、自費で福音伝道を行ないました。その地で天幕作りなどのアルバイトにも携わったのでしょう。彼はローマに巨大な宣教組織を持っていたわけではありませんでしたが、すべてを捧げて主に仕えていました。これはパウロが主のためご自身の人生をささげ、財産をささげて生きる姿です。

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今週の聖句2007.9.2

待つ勇気を持つ

「待ち望め。主を。雄雄しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」 詩篇27篇14節

 クリスチャンの人生は、オフロードです。スポーツとして、バイクや車でわざとデコボコ道を走り回ることが流行しています。きれいに舗装された道よりも、デコボコ道を走る方が快感なのでしょうか。わざわざデコボコ道を走らなくても、私たち自身の人生そのものがオフロードを走るようなものです。毎朝の聖書と祈りの時間のために役立つデボーションガイドの本としてよく利用されているものに、「荒野の泉」があります。この書名から伝わる編集者の考えは、「人生は荒野を旅するようなものだ」ではないでしょうか。クリスチャンの歩みを「順調な、問題のない、容易なもの」と私たちが考えているなら、それは大きな誤解です。
 その荒野を旅する中で、私たちは、しばしば、数々のプレッシャーに押しつぶされて、耐えかねて、ついに目的の道からそれてしまう危険を経験するのです。また数々の失敗や問題によって、自信を失い、心が弱くなり、失望してしまう危険があるのです。しかし聖書は私たちに励ましを与えています。「待ち望め。主を。」と二度も繰り返して私たちを励ますのです。問題にぶつかったり、試練に直面してどうにもならなくなった時こそ、主である神様を待ち望むべきです。なぜなら神様は待つに値するお方だからです。誰を待つのででしょうか。この世界が私たちを真に助けてくれるのでしょうか。創造者なる神様以外に私たちの必要を知り、その必要に応えてくださるお方がいるでしょうか。
 待つことは、勇気のいることです。しかしぜひ覚えていただきたいのです。クリスチャンの人生を表現する言葉として、「待ち望む」が一番ぴったりしています。私たちの神様は天の父ですから、必ず、私たちの祈りに応えてくれます。大きな信頼をもって、期待して待ち望みたいものです。

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