聖書について

教会について

キリスト教について

その他

聖書について

なんのために?(信仰の目的)

1.宗教を求める動機は?
一般に、宗教を求める理由はいろいろあると思います。
◇病気が治りたい、受験合格、結婚、安産、金もうけ、交通安全、超能力が得たい、などなど。(こういうのを現世利益といいます。)
◇心身を清めて、清浄になる。(神社などで)
◇死者の供養、慰霊、祖先崇拝など。
◇心の平安、悟りを開く、「涅槃」(ネハン)の境地に達する、など。(本来の仏教の目的)

2.では、キリスト教ではどうなのか?
 キリスト教でも、はじめて教会の門をたたく人は、いろいろな悩みを持っていて、そこからの解放を願うのは事実です。そして、信仰を持つことによって、現世利益はともかくとして、悩みが解決される場合も多いのです。しかし、キリスト教の真の目的は、現世利益でも苦悩からの解放でもありません。

3.キリスト教の目的は、「唯一の神を『主』と認めて、崇め、仕え、その教え(即ち聖書の教え)に従って人生を歩む」ことにあります。
 そのためには一時的に犠牲や苦しみが伴う場合があるかも知れません。一言で言うと、「主に依り頼む」ということになるのですが、そこに根本的な解放と喜びと平安を見いだすのです。イエスの言葉に、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな与えられる」(マタイ福音書7:33)という箇所があり、結果的に人の望みもかなえられることが約束されています。 また、聖書には、祝福は現世だけにとどまるものではなく、死の時から終末の時にまで及ぶことが記されています。

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この時代に、神を信じることが必要でしょうか。

必要です。信じることなしに、人は生きていくことができないからです。
ある人は、学歴を信じています。別の人は、健康や幸せな家庭を、この世での地位や名誉などを、生きていく上での頼りとしています。もちろん、お金を信じている人も、大勢いることでしょう。どの人にも、「わたしは〜を信じる」というものがあります。「いや、わたしは何も信じない」と言う人は、自分が何かに頼っていることに気がついていないだけなのです。

だから、ほんとうに信じるに値するものがあるかどうか、ということが重要です。ほとんどのものは、失格です。永遠に残りはしないからです。「火で精錬されながらも朽ち」(ペトロの手紙一1章7節)ないもの、つまり「罪と死に対する勝利者」(コリントの信徒への手紙一15章57節)だけが、まことに信じるに値するお方ではないでしょうか。
まことの神を知り、信じてこそ、わたしたちは不安から解放され、活き活きと生きることができるでしょう。
「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(ヨハネの手紙一5章4−5節)

聖書はいつ頃できたのですか?

聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。「旧約聖書」の中には、39の文書が収められています。そのぞれぞれが、別々に書かれて、後から集められたのです。そのうち古いものは、だいたい紀元前1300年頃から、新しいものでも紀元前300年頃までに書き記されてきたと言われています。これは日本では、縄文時代になります。

一方「新約聖書」は、27の文書が収められており、これらはいずれもイエス・キリストの昇天後から1世紀の終わりまでに書き記されたものが集められています。ですから、とてもふるいものです。

聖書は誰が書いたのですか?

たくさんの人が書きました。旧約聖書には39、新約聖書には27の文書が入っていますが、その中には誰が書いたのか分らないものもあります。けれどもそのような「人が書いたもの」を「神さまの言葉」と私たちは信じています。

旧約・新約は何が違うのですか?

旧約聖書はイエスさまが生まれる前(紀元前)、新約聖書はイエスさまが生まれた後(紀元後)のことが記されています。旧約聖書はイエスさまが来られるという知らせであり、新約聖書はイエスさまが来られたという知らせです。

聖書は難しい?

むずかしく思えるかもしれません。けれども、聞いたことのある言葉や聞いたことのある話も聖書の中にはあると思います。

聖書を理解するためには、教会の礼拝に行くのが一番です。礼拝では聖書を読んで、聖書に関係する話を聞きますから、少しずつ聖書を理解することができるようになるでしょう。

聖書って本当に面白いの?

本当に面白いです。ただすぐにはその面白さが伝わらないのが難点です。どこが面白いかというと、「人間」についての深い見方があるからです。愛について、罪について、救いについて、歴史について、社会について、その語るところには実に味わい深いものがあります。

聖書ってどんな本?

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ 3章16節)

●聖書は、旧約(39巻)新約(27巻)全66巻からなっています

●世界の超ベストセラー
販売数世界一:世界で毎年4000万冊以上売れ、日本でも年間600万冊以上売れています
翻訳言語数世界一:ほとんどの言語に翻訳されています
影響世界一:社会制度、行政、倫理、科学、文学、芸術など、すべての分野に多大な影響を与えてきました。

●完全に統一されている
約40人によって、1600年間にわたって、いろいろな場所でいろいろな立場、職種の人によって書かれました、しかしその内容は、完全に統一がとれ、まるで一人の人が書き上げたように、首尾一貫しています

●真実性
考古学の発達により、聖書に関わる発掘がなされ、聖書の歴史の正しさが裏付けられています

●預言の成就
おびただしい預言がなされ、それが見事に成就しています、特に救い主イエス・キリストについての預言は詳しく書かれ、そのとおりに成就していることは、驚きです

●不変である
現在私たちが手にしている聖書は、発見された古い写本と同じ物です、長い歴史の中で多くの迫害、非難を受けてきましたが、改訂、増減などされていません

「バイブル」という言語の語源となったギリシャ語の「ビブロス」は、「本」という意味です。「ザ・ブック」、本の中の本、究極の本、それが聖書です。

聖書はなぜ読む必要があるのでしょうか?

この世には様々なガイドブックがあり、たとえばコンピュータのマニュアルを読むと、 コンピュータについての知識や操作方法を習得することが出来ます。
同様に、神が人間に与えてくださったガイドブックが聖書です。 私たちは、聖書を通して神様について知ることができ、不幸はなぜ存在し、 そのような場合に遭遇したときにどのように対処すればいいかも知ることができます。 また、神に祝福された生活の規範となります。

旧約聖書は、神が選ばれた神の民の歴史が土台となっています。 その中には、神の力、愛、祝福などが明らかにされ、さらに、人間の苦しみの原因が示されています。

新約聖書は、神が使わされた救い主イエス・キリストの教えが記され、 人間の罪からの救いの道が主イエス・キリストの十字架と復活によって 成し遂げられたという福音(よきおとずれ)が示されています。

キリスト教に関するQ&A

教会について

日曜日はどうして休みなの?

キリストの死後、3日をへた日曜日の朝、キリストは復活されました。そのことから、キリスト教の歴史のごく初期の時代から、毎週日曜日に復活を記念してキリストを救い主として礼拝していました。その後、コンスタンティヌス帝の勅令(313年)によって、キリスト教はローマ帝国内において公認され、やがて日曜日休日も法令によって制度化されました。日本でも明治政府によってこれが採り入れられました。外来の生活習慣として入ってきました

どうして日曜日に礼拝をするの?

日曜日に礼拝をするのは、教会の頭(かしら)であられる主イエス・キリストが、週のはじめの日曜日に死よりよみがえられた(マタイ28:1)ことによるだけでなく、主イエス・キリストが私たちを礼拝に招いてくださっており、甦られたいのちの主に出会うことによって私たちは復活の主にお会いし復活の力が与えられ、祝福されるのです。(使徒20:7)

昔、土曜日を安息日としていたものが日曜日に変ったのではありません。旧約での安息日の定めは、創造の7日目に御業の完成を宣言し休まれた、私達神に造られた者達が神の御手の中に憩うことによって安息を与えられていのちと力が与えられることを目的として一週間のうちに土曜、一日を安息の人して休むようにと定められました。これは、本当の安息であるイエス・キリストによって成就しましたから(コロサイ2:16-17)、イエス・キリストによってのみ本当の安息が与えられ、新約時代に生きている私たちは、主の復活された日曜日だけが礼拝の日なのではなく、毎日が常に主によって聖別される聖日となり、イエス・キリストの中に憩うことによって安息を得ることが出来るのです。

真の礼拝は、神様との人格的な交わりであり、ひとり子イエス様を十字架につけ、救いの業を成し遂げて下さった神への応答として感謝と賛美を捧げるのです。(ヨハネ4:24)(ローマ12:1)

礼拝とは何であるか。

救い主の執り成しによって、主にある兄弟姉妹とともに、一つ所につどい霊と真とをもって、父・子・聖霊なるひとりの神を拝し、神と交わり、神の栄光をあらわすことである。讃美・聖書朗読・祈祷・説教・聖礼典・献金等をその内容とする。

教会へは誰が行ってもよいのですか?

よいのです

教会に行く際に必要な(用意する)ものは?

特にありません。聖書や讃美歌は、教会備え付けのものをご利用ください。自分のものが欲しいと思われましたら、書店でお求め下さい。
(聖書は日本聖書協会発行の「新共同訳」、讃美歌は日本基督教団出版局発行の「讃美歌21」を使用しています)
書店になくても、注文すれば取り寄せできます。
献金はまったくの自由で、しなくても結構です。献金は、神さまの恵みに対する感謝ですので、人によって額は違います。服装については自由です。

礼拝はだれが出るの?

すべての人が礼拝に招かれています。それで、大学では「全学礼拝」と言っています。学生も教員も職員も、クリスチャンもノン・クリスチャンも招かれています。それはすべての人が神さまから愛されているからです。

教会の礼拝は原則として毎週日曜日の朝、午前中に行っています。それはイエス・キリストが日曜の朝に復活されたからです。それで日曜日が、ホリデー(Holy Day 聖なる日)、レクリエーション(Recreation 再創造)の日と言われるのです。神さまから元気をいただく日です。

讃美歌と一般の歌とはどう違うの?

どこが違うか、それは歌う相手が違うのです。一般の歌は人間(自分を含めて)に対して歌います。でも讃美歌は神さまに対して歌います。ですから歌い方も違ってきて、胸を張って上前方(天)に向かって歌います。うつ向いて歌う歌は讃美歌にはありません。そして讃美すれば天から不思議な力が与えられて元気になっていくのです。

祈りって何?アーメンって何?

キリスト教のお祈りは、神さまとの心での対話です。それはお願いすることだけではありません。もっと大切なことは、祈りを通して神さまのみ心を知ることなのです。  アーメンというのはヘブル語で「本当にその通りです」という意味です。祈る人が、祈りの終わりのところで「イエス・キリストの御名によってお祈りします」とい祈ったあと、一緒に「アーメン」と唱和して、共に祈りを捧げるのです。

洗礼とは何ですか、どんなことをするのですか?

イエス・キリストの復活の命を受け取ることであり、キリストの十字架による罪の赦しを受け取ることです。また、教会につながって、教会員になることです。これらのことを願う時には牧師にご相談ください。 洗礼式は、日曜朝の礼拝の中で行われますが、ひざまずいて頂き、頭の上に少しの水をのせて祈ります。

教会に通うには教会員にならなければなりませんか?

いいえ、教会員でなくても教会においでください。歓迎します。
教会員でなくても教会に来ている方は大勢いらっしゃいます。

施設や学校の礼拝は何故?何のためにやっているのですか?

多くの施設や学校では朝に礼拝をしますが、一日のはじめに礼拝をすることにより、その日一日、神さまを見つめて過ごす事ができます。 私たちの心にはさまざまなものがあり、さまざまなものが入ってきますが、朝礼拝をすることにより、その日一日を生きる目標が与えられるでしょう。 礼拝によって私たちは神さまに出会うのですが、毎日神さまに出会うことによって毎日励まされ、慰められることができます。

安心して通える教会を探すには?

地域の教会は、職業別電話帳(タウンページ)を使って「教会(キリスト教会)」で探すのが簡単です。ただし、いわゆる「異端」の教会も一緒に掲載されていることがあるので、注意が必要です。(統一協会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教の教会など)

ウェブサイトを持っている教会も増えているので、インターネットで検索するのも便利です。

FEBCや太平洋放送協会(PBA)では、視聴者に対して、安心して通える教会を紹介するサービスを提供しています。

また、正統的なキリスト教会と言っても、それぞれ特色があり、雰囲気が違います。インターネットなどで事前に調べたり、電話で問い合わせをしてから出かけると良いでしょう。一度ひとつの教会へ行ったら、絶対に他の教会へは行ってはいけないということはありませんので、気軽に訪ねてみてください。

教会は、いつ行ってもいいのですか?

ローマ・カトリックの教会では、伝統的に聖堂の扉は24時間開いていて、いつでも自由に入って祈ることができたようですが、今の教会は、管理者が不在の場合はほとんど鍵がかかっていると思われます。

城山キリスト教会もそうですが、たいていの教会では日曜日に礼拝を行います。礼拝は、基本的に誰でも自由に参加できますから、礼拝の時間を調べて行くと良いでしょう。 礼拝の他にも、自由に参加できる集会があれば、その機会を利用することができます。

牧師や神父と個人的に話をしたい場合は、事前に電話などで時間を決めておくのが確実です。

家が仏教なのですが、教会に行けますか? 

聖書やキリスト教に関心があっても、様々な事情でクリスチャンにはなれない、ならない、と思っている方は多いでしょう。特に、日本では、お墓や仏壇を守るという習慣があり、家族の反対を受けることもよくあります。

でも、教会の側では、どのような方も大歓迎です。不思議な方法で問題が解決するということも実際にありますので、洗礼を受ける気はないから、と遠慮なさらず、まずは教会に行ってみることをお勧めします。

礼拝に小さい子どもを連れて行ってもかまいませんか?

かつて、子どもは「うるさい」と邪魔者扱いされることがありました。 しかし、イエスさまは、「こどもたちをわたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものだ」とおっしゃいました。

小さい子どもを連れた人のために、「母子室」と称してガラス張りの部屋を作ったり、別室で礼拝できるようにしたりしている教会もありますが、最近では、礼拝の中で子どものための説教をしたり、子どもの讃美歌を歌ったりして、子どもと一緒に礼拝しようという教会が増えています。

教会では、礼拝の前半をおとなも子どもも一緒に賛美をし、礼拝をささげます。 ただ、聖書のお話は、年代によってそれぞれふさわしいものがあると考えれらますので、後半、お母さんと離れて大丈夫、というお子さんは、年代別のクラスに分かれて活動します。 ぜひお子さんを連れて礼拝に行ってください。

献金について教えてください。

献金は、何よりも神への感謝と献身のしるしとして献(ささ)げられます。そして福音(ふくいん)宣教(せんきょう)のため、教会の維持(いじ)や人々への助けのために用いられます。献金の金額は、全く自由です。それぞれ自分の力に応じて自発的に、心を込めて献げるべきものです。

クリスチャンが教会へ行くことはなぜ必要ですか。

A 教会とは何かを考えてみましょう。聖書を読んでみると、教会は十字架がそぴえ、ステンドグラスがはられたようないわゆる建物をさしているのではないことが分ります。 聖書が語る教会は、エペソ人への手紙に書かれているように、イエス・キリストの十字架の血潮によって罪が許された者によって成る群です。そして、それはキリストを頭として、私たちクリスチャンがキリストの体となることをさしています。各々の肢体の働きも価値も異なっているが、どれ−つとして切り離してしまってよいものはありません。それと同じように、キリストを信じて、キリストの肢体の一部とされた私たちひとりひとりのメンバーが重要なのです。 また、教会は、神の建物、神の神殿にもたとえられています。 1コリント3:10 エペソ2:20〜22

B それでは次に、何故この教会にクリスチャンが集う必要があるのかを考えてみましょう。
1.教会(キリストを頭とした信じる者の集まり)がキリストの体であるなら、クリスチャンひとりひとりはどうしてもその群に集う必要があります。それは義務からではなく、ちょうど人間の体が互いに肢体の部分を愛し、いたわり合うように、−つの体が完全なものとして働くための愛と調和の故であるといえましょう。  1コリント12:12〜31
2.キリストの肢体が集い合う所を通して、自らの信仰も励まされ、強められ、成長していきます。  エペソ4:11〜16
3.イエス・キリストが地上にあって、体をもって力ある働きをされたように、現代は、キリストを頭とした肢体がひとつになって、神の力を現わします。今日、キリストが世界にご自分の愛と力を現わすことができるのは教会を通してなのです。それ故肢体であるクリスチャンが神のご栄光を現わす目的のもとに、教会に集うことは大切なのです。  ローマ12:3〜8
4.教会は神ご自身にとって尊い存往であり、いつか神はご自分の前に教会をむかえられます。  エペソ5:27
5.キリストのみ前に出て、他のクリスチャンと共に主を礼拝することはクリスチャンのよろこびです。 詩篇122:1 使徒2:46、47
6.主の命令でもあります。  ヘブル10:25

キリスト教に関するQ&A

キリスト教について

キリスト教の流れは?

イエス・キリストは、十字架上でなくなられた3日後によみがえり、弟子たちに姿を現し、40日後昇天されました。 その後ペテロはエルサレムの町の中で説教をしました。その説教によって3000人もの人たちが信仰をもちました。 これが「教会誕生」と呼ばれる出来事です。(使徒の働き2章)

初期のキリスト教会は、ローマ帝国から強い迫害を受けました。 暴君ネロの迫害などで,見せしめに殺され、殉教していった人も多くいます。 そのような迫害の中でも、キリストの教えは人々の心の中に根ざしていました。 そして弾圧するよりは、保護する方が国家安泰のためであると考えられるようになり、 395年、キリスト教はローマ帝国の国教とされました。

ローマ帝国の東西分裂を発端として、1054年、コンスタンチノープルを中心とする東方教会と ローマを中心とする西方教会に分かれました。 東方教会は、現在ギリシャ正教をはじめとする正教会として、各国に存続しています。 西方教会は、ローマカトリック教会と呼ばれ、政治権力と結びついて、中世ヨーロッパを動かす 原動力となっていきました。

カトリック教会の堕落や階級組織に反発したルターは、1517年、宗教改革を起こしました。 こうして、プロテスタント教会が成立していきました。

世界におけるキリスト教徒は、他の宗教をはるかに上回って20数パーセントを占めています そのうちカトリック、プロテスタント、東方正教会の比率はおよそ6対4対1、日本ではカトリックとプロテスタントの割合が逆になっています

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キリスト教の教義は何ですか?

馬小屋にお生まれになり、十字架におかかりになったイエス・キリストが、神の子であることを信じることです。そしてこのイエス・キリストが、自分の救いのために復活されと信じることです。 私たちはこれを福音(よい知らせ)として聞きます。

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なぜ、神は唯一であると言われるのですか。

本物は一つだけだからです。
日本には八百万もの神々があると言われます。にぎやかですが、逆に言うと、「これだ」という本物がないということです。ギリシアにも多くの神々があり、その中でもゼウスが最高神とあがめられました。けれども優劣の比較ができるということは、他を絶する絶対の神を知らない証拠です。

聖書の神は第一に、神々の中で最高の神ではありません。このお方のほかに神とお呼びできるものはありません。「わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」(イザヤ43:1) 唯一の神とは、この世のどんなものをも越えた絶対のお方だということです。

第二に、だからといって近寄りがたい恐ろしい神というのでなく、人間と一対一の真剣な交わりをお求めになるお方です。一人の夫と一人の妻であってこそ、夫婦の愛と信頼が成り立ちます。そのように、唯一の神に結ばれ、従ってこそ、まことの信仰と言えるでしょう。

三位一体の神とは?

旧約聖書は冒頭から”唯一神”を主張し、多神教とは全く立場を異にしています、 しかし新約聖書にいたって、この唯一の神に三つの位格・人格(persona)が存在します。 父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神として自らを現していると、正統的キリスト教徒は信じています。 それでは三神教か、と言われそうですが、三位でありつつ唯一の神です。 様々なキリスト教がある中で、正統的キリスト教と、そうでないものとの違う点が、この「三位一体」です。 見分ける目印として、知っておいてください

イエス・キリストの十字架の死は、何を意味していますか。

主の十字架の死は、人間の罪に対する神の呪いを意味しています。「木にかけられた者は皆呪われている」(ガラテヤ3:13)。キリストは十字架の木にかかって、本当なら人間が負うべき罪の裁きを代わりに担い、わたしたちを赦してくださいました。それは、御子が、呪われた者とならなければならないほど、人間の罪が深刻であることを教えています。それと同時に、そこまでして人を救おうとする神の愛がどんなに大きいかを示しています。  わたしたちはキリストに結ばれて、罪の古い体を十字架につけられ、神に喜ばれる新しい生命に甦らされるのです(ロマ6:6)。  使徒信条に「主は死にて葬られ、陰府に下り」とあるのは、キリストが完全に死なれたことを証しし、わたしたちを救う神のみ業がたしかに行われたことを告げています。

キリストの復活は事実ですか?

事実です。事実であると同時に、信じる事柄です。
尚、キリストが復活された場所(墓)には、今は教会が建てられています。

プロテスタントとカトリックの違いは何ですか?

プロテスタントは、聖書の教えから離れていったカトリックに対して、「聖書に忠実な教えである」といえます。

カトリック教会は、聖書に加えて歴代の教皇の教理や聖書解釈など、人間の権威や伝統などを聖書と同じように神の言葉とし、 信仰だけでなく善行による救いが説かれ、教皇を中心とした信仰と言えます。 プロテスタント教会は、聖書(新旧約66巻)のみが神の言葉で、信仰が生活の基準を成しており、 人間の権威や伝統を神の言葉と同一視してはならないという立場をとっています。 また、救いは、ただ神から頂くものであり、キリストを信じる信仰によってのみ与えられると信じます。 また、イエス・キリストを通した信仰であると言えます。

キリスト教の「救い」とは?

1.キリスト教では、「罪から救われる」ということを強調しますが、これは何を意味するのでしょうか? また、どうすれば「救われた」という状態になるのでしょうか?

2.ふつう、わたしたちは、良くも悪くもない[+−]0.の白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりすると考えがちですが、キリスト教の人間観はこれと全然違います。聖書の教えによれば、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくるのです。この状態では人間は、神の裁きと罰が必然で、罪の払う値は死であり、究極には「最後の審判」が待っているのです。

3.この「原罪」はあまりにも重すぎて、人間が自力でいくら善行に励んでも、精神修養によって人格を磨いても、何の足しにもなりません。罪を少しも持たない何者かによって代価が支払われないかぎり、わたしたちに「罪からの救い」はないと教えています。

4.「神」は信賞必罰の絶対的に正義のお方ですが、一方、愛のお方でもありますので、罪深い人間を憐れんで御自分の側からこの代価を支払って下さいました。それが、イエス・キリストの十字架の犠牲です。一点の罪も汚れもない「神の子」(神御自身)が人としてこの世に生まれ、贖罪をなし遂げて下さったのです。「救い」は、このことを信じ、イエス・キリストを自分の救い主として認めて、受け入れる者にもたらされるのです。

5.自分の現実をよく見つめ、聖書の教えに照らして、決して[+−]0.の状態などではなく、「救い」が必要であると認めるところからキリスト教の信仰が始まるのです。  それから、この「救い」は、神の約束(契約)であって、決して抽象的なものでなく、それに伴う「感謝の生活」が次々と現れてくるのですが、それは項を改めて述べましょう。

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聖書の語る罪は何ですか

聖書の語る罪について、簡単にご説明します。

的外れの罪
 聖書の語る罪の根本は、人間が神から離れて自分勝手に生きるようになったことを示しています。 聖書の「罪」という言葉の原語には、「的外れ」という意味があります。 人間はもともと神によって造られ、神と交わる存在であったのに、 神の命令にそむき、神から離れて自分の思いのままに生きるようになってしまいました。
 「神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3章11,12節)

不完全な義
 神は完全に義なる方であり、完全に正しい方です。その方に認められるには、私たちも完全に正しくなければなりません。99%正しくても、1%正しくなければ、神の前には罪人です。人間でも、きれい好きな人ほど、少しでも汚れているものは気になるでしょう。完全に聖い神の前には、一点の汚れも許されないのです。旧約聖書の時代に、神はモーセを通して十戒を与えられました。それを全て守れば神の祝福を得ることができましたが、残念ながら、誰も完全に守り行うことはできませんでした。
 「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10節)

罪の性質と罪の行い
 人間には生まれながら罪の性質があります。その性質のために罪を犯します。人は罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。人間の社会では、罪を犯して始めて罰せられますが、神は人間に対して、その罪の性質のゆえに裁かれます。

神の前における罪
 聖書の語る罪は、人間同士の間の罪ではなく、人と神との関係における罪です。人間間の罪の問題ならば、人間の仲裁者によって解決することができますが、神と人との間の問題は、第3者の人間によって解決することはできません。もちろん、自分で解決することもできません。

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キリスト教の戒律を教えてください

映画でも有名なモーセの「十戒」。キリストもそれを聖なる教えとして尊ばれ、その内容を、「唯一まことの、神のみを神とし、愛し、仕えよ」、また「自分だけではなく、隣人を愛せよ」、の二つに集約なさいました。 しかしその内容は、キリスト教徒でなくとも、すべての人が守るよう、命ぜられていることではないでしょうか。ですから私たちは、何か妙な特別な戒律に凝り固まるのではなく、ごく普通の人間でありながら、しかし神の 前に恥じることのない歩みを求めて、隣人の幸せのため、霊的精神的また具体的な生活面で、困難や悪を打破し、向上を目指すのが大切なことではないかと思います。

そのために、私たちは、神の言葉に耳を傾けるよう、神によって招かれ、また毎週集うのです。ですから、私たちにとっては、集会自体さえ一番の目的にはならないのです。もしそうなら、セクト集団と変わらなくなります。歴史の中では残念なこともありましたが、注意が必要です。

イエス・キリストは神なのですか?

イエス・キリスト以外に、自分を神と宣言した(ヨハネ5:17,18)人は、五大宗教(キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教)においていません。ただ神を恐れない人にとっては誰でも、自分を神だということはたやすいことですが、どうして私達はイエスを神と信じるのでしょうか。それはイエスが単に言葉だけでなく、実際に業によってもそれを示されたからです。中でも復活は多くの奇蹟や旧約聖書の預言の成就の極致です。復活は旧約において預言され(ホセア6:2)、イエス御自身も予告し(ヨハネ2:19,21)、実際に彼は復活しました(マタイ28章にその時のことが詳しく書かれています)。復活の証拠は調べれば調べるほど、その確かさが明らかになってくるものです。イエスはこう言っておられます「私が父におり、父が私におられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」(ヨハネ14:)

キリストの再臨というのは、どういうことですか。

天にいます主キリストが、世の終わりのときに再び地上に来られるということです。  それは第一に、主がこの世界と人間のすべてを決定的に裁かれるということを意味しています。そこでこれを、「最後の審判」などと呼んだ時代もありました。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(コリント二5:10)のです。  しかし第二に、それは救いの完成する時です。すべて神に逆らうもの、罪と悪と死が打ち滅ぼされ、全人類が甦らされて主キリストとの交わりのなかに入れられます(テサロニケ一4:13以下)。  その日がいつ来るのか、それは私たちには分かりません。時を定めたもうのは主なる神だけでいらっしゃるからです。けれども主イエス・キリストは、十字架に付いてまで私たちを愛し、赦してくださったお方です。悪いようになさるはずはありません。過去を思い起こしつつ、未来を待ち望んで生きるのです。  私たちは、この主に一切をおまかせして、どんなときにも望みを失わずに歩みつづけることができます。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(ローマ14:8)なのですから。

聖霊とは何でしょうか。

聖霊は、父なる神、子なる神と同じ永遠の神であり、私たちに働きかけてキリストへと導かれます。  それは第一に、キリストの霊です。救い主イエス・キリストを教え、私たちの目をキリストへと向けさせてくださいます。だから「背後霊」や「守護霊」など、その他どんな不思議な「霊」と言われるものとも違います。そんなものは、キリストとは無関係だからです。「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(ヨハネ一4:1)。  第二に、教会の霊でもあります。教会を造り、建て、守り、導きます。何か頭にピンとひらめいたり、気分が高揚すると、「自分は聖霊を受けた」と言い張る人がいます。けれども聖霊は興奮剤ではありません。何よりも教会に働いて教会を導くものです。「聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(言行録20:28)。  聖霊は今も、み言葉をとおして教会に働き、私たちにキリストを教え、信仰によってその恵みにあずからせ、救いの完成へといたらせるのです。

キリスト教に関するQ&A

その他

心の貧しいとは?

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 」マタイ5:3
心の貧しさとは、天の御国の姿とクリスチャンの品性を見せる核心的な言葉です。では、心の貧しさとはどのようなことを指すのでしょうか。

それは聖なる神の御前に立った罪人の心です。言い換えれば、神の素晴らしい栄光と聖さの前に、粉々になった罪人の姿であり、死と怒りの裁きの前で赦しの恵みを経験する心です。「神様、憐れんでください。私は死に値するほどの罪人です」という告白と共に、カルバリの丘で流された血潮で罪赦されたことに感激し、涙を流しながらその恵みにおこたえしょうとする心です。

クリスチャンに貧しい心がなくなってしまったら、それはキリスト教最大の危機を意味します。貧しい心欠けたいかなるリバイバルや成長もいつかは崩れてしまいます。貧しく謙遜な子どものような心から、キリスト教は芽が出、花が咲き、実を結ぶのです。

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信仰を持つと何が違ってきますか?

信仰を持つと、自分が「ひとり」ではなくなり、神と共に生きる人となります。罪と死から救われた者であることを知り、生きる希望が湧いてきます。また運命論や宿命論のような閉ざされた人生観ではなく、神を信頼し、神の導きに与(あずか)る開かれた人生観の人となり、「信仰と希望と愛」に生きる人とされます。「平和を作り出す人たちは幸いである」と教えています。私たちはこの聖書の教えに従って、戦争ではなく平和を作り出していく存在でありたいと祈り願っています。

なぜキリスト教国といわれる国が戦争をするのですか?

過去、多くの戦争においてその本当の動機を隠すために、「神の名」が掲げられました。十字軍や帝国主義戦争なども、その動機には欲望や野心があったわけですが、「神の名」が掲げられて正当化されてしまったのです。ですから、宗教戦争の本質は、人間の欲望や野心ではないでしょうか。 さて、聖書は「盗んではならない」「むさぼってはならない」「殺してはならない」と教え、またイエス・キリストは、「剣を取る者は、剣によって滅びる。だから剣をさやに収めなさい。」と弟子たちに教えました。このイエス・キリストの教えに忠実な国を「キリスト教国」と呼ぶとするならば、キリストの教えに反して、他の国を武力によって攻撃したり侵略する国を「キリスト教国」とは呼べないでしょう。 聖書は「平和を作り出す人たちは幸いである」と教えています。私たちはこの聖書の教えに従って、戦争ではなく平和を作り出していく存在でありたいと祈り願っています。

罪人ですか?私は罪など犯してません。

キリスト教の教会は、いい人の集まりのようで、行きづらいのですが。
そんなことはありません。教会は罪人の集まりです。

罪人ですか?私は罪など犯してません。
キリスト教で言う罪とは、盗むなどのような悪いこと、法律違反をしたことではなくて、「的はずれ」ということです。的とは神様のことで、神様の方を向かずに、自分勝手に生きているということです。

奇跡というものが信じられません

まず、「奇跡」というものをどうとらえるかです。奇跡というと、摩訶不思議な超常現象だと考えられていますが、キリスト教では、神様のなさる業が「奇跡」なのです。たとえば、あなたという人間が今生きているということも、奇跡です。なぜなら、神様があなたという人間に命を与え、生かしていてくださると考えるからです。そう考えると、自分という人間が今ここに生きて存在している、ということも実に不思議なことであることが分かってきます。

当然といえば当然なのですが、聖書には様々な「奇跡」が書かれています。多くの人は、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したりなさったことを奇跡だと考える。もちろんそれも奇跡です。神様でなくてはできないことだからです。しかし同じように、この宇宙が存在しているのも奇跡です。いろいろな不思議に満ちています。それも神様の造られたものだからです。花一輪を見ても、実に不思議に見えてきます。それも神様の造られたものであるからで、その意味では奇跡なのです。

そう考えると、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したり、水の上を歩いたり‥‥そういうものだけが不思議だと考える方が間違っていることが分かってきます。私たちは神様の造られた世界の中で、神様の働きに囲まれている。つまり、実は、神様の奇跡が満ちている中で、生かされているのです。ですから、聖書から言えば、奇跡を否定したら、この世界もあなたも存在していないことになります。

私でもクリスチャンになれますか。

クリスチャンになった、多くの人がそのように思っていました。しかしなってみると、くだらない心配をして いたことに気がつきます。クリスチャンは、清い人間ではなく、ただ神さまから赦しを受けた、罪人に過ぎません。 違いは、神の愛を知り、平安が与えられ、喜びの中に生かされていることです。私は、だれでもなれると言うより、 みんななったらよいと思っています。

信仰に入ると何か自由が束縛されるのでは?

この考えの背景には、自由についての取り違えがあると思われます。確かに信仰を持つと、自分勝手なことがしにくくなります。自由と自分勝手は違うからです。自分勝手というのは、他人が迷惑しようが、どう思われようが構わずに、自分がしたいことをするということですが、これは自由とは関係ありません。本当の自由とは、本能の奴隷、欲望の奴隷、感情の奴隷となっている状態から解放されて、喜びと平安にあふれた生き方に変えられることです。たとえばタバコをやめたいと思ってもやめられない人は、タバコの奴隷です。キリスト教には戒律などはありませんが、神の言葉は人生の最大の指針です。これを譬えていえば、ちょうど交通ルールを守って走行する人のようなものです。ルールを守る人は、たとえ事故で被害者になったとしても、法律によってしっかり守られるのと同じです。ルールを守らずに勝手に運転することは自由ではなく、自分勝手なのです。

忙しすぎて信仰なんか考えてられませんよ。

お忙しいところ誠に…」というように、忙しいは私達の挨拶にさえなっていますが、それは忙しいほど充実した毎日を送っているということなのでしょうか。むしろ忙しすぎてイヤになってしまうということなのではないでしょうか。その割にはテレビに結構時間をとっていたりするものです。遊ぶとか、自分のことのためには時間がないことはないのです。つまり、「忙しい、忙しい」と言いながら、今日の多くの人々は、心の生活を失っているのではないでしょうか。よく言われることですが「忙しい」という字は「心が亡びる」と書きます。心が亡びる生活を送っているわけです。しかし、人間として生きていこうとするときに一番大切なことは心の問題で、生き甲斐とか生きる喜びです。忙しければ忙しいほど、内面の充実が問われるのです。そしてそれこそ神の言に聴く信仰生活にほかなりません。

どうしても愛せない時はどうすればいいのでしょうか?

まず、愛そうとして真剣に取り組み、悩んでいること自体がとても尊いことだと覚えましょう。罪びとである私達は、嫌いな人とはすぐ壁を作ったり逃げたりします。その方が簡単で楽だからです。愛せない自分、寛容になれない自分を認めることは、とても勇気のいることだからです。ところで愛するとは一体どういうことなのでしょう。様々な考え方があると思いますが、そのひとつは「一緒にいる事に満足する」事でしょう。ところが嫌いな人とはそうはいきません。幾つかのアドバイスがあります。(1)愛せないと自分を責めるより、謙虚に自分の限界を認め、自分の力のなさをイエスさまに告白しつつ、力が与えられるよう真剣に祈る事から始めましょう。(2)相手の嫌いな点が実は自分について嫌いな点だったり、自分に原因があったりするものです。(3)ぜひ以下のルカ6:31からの聖書の言葉を読んで下さい。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。(ルカ6:31-35)

キリストが神の子なら、なぜ十字架に架けられたのですか?

ローマ人が考え出した十字架刑は、人間が作った処刑方法の内で最も辱めと苦しみを与える死刑の方法であると言われています。ですから当時ローマ市民には決してこの処刑方法を用いられず、大抵、奴隷とか極悪犯罪人を処刑する時にだけ用いられました。では、なぜキリストはこんなとんでもない十字架に架けられたのでしょうか?それは一面から見れば、人間の妬みですが、本当はさらに深い意味があって、神のご計画によって行われたのです。遠くはアダムとエバが罪を犯したすぐ後にも、もう十字架が予告されていましたし(創世3:15)、預言者イザヤは約700年も前に、まるで眼前で見ているかの様にその光景を預言しています(イザヤ53章をご覧下さい)。その他の多くの預言がイエス・キリストに成就し、彼が人類の罪の身代わりに罰せられ、その結果、私達の罪の赦された事が聖書に書かれています(1ペテロ2:24)。

クリスチャンになるすばらしさは何でしょうか?

クリスチャンは、罪赦され、神の愛のご支配の中に入れられています。 「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)と記されています。 神の愛の支配にあるということは、神が全生涯を責任をもって導いてくださるというすばらしい約束なのです(ローマ8:28)。 また、神の導きによって、私たちは正しい生活へと導かれていきます。

クリスチャンに禁じられていることは何ですか

より良い質問は、「クリスチャンは何をできますか」クリスチャンは毎日神さまの平安と喜びのただ中に生きる事ができます。クリスチャンに聖霊さまがいます。聖書には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いています。しかし、そんな生活を生きるために、聖霊を悲しませることをやめなければなりません。偽り、不道徳、傲慢、野心、憎しみ、そんなことは聖霊を悲しませます。合理的に考えると、聖霊さまを喜ばしたい、ね!

クリスチャンはタバコや酒などの嗜好品は禁じられてるの

聖書には「私たちの体は神さまの神殿である」と書いています(第1コリント6章19節)。体に良くない事は、神さまの神殿に害を与えます(食べ過ぎと運動不足も良くない、ね!)。タバコのことは聖書に書いていない(アメリカ大陸原産ですから)ですが、酒についてはいろいろ書いています。エペソ5章18節には「酒に酔うな。それは放蕩(欲望に対し極端に堕落した状態)につながる」と書かれています。しかし第一テモテ5章23節には「少しワインを飲むのは胃のためです」と書かれています。詩篇104編15節には「人の心を嬉しくするワイン」を造ったのは神さまと書かれています。しかし箴言20章1節には「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」とあります。

箴言23、31章、イザヤ書28章にはワインとビールは正しい判断を出来なくさせると書かれてあります。ローマ14章16〜23節には、キリストにある兄弟姉妹をつまずかせない責任があるとあります。誰かに飲むように勧めて、その人がその部分に弱さがある場合、その人に起こることの責任を、神さまは私たちに問います

キリストにある勝利の生活を送るにはどのように過ごせばよいですか

聖書には「信仰は勝利です」と「信仰から出ていないことはみな罪です」と書いています(第1ヨハネ5章4節、ローマ14章23節)。もちろん、信仰は欠かせません! それに、神さまからの武具があります(エペソ6章10〜18節)。分かりやすい、実用的な助言を言うと、誘惑を避けることが賢いです。神さまは、私たちが耐え切れない誘惑に会わないと約束しています(第1コリント10章13節)。「そこに行けば誘惑される」と分かれば、行かないで! 勝利の信仰生活と具体的なポイントはエペソ4章17節〜5章21節にあります

私たちはどうやって罪に打ち勝てばいいのでしょう

上の答えを見てください。そして、忘れてはいけないのは、第1ヨハネ1章9節です。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」

クリスチャン人生にとってのゴールは何であるべきか

ゴールはいろんな角度から考えられます。最終的に、私たちのゴールは神さまの王座の前に立って「よくやった。良い忠実なしもべだ」と聞く事です。しかし、それが日常生活からほど遠いことと感じる場合もあります。ある伝統的信仰告白には「神を愛し、永遠に神を楽しむ」と書いています。単純に言うと、イエスさまに似てくる事とも言えます。御霊の実を結び(ガラテヤ5章22,23節)、キリストに留まる事(ヨハネ15章4節)。ゴールを目指しましょう(ピリピ3章:12〜14節)!

神の言葉を聞くとき、聖霊から示されたことか、聖書によるものか、どちらが究極か

忘れたらいけないのは、聖霊さまは聖書の作者です。聖書に反することは語りません。悪霊も、私たちにささやきます。聖霊さまの声に慣れると、偽りの声に気付きやすくなりますが、油断するのは危険です。聖霊さまの声に慣れるためには、聖書を読めばいいです。聖書に現代の具体的なことは書いていませんが、原則、基本理念は変わりませんので、聖書になじんでいると今日のための導きが分かりやすくなります

教会に来ている人は、みな立派で敬虔に見えますが、立派な人にならないといけないのでしょうか?

クリスチャンとは《キリストに生かされている者》という意味です。天使ではなく人間ですから、この地上で生きるかぎり、様々な悩みを持っており、欠点を持ち、不完全なものです。ただ違うところは、自分の為にしか生きていない自分を、キリストの十字架によって赦(ゆる)され、愛されていると信じていることだけです。教会に来ているといっても、ひとりひとり性格や個性は異なります。立派になろうと心がけることよりも、キリストによって神に愛されていることを信じることが出来ればよいと思います。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生日?

一般にはそう言われていますね。でも、実は、「イエス・キリストの誕生日は12月25日」ではないようです。 聖書には、イエスの誕生日どころか、季節さえ書かれていません。しかし、そのとき羊飼いたちが野原で野宿をしていたと書いてあるので、冬ではなかっただろうと言われています。

クリスマスツリーも、もともとは他の宗教の影響によるものですが、12月25日というのも、どうやらローマに古くからあった宗教の影響があるようです。

しかし、クリスマスが「救い主イエス・キリストの誕生を記念して祝う日」であることは変わりません。 すばらしい喜びという意味では、クリスチャンにとっては、毎日がクリスマスなのです。 

13日の金曜日は不吉な日?

いわゆるキリスト教国などで、この日には悪いことが起こるなどと言われることがあるようですね。イエス・キリストが十字架にかけられたのが金曜日で、前夜の最後の晩餐に集まっていたのが12弟子とイエス・キリストを合わせて13人、といったようなことを根拠にしているようですが、これは迷信というものです。聖書と神さまには全く関係ありません。

たとえイエス・キリストが金曜日に十字架につけられたとしても、そのキリストの死は、悪いものどころか、神さまの愛が極限まで私たちに示された瞬間でした。イエスさまの死の故に、私たちは生かされているのです。

本当のキリスト教では、縁起をかつぐとか、不吉なしるしとか、そういったことは一切言いません。迷信から全く自由にされているのがクリスチャンです。

神が愛であるなら、なぜこの世界には苦しみがあるの?

この世界には、不条理と思われることがたくさんあります。 病や死、戦争や災害があり、人々が苦しみ嘆いているのをまるで神さまは黙って見ておられるかのように感じることもあるでしょう。

しかし、そもそも争いやねたみ、裏切り、そういったものは、人が神さまに背き、罪を犯したところに端を発しています。それが広がって、国家民族を巻き込む紛争や戦争に発展したのです。 神さまは、罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放し、永遠に生きないようにされました。そこから死が始まりました。

でも、これは単に自業自得だから仕方がない、という話ではありません。 神さまの霊をいただいていのちある者となった人間が、神さまに背き、神さまから離れるということは、霊的な死を意味します。霊的には死んだままで、身体は永遠に生きる、これほど怖ろしいことがあるでしょうか。肉体の死があるということは、慰めでもあるのです。

驚くべきことに、神さまは、人間をエデンの園から出されると同時に、ご自分にそむいたその人間(人類)を救い、永遠に神さまとともに愛の中に生きるようにするということを決めておられました。それは、ご自身のひとり子イエス・キリストを人として地上に送り、むごたらしく惨めな十字架の死を通して、人間を回復するという計画でした。それが神さまにとって、痛みでないことがあるでしょうか。 しかし、それほどまでに、神さまは私たちを愛しておられます。 神さまは、私たちの苦しみをともに苦しんでおられます。 

そしてイエス・キリストが再び地上に来られ、世界が新しくなるとき、神さまは私たちの目の涙をすっかりぬぐいとってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。そのような世界をはっきりと約束なさっています。 このことを信じられるのは、ほんとうに幸いだと思います。

天使や悪魔は本当にいるの?

聖書では、天使は「み使い」とも呼ばれています。英語ではangel です。よく白い羽の生えた天使が絵に描かれていますが、聖書にはそのような描写はありません。 天使の働きは、神さまに仕えることです。神さまの言葉を仲介して人に伝え、また私たち人間を守る働きもしているようです。

悪魔(サタン)も、霊的な存在です。もとは天使であったものが、高慢のゆえに堕落して、神に敵対するものになったと考えられています。サタンの目的は、人を神から引き離し、救いの計画を失敗させることです。 このサタンも、絵に描かれるような怖ろしい姿をしているわけではありません。「光のみ使いに変装する」とも言われます。巧妙に人をだますのですね。

しかし、サタンはすでに敗北した者です。神さまが、イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけて人の罪をあがない、キリストが復活して天に昇られたということは、神さまの救いの計画は、いくらサタンが妨害しようとしてもすでに完了しているのです。世の終わりには、そのことが明らかになります。

天使も悪魔も、実在するけれども、造られたものであって、神さまと並ぶようなものではありません。絶対に礼拝の対象にはなりませんし、いたずらに恐れる必要はありません。すべてを支配されているのは、全知全能、創造主である神さまですから。

どうすればクリスチャンになれますか?

クリスチャンという言葉は、もともと「キリストに属する者」または「小さなキリスト」を表しました。今日では、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じ、キリストの教えに従う人々のことをクリスチャンと呼びます。言い換えれば、クリスチャンは、キリストによって、神の子という身分をいただいた者です。

クリスチャンになるには、手続きより何より、イエス・キリストが自分の救い主であると信じ、告白することが必要です。

次のことを考えましょう。
1.神さまはあなたを愛しておられます。
2.すべての人は罪を犯しました。そしてその結果、神さまから離れてしまいました。あなたも、です。
3.しかし、神さまは、ひとり子(イエス・キリスト)を十字架にかけて、代価を払って下さいました。 
4.あなたは、イエス・キリストによって、罪が赦されるということを信じますか。赦されたいと思いますか。「Yes」なら、神さまにお話ししましょう。「神さま、私には罪があります。でも私のために、イエスさまが十字架にかかり、私の罪を赦して下さいました。このことを信じます。ありがとうございます。」これで、あなたはクリスチャンです。神の家族になりました。

ただし、教会によっては、その教会で定める洗礼という儀式を受けて初めてクリスチャンと呼ぶこともあります。

洗礼を受けなくても、信じていればいいのでは?

洗礼というのは、特別な宗教儀式で、洗礼を受けてしまうと何かとんでもないことになってしまうのではないかという恐れのようなものを抱いておられますか。 または、洗礼などただの形式だ、と言う人もいるかもしれませんね。

洗礼は、イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れた人が、その信仰を神と人の前で公に示すものです。洗礼は、クリスチャンとしてのゴールでもなければ、天国へ行けることの保証といったものでもありません。 洗礼は、今までの古い自分がイエス・キリストの十字架とともに死んで、復活されたキリストの新しいいのちをいただいて新たに生まれたことを象徴しています。

聖書を読むと、イエス・キリストは、弟子たちに対して、洗礼を授けるように、とおっしゃっていますし、イエス・キリストご自身も、人となって洗礼を受けておられます。神さまに従う者としての模範を示されたのです。

洗礼を受けることが、「救い」の条件ではありませんが、あまり自分の考えにこだわる必要もありません。神さまの前に素直でいたいですね。

クリスチャンになると厳しい戒律を守らなくてはならない?

クリスチャンというと、何か「きよく正しい」生活をしているようなイメージがありますか。
お酒やタバコはいけないとか・・・。
確かに、聖書には、酒に酔ってはいけないと書かれています。それは、酒に酔ったために、正気を失ってとりかえしのつかないことをしてしまうということがあるからです。 また、タバコは、自分自身にも周りの人にも害になることがわかっています。 神さまは、私たちを愛しておられますから、私たちがそのようなことでダメになってしまうのを悲しまれます。

「私たちは何をしてもいいのだけれど、すべてのことが益になるとは限らない」と聖書は言います。 禁じられるからしないのではなく、私たちの理性を働かせ、自由な意志をもって、することしないことを判断していきたいと思います。

クリスチャンになると、悪いことは起こらない?

一般的に、何かを信仰するというのは、病気であったり、困難であったり、そんな状況からの救いを求めてその信仰に入るということが多いですね。 神社に祈願したり、お地蔵さんにお願いしたりするのは、「病気が治るように」「試験に合格するように」「商売が繁盛するように」といったことがほとんどだと思います。

天の父である神さまは、私たちを愛しておられますから、私たちが苦しみに遭うのを喜ばれるということはないと思いますが、何でもかんでも子どもの願うとおりにして、結局、私たちをダメにしてしまうようなことはなさいません。 私たちが願ったとおりにならないこともあります。 祈りの答えは、「Yes」であったり、「No」であったり、「待て」であったりします。

聖書には、このように書かれています。 「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:10-11)

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Tコリント10:13)

この世界は、完全ではありません。苦しみはあります。 しかし、神さまは、苦しみの中でも私たちを守り、その苦しみを通してしか得られない宝を見いだすように助けて下さる、ということを私たちは日々、体験しています。 神さまがともにいてくださるなら、苦難の中でも、物事がすべて順調に進んでいるときには思いもよらなかったような、すばらしい恵みを知っていくのです。

ずっと教会に行っていないけれど、私はまだクリスチャン?

環境の変化など、人生にはいろんなことが起こりますから、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたけれど、何かのきっかけで教会から足が遠のいてしまった、という方もいらっしゃるでしょう。聖書も読まないし、お祈りもしない、こんな私はもうクリスチャンではない・・・そんなふうに感じるかもしれません。

しかし、私たちが信仰を捨てたと思っていても、神さまは、決して私たちを捨てることはありません。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とイエスさまは、約束なさっています。

私たちがどのような状態であっても、神さまの愛、十字架の赦し、永遠のいのちを与える約束の言葉は決して変わることがありません。

イエスさまを信じます、と言ったあなたの信仰告白は、神さまの御手の中に守られています。 洗礼は、有効期限が切れることなどありません。

放蕩息子のお話をご存じでしょう。(ルカ15章) 父なる神さまは、いつもあなたを待っておられます。お父さんのところへ帰ろう、そう決心したあなたを、走り寄って抱きしめ、宴会を催して喜んでくださいます。

キリスト教と50という数字の関係を教えて下さい。

ギリシャ語の『第50』と言う意味は『ペンテコステ』と言いまして,キリスト教の独特の用語です。キリスト教の暦の中の『聖霊降臨日』のことです。約2000年前,イエスが十字架の死より復活して50日目(イエスが昇天して10日後)に,聖霊が弟子たちに下り弟子たちは異国の言葉で語りだしました。そこに外国からの大勢の人々が集まり,これがキリスト教宣教の開始されるきっかけとなりました。

『ペンテコステ』(聖霊降臨日)は4世紀末ころから『教会成立の記念日』として最初エルサレムの教会で守られました。

「ペンテコステ」は、キリスト教独特の用語ギリシャ語の「第50」の意味です。キリスト教の暦の中の「聖霊降臨日」のことをいいます。イエスが復活して50日目(昇天して10日後)に、イエスの聖霊が弟子たちにくだり、高揚した弟子たちが異国の言語で話し出すなど異様な状態に陥ったことは、使徒行伝第2章に記述されています。その高まった雰囲気の中でペテロは集まった人々に説教を始め、これがキリスト教宣教が開始されるきっかけとなりました。  過越祭から50日目にあたるこの日は、春の収穫感謝の祭りが行われるユダヤ教の重要な祭日(五旬節)でした。この日に聖霊が降臨したことから、キリスト教でいう「ペンテコステ」は聖霊降臨日といいます。聖霊降臨日は、4世紀末ころから「教会成立の記念日」としてエルサレムの教会で守られたと伝えられ、現在でもクリスマス、イースターと並ぶ、キリスト教会の三大行事の一つです。「五旬節」とも呼ばれます。

キリスト教に関するQ&A

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