イエス・キリスト

精選説教集

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神様の領域ハ・ヨンジョ 

豊かなたましい

ルカ18:18~23
18: また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
19: イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
20: いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
21: すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
22: イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
23: 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。

最後の一つを求めに来た青年
人生を自信満々に生きて来た青年を一人を紹介します。その青年は良い仕事をしている人でした。そして、若さという素晴らしい財産がありました。若さには限りない可能性とビジョン、エネルギーと無限な想像力があります。彼は失敗をも決して恐れませんでした。
そんな彼がイエスの前に来て、ひざまずきました。そして驚くべき質問をしました。「何をしたら、永遠のいのちを得ることができるでしょうか。」
若くて、すべてのものを持っている若い者がわざわざイエスを訪ねて、永遠のいのちについて質問をするのですから、驚きます。その青年は、自他ともに認めるほどの素晴らしい人でしたが、彼には最後に認められたいと願う方がいました。それは神でした。

すべてが備わった青年の問題
あなたは神に会いたいと思いますか。それとも、神に認められたいと思うのでしょうか。もし、神に認められたいなら、神に会うことはできないでしょう。しかし、神に心から会いたいと願う謙虚な心があるなら、神はあなたに会ってくださいます。そのような人には主が見えます。しかし、主に認められたいなら、いくら捜し求めても主を見ることはできません。
この青年の質問、「神様、私が何をすれば永遠のいのとを得ることができますか」は、神に喜ばれる質問です。しかし、彼は心の中で「神様、どのようなことを聞かれても私はみな答えられます。少こなくとも、神様が願うことは私はすでにみなしてきましたから」と考えていました。そこで「私が永遠のいのちを得るためには何をもっとすればよいのでしょか。私に足りないものは何でしょうか」と堂々とイエスに尋ねて来たのです。
しかし、そのような人はなかなか主に会えません。謙虚な心で、悲しむ心で主を求める人に、主は見え始めるのです。事実、金持ちの青年は、永遠のいのちを得たいというよりは、主に認められたいという気持ちで来たのです。あなたは本当に主に会いたい、神に会いたいと願っていますか。
神に会うためには、まず謙遜にならなければなりません。だから、自分が何かを持っていると思っている人は神に会うことが難しいのです。神を試み、神に認められるために来る人には、神は見えません。自信ありげに「神に一度聞いてみよう」などと考える人には、神は絶対に現われてくださらないのです。
だとしたら、救われるために私たちがすべきことは何でしょうか。信じることしかありません。救いは行いによるものではありません。自分が何をしたかではなく、自分がだれであるかに焦点があるのです。
この青年は永遠のいのちに関心がありましたが、それを得る方法を誤解していました。ですから、彼のように論争をしてキリストをしんじようと思わないでください。信仰は論理的に得られるものではなく、聖霊を通して得られるものです。主をただ信じなければなりません。主を知っているから信じるのではなく、信じるから知るようになるのです。

隠された内面の偽善
人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。、
イエスは青年に、法律の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない、偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。
「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」このことばを聞いた青年は非常に悲しみました。
律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にある偽善と虚像をしり、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみなまもりましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者にに分け与え、わたしについて来なさい」と言われたのです。ここで、金持ちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。
私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題を抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的に、また哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。残念なことに、青年は財産のことで苦しみ悩みました。そして。主ではなく財産を選びました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。

たましいのつるべを失った理由
この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです。彼らのようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神様の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりせず、ただ「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。
第二に、傲慢な態度を見せました。神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を慕い求める心で出て来てください。
第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人をがどのような人になるかによって救われることを覚えてください。
第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福されるのです。
これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。こどものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。
神様の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。

祈り
主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

世の中での正しい経済観
みなさんに食べるものと着るものがあるなら、それに満足し感謝してください。なぜなら、この世に生まれた時間も持って来なかったように、この世離れる時も何も持っていけないからです。子供に遺産を残してあげたからといって、ありがたく思うこどもがいるでしょうか。多くの子供は当然のように思います。それが人間です。
聖書は、お金を愛することがすべての悪の根源であると述べています。お金を愛さずに使ってください。お金に支配されずにお金を治めてください。そうすれば大丈夫です。お金が自体が悪いわけではありません。お金を稼ぐことはよい事です。しかし、神がその主人どなるようにしてください。お金を愛し、お金が儲けようとすれば、あれこれ考えて夜も眠れなくなります。お金が出たり入ったりするばかりで、お金はたまりません。これからお金を支配してください。

永遠のいのちとは
永遠のいのちは、単なる永遠不滅ではなく、神の時間を意味します。また、永遠に生きておられる神の人格的な生活に共にあずからことを意味します。神のない永遠な時間は不安です。神のない無限な世界は考えるだけでも不安で恐ろしいものです。
永遠のいのちとは、死後の無限の世界ではなく、永遠なる神に属することを意味します。また、永遠のいのちとは、キリスト自身を意味します。永遠に生きておられる神が人間の身体でこの世に来られました。。その方がキリストです。キリストの中にまことの永遠があります。
永遠のいのちとは、死がありません。死を超えるからです。永遠のいのちを持つ人は肉体に意味を持ちません。肉体には、大きな意味がありません。失敗を恐れません。永遠のいのちを持つ人は状況がどんなに苦しくても絶望しません、なぜならキリストにある神の聖霊を所有しているためです。
ですから永遠のいのちを持つ人には自由があり、平安があります。

隠された内面の偽善
人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。
イエスは青年に、律法の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さいときから守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。
「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」この言葉を聞いた青年は非常に悲しみました。
律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にあると虚像を知り、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみな守りましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者に分け与えわたしについて来なさい、」と言われたのです、ここで、金もちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。
私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的にまた哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。

たましいのつるべを失った理由
この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです、彼のようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりぜず、ただ、「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。
第二に、傲慢な態度を見せました、神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を羨い求める心で出て来てください。
第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人がどのような人になるかによって救われることを覚えてください。
第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福してくださるのです。
これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。子どものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。
神の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。

祈り
主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。この機会に必ずキリストに出会えるように導き、祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神様の領域谷下 信之 

歴史的事実としてのイエスの復活

序 論

 どうして復活祭のことをイースターというのでしょうか。今回、初めて調べてみました。いろんな節がある中で、北方神話の春の女神「Eostre(オイストレ」に由来するというのが有力なようです。本来はキリスト教とは関係のない異教徒の春の祭りでしたが、キリスト教の布教の際に、意味を変え、普及したと言われています。寒さ厳しい暗い冬から、草木が芽吹き動物たちが繁殖する春へと移り変わる様が、十字架で処刑された後に復活したとされるイエス・キリストのイメージと重なり、統合されていったと見られています。
 イエスは十字架につけられ、殺されました。弟子たちは逃げ、身を隠しました。何もかもおしまいとなったのです。
 実際、イエスの十字架の死で終わりであったなら、すべてがおしまいだったのです。美しの門の所に座って、物乞いをしていた、足のなえた男は、復活のイエスに出会って、癒されたとありますが、もしキリストがよみがえらなかったならば、彼は癒されることなく、そのまま門の所に座り続けていたことでしょう。ペテロもよみがえりのメッセージなどできなかったでしょう。キリスト 教が世界史に名をとどめることはもちろん、地方の歴史に小さく記録されることさえなかったことでしょう。しばらくはイエスを回想する者がいたとしても、時とともにその名は忘れ去られていったことでしょう。「使徒」と呼ばれる人は一人も出なかったでしょう。キリスト教会も存続できなかったでしょう。弟子たちは絶望のどん底にいたのです。もしイエスが復活していなければ、キリストの福音もなかったでしょう。
 そもそも十字架で殺された者は、敗北者以外の何ものでもないのです。ユダヤ人には、木にかけられて死んだ者は、神に呪われた者としか考えられません。殺されることによって人を救うだって?そんな馬鹿な!救い主というのは、戦いに強い者でなければならないと言いました。弱さの中で、十字架につけられ、恥と屈辱のうちに死んだ者が、神の子で、救い主だって?馬鹿げたことだ!十字架はユダヤ人にとって、つまずきでした。汚れた異邦人であるローマの兵士の手で処刑されたとあれば、なおさらのことです。そのような人物が 神に遣わされた者だなどと言うのは愚の骨頂であります。
 ギリシア人やローマ人の考えでも、十字架にかけられた囚人が救い主であるはずがありません。十字架で殺されたたくさんの人々の中で、救い主として崇 められることになった者などはいないのです。

●イエスの埋葬
 ローマ総督の許可を得てイエスの死体を引き取ったのは、弟子たちではなく、アリマタヤのヨセフという人でした。彼は自分が所有する園の新しい墓に イエスを葬りました。間もなく安息日が始まろうとしていたので、十分な処置 はできませんでしたが、それでも亜麻布を巻くなど最善を尽くしました。墓は大きな石でふさがれ、兵士たちが見張りの番に立ちました。
 幕が閉じられ、ドラマは終わりました。それなのに、数週間後、弟子たちは、このイエスこそ神が立てられた救い主であると語り始めたのです。それも惨めな敗北の中からやっと立ち上がったというふうではなく、確信に満ち、喜びにあふれて語ったのです。いったい何が起こったのでしょうか。
 【私は百合 根が大好きで、母がよく茶碗蒸しに入れてくれました。初めは、それが何か分かりませんでした。栗のような味もするけれども、栗より白いし、柔らかい。 後で、それが百合の根であることが分かりました。大人になってから、百合根の正体を見ましたが、泥にまみれて、綺麗とはとても言えないものでした。しかし、土の中に埋葬されると、素晴らしい花を咲かせます。】

●空の墓
 女の弟子たちは行動的でした。イエスのなきがらが収められるところを確認したうえ、安息日あけの土曜日の夜、香油を買い整えました。イエスのからだに塗るためです。そして処刑日から数えて三日目、日曜日の早朝、園にやって来ました。
 ところが、そこで彼女たちが見たものは空になった墓でした。入口をふさいでいた石は脇にのけられ、イエスの死体はありませんでした。「とにかくこのことを知らせなくては」と、マグダラのマリヤが弟子たちのところに走りました。
 間もなくして、墓に残った女たちは天使が現れるのを見ました。光り輝く若者がイエスのよみがえりを知らせたのです。初めは怖くて口もきけなかった彼 女たちですが、気持ちが落ち着いてくると、このことを男の弟子たちに知らせ なければと、立ち去りました。
 ちょうどそのころ、マグダラのマリヤとヨハネとペテロが墓に向かっていました。地理に明るいヨハネが先頭にいました。足が速かったとか、少しでも早く着こうと近道を通ったためでしょうか、墓から引き返して来る女性たちと彼ら三人はすれ違いになりました。
 園に着いたヨハネとペテロは墓に入りました。そこには、死体に巻かれていた亜麻布がさなぎの抜け殼のように残っていました。頭に巻かれていた布も、 そのままの形で離れた所にありました。ヨハネの心にふと「復活」ということ がよぎったようですが、彼はそれを口に出しませんでした。そのようなことが あるとは思えなかったのでしょう。とにかく二人は当惑しながら、来た道を引き返して行きました。

●イエスとの出会い
 残ったマグダラのマリヤは悲嘆にくれていました。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞきこむと、そこに白い衣を着た二人の人がいました。「どうして泣いているのか」と聞かれて、「だれかが私の主を取って行きました。 どこに置いたのか、私にはわからないのです」と答えるのがやっとでした。
 そのとき人の気配を感じてマリヤが振り向くと、そこにも人が立っていました。その人も「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と尋ねます。墓の管理人だと思ったマリヤは、死体のありかを尋ねました。
 「マリヤ。」聞き覚えのある声。紛れもないイエスの声です。イエスがそこに立っていたのです。
 「ラボニ(先生)。」マリヤは自分の眼を疑いました。しかし、確かにイエスです。彼女は眼にいっぱい涙を浮かべてイエスにすがりつきました。もはや悲しみの涙ではなく、喜びの涙でした。イエスは彼女の肩にそっと手を置いて、弟子たちに自分がよみがえったことを伝えるよう命じました。
 この出来事と前後して、先に墓を離れた女たちもイエスに会いました。彼女たちもまたイエスの足にすがりついて拝しました。夢でも幻でもない。まさしくイエスがそこにいました。「私たちはイエス様に会いました。」女たちが熱 心に語っても、弟子たちは怪しむばかりでした。そもそも女性の証言が有効と 認められないユダヤ人社会のこと、「十字架で処刑された人間が生き返るはずがない」と、一笑にふされてしまったのです。弟子たちもイエスの復活を信じていなかったし、期待もしていなかったのです。
 ところが、同じ日のうちに、男の弟子たちもイエスに会うことになりました。二日前にイエスを見捨てたペテロが最初に会いました。前後してクロパともうひとりの弟子。エマオという村に向かう途中のことでした。しばらく共に歩きながら、彼らはイエスであることが分かりませんでした。しかし、目的地に着いて食卓を囲んだとき、パンを裂く姿を見てイエスで あることに気づきました。
 彼らは急いでエルサレムに戻りました。隠れ家は大変な騒ぎでした。弟子たちがペテロの不思議な話を聞いていたのです。クロパたちも話の輪に加わりました。すると、そこにもイエスが現れたのです。
 弟子たちがパニックに陥ったのも無理もありません。何しろ突然閉じられた部屋に現れたのですから。取り乱した弟子たちに、落ち着いて自分のからだを見るようイエスは勧めます。それでもなお信じられない表情の彼らの前で、イエスは焼いた魚を一切れ食べてみせました。
 十二弟子の中でトマスだけが留守をしていました。戻って来た彼に仲間たちが話して聞かせましたが、彼は信じません。「十字架の釘の跡を手で確認できなければ、信じない」と言いはったのです。
 それから一週間後、弟子たちは再び同じ場所に集まっていました。今度はトマスもいます。そこに前と同じように突然イエスが現れ、彼に向かって言いました。「トマスよ、あなたの手で釘の跡に触れてみなさい。」さすがのトマスも「わが主、わが神」と叫び、ひたすらイエスを礼拝しました。  それから弟子たちはイエスの言ったとおり、ガリラヤに向かいました。そこでも彼らはイエスと会いました。教えを受け、食事を共にし、語り合いました。聖書の証言によれば、復活したイエスとの出会いは、このようにして四十日にわたりました。

●歴史上の事実としての復活
 こうした弟子たちの経験を、夢や幻のせいにすることはできません。彼らの心の中の変化が「復活」という形で表現されたのだという「現代的」な解釈も、イエスの墓が空になっていた事実を説明できません。同じような経験を、違う場所で、異なる人々が、何十人、いや何百人もしたのです。
 空の墓は動かし難い客観的な事実です。敵対する者たちも、こればかりは否定できませんでした。遺体を見せて、それを否定することはできなかったのです。
 そのうえ、復活したイエスとの出会いによって、弟子たちはまったく変わってしまったのです。臆病だった彼らが大胆に宣教を始めました。脅えていた彼らが、死をも恐れない人間になったのです。自分たちの仲間が石で打ち殺され ても、剣で切り殺されても、「イエスは死人の中からよみがえった」と語ることをやめなかったのです。復活を信じていなかった彼らが、信じることができ なかった彼らが、信じて、それを証しするようになったのはなぜでしょうか。
 確かに復活は不思議な出来事です。私たちの日常からかけ離れた経験です。ですから、さまざまな説明が試みられてきました。しかし、どれも空想に頼っていたり、不自然であったりして説得力を欠きます。
 空の墓。たくさんの目撃者。とりわけ弟子たちの劇的な変化。こうした状況証拠のすべてを説明する唯一の方法は、イエスはよみがえったという弟子たちの証言をそのまま受け入れることです。それ以外、十字架で死んだイエスを神の子、救い主と信じるキリスト教の起源は説明できません。
 釈迦のように、時間の経過とともにイエスが神格化されたのだという主張もありますが、それは事実に反します。最初から弟子たちはイエスを賛美し、礼拝したのですから。教会はその宣教のはじめから、イエスを礼拝すべき神として伝えたのですから。

●私たちにとっての復活
 イエスの復活は、私たちに何をもたらすのでしょうか。
 第一に、復活によって、イエスが単なる偉大な教師、宗教家ではなく、神から遣わされた救い主で あることが分かります。新約聖書は「死者の中からの復活により、大能によっ て公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」 (Rom.1:4)と言っています。弟子たちもイエスがよみがえって、初めてそのことに目が開かれました。
 第二に、復活はイエスの死が、神に呪われた者の死、敗北の死ではなく、 神が受け入れられたものであることを明らかにします。復活のゆえに、十字架の死が、私たち罪人を救うのに有効であることが分かるのです。「17そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あな たがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。18そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」 (1Cor.15:17-18)
 第三に、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と聖書に記されています(同15:20)。初穂ですから、それに多くの復活が続くのです。イエスの復活は私たちの復活の序曲です。イエスがよみがえられたように、私たちもやがてよみがえると聖書は約束しているのです。
 しかし、復活のいのちは、終末において初めて与えられるのではありません。イエスを信じる者は、霊的にイエスとひとつにされ、この地上においてすでに復活のいのちにあずかることができます。永遠のいのちを与えられた者として、この人生を生きるのです。これが、復活のもたらす第四の結果です(ロ ーマ6:4-5)。

結 論

 最後に、イエスは復活した方ですから、単なる過去の人ではありません。今この地上に目に見えるかたちで存在しているわけではありませんが、「天において」私たちのために神にとりなしをしていてくださると聖書は教えています (ローマ8:34)。イエスは「生ける救い主」なのです。
 釈迦も孔子もマホメットも死にました。そして、よみがえることはできませんでした。しかし、イエスは死人のうちからよみがえられました。輪廻転生は、インド古来の死生観であり、仏教のものではありません。現代でも、 死後については、「わからない」が、仏教、特に禅仏教の解答であります。 そんな中で、死後の世界について確信を持って語ることができ、本当の希望と慰めを語ることができるのは、私たち、福音に生きる者だけであります。
 私たちもやがて死ななければなりません。だれひとり例外なく。しかし、復活したイエス・キリストがおられます。この方によって、私たちは死から、死の恐れから救い出されます。肉体の死を乗り越えていく永遠のいのちが与えら れるのです。これが聖書の約束なのです。感謝して、与えられる新しいいのち に生きる者とされましょう。

神様の領域増田 誉雄 

クリスマスメディテーション

Ⅰ「心のベツレヘムへの旅」

「マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」
ルカの福音書2章19節

今年のクリスマス。私の心をほのぼのと温かくしてくれるものがあります。それは、救い主としてイエス様が誕生されたとき、天使たちが、まるで最初のクリスマス キャロルよろしく讃美した天的な情景またその歌詞です。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
ルカの福音書2章14節

さらには、野宿で野番をしていた羊飼いたちが、天使たちの救い主の降誕の知らせを聞いて、ベツレヘムにあるマリヤとヨセフと飼葉おけの中のみどりごのもとに訪れて、神をあがめ、讃美しながら帰って行ったことなどです。
マリヤはこういったことごとを、まるで宝のように心にひめて(英語の現代語訳より)「思い巡らしていた。」のでした。このことに私の心は捕えられて、私も心のベツレヘムへ旅をしようと思ったのです。― マリヤとヨセフはナザレから約120キロ離れたベツレヘムへ旅をしてイエス様の誕生を迎えたのでした。
こう思うきっかけになったのは、何年か前、アメリカの友人からいただいた救い主ご降誕の瞑想の言葉でした。ここに紹介させていただきます。

 「心の故郷ベツレヘムへの旅」
ベツレヘムは子供の時を思い出させる ― クリスマスの思い出が走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。
「ベツレヘムに行って・・・この出来事を見てこよう。」と羊飼いたちが交わした言葉が迫ってくる。すると、子供の時のことがよみがえってくる。両親の惜しみない愛のもとで迎えたクリスマス・・・
世の汚れと誘惑の重圧で、生活の優先順位も、気がついたら狂ってしまっていた。かっては、「神の国とその義とをまず第一に求め」て生活したとこもあった。こう思ってくると、ベツレヘムの地名を聞いただけで、わたしの心には、「そうだ、そこは私の心の故郷だ。」と慕う思いが生まれてくる。
「今年も、私は救い主イエス様にお会いしに行こう。私の心をお捧げするために『心のベツレヘムに』旅しよう。」
クリスマスは再び訪れてきた・・・そして、ベツレヘムも。私にもまだ機会は残されていると気づかせるかのように。私も羊飼いたちのように言おう。そして急いで行こう。救い主のもとへ。
ベツレヘムでお会いするイエス様は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、まさに豊かに得るため。」(ヨハネの福音書10章10節)と呼びかけてくださっている。そこでいただく「豊かないのち」は救い主から与えられる永遠のいのちとその喜びまた平安である。

祈り:このクリスマスのとき「心のベツレヘム」に旅をし「豊かないのち」の喜びと平安をいただき、それを人と分ち合うことができますように。アーメン

Ⅱ「飼葉おけの中に誕生された救い主」

「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
ルカの福音書2章6~7節

ベツレヘムにはマリヤとヨセフ、それにお生まれになる救い主を泊める宿もありませんでした。何と昔も今も救い主に無関心また拒絶的である人の心を象徴していることでしょう。

しかも、飼葉おけの中とは、最低の場所といってもよいでしょう。最も貧しいところに誕生された救い主は、最も貧しく、汚れ、破れた心の中にも誕生してくださることを表しています。

あるお医者様が罪という病にかかっている人間の状態はまさに「患う(わずらう)」という字が示す通り心に串が刺さっているようなものです、と私に感慨深く言われたことがありました。その串は罪の三位一体とも言うべき、うらみ、ねたみ、そねみで、人の心を蝕んでいますとさらに言われました。

でも、そのように串が心にささっている状態でも、また飼葉おけの中のようにきたなく汚れていても、心を開くときに救い主は入ってくださる。そして、そこを救いの輝きのあるところとしてくださる。ですから天使は「民全体のためのすばらしい喜びの知らせ」と救い主のご降誕を告げています。それは、人間の新創造という喜びの知らせです ― 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第2 5章17節)と使徒パウロも言っています。

祈り:救い主イエス様。あなたは飼葉おけも輝きに変え、串の刺さった心も癒されます。このクリスマスの時、どうぞ私の心の中にお入りください、そしてクリスマスの喜びに生きる者としてください。アーメン。

Ⅲ 「救い主への賛美」

「たちまち、御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
ルカの福音書2章13~14節

自己嫌悪におちいる時、絶望するときは誰にでもあるようです。そのようなときの選択肢の一つとしてクリスマスのとき(いや一年中いつでも)浮かび上がってくるのが賛美すること、心の中で救い主イエス様を崇めることです。

天使たちが最初にささげた賛美は、まず、いと高き所にいます神に栄光を、という祈りの賛美でした。不思議なことに、このように祈り、賛美するとき、地の上に住む自分の中に平和な心、平安が訪れるのを体験します。そうすると問題であったものも、視点が変えられて問題でなくなることもあります。また、問題があっても、平安な思いで受けとめ、解決に意欲と力と知恵が与えられます。そればかりでなく、状況が一変したりもします。勿論、長いこと忍耐をもって処理していかなければならないものもあります。そこではイエス様はインマヌエル、すなわち、「神は私たちとともにおられる」お方として臨んでくださり、

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
イザヤ書41章10節

と励ましてくださいます。
クリスマスの賛美の最たるものは、ヘンデルが作曲したメサイアでしょう。中でもハレルヤ コーラスは、聞く者に感動を与え続けています。当時の英国国王ジョージ2世も感動のあまり起立したとのことです。それが伝統となって、今日もコンサートで一同ハレルヤ コーラスにくると起立します。それほどの大曲ですが、ヘンデルが失意と試練のどん底にあったとき与えられたオラトリオで、何と24日間という短期間で書き上げてしまったというのです。ハレルヤ コーラスのところへきたとき、彼は、「私は私の目の前に天国が広く開かれて、偉大なる神ご自身を拝したてまつった思いがしたのです。」と述べています。まさに逆境の中で逆転劇が与えられ、今も、世界各地でクリスマスの感動を与え続けています。

祈り:賛美がヘンデルに人生の逆転劇を与え、失意から立ち上がり、多くの人への励ましと感動になりましたように、この私にも賛美の祝福に生きることを得させください。アーメン

藤原導夫(ふじわら みちお)

地方伝道の重荷を担って

【北海道伝道旅行】

「使徒の働き13章1節~5節」
・13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
・13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
・13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
・13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。
・13:5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。

今回、皆様のお祈りに支えられて北海道へ伝道旅行に行って参りました。 お祈りを本当にありがとうございました。 天候にも恵まれて快適な旅となりました。 今回は、北海道の東部地方、網走、美幌、常呂、弟子屈、釧路といった地域を巡ってきました。 先週23日の日曜日には、福音バプテスト宣教教団の網走教会と美幌教会で説教させて頂きました。 そして24日の月曜日・秋分の日の振替休日には教団の常呂聖会で2回説教させて頂きました。 網走教会は無牧の教会でした。 年老いた3人の女性と中年の無職の男性がその教会を支えていました。 同じ団体の牧師が月に一回説教に訪れる。 それ以外はテープを聴いたり、信徒の方が説教するという形で教会は守られていました。 午後は美幌教会でしたが、40歳代前半の牧師がそこで伝道牧会しておられました。 奥様と二人の小さなお子さんがおられました。 13、4名の方々が集まってこられました。 その牧師が言っておられました。 「これらの中の二人だけが働いており、残りの方々は年金で生活しておられます。」

網走教会にしても、美幌教会にしても、大変厳しい状況の中で闘っておられると思いました。

北海道から帰って、その牧師から届いたE-Mailを読ませていただきたいと思います。
「こんにちは!北海道の石井義一です。
関東の気候はいかがですか?私達は今週の水曜日(9月26日)の夜の祈祷会で久しぶりにストーブをつけましたよ。 こちらはあっという間にもうすぐ冬です・・・。 この度は、私達の教会や群れに、御言葉のご奉仕をはじめ、数え切れない恵みを注いで下さり、本当にありがとうございました。 私達もお交わりとしては短い間でしたが、本当に沢山のことを教えて頂き嬉しく思っています。先生たちの祈りが非常に良く伝わってきて、信徒一人一人の心にも残っているようです。 このような交わりと機会を与えてくださった主に心から感謝しています。また、送り出してくださった市川北教会とご奉仕下さった先生ご夫妻のご愛にも沢山の励ましを覚えました。 今回地方の教会のありのままの姿をお見せする事になりましたが、私達も励ましの祈りに応えるべく、神様に用いられる器、教会として更に一歩踏み出させて頂きたいと祈りの火が更に燃え始めました。 まだまだ現状は祈りの課題が山積していますが、主の導きの中で一足ずつ皆様と共に進んで参りたいと願っています。 また祈りの課題等があるときは、地方からも送らせて頂きます。また先生方の祈りの課題等もございましたらこちらでも祈らせてくださいね。 そして、これからも色々と若輩の牧師をはじめ家内共々宜しくご指導下さいます様お願い致します! また、良い機会の時には、是非こちらにも今度は本当にお気を使われずにいらして下さったらと願っています。 本当にありがとうございました。 教会の皆様、智子先生にも宜しくお伝え下さい。 またお会いできる日を楽しみにしています!
主に在りて、石井義一」

この石井先生や現地の教会の方々がとりわけ喜んでくださったのは、市川北教会全体が私たちを送り出してくださったということでした。 9月19日の市川北教会の祈祷会では、集まった皆さんが讃美を歌い、祈って私と家内を送り出してくださったと報告しましたら、皆さんはとても感激しておられました。

今、使徒の働き13章の初めの部分を読みましたが、そこにはパウロとバルナバの伝道旅行のことが記されています。 しかし、それはパウロとバルナバ個人で行われたものではありません。 シリヤのアンテオケ教会が断食し、祈って彼らを送り出しているのです。 今回の北海道への伝道旅行がそのような形で行われたことを私は本当に嬉しく思っています。 そして、そのような形で私たちが送り出されたことを北海道の方々も感激して受け止めて下さったのです。

【地方伝道の重荷を担って】

パウロはローマ人への手紙1章14節~16節において次のように語っています。
・1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
・1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
・1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
パウロは自らの伝道を、自らが果たすべき「負債」であると理解し受け止めていまました。 不思議な理解であり、受け止め方であると思います。

私は今回の北海道旅行において改めて思い知らされたことがあります。 それは地方での伝道牧会の厳しさつらさということです。 既にご報告しましたように北海道東部にある網走教会は無牧の状態です。 牧師に来て欲しくても来てもらえない状態が続いています。 私はかつて自らが伝道牧会した摩周湖の街にある弟子屈教会も訪れました。 しかし、その教会は数年前に閉鎖されてしまいました。 さびれ果てた教会堂や牧師館を前にして深く心が痛みました。 今回は道南には行けませんでしたが、私がかつて伝道牧会していた道南の室蘭教会も弟子屈教会と同じように閉鎖を余儀なくされてしまいました。 私の母教会は島根県のさびしい田舎にあります。 このK教会は過疎の嵐の中にあって今でもかろうじて存続している状態です。

このような体験をさせられながら歩んで来た私は「負債」を負っているという思いがあります。 それは、そのような厳しい地方の教会のために何とかお役に立ちたいとの思いです。 そのような私たち夫婦の思いやビジョンを市川北教会の方々が受け止めてくださり、喜んで私たちを送り出してくださったことを心から感謝しております。 現在は一年に一度、地方の教会に出かけて無報酬でご奉仕させていただき、献金をお届けしたい、という願いが皆さんのご理解とご協力によって実現できていることを感謝したいと思います。 このような働きが市川北教会全体の更なる祈りとなりビジョンとなることを心から願っています。

今、私はお茶の水聖書学院(http://obi-net.com/)でも奉仕させていただいております。 そこでは2年前から通信教育講座を始めました。 それは、様々な事情でお茶の水聖書学院の教室に通えない方々のためのものです。 聖書を学びたい、教会でよりよい奉仕に当たりたいと願う地方の方々のお役にも立ちたいのです。 このコースを取った方々が牧師を助けて説教できるようになったり、無牧の教会などでも説教の奉仕ができるようになれば、と私は願っています。 皆さんがこのような働きのためにも更にお祈りくださりご協力くだされば嬉しく思います。

今回の北海道伝道旅行は天候に恵まれました。 私たちが訪れた道東は有名な観光地でもありますから、私たちも観光を楽しみました。 23日の網走教会の礼拝で説教をした時のことでした。 礼拝出席者は10名に満ちませんでした。 礼拝後には自己紹介の時がありました。 そこには今回の聖会に出席するために東京から来ておられた婦人伝道師の方がおられました。 その伝道師は知床を訪れた喜びを語られました。 美しく広大な自然、そこで鹿も見ることが出来、熊も見ることができた興奮や感動など。 (私と家内は鹿には出逢えましたが、熊には出逢えませんでした) そして、このように自己紹介を閉じられました。 「知床を訪れた際、そこにある小高い丘に登り、眼下に広がるウトロの街を眺めました。 ここにもイエス様に救われていない人たちが住んでいるんだ。 そう思うと、心が痛みました。 このウトロの街に住む人々を救って下さい、涙を流してそのように祈りました。」 その言葉を聞いた私たちの心は深く感動し、一つとなったような感がありました。 観光も楽しく嬉しい素晴らしいことです。 しかし、救われていない魂を覚えながら涙して祈るという心はそれに勝っていると思いました。 これは、神様ご自身の心であり、パウロの心であり、また私たちの心でもある筈です。 このような純な伝道のスピリットに触れて私たちは深く心を揺り動かされました。 その熱く切なる思いが伝染し、私たちもまた伝道の思いを熱くさせられました。

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イエス・キリスト

山上の垂訓

イエス キリスト

5:1この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
幸い
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。 5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。 5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
地の塩 世の光
5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
法律
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
怒り
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 5:26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
姦淫
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
離婚
5:31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。 5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
誓い
5:33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。 5:35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。 5:37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
復讐
5:38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。


施し
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。 6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
祈り
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
赦し
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
断食
6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 6:17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 6:18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
選択
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
思いわずらい
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。


戒め
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。 7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
最後の呼びかけ
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。 7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。 7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。 7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。 7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
最後の結論
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 7:29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

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モーセ

モーセの十戒

出エジプト記20章と申命記5章
その昔、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエル人が解放されて、モーセに導かれてカナンの地、現在のパレスチナに向かって移動した。その数、約200万人といわれている。これだけの大集団を統率するのに、約束事が必要であった。それが「モーセの十戒」と呼ばれているものである。
イスラエル人にとっては憲法であり、また日々の生活の基準であった。

 1.真の神のみを礼拝しなさい。
 2.偶像を造り拝んではいけない。
 3.神の名・権威を乱用してはいけない。
 4.安息日を守りなさい。
 5.あなたの父と母を敬いなさい。
 6.殺してはいけない。
 7.姦淫してはいけない。
 8.盗んではいけない。
 9.うそをついてはいけない。
10.他人をうらやんではいけない。

戒めは10ありますが、初めの4つは神様に対する戒めであり、後の6つは人間関係に関する戒めです。律法全体も要約すると、神に対する戒めと、人に対する戒めの2つに要約されます。イエス様ご自身がそう説明されています。「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)
これらの戒めを告げる前に一言語られています。それは誰がこれを定められたか、ということです。・・・「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」この戒めを定められたのは神様です。

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パウロ

クリスチャンの倫理

コリント人への第一の手紙6章
コリント人への第一の手紙6章を開いてください。ここでのテーマは、「クリスチャンの倫理」です。「倫理」というと、難しい言葉に聞こえてしまいますが、簡単に言えば、「良いことと悪いことの基準」と呼べは良いでしょうか。殺人は悪いことであり、慈善は良いことですが、善悪の判断をするときの基準を「倫理」と呼びます。この章においては、コリントの教会で起こっていた二つの問題について取り扱われています。一つは、人のものをだまし取る、不正が教会の中であったようです。そこで、ある兄弟が不正を働いた兄弟を、裁判所で訴えています。もう一つは、売春婦と肉体関係を持つ不品行を行なっている者が、教会の中で起こっていたようです。これらの問題を通して、私たちクリスチャンが持っている、善悪のものさしについて考えていきたいと思います。

霊的なさばき
1: あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
2: それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3: あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
4: それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。
5: わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。
6: しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

福音による生活
7: そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。
8: しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。
9: それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
10: 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
11: あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

真の自由
12: すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。
13: 食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。
14: そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。

主との交わり
15: あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
16: それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
17: しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
18: 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。
19: あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
20: あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

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パウロ

クリスチャンと結婚

コリント人への第一の手紙7章
コリント人への手紙、第一7章を開いてください。ここでのテーマは、「クリスチャンと結婚」です。クリスチャンにとって結婚とは何か、また、どのような態度で結婚を考えなければいけないかについて書いてあります。

夫婦の務め
1: さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。
2: しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。
3: 夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫にその分を果すべきである。
4: 妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。
5: 互に拒んではいけない。ただし、合意の上で祈に専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。
6: 以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。
7: わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。
8: 次に、未婚者たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。
9: しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。

誓約の内容「別れてはいけません」
10: 更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。
11: (しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。
12: そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。
13: また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。
14: なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。
15: しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。
16: なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。

誓約の原則 「召されたときの状態」
17: ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。
18: 召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよい。
19: 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。
20: 各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。
21: 召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。
22: 主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。
23: あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。
24: 兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである。

妨げられない
25: おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。
26: わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい。
27: もし妻に結ばれているなら、解こうとするな。妻に結ばれていないなら、妻を迎えようとするな。
28: しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。
29: 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
30: 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
31: 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。
32: わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、
33: 結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである。
34: 未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。
35: わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。

自由な決断
36: もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。
37: しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよい。
38: だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。

主のみこころ
39: 妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。
40: しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。

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ハ・ヨンジョ

心の貧しいあなたへ

マタイ5:1-6
5:1この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 」
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

青い鳥を追って
世の人が一番好み、追い求めているものは幸福ではないかと思います。 幸福とはな何でしょうか。東洋では次の五つがあれば幸福だと言われています。すなわち、長生きし、財産が多く、健康で、心が楽で、徳があれば幸福であると言うのです。 幸福の定義がとうであれ、それを追い求めて行くと青い鳥のように遠くへ逃げてしまうことが多くあります。また、力を振り絞ってつかまえてみても、つかまえたとたん特別なものではなくなり、虚しくなってしまいます。朝の太陽が昇ると曉の霧は消えてしまうように、人間の幸福はそれを手にするとすぐ消えてしまうのです。
この世に永遠の幸福、変わることなく持てば持つほど豊かになるような幸福はないものでしょうか。それは確かにあります。そして、キリストはそのような幸福を私たちに与えたいと願っておられます。では、どのようにすれば幸福になれるでしょうか。キリストは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われました。幸福は何かを所有することではありません。まず、心の貧しい者になることが幸福になる条件です。
多くの人は自分が願ったものを手に入れられなかったので、幸福になれなかったと思います。お金が足りなく、健康がすぐれず、職がないから不幸であると思います。しかし、本当にそうでしょうか。言葉を換えて考えてみましょう。お金があれば幸せでしょうか。また健康であれば幸せでしょうか。職があれば幸せでしょうか。もちろん、健康でないとか、職場からら解雇されたことは深刻なことではありませんが、それだから不幸になるとは言えません。ですから、幸福は何かの有る無しによるのではないことは確かです。しかし、多くの人は所有を幸福のはかりとして考えています。そこで、もっと多くを所有するために自分の人生の時間と若さをみな浪費しているのです。
そうだとしたら、幸福の秘訣は何でしょうか。自ら幸福な人なることです。幸福な人になると人の目には不幸に見えても、病気になっても幸せです。幸福を所有しようとすれば消えてしまいますが、自ら幸福という型を持っていれば、すなわち、自分が幸福な人になれば、どのような場合にも幸福を失わないからです。

心の貧しい者が受ける祝福
では、幸福な人の特徴は何でしょうか。幸福な人は天に対して恥がなく、欲がありません。また、自分の限界と弱さを悟っています。また、自分自身に頼りません。 反対に自己中心的な人は自分自身を信頼し過ぎ、自己主張が強いのです。お金があれば肩に力が入り、相手の話は聞かずに自分の主張だけをします。このような人のそばには人が寄り付きません。自分自身で一杯になっているので、他の人が入る隙がないからです。このような人は永遠に幸福になれないのです。 ところで心が豊かであるとはどういうことでしょうか。もしこれ以上何かが入る余地がないという意味です。すなわち、心が世のもので満たされていて、幸福が入る余裕がないことを意味します。
しかし、心が貧しい人には神の祝福が入る空間があります。神が与えられる喜びが入る場が準備されているということです。言い換えれば、心が貧しい人は神の足音を聞くことができるということです。毎日キリストのことを考えるだけで、心もキリストに似て行きます。また、神を見上げていれば、天の御国がその心を支配するようになるのです。
ある人は心が貧しくなる時、自己放廃し、絶望してしまいます。しかし、心が貧しいことが自己放廃や絶望、自殺を意味するのではありません。それはかえって一種の傲慢さであり高慢です。自分の人生の主人は神ですから自分からあきらめてはなりません。そして、自分の命を絶つことは殺人になります。
そうであるなら、本当に心が貧しく頼るところがない時、どこを見上げればよいでしょうか。神です。人間が神を見上げる時、重大なことが起こります。自分自身に対し絶望し、限界を悟り、自分の弱さを告白するようになるのです。これあ自己放廃とはまったく異なり、祝福の始まりを知らせる内面の音なのです。実際、だれも神を見た人はいません。またすべてを知ることもできません。しかし、神がおられるおいうことを信じるのです。ただ良心が証ししているので神を認めるのです。理解できず解釈できない事柄であっても、まずひざまずき、その方なり、涙が流れ、神が見え始めるのです。
聖書に「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか」というみことばがあります。神は見、聞き、語られます。また、私たちの感情をも造られたので、織細に感じられます。そこで、私たちが痛む時に共に痛み、涙うぃ流す時、共に涙を流されるのです。
しかし、サタンは私たちが神を感じることができないように私たちが感じることができないように私たちの感覚体系を壊します。そして、罪が私たちの中に入って来ても罪と認めさせません。多くの電波が往来していてもアンテナが壊れたテレビでは画面が見えないように、神がそばにいても神を感じることができないようにさせているのです。それだからといって神がおられないのでしょうか。みなさんが信じるからといって、神がさらに偉大になるのではありませんが、信じないからといって神の存在がなくなるのでもありません。

悲しむ者が得る祝福
悲しむ人も幸福な人です。それは驚きであり、逆説的です。キリストは私たちに、喜ぶ者が祝福であると語らずに、悲しむ者が祝福であると語りました。悲しむとは悲しみのあまり胸を裂き、慟哭することを指します。ところで、どうしてこれが祝福なのでしょうか。それは自分の中にある罪を見出したからです。神を見上げない人は、自分の中に罪があるかどうか感じることもなく、見ることもできません。ちょうど、黒い服に黒いインクがついてのよくわからないように、罪というものをよく知りません。しかし、白い服に黒いインクがつけばすぐにわかるように、心の聖い人は小さな罪にも敏感です。だれでも神を真実に見上げると、自分の罪を感じるようになるのです。

柔和な人と義に渇く者
では、胸を裂き、悔い改め、悲しむと、どのようなことが起きるでしょうか。心が柔和になります。感動的なテレビ番組をみて涙を流した後は顔の表情が明るくなるように、悲しむ自分存在を告白し悔い改め時、私たちのたましいは純粋になり柔和になります。聖書は柔和な者が祝福された者であると述べています。
柔和と力の統制を指します。力がんければ柔和になる力もありません。たとえば貧しい者が「私は何もありません」と言えば、それは謙遜ではなく事実です。柔和とは、財閥の人が私が持っているものは自分のものではなく、みな主のものですということなのです。柔和な者は権力と力があっても、かえってそれをもって他の人に仕える人を指します。このように柔和な人は地を相続する祝福を受けるのです。
キリストはまた「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」と言われました。義に飢え渇いている人は正義を望み、真理の側に立つことを願うのです。このような方がイエス・キリストなのです。
イエス・キリストを迎え入れ、その方だけを見上げてください。そうすればあなた自身が生きるのではなく、あなたの中にその方が住まわれるのです。自分ではできませんが、あなたの中に住まわれるその方がそうしてくださいます。
神は私たちをご自分の子とされるために選ばれました。二千年前、三十三歳で死なれた若き青年イエス・キリスト、その方は死んで墓に葬られただけではなく、復活なさった方です。また、天に昇られ、聖霊を私たちのために送ってくださいました。
キリストがみなさんの中に入って来る時、罪の問題は解決され、心配、悩み、世の中の重荷はすべて消え失瀬手しまいます。ハレルヤ!

祈り
父なる神様。高ぶった私の心を低くし、傲慢になった心を砕いてください。劣等感と敗北感と挫折感解放してくださり、優越感と傲慢さから解放してください。イエス・キリストの御名によりお祈ります。アーメン

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