2024年度メッセージ:
聖書箇所:マタイの福音書7:13-14 説教者:石井 祐司牧師
はじめ
今日の説教箇所は、13,14節と、2節4行しかありません。しかし、ここにはキリスト教の、更に言えば聖書全体の目的を言い表していると言えるかも知れません。ここでのキーワードは、門・道・いのちでしょうか。
ここで、「門」とは何を表しているか、「道」とは何を表しているかですが、ここでの「門」とは、ただ単に家の出入り口を表しているのではなく、特に神殿や宮殿と言った大きな場所の「門」を指していると言える。そのような門を、ここでイエスは比喩として人間に例えているのです。誰に例えているかと言えば、それはイエスご自身でしょう。そのことをよりはっきりと示した言葉としてヨハネの福音書にこうあります。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネの福音書10:9)
つまり「門」とはイエスへの信仰による救いの始まり、イエスに対する信仰への入口と言えるでしょうか。では、「道」はどうでしょうか。これもまたヨハネの福音書にこうあります。
「『イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」(トハネの福音書14:6)
ここでも比喩として「道」が使われていて、「道」とはひとりの人間の生き方、行為を表しており、イエスはご自身がその「道」だと仰っているのです。イエス歩まれたその「道」が真理であり、またこの道を通して真理に至る。「真理」とはイエス・キリストの人としての人格にあると先週の礼拝で語った通りましたが、イエス・キリスの人格とは言葉と行いの一致、裏表がない、つまり偽善がないと言うことです。言葉と行為の一致、霊と身体の一体です。それが真理です。イエス・キリストの人格の内に、人としての生き方、道がある。その生き方への入り口が門であり、その門は全ての人の前に開かれていて、その門をくぐり脚を踏み入れることで、いのちへの道を歩むことが出来る。
1.「いのちと日本語聖書」
2.「ヘブル語の翻訳」
3.「旧約ヘブル語聖書といのちの用語」
① いのち(生命力)
② 人生(いのちのある期間)
③ 齢(よわい・年齢)
④ 養い(生業生業・生計を維持する)
4.「ギリシャ語・ζωηの意味」
①肉体的な活力
②人間を肉体と霊との結合としてとしての存在
③人生、生涯
①と③に関しては、ヘブル語の含む意味とあまり変わりがない。問題は、②の「肉体と霊の結合としての存在」で、ギリシャ哲学は「霊」を、人間に内在する永遠なる先在的な“訪問者”と捉えていた。だからパウロがアテネで宣教した時に、死者の復活を宣教した時にアテネのエピクロス派とストアの哲学者たち学者たちはパウロをあざ笑ったのです。このギリシャの哲学者たちは、霊霊肉二元論の持ち主の持ち主で、これは後の仮現論となって教会を脅かすことになったのでした。 もともとヘブル語「חַיִּים 」には、ギリシャ語「ζωη」のように霊肉二元論の思想を含まない。上述したように、古代イスラエル人は現実的で、観念的な思想を持たない。ギリシャ人とは正反対の民族性を持っていると言える。そのイスラエル人が旧約聖書をギリシャ語に翻訳する作業において、ギリシャ語「ζωη」が持つ、ヘブル語にない意味を理解していたかどうかです。70人訳聖書が広くヘレニズム世界へ普及するにつれ、ヘレニズム文化の中で育ったヘブル人は「ζωη」の持つ二元論的な思想を受け入れていったのではないかと思える。黙示思想の登場や終末論的な考えも、ある意味ではヘブル思想とギリシャ哲学との融合とも理解できるのである。 「いのち(命)」は、神の賜物として最高の価値であり、その他すべての賜物はこれに含まれる。それゆえに、古代イスラエル人は長寿を願うのであり(ヨブブ22::44)、長寿を全うする者は神の祝福を受けた者と言える(創15:15)。重要なことは、不死性といたような抽象観念ではなく、人間としてそのいのち(人生)を全うし、自己を十分に実現するということなのです。これが、選ばれた民全体の実存と個人との運命が緊密に結び着いた時代のイスラエル人の基本的な生命(人生)観であった。旧約聖書に見る「いのち」の意味は、ヘブル人の「いのち」に対しての感覚が、至って現実的かつ即物的であったと言える。そこにはギリシャ人のような観念的思考を観ることは出来ないのです。 一方、新約聖書で使われるギリシャ語「ζωη」は、ヘブル語の意味と重なる部分も多くあるが、決定的に異なるのがその二元論的哲学思想です。人間を肉体と霊魂との二つ分ける二元論的な思考は、旧約聖書のヘブル語にない思想がギリシャに語翻訳されることで注入されることになった。言葉と言葉が結合し、それによって言葉の持つ意味が膨らみより豊かなになる。70人訳聖書の翻訳事業はギリシャ語「ζωη」を採用することで、ヘブル語「חַיִּים 」の意味の世界をより広げたと言える。そしてそれは更に、新約聖書成立へと引き継引がれていった。聖書箇所:マタイ7:7-12 説教者:石井 祐司牧師
はじめ
私たちは、信仰生活を続けて行くなかで、長い間祈り続けてやっと与えられたものもあれば、長い間祈り続けたけれども与えられずに祈りを諦めてしまうと言ったこともあります。祈ってすぐに与えられるものもあれば、なかなか与えられないものもあります。何を祈り求めるかでもって、神の御心に叶っているものもあれば、御心に叶っているように思えても、それが自分の欲望を満たすための祈りで、御心ではないと言うことだってあり得るでしょう。しかし、それでも祈りが叶えられると言うことだってあり得るのです。つまるところ、御心であるかどうかは神が決めることであって、私たちが判断することではない。私たちは、ただ祈ることで神の御旨を確かめるしかない。祈ることで、私たちに求められているのは、私たちの忍耐力と、その祈りが果たして御心に叶った祈りであるかどうかを判断する自省心なのかも知れません。7,8 節
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。
たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
1.「求めよ、探せ、たたけ」 「求めれば与えられ、探せば見つけ出し、たたけば開かれる」。ここでイエスが語られる言葉「求める」「探す<」,「たたく」は、能動態の命令形で、自分から進んで働きかける動作です。能動態とは、より主体的に、自主的に、ある動作、行為、行動を積極的に行うことを現わします。人から何かをしてもらおうと待つ動作、つまり受動態、受け身の形ではない。誰かが何かをしてくれるのをただ待っているのではなく、こちらから自分から進んで「求める」「探す」「たたく」生き方です。誰かの指示を待つ人間ではなく、自ら率先して主に祈り「求め」「探し」「たたく」、そうした人格の持ち主、人間性を表現していると言えるでしょう。そのような生き方を実践した結果として、祈りが聞かれた、奇跡を体験した、思いもしなかった恵みをいただいた、そのような体験は、恐れることなく証しすることができるのではないか。9―11節
2.「ヘセド・真実の愛」 「あなたがたのうちのだれが、自分の子にパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならばなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」 「求めなさい。そうすれば与えられる」ということが、求める人自身の信仰の強さとか深さとかによって「与えられる」のではなく、神は愛の神であるから、神の人への愛の確かさによって、私たちに必要なものが与えられると、イエスは語る。ここでの使われているギリシャ語(「πονηροι οντεs」)が表現している意味は、人間は「本当に悪い者」なのであり、これは罪ある存在として人間の真の姿へのイエスの人間評価と言えます。人間が考え出した「性善説」や「性悪説」と言った哲学的な考えからくるものではなく、絶対的な神ご自身がお持ちである「ヘセド・真実の愛」の基準から大きく離れた存在としての悲しい存在、罪ある存在としての人間に対するイエスの評価なのです。人間は、そのような悲しい存在ではあるけれども、しかし、人の親であれば「天の父」の思いのカケラほどではあるけれども自分の子供には愛を示すことは出来る。自分の子どもがどうしても必要なものは「天の父」が与えるように子どもに与える。人間が親として、このように振る舞うのであれば、天の父なる神は、それ以上に求める人の思いを既に知っておられるのであって、その人に本当に必要なもの、その人が生きるうえで欠かすことの出来ない、いのちを養うための糧を与えてくださる。よくよく考えて見れば、私たち人間全ては、神の恵みの下に養われ生きていることを知るべきなのです。12節 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」
3.「黄金律」 「律法と預言者」というのは、当時のユダヤ人が大切にした「聖書」のことで、今私たちが使っている聖書の「旧約聖書」に当たります。イエスが生きた時代には「新約聖書」は未だ編纂されていませんでしたから、「新約聖書」が語る律法、詩編、預言者、と言えば「旧約聖書」を指しました。それもヘブル語の聖書ではなくギリシャ語に翻訳された「70人訳聖書」または「セプチュアギンタ」と呼ばれた聖書を指したと思われます。恐らく使徒パウロもこの聖書を読んでいたのではないかと思われます。律法と預言者が教えたことの内容は、突き詰めて言えば、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」と、言うことなのだとイエスは言うのです。このイエスの教えを英語では「the Golden Rule」と呼び、日本語はそれを「黄金律」と訳しました。同じような教えは、世界の他の経典にもあって、例えば、紀元前3世紀に中国生きた孔子が語ったとされる言葉を、その弟子たちが後世に記したとされる「論語」にもこれと似た表現があって、こうあります。「己の欲せざる所を人に施すこと勿れ」。「自分にしてもらいたくないことは、人にもするな」と言うことで、それを比較して両者の違いは何処にあるか、、どこに違いがあるかと言えば、その表現法にある。否定的表現法であるか肯定的表現法であるかの違いなのですが、言葉はその人の人格を表すと言うように、イエスと孔子の人格の違いがここに現われているのであって、否定的な表現法は消極的な人格、後ろ向きな生き方を現し、肯定的な表現法は積極的、前向きな生き方の現われと捉えることが出来ます。それは先の段落で、イエスの「求めれば与えられ、探せば見つけ出し、たたけば開かれる」と、能動態の命令形で表現されたことと関連していて、人からしてもらう受け身の形ではない、自分からの主体的、自主的な行いとしての生き方を現わしているのです。誰かが何かをしてくれることをただ待っているのではなく、こちらから自分から「求める」「探す」「たたく」自主的、能動的、積極的な生き方の現われと言えます。誰かの指示を待つ消極的な人間性ではなく、自ら率先して主に祈り「求め」「探し」「たたく」、そうした積極的な人間性を持った人生への歩みと言える。 これと同じような自主的な積極的な思いを持って、私たちは聖書を読んで行く。そうすることで、聖書は私たちの心の中に生ける神の言葉となって働き掛けてくるでしょう。このようにして神との出会いは生まれ、真理への探究が始まり、真理としてのイエスとの出会いがあるのです。
4.「出会いとしての真理」 20世紀を生きた、エミール・ブルンナーと言う神学者は、「出会いとしての真理」と言う本を出した。彼がここで描き出したのは、聖書的な真理理解でした。ふつう、真理と言うと永遠不変で無時間的にあるものと理解されますが、しかし、聖書は「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネ:1:17)と言います。ここで言う「まこと」とは「真理」であり、それは人としてのイエス・キリストの人格であり、その人格はこの世に出現した真理であり、やって来た真理です。私たちは聖書を読むことで、イエス・キリストという真理に出会う。真理は出会いにおいて、私たちの内に生まれるのです。つまり、真理ははじめからどこかにごろんと転がっていて、それを何らかの仕方で人間が見つけてくると言うのではない。それは人間が出会って受け取った瞬間に真理となるのです。ギリシャ哲学的な観念論の理解だと、まず何処かに真理が存在し、それを自分がどのようにして手に入れるかが問題になる。神学も長い間、同じような問いを続けて来たと言えます。信仰を持つと言うことは、どこかに正しい教理の体系があって、それを自分でも納得して努力して受け入れる、それが信仰だと考えられていた節がある。しかし聖書は、人間が真理に出会うと言う。だからそれは人間のうちにもともとあったものではないのです。 ギリシャ哲学のソクラテスは、真理は既に人間の内にあって、人はそれを忘れているだけであって、助産婦の役割としての哲学者が思い出させてくれれば、手に入ることが出来ると言う。しかし聖書では、真理は人間の外の世界から人間のもとへとやって来るのであって、こちらから出掛けて行って摑まえたり出来るのではないし、また、真理との出会いは人間が自由勝手に起こせるものでもない。例えて言えば、カトリックのミサは、神の恵みを「モノ化」する儀式によって真理と出会うと言う。しかし本来、典礼における神の臨在は、キリストとの自由な約束の言葉に基づいているのであって、それは特定な人間が決まった所作をしたり呪文を唱えたりすることで自動的に作り出されるのではなく、誰でもがそのたびに祈り求めることで出会える恵みと言えます。しかし、そんなことを毎回祈り求めることは面倒なので、簡素化して扱えるようにとモノ化して置く、それがカトリックのミサと言えます。それは神の恵みのモノ化であり、偶像化でもある。このようなことは、カトリックだけに言えることではなく、またプロテスタン教会にも言えるのです。プロテスタント教会は、聖書を重んじる余りに聖書一冊をまるごと「神の言葉」としてモノ化してしまった。だからその中の言葉は一字一句、句読点に至るまで誤りがないなどと言う、「聖書の無謬説」、「聖書の無誤性」を主張するようになった。しかし、聖書はモノとして、一冊の書としてそこに存在しているときにも神の言葉としてあるわけではないのです。聖書は信仰を証しする人間の言葉であって、それ自身が信仰の対象となるのではないのです。それを読んだ人、また聞いた人の中で神の言葉となり、神の言葉として生起し、出現し、人はその時に真理と出会うのです。聖書が生ける神の言葉と言える理由がここにあります。真理に出会ったならば、更に真理に近づき真理をより深く探究し理解する必要がある。真理とは何でしょう。それは、人としてのイエス・キリストの人格にある。聖書は、真理としてキリスト・イエスを探究するための生ける神の言葉と言える。
聖書箇所:創世記17:9-14 説教者:石井 祐司牧師
はじめ
神はアブラムの名をアブラハムと名を改めると共に、アブラハムの
側に守るべき義務を求められた。それは割礼を施すことであった。
割礼とは、男子の陰茎の包皮を切る、又は一部を切り取る外科的な
手術を施すことで、この習慣はパレスチナ地域の各民族やエジプト
人にも古くから行われていた儀式のようです。しかし、サムエル記
に登場するペリシテ人は、パレスチナへ移住して来たヨーロッパ系
の人種であったために、この習慣は持っていなかったと言われます
(Ⅰサムエル記17:26)。そこではペリシテ人がこのように描かれて
います。
「ダビデは、そばに立っている人たちに言った。『このペリシテ人
を打ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるの
ですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣を
そしるとは。』」無割礼のペリシテ人は、イスラエル人にとっては
神の契約から除外された民族と言うことになるのです。
神は、虹を洪水の後のノアとの契約のしるしとされました。それ以
前にも虹は自然現象としてありましたが、割礼もまた同様にアブラ
ハム以前にも行われていました。しかし、アブラハムの生まれたメ
ソポタミヤ、それはバビロン人やアッシリヤ人の地ですが、そこに
はこのような習慣はなかったのです。この割礼を、神は契約のしる
しとされた。ノアの後の人々は、雨の後に虹を見る時、ノアに与え
られた神の恵みの契約を、信仰によって思い起こしたのです。その
ように、割礼は男子皆が、アブラハムの子孫として、その家に産ま
れた者は代々にわたって、また、異邦人から銀で買い取られた奴隷
であってもこれを受けなければならなかったのです。その割礼を受
けるのは生まれて八日目と決められていました。しかし、他の民族
での割礼はこのような契約のしるしを現わすものではなかった。そ
れは一般に、成人また結婚前の通過儀礼として行われていたもので
あった。ですから成人したしるしとして受けるものであった。成人
と言っても当時の成人年齢は今の成人年齢と違って、12,3歳ぐら
いが成人年齢であったとされますから、その年齢に達した通過儀礼
としての制度であったと言える。これは日本でも同じであって、同
じような制度があって、例えばこの年齢に達すると、一人で高い山
に登るとか、また数日間一人で山深い家で過ごすと言ったことが行
われた。子どもから大人への通過儀礼としてで、親への依頼から自
立した人間としての一歩を踏み出すしるしとしたのです。子ども時
代から大人への仲間入りとして準備期間は当然にあって、いきなり
通過儀礼によって大人になるではなかったでしょう。(ネパールで
の体験)
しかしここで神は、産まれて八日目に割礼を施せと言われるのです
。生まれて七日が過ぎた後の八日目は、創世記の天地創造にある一
週七は、完全数であり聖なる数字と言うことになります。その聖な
る七日間は母親の懐に置いて、八日目は神に捧げる、それは人間の
保護から神の保護に移ることを意味したとも考えられるのです。出
エジプト記にはこうあります。
「あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。あ
なたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その
母親のそばに置き、八日目はわたしに献げなければならない
。」(22:29,30)
こうして割礼は、アブラハムの子孫だけでなく、その血筋によらな
くても、アブラハムに属する者、銀で買い取られる者も、この契約
に預かる者となりえるとされた。そしてこの契約のしるしは、虹の
ようにではなく、各人がその子どもに割礼を施すたびに、先祖アブ
ラハムに与えられた恵みの契約を思い起こし、その子どももまた成
人してその身に刻まれたしるしによって、自らがアブラハムの恵み
を受け継いでいるのを自覚するようになるのです。14節
割礼を受けない男子は契約を破ることになると言われている。これ
は、割礼を受ければ恵みの契約に預かれると言うのではなく、既に
恵みの契約を与えられていると言うしるしとして割礼を受けている
のであって、この割礼を受けない、また施さないと言うのは、神の
恵みの契約を受けたくない、または施したくないと言う意思表示な
のであって、神の契約を破ることになる、と言うのです。即ち、神
の恵みの契約などいらないとか、そのような約束は実行しないと言
った意思表示になるのであって、そのような人は神との恵みの契約
を結ぶ共同体からは除外されなければならないと言うことになるの
です。これは神の契約を破った者への当然の報いとしての死を意味
したとも言われる。出エジプト記(4:24,25)にはこのよう
な場面があります。
モーセは、神の命令に従ってイスラエルの民を救うべく、ミデアン
の地を出発してエジプトに向かいます。その途上で神に殺されそう
になります。その理由は、彼が自分の息子に割礼を施していなかっ
たからだと思われます。それは恐らく、妻のチッポラが反対したた
めであったのかも知れませんが、それを知ったチッポラは、瀕死の
モーセに代わって息子に割礼を施し、モーセは辛うじて死を逃れる
ことが出来たのでした。イスラエルの民にとっての割礼は、他民族
と違って単なる通過儀礼なのではなく、それは神との契約として意
味を持っていた。それを破れば当然にイスラエル民族から除外され
、それは死を意味したのですから、彼らにとって割礼の有無は生死
を分ける重大事であった。そしてこの割礼の儀式は、アブラハム以
後、イエスの時代まで続いた。ヨハネの福音書(7:22,23)
にはこうあります。
「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからでは
なく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息
日にも割礼を施しています。モーセの律法を破らないようにと、人
は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健や
かにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか
。」
もともと割礼は、異民族の間で行われていた成人への通過儀礼に過
ぎなかった。神はそれをイスラエル民族に適用することで、目に見
える形での神の民としての契約のしるしとしとされたのでした。し
かしそれは飽くまでもしるしであって、そのしるしに相応しく生き
るにはそれぞれの個人の意思と努力とが求められたのを忘れてなな
らないのです。アブラハムの人生とイスラエル民族の歴史は、その
事実を語っていると言えるでしょう。これはまた、私たちキリスト
者が、何をしるしとして生きているかを問われていると言えます。