2023年度メッセージ:
聖書箇所:創世記17:9-14 説教者:石井 祐司牧師
はじめ
神はアブラムの名をアブラハムと名を改めると共に、アブラハムの
側に守るべき義務を求められた。それは割礼を施すことであった。
割礼とは、男子の陰茎の包皮を切る、又は一部を切り取る外科的な
手術を施すことで、この習慣はパレスチナ地域の各民族やエジプト
人にも古くから行われていた儀式のようです。しかし、サムエル記
に登場するペリシテ人は、パレスチナへ移住して来たヨーロッパ系
の人種であったために、この習慣は持っていなかったと言われます
(Ⅰサムエル記17:26)。そこではペリシテ人がこのように描かれて
います。
「ダビデは、そばに立っている人たちに言った。『このペリシテ人
を打ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるの
ですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣を
そしるとは。』」無割礼のペリシテ人は、イスラエル人にとっては
神の契約から除外された民族と言うことになるのです。
神は、虹を洪水の後のノアとの契約のしるしとされました。それ以
前にも虹は自然現象としてありましたが、割礼もまた同様にアブラ
ハム以前にも行われていました。しかし、アブラハムの生まれたメ
ソポタミヤ、それはバビロン人やアッシリヤ人の地ですが、そこに
はこのような習慣はなかったのです。この割礼を、神は契約のしる
しとされた。ノアの後の人々は、雨の後に虹を見る時、ノアに与え
られた神の恵みの契約を、信仰によって思い起こしたのです。その
ように、割礼は男子皆が、アブラハムの子孫として、その家に産ま
れた者は代々にわたって、また、異邦人から銀で買い取られた奴隷
であってもこれを受けなければならなかったのです。その割礼を受
けるのは生まれて八日目と決められていました。しかし、他の民族
での割礼はこのような契約のしるしを現わすものではなかった。そ
れは一般に、成人また結婚前の通過儀礼として行われていたもので
あった。ですから成人したしるしとして受けるものであった。成人
と言っても当時の成人年齢は今の成人年齢と違って、12,3歳ぐら
いが成人年齢であったとされますから、その年齢に達した通過儀礼
としての制度であったと言える。これは日本でも同じであって、同
じような制度があって、例えばこの年齢に達すると、一人で高い山
に登るとか、また数日間一人で山深い家で過ごすと言ったことが行
われた。子どもから大人への通過儀礼としてで、親への依頼から自
立した人間としての一歩を踏み出すしるしとしたのです。子ども時
代から大人への仲間入りとして準備期間は当然にあって、いきなり
通過儀礼によって大人になるではなかったでしょう。(ネパールで
の体験)
しかしここで神は、産まれて八日目に割礼を施せと言われるのです
。生まれて七日が過ぎた後の八日目は、創世記の天地創造にある一
週七は、完全数であり聖なる数字と言うことになります。その聖な
る七日間は母親の懐に置いて、八日目は神に捧げる、それは人間の
保護から神の保護に移ることを意味したとも考えられるのです。出
エジプト記にはこうあります。
「あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。あ
なたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その
母親のそばに置き、八日目はわたしに献げなければならない
。」(22:29,30)
こうして割礼は、アブラハムの子孫だけでなく、その血筋によらな
くても、アブラハムに属する者、銀で買い取られる者も、この契約
に預かる者となりえるとされた。そしてこの契約のしるしは、虹の
ようにではなく、各人がその子どもに割礼を施すたびに、先祖アブ
ラハムに与えられた恵みの契約を思い起こし、その子どももまた成
人してその身に刻まれたしるしによって、自らがアブラハムの恵み
を受け継いでいるのを自覚するようになるのです。14節
割礼を受けない男子は契約を破ることになると言われている。これ
は、割礼を受ければ恵みの契約に預かれると言うのではなく、既に
恵みの契約を与えられていると言うしるしとして割礼を受けている
のであって、この割礼を受けない、また施さないと言うのは、神の
恵みの契約を受けたくない、または施したくないと言う意思表示な
のであって、神の契約を破ることになる、と言うのです。即ち、神
の恵みの契約などいらないとか、そのような約束は実行しないと言
った意思表示になるのであって、そのような人は神との恵みの契約
を結ぶ共同体からは除外されなければならないと言うことになるの
です。これは神の契約を破った者への当然の報いとしての死を意味
したとも言われる。出エジプト記(4:24,25)にはこのよう
な場面があります。
モーセは、神の命令に従ってイスラエルの民を救うべく、ミデアン
の地を出発してエジプトに向かいます。その途上で神に殺されそう
になります。その理由は、彼が自分の息子に割礼を施していなかっ
たからだと思われます。それは恐らく、妻のチッポラが反対したた
めであったのかも知れませんが、それを知ったチッポラは、瀕死の
モーセに代わって息子に割礼を施し、モーセは辛うじて死を逃れる
ことが出来たのでした。イスラエルの民にとっての割礼は、他民族
と違って単なる通過儀礼なのではなく、それは神との契約として意
味を持っていた。それを破れば当然にイスラエル民族から除外され
、それは死を意味したのですから、彼らにとって割礼の有無は生死
を分ける重大事であった。そしてこの割礼の儀式は、アブラハム以
後、イエスの時代まで続いた。ヨハネの福音書(7:22,23)
にはこうあります。
「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからでは
なく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息
日にも割礼を施しています。モーセの律法を破らないようにと、人
は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健や
かにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか
。」
もともと割礼は、異民族の間で行われていた成人への通過儀礼に過
ぎなかった。神はそれをイスラエル民族に適用することで、目に見
える形での神の民としての契約のしるしとしとされたのでした。し
かしそれは飽くまでもしるしであって、そのしるしに相応しく生き
るにはそれぞれの個人の意思と努力とが求められたのを忘れてなな
らないのです。アブラハムの人生とイスラエル民族の歴史は、その
事実を語っていると言えるでしょう。これはまた、私たちキリスト
者が、何をしるしとして生きているかを問われていると言えます。