もう50年以上も前になる。小学校5,6年生の時に担任となった2人の教師が印象に残って いる。一人は、5年生のときの担任で、大学を卒業したばかりの女性の教師であった。彼女は大 学卒業したばかりの新任ということもあって、何事にも熱心に取り組んでいた。例えば、毎日、 子供たちに日記を付けさせ、翌日にはその中の一人の日記を後ろの黒板に板書し紹介することを した。後ろの黒板に自分の日記が書き出された子どもは、恥ずかしながらも自分が認められたよ うな喜びがあった。私にとって特に思い出に残っている記憶は、彼女が初めて私に、通知表の体 育の評価に「5」を付けてくれたことであった。それまでの私の通知表はどれも「2」か「3」 ばかりで、「5」などという評価とは全く縁がなかったから、「4」を飛び越えて「5」になっ たことに私には驚きびっくりした。また、あるときのこと。私は、学年の初めに学校で定期購読 する「科学のとも」という雑誌を申し込んでいた。母親には自分のこずかいから購読料を出すと の約束で始めたのだが、「少年サンデー」や「少年マガジン」を読み始めたためにいつのまにか こずかいが不足するようになり、途中から講読料を捻出できなくなってしまった。母親との約束 もあり購読料の負担を母にねだることも出来ず、結局途中で断念せざるをえず、雑誌が一冊残る ことになり、引き取り手のない雑誌が教壇の上に置かれた。先生は、引き取り手がない一冊の雑 誌が教壇の上に残されているのを確認すると、それを無言で持ち帰りその理由を深く追求しよう とはしなかった。子ども心に問い詰められたときどのように言い訳をしようかとの不安から解放 され、安堵を感じたのを覚えている。もう一人教師は、6年生のときの男の先生で、普段の言動 から見た目には誰も生徒を公平に扱う律儀な先生に見えた。あるとき数人の子どもたちが集まり 雑談の中から、担任の教師がえこひいきをしているのではないかという話しになった。えこひい きの対象の生徒は、スポーツの出来る生徒と勉強のできる生徒にあった。学校の裏には裁判所が あり、そこの官舎に住む優秀な子どもがクラスの中に2人いた。また、クラスには100メートル 走で地区トップの成績を持つ有能な運動選手がいた。担任教師のえこひいきの対象は彼らであっ た。ある日の放課後、対象外にあった子どもたち数人が集まって話し合い、担任の教師を教室に 呼び出し、私たちの意見を担任にぶっつけようと言うことになった。そして当日、生徒に呼び出 された担任の教師はなんのことやらと不思議に思って教室に来たことであろう。そこへ一人の生 徒が代表して、担任に手紙を手渡し読んでもらった。そこには、前日に数人の生徒が集まって考 えた「えこひいきをしないでください」と言った内容の文面が書かれていた。手紙を受け取って 読んだ担任は、それを読むと一言、「きみたちの気持ちはわかった」と言って教室を後にしてい った。あれから約50年後、数年前に中学校の同窓会があって、同じ小学校の同じクラスから進 学した女性と、あのときの出来事が話題になった。50年過ぎても、なお互いの心の中にあの出 来事が思い出となって印象に残っているということは、恐らく子どもたちが、教師という大人に 対して、対等な人間として、えこひいきという問題を考えてもらおうと思ったことが強く記憶に 残っていたからなのだろう。
私の小学校時代の思い出に残る2人の教師から、私自身が教えられることがある。反面教師と いう言葉があるが、人と人との出会いを通して、それぞれの人の持つ人格の多面性を尊重しつつ 、正の面からもまた負の面からも教えられ、それらを上手に受け入れられるような柔軟な人間性 を持つ者として、私自身も成長する人生を歩んでいきたい。
多くの教会が公言しているとおり、「どなたでも自由にお越しください」が原則。中には観光スポットになるほど有名で、入場が制限されている教会もあるが、本来は誰でも行っていい場所。
週の初めの日曜日に行われる礼拝に参加する際も、信仰の有無が問われることはない。「聖書を勉強したい」「賛美歌を聞きたい」「お祈りしたい」「聖なる空間で癒されたい」「雰囲気を味わってみたい」「教会建築に興味がある」など、動機は何でも大歓迎。たとえキリスト教を信じるつもりがなくても興味関心があるなら、近くに教会がないか探してみよう。
礼拝では、主に賛美歌(聖歌)を数曲歌い、お祈り(祈祷)し、聖書を読み、講壇から牧師がメッセージ(「説教」と呼ばれます)を語り、献金(教会の運営費として使われる収入源)を集め、祝祷で終わるというのが一般的。特別な日にはパンとぶどう酒(液)を分け合う聖餐式、洗礼式などの儀礼が行われる。それぞれの意味づけや頻度、具体的な方法、所作などは教派、教会によってさまざま。
メインの礼拝は日曜日の午前9時~正午の間で行われ、全体の時間は1時間~1時間半が一般的。特にプロテスタント教会の場合、説教に重きを置くため、牧師によっては1時間以上話すこともあり、その長さによって全体の時間も変わってくる。なお、メインの礼拝のほかに夕方の「夕礼拝(夕拝)」や早朝の「早天祈祷会」などを行う教会もある。
規律に厳しい教会では、「神のみ前に出る」という意味あいから、襟のついたシャツやスーツといった正装を推奨する習慣も残っているが、常識の範囲内(節度ある服装)であれば特に問題はない。
基本的に手ぶらでも可。聖書や賛美歌を持っていなくても、初めての人には備え付けのものを貸し出している教会や、前方のスクリーンに掲示する教会もある。教会によって使用する聖書(訳の異なるものが数種類ある)、賛美歌(かなりの種類があり教会独自で賛美歌集を作っている場合などもある)が違うので、購入する場合はよく確認してからにしよう。
献金も、初めての人は「教会ってお金を取られるの?」と戸惑うかもしれないが、丁寧な教会は「ご用意のない方は結構です」という説明をしており、決して強制ではない。教会に属する信者でない場合、ささげるかどうかは個々人に任されている。集め方は専用の袋に入れて、当番の信者が回収する場合や、直接現金をかごに入れていく場合などさまざま。もしやり過ごすのは気が引けるという場合は、硬貨やお札(数百円~1000円が相場)を用意してささげよう。備えつけの献金箱へ礼拝の前後に各自で入れるのが一般的。
携帯電話の電源を切るほか、許可のない写真撮影、談笑、飲食、喫煙は控えた方がよい。
会衆一同で立つ・座るなどのほか、信者以外がしなければならない特別な所作はない。十字を切る、手を合わせ目を閉じて祈る、「アーメン」と唱和するなどの行為はしなくてもいいし、信者と同じように「見よう見まね」でも問題ない。
ただ、聖餐式(「聖体礼儀」「聖体拝領」「聖晩餐」「主の晩餐」とも。イエス・キリストが「最後の晩餐」で、自身の「体」と「血」による契約として、弟子たちにパンとぶどう酒を与えたことを記念して行われる儀式。教会によって毎週または月1回~年数回行われている)は、「洗礼を受けた人のみ」と限定している教会がほとんどなので、間違って受け取ることがないようにしたい。信者以外も聖餐の代わりに「祝福」を受けることができる教派があるので、教会側の指示を仰ごう。
多くのプロテスタント教会では、入口の受付で初めて来た人が名前や連絡先を書くようお願いされる。これは、後々、教会の案内や集会のお知らせを送るためのもので、そうした情報が不要であれば断ってもかまわない。
また、礼拝の最中や終了後に、全員の前で紹介され、歓迎の拍手を浴びることもある。「初めての人も温かく迎えますよ」という教会の意思表示だが、同様に紹介されることを希望しない場合は、その旨をあらかじめ伝えておくようにしよう。
礼拝以外の時間に見学できるかどうかは教会によってさまざま。プロテスタント教会のなかには、日曜日以外には開いていない教会もある。規模の大きい教会の場合は、専属のスタッフが常駐しており、来訪者に対応してくれる場合もある。教会が信者にとっては大切な祈りの場であることを踏まえ、あらかじめ可否を確認の上、マナーを守って見学しよう。
(参照:『キリスト教のリアル』『もっと教会を行きやすくする本』『日本の最も美しい教会』)