2022年度メッセージ:
聖書箇所:ヨハネの福音書 1章1~14節 説教者:石井 祐司牧師
はじめ
クリスマスおめでとうございます。クリスマスには何か良いことが起きる。そん
な思いを皆さんもお持ちではないでしょうか。普段、教会へ来られない方も、こ
の時には教会に来てクリスマスを祝う、という方も多くいらっしゃると思います
。教会で祝うクリスマスは、他では味わうことのできない、特別な思い出となる
のではないかと思います。何故なら、クリスマスの本当の意味が分かるからです
。
私の幼い頃は、クリスマスの時期になりますと、父が私と弟をおもちゃ屋さん
に連れて行って、おもちゃを買ってくれました。レーシングカーとサーキットコ
ースのセット、有線のトランシーバ、顕微鏡、天体望遠鏡など、小学生から中学
生まで、一年に一度、クリスマスの時におもちゃを買ってもらうのが楽しみでし
た。もう50年以上も前の話しですし、父も母もクリスチャンではありませんで
したから、当時としてはクリスマスに子どもにおもちゃを買い与える家庭は珍し
かったかもしれません。後年分かったことですが、父親は小学生の頃に教会に行
っていて、そこでクリスマスの意味を知ったようです。20年前に、87才で召
されましたが、亡くなる2年前に洗礼を受け、その折にそんな幼い頃の思い出話
しを語ってくれました。私には、クリスマスは、一年に一度、おもちゃを買って
くれる日という思い出と繋がっているのですが、そんな思いが心の片隅の何処か
にあったからでしょうか、高校3年の時に一冊の英語本を買って読み始めました
。イギリスの作家、ディケンズの「クリスマスキャロル」です。英語が好きで得
意だったのでその延長でもあったのですが、初めて英語の原書を読もうと書店で
手にしたのが「クリスマスキャロル」でした。「クリスマス」という題名が目に
とまったからかも知れませんが、もしかしたらその本を買った時もちょうどクリ
スマスの頃であったのかも知れません。
「クリスマスキャロル」のストーリーは、クリスマスの前夜、貪欲で悪辣な経営
者スクルジーが、聖霊の働きによって、今までの生き方を悔い改めて、人間性を
取り戻すと言った話しです。確かに、聖霊の働きは人間の意志や理解を遥かに超
えていると言えるかも知れません。聖霊の働きによって人間性が変えられたのは
、クリスマスキャロルのスクルジーに限りません。聖書の登場人物の中にも聖霊
に動かされ、変えられた人物が何人も登場します。
1. 「聖霊の働き」
ユダヤ教でもまたキリスト教でも信仰の親ともされているアブラハムは、もと
もとは異教の地メソポタミヤのウルの人でした。その彼が生まれ故郷を捨てて、
何故、何千キロもの旅をしてカナンの地を目指したのか。以前、私はその理由が
わかりませんでした。聖書はただ「アブラハムは、主が告げられたとおりに出て
行った」と語りますが、なぜ彼が生まれ故郷を捨ててまで遥か数千キロも離れた
異国の地へ旅立ったのか、その理由が理解出来なかったのです。しかし、「主が
告げられた」とは、全能の神・主、天地万物の創造主なる主が、アブラハムに語
り掛けたのだと理解したときに、アブラハムの行動も理解できたのです。聖霊な
る神に動かされて、アブラハムは生まれ故郷を捨てて、神の指し示す地・カナン
を目指したのです。聖霊の働き掛けなくしては、アブラハムの行動を理解するこ
とは出来ないのです。「主が告げられた」とは、神がみことばを以てアブラハム
の心に語り掛けたということであり、語り掛けたのは聖霊なる神の働きなのです
。この出来事をイエスは、アブラハムの生まれる前から、「わたしはある」のだ
と、ご自身がアブラハム以前に既に存在する永遠なるお方であることを証言する
のです。
アブラハムの時代から下って、神は再びイスラエル民族の中からモーセを選ば
れました。イスラエル民族をエジプトでの奴隷生活から救い出すために勇んだモ
ーセも、いざその困難に直面するや怖気ついて現状から逃亡する者となりました
。しかし、シナイ山での燃える柴の体験を通して、再びエジプトに遣わされたモ
ーセは、嘗ての目前の困難から逃げる人生と40年間の安穏とした隠遁生活を捨
てて、イスラエル民族を約束の地・カナンへと導く力強い指導者へと変えられた
のでした。シナイ山でモーセに語り掛けた神の声は「わたしはあると言うもので
ある」でした。その神の声は、更にモーセを通して律法を与え、イスラエル民族
に契約の民として生きる模範を示した聖霊なる神なのです。この「モーセの律法
」をイエスは、モーセが書いたのはわたしのことなのだと、ここでもモーセ以前
のご自身の永遠なる存在を証言されたのです。モーセの律法に示された、神の輪
郭はイエスであり、ここでもイエス・キリストの存在は、既に、イエスの誕生の
千五百年も前に、モーセによって示されていたのです。モーセの十戒は、イスラ
エル民族の限定された教えから、イエスの誕生によって民族の壁を破り、更に全
世界の国民への教えへ変えらて行ったのです。その十戒をイエスは、神を愛する
こと隣人を愛することだと説明し、神と人への愛を示すことがイエスの使命であ
ると語るのです。イエスは、自らの使命は律法や預言者を廃棄するためではなく
、成就するために来たと、ご自身の使命を律法の成就だと宣言したのでした。
時代は更に下り、モーセから約七百年後の紀元前7世紀の南ユダ王国に生きた
預言者イザヤは、メシヤとしてのイエスの誕生をより明確に宣言しました。イザ
ヤはイエス・キリストの誕生を預言してこう明言します。
「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっ
ている。そして、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)
更に、こうも預言します。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与え
られる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザヤ9:6)
イザヤに至っては、イエスの誕生のみならず、メシヤ・救い主としての人格と
神性をもはっきりと描き出します。イザヤ53章はイエスの人格と神性を次のよ
うに述べています。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私
たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は
私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲
らしめが私たちに平安をもたらし、そのうち傷のゆえに、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行っ
た。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)
イザヤはイエスの誕生から十字架の死に至るまでをも預言するのです。私たち
人類の救い主の誕生と死を預言する、イザヤ書が、第二福音書と言われる理由は
ここにあります。イエスの生まれる遥か700年以上も前に「良い知らせ」が既
に告げられていたのでした。
信仰の父アブラハムからモーセ、そしてイザヤへと引き継がれ、更にミカやゼ
カリヤと言った預言者たちによって語られた、神のことばである預言は、歴史の
流れの中で少しずつ輪郭を現し、そしてイザヤの預言から約七百年後に神のこと
ばである預言は実現したのでした。神のことばの実現とは、神が人となってこの
世に生まれ出たということです。それは、まさにことばは人となったのであり、
今を生きる私たちの時代から二千年前に実際に起こった出来事だったのです。
2. 「時至って」
マタイの福音書は、イエスの誕生の出来事を、主が預言者を通して語られたこ
とが成就するためであった、と述べ、先のイザヤ書の預言を引用します。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエル
と呼ばれる。」
更に、マタイは、イエスの誕生を次のように伝えます。
「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ
人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方
の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。』」
マタイの福音書は、イエスの誕生が歴史的事実として、ヘロデ王の時代のこと
であり、また特異な星の出現があったことを記します。このヘロデ王とは、当時
のユダヤの地を統治したヘロデ大王のことで、彼はBC(紀元前)4年に亡くな
っていますので、イエスの実際の誕生はBC(紀元前)4年頃と言うことになり
ます。また特異な星の出現は、イエスの誕生が単に地球規模の出来事なのではな
く、全宇宙的な規模での特殊な出来事なのだとマタイは証言するのです。
このことは、ルカの福音書でも同様です。ルカは、マリヤを訪れた御使いが聖
霊によってマリヤに男の子が与えられることを告げます。更に、イエスの誕生が
ローマ皇帝アウグストの時代のことであったと述べ、イエスの誕生が歴史の事実
としてのローマ皇帝アウグスト統治下に起こったのだと述べるのです。
ローマ帝国の支配者と粗末な家畜小屋で生まれたイエスとの対比は、それが神
の御旨にかなった誕生であり、そこに神のみ心が示されているのだと言うのでし
ょう。その生涯を、いのちの救いを求め、人生の助けを必要とする人々のために
捧げ尽くしたイエスにとって、家畜小屋は最も相応しい場所であったのでした。
十字架に至る苦難の道は、ここ家畜小屋の誕生から既にスタートを切ったのであ
って、これもまたイザヤが示す苦難の僕として、神のことば、預言が成就したこ
との「しるし」なのだとルカは証言するのです。
ヨハネの福音書に至っては、マタイやルカとは全く異なったイエスの誕生を描
きます。それはまるで、旧約聖書全体が神の人間への愛のしるしとして、イエス
の誕生を預言しているのだと言うようです。冒頭の1章1節は、こうあります。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
ここでヨハネが言う「ことば」とは、次の2節を読むとイエスを指しているこ
とが分かります。「この方」とはイエスのことであり、ここで、ヨハネが描くイ
エスの誕生は、旧約聖書の天地創造と重ね合わせて、天地創造のわざが神による
、神のことばによって実現されたように、イエスの誕生もまた神による、神のこ
とばによる人間イエスの誕生なのだと言うのです。この証拠として、ヨハネは主
イエスの自己証言を挙げます。
「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(8:58)のだ。
更に
「モーセが書いたのはわたしのこと」(5:46)なのだと、言うイエスご自身
の言葉です。永い旧約聖書の歴史を通じて一貫して引き継がれて来た、神のこと
ばと聖霊の働きが、時至って人間の歴史の中に実現した。それがクリスマスと言
えます。ヨハネはその出来事を、
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見
た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みと
まことに満ちておられた。」
と、歴史の実在としてのイエスの誕生を証言します。
3.「イエスの誕生、神を信じること」
私たちを取り巻く物事や出来後は、私たちの頭では理解出来ないことが沢山あ
ります。例えば、宇宙がどのように成り立っているのか、地球がどのようにして
できたのか、また、私たち人類を含む地球上のいのちはどのようにして生まれた
のか。これは恐らく、私たち人類が生涯を掛けて研究しても分からないこととし
て残るのではないでしょうか。これは神秘の領域なのです。
イエスの誕生やイエスの復活の出来事も同じように、私たち人間の理解を超え
た出来事と言えます。しかし、それを理解しようとする時、私たちは二つの立場
に立つことが出来ます。一つは無神論。もう一つは有神論です。どちらの立場に
立つかで、私たちの生き方は大きく変わります。
無神論に立つならば、イエスの誕生も復活も単なるお祭り騒ぎだけで意味のな
いものです。しかし、有神論に立つならば、イエスの誕生も復活もその背後にあ
る神の目的と意味を見出します。イエスの誕生にも復活にも神の介入があると神
の実在を認めるなら、神がイエスをこの地上に誕生させ目的と甦った意味を知る
からです。神がイエスに込められた目的と意味を知るなら、私たちもまた唯単に
偶然この地上に生きているのではないことを知ることになります。イエスを信じ
ることで、私たちの人生の意味も目的も変わるのです。
私たちは、自分の意志や努力で生きていると思いがちですが、実際は神によっ
て生かされているのだと思ったほうがより正確でしょう。食べ物があって、空気
があって、水がある生活を当然のことのように感じていますが、これらは人間が
自分たちで考え出し技術を駆使して造り上げたわけではありません。人類が誕生
した時に、既にこの地上に備えられていた恵みであり、この恵みによって地球上
の全てのいのち、何十億という人類のいのちは生かされ支えられています。
先ほどの宇宙創成の話しに戻って言うなら、宇宙や地球がどのようにして出来
たのかは、神秘の領域のことだと言いました。神秘の領域のことは、究極的には
人間の科学技術を駆使して解明できることではないでしょう。それは、信仰の問
題と言えます。神の実在を信じるかどうかの人間の心の方向の問題です。聖書は
その神の存在を前提とし、神のわざを証ししています。イエスの誕生も復活も、
神のわざなくしてはあり得ないことだからです。「ことばは人となった」クリス
マスを単なる祝いごととするだけでなく、そこに神のご臨在を知り受け入れると
き、私たちにとってのクリスマスは、更に豊かな祝いの時と場となるのです。