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心の貧しいとは?

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 」マタイ5:3
心の貧しさとは、天の御国の姿とクリスチャンの品性を見せる核心的な言葉です。では、心の貧しさとはどのようなことを指すのでしょうか。

それは聖なる神の御前に立った罪人の心です。言い換えれば、神の素晴らしい栄光と聖さの前に、粉々になった罪人の姿であり、死と怒りの裁きの前で赦しの恵みを経験する心です。「神様、憐れんでください。私は死に値するほどの罪人です」という告白と共に、カルバリの丘で流された血潮で罪赦されたことに感激し、涙を流しながらその恵みにおこたえしょうとする心です。

クリスチャンに貧しい心がなくなってしまったら、それはキリスト教最大の危機を意味します。貧しい心欠けたいかなるリバイバルや成長もいつかは崩れてしまいます。貧しく謙遜な子どものような心から、キリスト教は芽が出、花が咲き、実を結ぶのです。

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信仰を持つと何が違ってきますか?

信仰を持つと、自分が「ひとり」ではなくなり、神と共に生きる人となります。罪と死から救われた者であることを知り、生きる希望が湧いてきます。また運命論や宿命論のような閉ざされた人生観ではなく、神を信頼し、神の導きに与(あずか)る開かれた人生観の人となり、「信仰と希望と愛」に生きる人とされます。「平和を作り出す人たちは幸いである」と教えています。私たちはこの聖書の教えに従って、戦争ではなく平和を作り出していく存在でありたいと祈り願っています。

なぜキリスト教国といわれる国が戦争をするのですか?

過去、多くの戦争においてその本当の動機を隠すために、「神の名」が掲げられました。十字軍や帝国主義戦争なども、その動機には欲望や野心があったわけですが、「神の名」が掲げられて正当化されてしまったのです。ですから、宗教戦争の本質は、人間の欲望や野心ではないでしょうか。 さて、聖書は「盗んではならない」「むさぼってはならない」「殺してはならない」と教え、またイエス・キリストは、「剣を取る者は、剣によって滅びる。だから剣をさやに収めなさい。」と弟子たちに教えました。このイエス・キリストの教えに忠実な国を「キリスト教国」と呼ぶとするならば、キリストの教えに反して、他の国を武力によって攻撃したり侵略する国を「キリスト教国」とは呼べないでしょう。 聖書は「平和を作り出す人たちは幸いである」と教えています。私たちはこの聖書の教えに従って、戦争ではなく平和を作り出していく存在でありたいと祈り願っています。

罪人ですか?私は罪など犯してません。

キリスト教の教会は、いい人の集まりのようで、行きづらいのですが。
そんなことはありません。教会は罪人の集まりです。

罪人ですか?私は罪など犯してません。
キリスト教で言う罪とは、盗むなどのような悪いこと、法律違反をしたことではなくて、「的はずれ」ということです。的とは神様のことで、神様の方を向かずに、自分勝手に生きているということです。

奇跡というものが信じられません

まず、「奇跡」というものをどうとらえるかです。奇跡というと、摩訶不思議な超常現象だと考えられていますが、キリスト教では、神様のなさる業が「奇跡」なのです。たとえば、あなたという人間が今生きているということも、奇跡です。なぜなら、神様があなたという人間に命を与え、生かしていてくださると考えるからです。そう考えると、自分という人間が今ここに生きて存在している、ということも実に不思議なことであることが分かってきます。

当然といえば当然なのですが、聖書には様々な「奇跡」が書かれています。多くの人は、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したりなさったことを奇跡だと考える。もちろんそれも奇跡です。神様でなくてはできないことだからです。しかし同じように、この宇宙が存在しているのも奇跡です。いろいろな不思議に満ちています。それも神様の造られたものだからです。花一輪を見ても、実に不思議に見えてきます。それも神様の造られたものであるからで、その意味では奇跡なのです。

そう考えると、イエスさまが病気を癒したり、悪霊を追い出したり、水の上を歩いたり‥‥そういうものだけが不思議だと考える方が間違っていることが分かってきます。私たちは神様の造られた世界の中で、神様の働きに囲まれている。つまり、実は、神様の奇跡が満ちている中で、生かされているのです。ですから、聖書から言えば、奇跡を否定したら、この世界もあなたも存在していないことになります。

私でもクリスチャンになれますか。

クリスチャンになった、多くの人がそのように思っていました。しかしなってみると、くだらない心配をして いたことに気がつきます。クリスチャンは、清い人間ではなく、ただ神さまから赦しを受けた、罪人に過ぎません。 違いは、神の愛を知り、平安が与えられ、喜びの中に生かされていることです。私は、だれでもなれると言うより、 みんななったらよいと思っています。

信仰に入ると何か自由が束縛されるのでは?

この考えの背景には、自由についての取り違えがあると思われます。確かに信仰を持つと、自分勝手なことがしにくくなります。自由と自分勝手は違うからです。自分勝手というのは、他人が迷惑しようが、どう思われようが構わずに、自分がしたいことをするということですが、これは自由とは関係ありません。本当の自由とは、本能の奴隷、欲望の奴隷、感情の奴隷となっている状態から解放されて、喜びと平安にあふれた生き方に変えられることです。たとえばタバコをやめたいと思ってもやめられない人は、タバコの奴隷です。キリスト教には戒律などはありませんが、神の言葉は人生の最大の指針です。これを譬えていえば、ちょうど交通ルールを守って走行する人のようなものです。ルールを守る人は、たとえ事故で被害者になったとしても、法律によってしっかり守られるのと同じです。ルールを守らずに勝手に運転することは自由ではなく、自分勝手なのです。

忙しすぎて信仰なんか考えてられませんよ。

お忙しいところ誠に…」というように、忙しいは私達の挨拶にさえなっていますが、それは忙しいほど充実した毎日を送っているということなのでしょうか。むしろ忙しすぎてイヤになってしまうということなのではないでしょうか。その割にはテレビに結構時間をとっていたりするものです。遊ぶとか、自分のことのためには時間がないことはないのです。つまり、「忙しい、忙しい」と言いながら、今日の多くの人々は、心の生活を失っているのではないでしょうか。よく言われることですが「忙しい」という字は「心が亡びる」と書きます。心が亡びる生活を送っているわけです。しかし、人間として生きていこうとするときに一番大切なことは心の問題で、生き甲斐とか生きる喜びです。忙しければ忙しいほど、内面の充実が問われるのです。そしてそれこそ神の言に聴く信仰生活にほかなりません。

どうしても愛せない時はどうすればいいのでしょうか?

まず、愛そうとして真剣に取り組み、悩んでいること自体がとても尊いことだと覚えましょう。罪びとである私達は、嫌いな人とはすぐ壁を作ったり逃げたりします。その方が簡単で楽だからです。愛せない自分、寛容になれない自分を認めることは、とても勇気のいることだからです。ところで愛するとは一体どういうことなのでしょう。様々な考え方があると思いますが、そのひとつは「一緒にいる事に満足する」事でしょう。ところが嫌いな人とはそうはいきません。幾つかのアドバイスがあります。(1)愛せないと自分を責めるより、謙虚に自分の限界を認め、自分の力のなさをイエスさまに告白しつつ、力が与えられるよう真剣に祈る事から始めましょう。(2)相手の嫌いな点が実は自分について嫌いな点だったり、自分に原因があったりするものです。(3)ぜひ以下のルカ6:31からの聖書の言葉を読んで下さい。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。(ルカ6:31-35)

キリストが神の子なら、なぜ十字架に架けられたのですか?

ローマ人が考え出した十字架刑は、人間が作った処刑方法の内で最も辱めと苦しみを与える死刑の方法であると言われています。ですから当時ローマ市民には決してこの処刑方法を用いられず、大抵、奴隷とか極悪犯罪人を処刑する時にだけ用いられました。では、なぜキリストはこんなとんでもない十字架に架けられたのでしょうか?それは一面から見れば、人間の妬みですが、本当はさらに深い意味があって、神のご計画によって行われたのです。遠くはアダムとエバが罪を犯したすぐ後にも、もう十字架が予告されていましたし(創世3:15)、預言者イザヤは約700年も前に、まるで眼前で見ているかの様にその光景を預言しています(イザヤ53章をご覧下さい)。その他の多くの預言がイエス・キリストに成就し、彼が人類の罪の身代わりに罰せられ、その結果、私達の罪の赦された事が聖書に書かれています(1ペテロ2:24)。

クリスチャンになるすばらしさは何でしょうか?

クリスチャンは、罪赦され、神の愛のご支配の中に入れられています。 「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)と記されています。 神の愛の支配にあるということは、神が全生涯を責任をもって導いてくださるというすばらしい約束なのです(ローマ8:28)。 また、神の導きによって、私たちは正しい生活へと導かれていきます。

クリスチャンに禁じられていることは何ですか

より良い質問は、「クリスチャンは何をできますか」クリスチャンは毎日神さまの平安と喜びのただ中に生きる事ができます。クリスチャンに聖霊さまがいます。聖書には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いています。しかし、そんな生活を生きるために、聖霊を悲しませることをやめなければなりません。偽り、不道徳、傲慢、野心、憎しみ、そんなことは聖霊を悲しませます。合理的に考えると、聖霊さまを喜ばしたい、ね!

クリスチャンはタバコや酒などの嗜好品は禁じられてるの

聖書には「私たちの体は神さまの神殿である」と書いています(第1コリント6章19節)。体に良くない事は、神さまの神殿に害を与えます(食べ過ぎと運動不足も良くない、ね!)。タバコのことは聖書に書いていない(アメリカ大陸原産ですから)ですが、酒についてはいろいろ書いています。エペソ5章18節には「酒に酔うな。それは放蕩(欲望に対し極端に堕落した状態)につながる」と書かれています。しかし第一テモテ5章23節には「少しワインを飲むのは胃のためです」と書かれています。詩篇104編15節には「人の心を嬉しくするワイン」を造ったのは神さまと書かれています。しかし箴言20章1節には「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」とあります。

箴言23、31章、イザヤ書28章にはワインとビールは正しい判断を出来なくさせると書かれてあります。ローマ14章16~23節には、キリストにある兄弟姉妹をつまずかせない責任があるとあります。誰かに飲むように勧めて、その人がその部分に弱さがある場合、その人に起こることの責任を、神さまは私たちに問います

キリストにある勝利の生活を送るにはどのように過ごせばよいですか

聖書には「信仰は勝利です」と「信仰から出ていないことはみな罪です」と書いています(第1ヨハネ5章4節、ローマ14章23節)。もちろん、信仰は欠かせません! それに、神さまからの武具があります(エペソ6章10~18節)。分かりやすい、実用的な助言を言うと、誘惑を避けることが賢いです。神さまは、私たちが耐え切れない誘惑に会わないと約束しています(第1コリント10章13節)。「そこに行けば誘惑される」と分かれば、行かないで! 勝利の信仰生活と具体的なポイントはエペソ4章17節~5章21節にあります

私たちはどうやって罪に打ち勝てばいいのでしょう

上の答えを見てください。そして、忘れてはいけないのは、第1ヨハネ1章9節です。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」

クリスチャン人生にとってのゴールは何であるべきか

ゴールはいろんな角度から考えられます。最終的に、私たちのゴールは神さまの王座の前に立って「よくやった。良い忠実なしもべだ」と聞く事です。しかし、それが日常生活からほど遠いことと感じる場合もあります。ある伝統的信仰告白には「神を愛し、永遠に神を楽しむ」と書いています。単純に言うと、イエスさまに似てくる事とも言えます。御霊の実を結び(ガラテヤ5章22,23節)、キリストに留まる事(ヨハネ15章4節)。ゴールを目指しましょう(ピリピ3章:12~14節)!

神の言葉を聞くとき、聖霊から示されたことか、聖書によるものか、どちらが究極か

忘れたらいけないのは、聖霊さまは聖書の作者です。聖書に反することは語りません。悪霊も、私たちにささやきます。聖霊さまの声に慣れると、偽りの声に気付きやすくなりますが、油断するのは危険です。聖霊さまの声に慣れるためには、聖書を読めばいいです。聖書に現代の具体的なことは書いていませんが、原則、基本理念は変わりませんので、聖書になじんでいると今日のための導きが分かりやすくなります

教会に来ている人は、みな立派で敬虔に見えますが、立派な人にならないといけないのでしょうか?

クリスチャンとは《キリストに生かされている者》という意味です。天使ではなく人間ですから、この地上で生きるかぎり、様々な悩みを持っており、欠点を持ち、不完全なものです。ただ違うところは、自分の為にしか生きていない自分を、キリストの十字架によって赦(ゆる)され、愛されていると信じていることだけです。教会に来ているといっても、ひとりひとり性格や個性は異なります。立派になろうと心がけることよりも、キリストによって神に愛されていることを信じることが出来ればよいと思います。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生日?

一般にはそう言われていますね。でも、実は、「イエス・キリストの誕生日は12月25日」ではないようです。 聖書には、イエスの誕生日どころか、季節さえ書かれていません。しかし、そのとき羊飼いたちが野原で野宿をしていたと書いてあるので、冬ではなかっただろうと言われています。

クリスマスツリーも、もともとは他の宗教の影響によるものですが、12月25日というのも、どうやらローマに古くからあった宗教の影響があるようです。

しかし、クリスマスが「救い主イエス・キリストの誕生を記念して祝う日」であることは変わりません。 すばらしい喜びという意味では、クリスチャンにとっては、毎日がクリスマスなのです。 

13日の金曜日は不吉な日?

いわゆるキリスト教国などで、この日には悪いことが起こるなどと言われることがあるようですね。イエス・キリストが十字架にかけられたのが金曜日で、前夜の最後の晩餐に集まっていたのが12弟子とイエス・キリストを合わせて13人、といったようなことを根拠にしているようですが、これは迷信というものです。聖書と神さまには全く関係ありません。

たとえイエス・キリストが金曜日に十字架につけられたとしても、そのキリストの死は、悪いものどころか、神さまの愛が極限まで私たちに示された瞬間でした。イエスさまの死の故に、私たちは生かされているのです。

本当のキリスト教では、縁起をかつぐとか、不吉なしるしとか、そういったことは一切言いません。迷信から全く自由にされているのがクリスチャンです。

神が愛であるなら、なぜこの世界には苦しみがあるの?

この世界には、不条理と思われることがたくさんあります。 病や死、戦争や災害があり、人々が苦しみ嘆いているのをまるで神さまは黙って見ておられるかのように感じることもあるでしょう。

しかし、そもそも争いやねたみ、裏切り、そういったものは、人が神さまに背き、罪を犯したところに端を発しています。それが広がって、国家民族を巻き込む紛争や戦争に発展したのです。 神さまは、罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放し、永遠に生きないようにされました。そこから死が始まりました。

でも、これは単に自業自得だから仕方がない、という話ではありません。 神さまの霊をいただいていのちある者となった人間が、神さまに背き、神さまから離れるということは、霊的な死を意味します。霊的には死んだままで、身体は永遠に生きる、これほど怖ろしいことがあるでしょうか。肉体の死があるということは、慰めでもあるのです。

驚くべきことに、神さまは、人間をエデンの園から出されると同時に、ご自分にそむいたその人間(人類)を救い、永遠に神さまとともに愛の中に生きるようにするということを決めておられました。それは、ご自身のひとり子イエス・キリストを人として地上に送り、むごたらしく惨めな十字架の死を通して、人間を回復するという計画でした。それが神さまにとって、痛みでないことがあるでしょうか。 しかし、それほどまでに、神さまは私たちを愛しておられます。 神さまは、私たちの苦しみをともに苦しんでおられます。 

そしてイエス・キリストが再び地上に来られ、世界が新しくなるとき、神さまは私たちの目の涙をすっかりぬぐいとってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。そのような世界をはっきりと約束なさっています。 このことを信じられるのは、ほんとうに幸いだと思います。

天使や悪魔は本当にいるの?

聖書では、天使は「み使い」とも呼ばれています。英語ではangel です。よく白い羽の生えた天使が絵に描かれていますが、聖書にはそのような描写はありません。 天使の働きは、神さまに仕えることです。神さまの言葉を仲介して人に伝え、また私たち人間を守る働きもしているようです。

悪魔(サタン)も、霊的な存在です。もとは天使であったものが、高慢のゆえに堕落して、神に敵対するものになったと考えられています。サタンの目的は、人を神から引き離し、救いの計画を失敗させることです。 このサタンも、絵に描かれるような怖ろしい姿をしているわけではありません。「光のみ使いに変装する」とも言われます。巧妙に人をだますのですね。

しかし、サタンはすでに敗北した者です。神さまが、イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけて人の罪をあがない、キリストが復活して天に昇られたということは、神さまの救いの計画は、いくらサタンが妨害しようとしてもすでに完了しているのです。世の終わりには、そのことが明らかになります。

天使も悪魔も、実在するけれども、造られたものであって、神さまと並ぶようなものではありません。絶対に礼拝の対象にはなりませんし、いたずらに恐れる必要はありません。すべてを支配されているのは、全知全能、創造主である神さまですから。

どうすればクリスチャンになれますか?

クリスチャンという言葉は、もともと「キリストに属する者」または「小さなキリスト」を表しました。今日では、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じ、キリストの教えに従う人々のことをクリスチャンと呼びます。言い換えれば、クリスチャンは、キリストによって、神の子という身分をいただいた者です。

クリスチャンになるには、手続きより何より、イエス・キリストが自分の救い主であると信じ、告白することが必要です。

次のことを考えましょう。
1.神さまはあなたを愛しておられます。
2.すべての人は罪を犯しました。そしてその結果、神さまから離れてしまいました。あなたも、です。
3.しかし、神さまは、ひとり子(イエス・キリスト)を十字架にかけて、代価を払って下さいました。 
4.あなたは、イエス・キリストによって、罪が赦されるということを信じますか。赦されたいと思いますか。「Yes」なら、神さまにお話ししましょう。「神さま、私には罪があります。でも私のために、イエスさまが十字架にかかり、私の罪を赦して下さいました。このことを信じます。ありがとうございます。」これで、あなたはクリスチャンです。神の家族になりました。

ただし、教会によっては、その教会で定める洗礼という儀式を受けて初めてクリスチャンと呼ぶこともあります。

洗礼を受けなくても、信じていればいいのでは?

洗礼というのは、特別な宗教儀式で、洗礼を受けてしまうと何かとんでもないことになってしまうのではないかという恐れのようなものを抱いておられますか。 または、洗礼などただの形式だ、と言う人もいるかもしれませんね。

洗礼は、イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れた人が、その信仰を神と人の前で公に示すものです。洗礼は、クリスチャンとしてのゴールでもなければ、天国へ行けることの保証といったものでもありません。 洗礼は、今までの古い自分がイエス・キリストの十字架とともに死んで、復活されたキリストの新しいいのちをいただいて新たに生まれたことを象徴しています。

聖書を読むと、イエス・キリストは、弟子たちに対して、洗礼を授けるように、とおっしゃっていますし、イエス・キリストご自身も、人となって洗礼を受けておられます。神さまに従う者としての模範を示されたのです。

洗礼を受けることが、「救い」の条件ではありませんが、あまり自分の考えにこだわる必要もありません。神さまの前に素直でいたいですね。

クリスチャンになると厳しい戒律を守らなくてはならない?

クリスチャンというと、何か「きよく正しい」生活をしているようなイメージがありますか。
お酒やタバコはいけないとか・・・。
確かに、聖書には、酒に酔ってはいけないと書かれています。それは、酒に酔ったために、正気を失ってとりかえしのつかないことをしてしまうということがあるからです。 また、タバコは、自分自身にも周りの人にも害になることがわかっています。 神さまは、私たちを愛しておられますから、私たちがそのようなことでダメになってしまうのを悲しまれます。

「私たちは何をしてもいいのだけれど、すべてのことが益になるとは限らない」と聖書は言います。 禁じられるからしないのではなく、私たちの理性を働かせ、自由な意志をもって、することしないことを判断していきたいと思います。

クリスチャンになると、悪いことは起こらない?

一般的に、何かを信仰するというのは、病気であったり、困難であったり、そんな状況からの救いを求めてその信仰に入るということが多いですね。 神社に祈願したり、お地蔵さんにお願いしたりするのは、「病気が治るように」「試験に合格するように」「商売が繁盛するように」といったことがほとんどだと思います。

天の父である神さまは、私たちを愛しておられますから、私たちが苦しみに遭うのを喜ばれるということはないと思いますが、何でもかんでも子どもの願うとおりにして、結局、私たちをダメにしてしまうようなことはなさいません。 私たちが願ったとおりにならないこともあります。 祈りの答えは、「Yes」であったり、「No」であったり、「待て」であったりします。

聖書には、このように書かれています。 「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:10-11)

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

この世界は、完全ではありません。苦しみはあります。 しかし、神さまは、苦しみの中でも私たちを守り、その苦しみを通してしか得られない宝を見いだすように助けて下さる、ということを私たちは日々、体験しています。 神さまがともにいてくださるなら、苦難の中でも、物事がすべて順調に進んでいるときには思いもよらなかったような、すばらしい恵みを知っていくのです。

ずっと教会に行っていないけれど、私はまだクリスチャン?

環境の変化など、人生にはいろんなことが起こりますから、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたけれど、何かのきっかけで教会から足が遠のいてしまった、という方もいらっしゃるでしょう。聖書も読まないし、お祈りもしない、こんな私はもうクリスチャンではない・・・そんなふうに感じるかもしれません。

しかし、私たちが信仰を捨てたと思っていても、神さまは、決して私たちを捨てることはありません。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とイエスさまは、約束なさっています。

私たちがどのような状態であっても、神さまの愛、十字架の赦し、永遠のいのちを与える約束の言葉は決して変わることがありません。

イエスさまを信じます、と言ったあなたの信仰告白は、神さまの御手の中に守られています。 洗礼は、有効期限が切れることなどありません。

放蕩息子のお話をご存じでしょう。(ルカ15章) 父なる神さまは、いつもあなたを待っておられます。お父さんのところへ帰ろう、そう決心したあなたを、走り寄って抱きしめ、宴会を催して喜んでくださいます。

キリスト教と50という数字の関係を教えて下さい。

ギリシャ語の『第50』と言う意味は『ペンテコステ』と言いまして,キリスト教の独特の用語です。キリスト教の暦の中の『聖霊降臨日』のことです。約2000年前,イエスが十字架の死より復活して50日目(イエスが昇天して10日後)に,聖霊が弟子たちに下り弟子たちは異国の言葉で語りだしました。そこに外国からの大勢の人々が集まり,これがキリスト教宣教の開始されるきっかけとなりました。

『ペンテコステ』(聖霊降臨日)は4世紀末ころから『教会成立の記念日』として最初エルサレムの教会で守られました。

「ペンテコステ」は、キリスト教独特の用語ギリシャ語の「第50」の意味です。キリスト教の暦の中の「聖霊降臨日」のことをいいます。イエスが復活して50日目(昇天して10日後)に、イエスの聖霊が弟子たちにくだり、高揚した弟子たちが異国の言語で話し出すなど異様な状態に陥ったことは、使徒行伝第2章に記述されています。その高まった雰囲気の中でペテロは集まった人々に説教を始め、これがキリスト教宣教が開始されるきっかけとなりました。  過越祭から50日目にあたるこの日は、春の収穫感謝の祭りが行われるユダヤ教の重要な祭日(五旬節)でした。この日に聖霊が降臨したことから、キリスト教でいう「ペンテコステ」は聖霊降臨日といいます。聖霊降臨日は、4世紀末ころから「教会成立の記念日」としてエルサレムの教会で守られたと伝えられ、現在でもクリスマス、イースターと並ぶ、キリスト教会の三大行事の一つです。「五旬節」とも呼ばれます。

キリスト教に関するQ&A

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