キリスト教に関する質問 神様の領域

キリスト教について

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キリスト教の流れは?

イエス・キリストは、十字架上でなくなられた3日後によみがえり、弟子たちに姿を現し、40日後昇天されました。 その後ペテロはエルサレムの町の中で説教をしました。その説教によって3000人もの人たちが信仰をもちました。 これが「教会誕生」と呼ばれる出来事です。(使徒の働き2章)

初期のキリスト教会は、ローマ帝国から強い迫害を受けました。 暴君ネロの迫害などで,見せしめに殺され、殉教していった人も多くいます。 そのような迫害の中でも、キリストの教えは人々の心の中に根ざしていました。 そして弾圧するよりは、保護する方が国家安泰のためであると考えられるようになり、 395年、キリスト教はローマ帝国の国教とされました。

ローマ帝国の東西分裂を発端として、1054年、コンスタンチノープルを中心とする東方教会と ローマを中心とする西方教会に分かれました。 東方教会は、現在ギリシャ正教をはじめとする正教会として、各国に存続しています。 西方教会は、ローマカトリック教会と呼ばれ、政治権力と結びついて、中世ヨーロッパを動かす 原動力となっていきました。

カトリック教会の堕落や階級組織に反発したルターは、1517年、宗教改革を起こしました。 こうして、プロテスタント教会が成立していきました。

世界におけるキリスト教徒は、他の宗教をはるかに上回って20数パーセントを占めています そのうちカトリック、プロテスタント、東方正教会の比率はおよそ6対4対1、日本ではカトリックとプロテスタントの割合が逆になっています

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キリスト教の教義は何ですか?

馬小屋にお生まれになり、十字架におかかりになったイエス・キリストが、神の子であることを信じることです。そしてこのイエス・キリストが、自分の救いのために復活されと信じることです。 私たちはこれを福音(よい知らせ)として聞きます。

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なぜ、神は唯一であると言われるのですか。

本物は一つだけだからです。
日本には八百万もの神々があると言われます。にぎやかですが、逆に言うと、「これだ」という本物がないということです。ギリシアにも多くの神々があり、その中でもゼウスが最高神とあがめられました。けれども優劣の比較ができるということは、他を絶する絶対の神を知らない証拠です。

聖書の神は第一に、神々の中で最高の神ではありません。このお方のほかに神とお呼びできるものはありません。「わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」(イザヤ43:1) 唯一の神とは、この世のどんなものをも越えた絶対のお方だということです。

第二に、だからといって近寄りがたい恐ろしい神というのでなく、人間と一対一の真剣な交わりをお求めになるお方です。一人の夫と一人の妻であってこそ、夫婦の愛と信頼が成り立ちます。そのように、唯一の神に結ばれ、従ってこそ、まことの信仰と言えるでしょう。

三位一体の神とは?

旧約聖書は冒頭から”唯一神”を主張し、多神教とは全く立場を異にしています、 しかし新約聖書にいたって、この唯一の神に三つの位格・人格(persona)が存在します。 父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神として自らを現していると、正統的キリスト教徒は信じています。 それでは三神教か、と言われそうですが、三位でありつつ唯一の神です。 様々なキリスト教がある中で、正統的キリスト教と、そうでないものとの違う点が、この「三位一体」です。 見分ける目印として、知っておいてください

イエス・キリストの十字架の死は、何を意味していますか。

主の十字架の死は、人間の罪に対する神の呪いを意味しています。「木にかけられた者は皆呪われている」(ガラテヤ3:13)。キリストは十字架の木にかかって、本当なら人間が負うべき罪の裁きを代わりに担い、わたしたちを赦してくださいました。それは、御子が、呪われた者とならなければならないほど、人間の罪が深刻であることを教えています。それと同時に、そこまでして人を救おうとする神の愛がどんなに大きいかを示しています。  わたしたちはキリストに結ばれて、罪の古い体を十字架につけられ、神に喜ばれる新しい生命に甦らされるのです(ロマ6:6)。  使徒信条に「主は死にて葬られ、陰府に下り」とあるのは、キリストが完全に死なれたことを証しし、わたしたちを救う神のみ業がたしかに行われたことを告げています。

キリストの復活は事実ですか?

事実です。事実であると同時に、信じる事柄です。
尚、キリストが復活された場所(墓)には、今は教会が建てられています。

プロテスタントとカトリックの違いは何ですか?

プロテスタントは、聖書の教えから離れていったカトリックに対して、「聖書に忠実な教えである」といえます。

カトリック教会は、聖書に加えて歴代の教皇の教理や聖書解釈など、人間の権威や伝統などを聖書と同じように神の言葉とし、 信仰だけでなく善行による救いが説かれ、教皇を中心とした信仰と言えます。 プロテスタント教会は、聖書(新旧約66巻)のみが神の言葉で、信仰が生活の基準を成しており、 人間の権威や伝統を神の言葉と同一視してはならないという立場をとっています。 また、救いは、ただ神から頂くものであり、キリストを信じる信仰によってのみ与えられると信じます。 また、イエス・キリストを通した信仰であると言えます。

キリスト教の「救い」とは?

1.キリスト教では、「罪から救われる」ということを強調しますが、これは何を意味するのでしょうか? また、どうすれば「救われた」という状態になるのでしょうか?

2.ふつう、わたしたちは、良くも悪くもない[+-]0.の白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりすると考えがちですが、キリスト教の人間観はこれと全然違います。聖書の教えによれば、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくるのです。この状態では人間は、神の裁きと罰が必然で、罪の払う値は死であり、究極には「最後の審判」が待っているのです。

3.この「原罪」はあまりにも重すぎて、人間が自力でいくら善行に励んでも、精神修養によって人格を磨いても、何の足しにもなりません。罪を少しも持たない何者かによって代価が支払われないかぎり、わたしたちに「罪からの救い」はないと教えています。

4.「神」は信賞必罰の絶対的に正義のお方ですが、一方、愛のお方でもありますので、罪深い人間を憐れんで御自分の側からこの代価を支払って下さいました。それが、イエス・キリストの十字架の犠牲です。一点の罪も汚れもない「神の子」(神御自身)が人としてこの世に生まれ、贖罪をなし遂げて下さったのです。「救い」は、このことを信じ、イエス・キリストを自分の救い主として認めて、受け入れる者にもたらされるのです。

5.自分の現実をよく見つめ、聖書の教えに照らして、決して[+-]0.の状態などではなく、「救い」が必要であると認めるところからキリスト教の信仰が始まるのです。  それから、この「救い」は、神の約束(契約)であって、決して抽象的なものでなく、それに伴う「感謝の生活」が次々と現れてくるのですが、それは項を改めて述べましょう。

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聖書の語る罪は何ですか

聖書の語る罪について、簡単にご説明します。

的外れの罪
 聖書の語る罪の根本は、人間が神から離れて自分勝手に生きるようになったことを示しています。 聖書の「罪」という言葉の原語には、「的外れ」という意味があります。 人間はもともと神によって造られ、神と交わる存在であったのに、 神の命令にそむき、神から離れて自分の思いのままに生きるようになってしまいました。
 「神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3章11,12節)

不完全な義
 神は完全に義なる方であり、完全に正しい方です。その方に認められるには、私たちも完全に正しくなければなりません。99%正しくても、1%正しくなければ、神の前には罪人です。人間でも、きれい好きな人ほど、少しでも汚れているものは気になるでしょう。完全に聖い神の前には、一点の汚れも許されないのです。旧約聖書の時代に、神はモーセを通して十戒を与えられました。それを全て守れば神の祝福を得ることができましたが、残念ながら、誰も完全に守り行うことはできませんでした。
 「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10節)

罪の性質と罪の行い
 人間には生まれながら罪の性質があります。その性質のために罪を犯します。人は罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。人間の社会では、罪を犯して始めて罰せられますが、神は人間に対して、その罪の性質のゆえに裁かれます。

神の前における罪
 聖書の語る罪は、人間同士の間の罪ではなく、人と神との関係における罪です。人間間の罪の問題ならば、人間の仲裁者によって解決することができますが、神と人との間の問題は、第3者の人間によって解決することはできません。もちろん、自分で解決することもできません。

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キリスト教の戒律を教えてください

映画でも有名なモーセの「十戒」。キリストもそれを聖なる教えとして尊ばれ、その内容を、「唯一まことの、神のみを神とし、愛し、仕えよ」、また「自分だけではなく、隣人を愛せよ」、の二つに集約なさいました。 しかしその内容は、キリスト教徒でなくとも、すべての人が守るよう、命ぜられていることではないでしょうか。ですから私たちは、何か妙な特別な戒律に凝り固まるのではなく、ごく普通の人間でありながら、しかし神の 前に恥じることのない歩みを求めて、隣人の幸せのため、霊的精神的また具体的な生活面で、困難や悪を打破し、向上を目指すのが大切なことではないかと思います。

そのために、私たちは、神の言葉に耳を傾けるよう、神によって招かれ、また毎週集うのです。ですから、私たちにとっては、集会自体さえ一番の目的にはならないのです。もしそうなら、セクト集団と変わらなくなります。歴史の中では残念なこともありましたが、注意が必要です。

イエス・キリストは神なのですか?

イエス・キリスト以外に、自分を神と宣言した(ヨハネ5:17,18)人は、五大宗教(キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教)においていません。ただ神を恐れない人にとっては誰でも、自分を神だということはたやすいことですが、どうして私達はイエスを神と信じるのでしょうか。それはイエスが単に言葉だけでなく、実際に業によってもそれを示されたからです。中でも復活は多くの奇蹟や旧約聖書の預言の成就の極致です。復活は旧約において預言され(ホセア6:2)、イエス御自身も予告し(ヨハネ2:19,21)、実際に彼は復活しました(マタイ28章にその時のことが詳しく書かれています)。復活の証拠は調べれば調べるほど、その確かさが明らかになってくるものです。イエスはこう言っておられます「私が父におり、父が私におられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」(ヨハネ14:)

キリストの再臨というのは、どういうことですか。

天にいます主キリストが、世の終わりのときに再び地上に来られるということです。  それは第一に、主がこの世界と人間のすべてを決定的に裁かれるということを意味しています。そこでこれを、「最後の審判」などと呼んだ時代もありました。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(コリント二5:10)のです。  しかし第二に、それは救いの完成する時です。すべて神に逆らうもの、罪と悪と死が打ち滅ぼされ、全人類が甦らされて主キリストとの交わりのなかに入れられます(テサロニケ一4:13以下)。  その日がいつ来るのか、それは私たちには分かりません。時を定めたもうのは主なる神だけでいらっしゃるからです。けれども主イエス・キリストは、十字架に付いてまで私たちを愛し、赦してくださったお方です。悪いようになさるはずはありません。過去を思い起こしつつ、未来を待ち望んで生きるのです。  私たちは、この主に一切をおまかせして、どんなときにも望みを失わずに歩みつづけることができます。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(ローマ14:8)なのですから。

聖霊とは何でしょうか。

聖霊は、父なる神、子なる神と同じ永遠の神であり、私たちに働きかけてキリストへと導かれます。  それは第一に、キリストの霊です。救い主イエス・キリストを教え、私たちの目をキリストへと向けさせてくださいます。だから「背後霊」や「守護霊」など、その他どんな不思議な「霊」と言われるものとも違います。そんなものは、キリストとは無関係だからです。「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(ヨハネ一4:1)。  第二に、教会の霊でもあります。教会を造り、建て、守り、導きます。何か頭にピンとひらめいたり、気分が高揚すると、「自分は聖霊を受けた」と言い張る人がいます。けれども聖霊は興奮剤ではありません。何よりも教会に働いて教会を導くものです。「聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(言行録20:28)。  聖霊は今も、み言葉をとおして教会に働き、私たちにキリストを教え、信仰によってその恵みにあずからせ、救いの完成へといたらせるのです。

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