キリストの死後、3日をへた日曜日の朝、キリストは復活されました。そのことから、キリスト教の歴史のごく初期の時代から、毎週日曜日に復活を記念してキリストを救い主として礼拝していました。その後、コンスタンティヌス帝の勅令(313年)によって、キリスト教はローマ帝国内において公認され、やがて日曜日休日も法令によって制度化されました。日本でも明治政府によってこれが採り入れられました。外来の生活習慣として入ってきました
教会について
神様の領域教会について
どうして日曜日に礼拝をするの?
日曜日に礼拝をするのは、教会の頭(かしら)であられる主イエス・キリストが、週のはじめの日曜日に死よりよみがえられた(マタイ28:1)ことによるだけでなく、主イエス・キリストが私たちを礼拝に招いてくださっており、甦られたいのちの主に出会うことによって私たちは復活の主にお会いし復活の力が与えられ、祝福されるのです。(使徒20:7)
昔、土曜日を安息日としていたものが日曜日に変ったのではありません。旧約での安息日の定めは、創造の7日目に御業の完成を宣言し休まれた、私達神に造られた者達が神の御手の中に憩うことによって安息を与えられていのちと力が与えられることを目的として一週間のうちに土曜、一日を安息の人して休むようにと定められました。これは、本当の安息であるイエス・キリストによって成就しましたから(コロサイ2:16-17)、イエス・キリストによってのみ本当の安息が与えられ、新約時代に生きている私たちは、主の復活された日曜日だけが礼拝の日なのではなく、毎日が常に主によって聖別される聖日となり、イエス・キリストの中に憩うことによって安息を得ることが出来るのです。
真の礼拝は、神様との人格的な交わりであり、ひとり子イエス様を十字架につけ、救いの業を成し遂げて下さった神への応答として感謝と賛美を捧げるのです。(ヨハネ4:24)(ローマ12:1)
礼拝とは何であるか。
救い主の執り成しによって、主にある兄弟姉妹とともに、一つ所につどい霊と真とをもって、父・子・聖霊なるひとりの神を拝し、神と交わり、神の栄光をあらわすことである。讃美・聖書朗読・祈祷・説教・聖礼典・献金等をその内容とする。
教会へは誰が行ってもよいのですか?
よいのです
教会に行く際に必要な(用意する)ものは?
特にありません。聖書や讃美歌は、教会備え付けのものをご利用ください。自分のものが欲しいと思われましたら、書店でお求め下さい。
(聖書は日本聖書協会発行の「新共同訳」、讃美歌は日本基督教団出版局発行の「讃美歌21」を使用しています)
書店になくても、注文すれば取り寄せできます。
献金はまったくの自由で、しなくても結構です。献金は、神さまの恵みに対する感謝ですので、人によって額は違います。服装については自由です。
礼拝はだれが出るの?
すべての人が礼拝に招かれています。それで、大学では「全学礼拝」と言っています。学生も教員も職員も、クリスチャンもノン・クリスチャンも招かれています。それはすべての人が神さまから愛されているからです。
教会の礼拝は原則として毎週日曜日の朝、午前中に行っています。それはイエス・キリストが日曜の朝に復活されたからです。それで日曜日が、ホリデー(Holy Day 聖なる日)、レクリエーション(Recreation 再創造)の日と言われるのです。神さまから元気をいただく日です。
讃美歌と一般の歌とはどう違うの?
どこが違うか、それは歌う相手が違うのです。一般の歌は人間(自分を含めて)に対して歌います。でも讃美歌は神さまに対して歌います。ですから歌い方も違ってきて、胸を張って上前方(天)に向かって歌います。うつ向いて歌う歌は讃美歌にはありません。そして讃美すれば天から不思議な力が与えられて元気になっていくのです。
祈りって何?アーメンって何?
キリスト教のお祈りは、神さまとの心での対話です。それはお願いすることだけではありません。もっと大切なことは、祈りを通して神さまのみ心を知ることなのです。 アーメンというのはヘブル語で「本当にその通りです」という意味です。祈る人が、祈りの終わりのところで「イエス・キリストの御名によってお祈りします」とい祈ったあと、一緒に「アーメン」と唱和して、共に祈りを捧げるのです。
洗礼とは何ですか、どんなことをするのですか?
イエス・キリストの復活の命を受け取ることであり、キリストの十字架による罪の赦しを受け取ることです。また、教会につながって、教会員になることです。これらのことを願う時には牧師にご相談ください。 洗礼式は、日曜朝の礼拝の中で行われますが、ひざまずいて頂き、頭の上に少しの水をのせて祈ります。
教会に通うには教会員にならなければなりませんか?
いいえ、教会員でなくても教会においでください。歓迎します。
教会員でなくても教会に来ている方は大勢いらっしゃいます。
施設や学校の礼拝は何故?何のためにやっているのですか?
多くの施設や学校では朝に礼拝をしますが、一日のはじめに礼拝をすることにより、その日一日、神さまを見つめて過ごす事ができます。 私たちの心にはさまざまなものがあり、さまざまなものが入ってきますが、朝礼拝をすることにより、その日一日を生きる目標が与えられるでしょう。 礼拝によって私たちは神さまに出会うのですが、毎日神さまに出会うことによって毎日励まされ、慰められることができます。
安心して通える教会を探すには?
地域の教会は、職業別電話帳(タウンページ)を使って「教会(キリスト教会)」で探すのが簡単です。ただし、いわゆる「異端」の教会も一緒に掲載されていることがあるので、注意が必要です。(統一協会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教の教会など)
ウェブサイトを持っている教会も増えているので、インターネットで検索するのも便利です。
FEBCや太平洋放送協会(PBA)では、視聴者に対して、安心して通える教会を紹介するサービスを提供しています。
また、正統的なキリスト教会と言っても、それぞれ特色があり、雰囲気が違います。インターネットなどで事前に調べたり、電話で問い合わせをしてから出かけると良いでしょう。一度ひとつの教会へ行ったら、絶対に他の教会へは行ってはいけないということはありませんので、気軽に訪ねてみてください。
教会は、いつ行ってもいいのですか?
ローマ・カトリックの教会では、伝統的に聖堂の扉は24時間開いていて、いつでも自由に入って祈ることができたようですが、今の教会は、管理者が不在の場合はほとんど鍵がかかっていると思われます。
城山キリスト教会もそうですが、たいていの教会では日曜日に礼拝を行います。礼拝は、基本的に誰でも自由に参加できますから、礼拝の時間を調べて行くと良いでしょう。 礼拝の他にも、自由に参加できる集会があれば、その機会を利用することができます。
牧師や神父と個人的に話をしたい場合は、事前に電話などで時間を決めておくのが確実です。
家が仏教なのですが、教会に行けますか?
聖書やキリスト教に関心があっても、様々な事情でクリスチャンにはなれない、ならない、と思っている方は多いでしょう。特に、日本では、お墓や仏壇を守るという習慣があり、家族の反対を受けることもよくあります。
でも、教会の側では、どのような方も大歓迎です。不思議な方法で問題が解決するということも実際にありますので、洗礼を受ける気はないから、と遠慮なさらず、まずは教会に行ってみることをお勧めします。
礼拝に小さい子どもを連れて行ってもかまいませんか?
かつて、子どもは「うるさい」と邪魔者扱いされることがありました。 しかし、イエスさまは、「こどもたちをわたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものだ」とおっしゃいました。
小さい子どもを連れた人のために、「母子室」と称してガラス張りの部屋を作ったり、別室で礼拝できるようにしたりしている教会もありますが、最近では、礼拝の中で子どものための説教をしたり、子どもの讃美歌を歌ったりして、子どもと一緒に礼拝しようという教会が増えています。
教会では、礼拝の前半をおとなも子どもも一緒に賛美をし、礼拝をささげます。 ただ、聖書のお話は、年代によってそれぞれふさわしいものがあると考えれらますので、後半、お母さんと離れて大丈夫、というお子さんは、年代別のクラスに分かれて活動します。 ぜひお子さんを連れて礼拝に行ってください。
献金について教えてください。
献金は、何よりも神への感謝と献身のしるしとして献(ささ)げられます。そして福音(ふくいん)宣教(せんきょう)のため、教会の維持(いじ)や人々への助けのために用いられます。献金の金額は、全く自由です。それぞれ自分の力に応じて自発的に、心を込めて献げるべきものです。
クリスチャンが教会へ行くことはなぜ必要ですか。
A 教会とは何かを考えてみましょう。聖書を読んでみると、教会は十字架がそぴえ、ステンドグラスがはられたようないわゆる建物をさしているのではないことが分ります。 聖書が語る教会は、エペソ人への手紙に書かれているように、イエス・キリストの十字架の血潮によって罪が許された者によって成る群です。そして、それはキリストを頭として、私たちクリスチャンがキリストの体となることをさしています。各々の肢体の働きも価値も異なっているが、どれ-つとして切り離してしまってよいものはありません。それと同じように、キリストを信じて、キリストの肢体の一部とされた私たちひとりひとりのメンバーが重要なのです。 また、教会は、神の建物、神の神殿にもたとえられています。 1コリント3:10 エペソ2:20~22
B それでは次に、何故この教会にクリスチャンが集う必要があるのかを考えてみましょう。
1.教会(キリストを頭とした信じる者の集まり)がキリストの体であるなら、クリスチャンひとりひとりはどうしてもその群に集う必要があります。それは義務からではなく、ちょうど人間の体が互いに肢体の部分を愛し、いたわり合うように、-つの体が完全なものとして働くための愛と調和の故であるといえましょう。
1コリント12:12~31
2.キリストの肢体が集い合う所を通して、自らの信仰も励まされ、強められ、成長していきます。
エペソ4:11~16
3.イエス・キリストが地上にあって、体をもって力ある働きをされたように、現代は、キリストを頭とした肢体がひとつになって、神の力を現わします。今日、キリストが世界にご自分の愛と力を現わすことができるのは教会を通してなのです。それ故肢体であるクリスチャンが神のご栄光を現わす目的のもとに、教会に集うことは大切なのです。
ローマ12:3~8
4.教会は神ご自身にとって尊い存往であり、いつか神はご自分の前に教会をむかえられます。
エペソ5:27
5.キリストのみ前に出て、他のクリスチャンと共に主を礼拝することはクリスチャンのよろこびです。 詩篇122:1 使徒2:46、47
6.主の命令でもあります。
ヘブル10:25