聖歌525番 かたりつげばや
作詞;A・キャサリーン・ハンキー(1834-1911)
作曲;ウィリアム・G・フィッシャー(1835-1912)
「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」
箴言11:30
福音を強調する運動は、英国においては、実際には、18世紀の半ば、ジョージ・ホイットフィールドや、ジョンとチャールズ・ウェスレー兄弟の働きによって始まった。その運動は、初期においては、主に、社会の中下流階級の間に広まった。一方、上流階級は、その影響に対して、きわめて冷淡であった。しかし、19世紀に入って、その福音運動は、上流階級にも、同様に大きな影響を与え始めた。そのような影響を与えたグループの一つに、南ロンドンのクラパムの近郊のエリートたちを中心とした活動であるために、クラパム派として知られるグループがあった。彼らは、裕福な福音派の慈善家、聖書の研究者、そして、祈りの人たちであった。彼らは、時間と才能と富を惜しみなく福音宣教のために用いた。彼らは、一般的に、英国教会の会員としてとどまっていたが、彼らの強調点は、常に、教会の秘蹟や、儀式への信頼ではなく、個人的な回心と、聖霊の導きの必要性であった。これらの、影響力のある平信徒クリスチャンによって行われた、熱心な奉仕の実例はたくさんある。その中には、英国中の貧しい大衆のために、非常な同情をもって活動したたくさんの英国議会の議員も含まれている。有名な歴史家は、このクラパム派について、「英国国教会の歴史の中で、これほど奥深い影響力を及ぼしたグループは他にはない。」と言った。
キャサリーン・ハンキーは、1834年、豊かなイギリスの銀行家の娘として生まれた。彼女の家族は、英国国教会の有名なメンバーであったが、彼らは、いつも、国教会内のより福音的な人々の集まりに参加していた。彼女の父は、クラパム派の有力なメンバーの一人だった。キャサリーンは、幼い頃、彼女の愛称は、ケイトと言ったが、父から、その同じ福音を伝えられた。彼女は、ロンドン中の富む人や、貧しい人のための日曜学校のクラスを組織し始めた。そのクラスは、町中に、大きな影響を与え、たくさんの幼い生徒たちが、次々に、熱心なクリスチャンの働き人になるという結果を生んだ。ケイトもまた、膨大な著述を残した。たくさんの詩の本をはじめ、「バイブルクラス教案」とか、堅信礼についての小冊子などである。これらの出版物から得られるすべての印税は、いつも、ある海外宣教団体が受取人に指定された。
キャサリーンは、30歳の若さで、重病を患った。回復するまでの長い期間に、彼女は、キリストの生涯についての長い詩を書いた。その詩は、大きな二つの部分からなり、それぞれ、50行で構成されている。第一部の詩は、「大好きな物語」と題されていた。彼女は後に、自分の人気のある賛美歌の詩に、この詩の部分から「わたしに、古い古いお話をして!」という題を付けた。この賛美歌は、このようにして教会子供賛美歌のもう一つの古典となった。
その同じ年、病気がだんだん良くなる間、ケイト・ハンキーは、キリストの生涯に関する詩の第二部を完成させた。その結果、第一部は、「語られた物語」と題された。これらの詩から取って、拍子は同じであるが、彼女の他のよく知られた賛美歌の詩とは異なるアクセントで、「かたりつげばや」の詩が書かれた。
音楽の素養のあったケイトは、これら二つの詩に、自分が作曲して曲をつけた。この曲を使っていた時代、彼女の賛美歌はほとんど注目されなかった。翌1867年、カナダのモントリオールにおいて、YMCAの世界大会が開かれた。その大会説教者のひとりで、英国から来たラッセル少将は、その熱のこもった代表者たちへのメッセージを、ハンキー女史の二つの賛美歌の歌詞を引用して閉じた。その日の聴衆の中に、アメリカの有名な福音音楽家ウィリアム・H・ドーンがいた。彼は、2000曲以上の福音賛美歌を作曲していた。そのドーンが、この賛美歌の歌詞に非常に感動し、直ちに、この二つの歌詞に、曲をつけた。
後に、「かたりつげばや」という詩に付けられたドーンの曲が、さらに、フィラデルフィアのピアノ卸売業者ウィリアム・G・フィッシャーの作曲した曲に差し替えられた。フィッシャーは、さらに、その賛美歌に、「かたりつげばや、世を去る日まで。かたりつげばやイエスの愛を」という折り返しを付けた。1875年、その賛美歌は、現在の形で、ブリスとサンキーの「福音賛美歌及び聖歌集」の中に収録された。こうして、その賛美歌は、世界中の福音的教会の注目を集める事になった。キャサリーン・ハンキーの二つの賛美歌は、今日なお、広く使われている。