神様の領域聖歌 429番 The Ninety and Nine

聖歌429番 九十九ひきの羊は

作詞;エリザベス・C・クレファン(1830-1869)
作曲;アイラ・D・サンキー(1840-1908)
参照聖句;ルカ15:3~7

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ15:7

エリザベス・C・クレファンは、スコットランドのエディンバラに生まれ、アボッツフォードの美しい地方メルローズで育った。彼女は、その短い人生の間中、病気と虚弱なからだに悩まされ続けた。肉体的な苦痛があるにも関わらず、彼女は、町の人々からは、「明るい太陽」のような人だと親しまれていた。エリザベスは、詩を書くことを楽しみとし、彼女のいくつかの詩は、スコットランド長老派の雑誌「家族の宝庫」に掲載された。しかし、彼女の著作の大部分は、彼女の死後3年たった1872年に、匿名の作者のものとして、この雑誌に発表された。

クレファン女史は、この「九十九匹の羊は」の詩を彼女の死の直前に、特別に、子供たちのために書いた。それは、「子供たちの時間」という雑誌に発表された。その5年後、アメリカの伝道者D・L・ムーディとアイラ・サンキーとが、彼らの有名なリバイバル・キャンペーンのために、英国を訪れた。ムーディとサンキーとが、エディンバラの無料集会場での礼拝を指導するために、ある朝、グラスゴーからエディンバラ行きの列車に乗ったときのことです。サンキーは、駅で立ち止まり、アメリカのニュースを知りたいと思い、新聞を買った。彼が、列車の中で、何気なく新聞のページをめくると、そこに、エリザベス・クレファンの詩を発見した。彼は、その記事をムーディに見せようとしたが、ムーディは、説教の準備に夢中で、関心を示さなかった。結局、サンキーは、その詩を切り取って、無造作にポケットの中につっこんだ。

エディンバラでのその日の午後の集会で、ムーディは、ルカ15:3~7に基づいて、「良い羊飼い」という主題で話した。説教が終わると、ムーディは、サンキーに、何かふさわしい賛美歌を独唱してくれるように頼んだ。サンキーは、ふさわしい賛美歌を思い浮かべることができなかった。突然、彼は、ベストのポケットにつっこんだ、小さな詩を思い出した。彼は、折り畳み式のオルガンに、その新聞紙を留め、小声で、神の助けを祈り求め、変イ長調の和音を弾き、歌い始めた。一節一節、旋律が与えられ、その同じ旋律が、変わらずに今日まで伝えられてきた。サンキーは、彼の人生の中でも、最も強烈な印象が残っている瞬間であったと公言する。彼は、すぐに、その歌が、スコットランドの聴衆の心に届いたことを感じることができたと言う。「私が歌の最後にさしかかったとき、ムーディーも私も、涙を流していた。」とサンキーは報告する。ムーディーが、救いの招きをするために立ち上がったとき、多くの「失われた羊」がキリストの招きに応じた。

イギリスでのキャンペーンの間に、ムーディとサンキーとはスコットランドのメルローズを尋ねた。エリザベス・クレファンの二人の姉妹が聴衆の中にいた。彼女たちが、サンキーの曲が付けられた、天に召された妹の詩を聞いたとき、どれほど喜び驚いたか想像できるでしょうか。まして、福音の進展のために、この賛美歌がどれほど霊的な力を持っているか、また、現代に至るまで、持ち続けてきたかを知ったら、とても驚き喜ぶことでしょう。

エリザベス・クレファンは、また、聖歌156番「イエスの十字架」の作者でもある。

アイラ・D・サンキーは、1840年8月28日スコットランド系アイルランド人の家庭に生まれた。1857年、彼の一家は、ペンシルベニア州ニューキャッスルに引っ越した。その町で、彼は、高校に進学し、メソジスト監督教会に出席していた。ここで、彼は、聖歌隊に参加するようになった。彼のバリトンの力強い声は、たちまち注目を集め、彼の歌声を聞くために聴衆が集まるようになった。

1860年、サンキーは、ペンシルベニア第12連隊に入隊した。軍隊にいる間、彼は、しばしば、礼拝の賛美を指導した。しかし、自分の人生を音楽伝道に献げるなど、実現可能な考えとは、とても思えなかった。軍隊から帰ると、彼は、内国税歳入局の職員になった。

1870年、サンキーは、インディアナ州のインディアナポリスで開かれるYMCA大会に、代議員として派遣された。そこで、彼は、始めて有名な伝道者D・L・ムーディに出会った。その大会の礼拝における賛美は、非常に貧弱なものであった。結局、サンキーが指導すべきだという事になった。すると、たちまち、新しい霊と熱心が会衆に吹き込まれた。大会の最後には、サンキーは、ムーディに個人的に紹介された。サンキーは、このムーディと共に奉仕した最初の集会に関して、次のような文章を残した。

私がムーディ氏に近づくと、彼は、歩み寄って私の手を握り、あの鋭い、洞察力に満ちたまなざしで、私の魂をも読みとるかのように、私を見た。そして、突然、「どこから来ましたか?」と尋ねた。
「ペンシルベニアから来ました。」
「結婚していますか?」
「はい。」
「お子さんは何人おられますか?」
「二人です。」
「お仕事は?」
「公務員です。」
「そうですか。では、その仕事をやめなければなりません。」とムーディは言った。

私が、驚きのあまり、答えることができないでいると、ムーディーは、既に事が決したかのように話し続けた。そして、「私は8年間、あなたを捜し続けてきた。あなたは、シカゴに来て、私の仕事を助けなければなりません。」と言った。

数ヶ月後、迷った末、サンキーは公務員の職を辞し、家族と共に、シカゴへ引っ越し、ムーディーと共に、実りある伝道者として、また、福音音楽の促進のために神に用いられる器としての活動が始まった。

今日、アイラ・D・サンキーが、エリザベス・クレファンの詩に即興で曲を付けたという有名なオルガンが、ミネソタ州ミネアポリスにある、ビリー・グラハム伝道協会本部のチャペルに置かれている。

アイラ・D・サンキーはまた、聖歌243番「たかきいわよ」、聖歌490番「われはおさなご」、聖歌514番「ひかりの高地に」などの作曲者でもある。

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