聖歌384番 すべてのめぐみの
作詞;トーマス・ケン(1637~1711)
作曲;ルイス・ブルジョア(1510?~1561?)
曲名;「古き100番」
引照;詩篇100篇
「わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。」詩篇86:12
300年以上の間、この四行詩の頌栄は、誰もが知っていて、最もよく歌われた歌詞であった。今日でも、英語圏のほとんどすべてのプロテスタントの会衆が、毎週日曜日に、少なくとも一度は、この高貴な頌栄を歌うことで一致している。この頌栄は、かつて著されたどんな神学書にもまさって、三位一体の教理を教えてきたと言われている。また、しばしば、「プロテスタントの Te Deumu Laudamus(我ら神を讃えまつらん)」であると言われてきた。
この詩の作者は、大胆かつ率直にものを言う、17世紀英国国教会の主教トーマス・ケンである。彼は、1637年、英国のバークハンプステッドという小さな町に生まれた。幼い頃に、孤児となったケンは、彼の一番上の姉とその夫で、当時、最もすぐれた釣り人として歴史に名を残した有名なアイザック・ウォルトンのもとで育てられ、ウィンチェスター・スクールで教育された。後に、ケンは、オックスフォード大学に通い、1662年、英国教会の牧師として任命された。牧師としての、彼の華々しい経歴は、劇的で、多彩です。続いて、ウィンチェスターのビショップ付きの牧師として任命された。1679年に、彼は、オランダに派遣され、ハーグにある宮廷の英国人牧師となった。しかし、ケンは、あまりにも率直に、オランダの首都で、権力のある人々の堕落した生活を非難したため、翌年、強制的に帰国させられた。彼が英国に帰国するに際して、チャールズⅡ世は、ケンを彼自身に仕える牧師の一人として任命した。ケンは、なおも、同様の大胆さで、彼の仕えるふしだらな英国王の不道徳の罪を叱責した。これらの叱責にも関わらず、チャールズ王は、いつも、この牧師の勇気をほめたたえた。チャールズ王は、彼を「善良な小男」と呼び、礼拝の時間になると、いつも、決まって、「行って、私の過ちを教えてくれるケンの言葉を聞かねばならない。」と言った。ついには、王は、報酬として、トーマス・ケンを、バースとウェルズ地方のビショップに任命した。ケンがビショップとして任命されてわずか12日後に、彼の友人であったチャールズⅡ世は死んだ。すぐに、彼は、免罪符の勅令を読むことを拒絶して、新しい君主、カトリック教徒であったジェームズⅡ世の怒りを招いた。彼は、他の六人の英国教会の指導者と共に、ロンドン塔に幽閉された。結局、ケンは放免されたが、次に王となったウィリアムⅢ世の治世の1691年に、ビショップの職を離れた。ケンの残りの生涯は、ウィルトシャーのロングリートにある忠実な友ウェイマス卿の家で、彼とともに、人に知られない静かな時を過ごし、1711年、74歳のとき、そこで死んだ。歴史家マコーレイはビショップ・ケンに「“人間的な弱さを認めたとしても”、彼は、ほぼ、キリスト者の完全という理想像に達していた」と賛辞を送った。
ビショップ・ケンは、数多くの賛美歌を書いた。ケンは、クリスチャンが、詩篇歌や聖書詠唱歌のみに限定されず、神への讃美を表現することが許されるべきだと、いつも願っていた。彼は、単なる詩篇の韻文化ではなく、賛美歌を作った英国で最初の作家のひとりであった。
1673年、ケンは、「ウィンチェスター・カレッジ奨学生用祈りの手引き」と題された本を書いた。この手引きのある版の中に、ケンは、学生たちが毎日の霊想時に歌って欲しいと願った彼の三つの賛美歌を納めた。これらの賛美歌は、「朝の賛美歌」、「夕べの賛美歌」、そして、「真夜中の賛美歌」と呼ばれた。これらの賛美歌は、それぞれ、私たちが、現在、よく知っている四行の頌栄で閉じられている。かれの「朝の賛美歌」の詩は、特に有名です。この賛美歌から二つの節を引用してみよう:
我が魂よ。朝日と共に起きよ
あなたの日々のつとめが始まる
沈んだ怠惰の情を振り捨て早く起きよ
暁の犠牲をささげるため
この日に命じ支配し提議せよ
すべて私が設計し、なし、語ると;
私のすべての力と、彼らのすべての力とが、
あなたの唯一の栄光の中に結合されるように
ビショップ・ケンは、この賛美歌を書いた後、この賛美歌を彼自身のリュートの伴奏で、毎朝の個人的な祈りの時間に歌ったと言われている。
ビショップ・ケンの詩につけられた曲は、キリスト教の賛美歌中最も有名な曲であると言われている。この曲は、1510年、フランスのパリに生まれたルイス・ブルジョワによって作曲されたか、編曲された。1541年。ブルジョワは、スイスのジェネバに移住し、そこで、ジョン・カルビンと宗教改革運動の熱心な支持者となった。ジェネバにおいて、彼は、その時までに準備されてきた新しい韻律の詩篇に曲をつける責任が与えられた。ブルジョワは、1562年に完成し出版されたジェネバ詩篇歌(音楽の出版物の記念碑的存在)の主な責任者であった。このメロディは、元々フランス語訳の詩篇134篇のために作られ、1551年に出版された英語版ジェネバ詩篇歌の中に採用された。その曲に、最初に英語の歌詞が付けられたのは、ウィリアム・キース訳の詩篇100篇、「地に住む諸々の民よ」であった;そこで、このメロディーは、「百番」という名で知られるようになった。1696年、テートとブラディーは、新しい詩篇歌を出版した。そこで、スターンホールドとホプキンスによって編集された以前の詩篇歌の中で使われていたメロディであることを示すために「古い」という言葉を挿入した。