聖歌349番 移りゆく時の間も
作 詞;リナ・サンデル・バーグ(1832-1934)
作 曲;オスカー・アーンフェルト(1813-1882)
恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」 ヨシュア1:9
19世紀後半にスカンジナビア半島を飲み尽くしたリバイバルの波は、1832年10月3日、スウェーデンのフロデリッドに生まれたリナ・サンデルが作詞したたくさんのすぐれた賛美歌に負うところが大きい。彼女は、その町の教区教会の牧師の娘として生まれた。子供時代は虚弱であったため、友達と遊んで過ごすよりも、父親が学ぶ傍らで過ごすことが好きであった。26歳の時、ゴーセンバーグへ旅行する父親に同行したが、目的地に到着する前に、悲劇が起きた。船が突然ガクンと揺れて、リナの父は、水中に投げ出され、愛する娘の目の前で水死してしまった。
彼女は、この悲劇的経験の前から賛美歌を作詞していたが、この後、彼女の傷ついた心からは、キリストに対する、単純で子供のような信頼と、彼女の人生にキリストの変わらぬ臨在が伴っている確信を反映した、より多くの賛美歌が流れ出した。
彼女が、賛美歌によってめざましい人気を獲得することになったのは、彼女の詞に、オスカー・アーンフェルトのような音楽家が、単純で、美しい曲をつけてくれたことが大きな理由です。アーンフェルトは、当時、「霊的吟遊叙情詩人」として知られていた。彼は、スウェーデンの人々の心を捕らえる心地よい音楽を作曲する才能を持っていただけでなく、スカンジナビアの諸国をあちこち旅して、こういった民謡調の歌を、彼の手作りの十弦のギターの伴奏で歌っていた。サンデル女史は、かつて「アーンフェルトは、人々の心に、私の歌を唱いかけた。」と語った。
アーンフェルトばかりでなく、‘スウェーデンのナイチンゲール’と愛情を込めて呼ばれるジェニー・リンドも、その甘い歌声で、これらの心温まる賛美歌をしばしば歌った。彼女は、公式のコンサートでは、世界的に知られていたが、彼女は、普通の労働者とともに、粗末な座席に座って、彼女が愛し、仕えた救い主についてのこれらの単純な賛美歌を、しばしば、歌ったものだと言われている。
リバイバルの炎が燃え上がるときはいつでも、サタンの妨害もあるとは、多くの場合真実です。ある時、カール15世がスカンジナビア全土において、アーンフェルトが歌い、説教することを禁じたと報告されている。王は、アーンフェルトを御前に召した。アーンフェルトは、王の前で、何を歌うかに関して、相当迷った末、リナ・サンデルに特別な賛美歌を書いてくれるよう依頼した。彼女は、そのような場合にも平静で、数日の内に賛美歌が用意された。ギターを腕に抱え、ポケットには新しい賛美歌を入れたアーンフェルトが王宮に現れ、こう歌った。
「静かな晩に、あなたの心の扉をたたくのは誰?
傷つき痛む者に、癒し和らげるバルサム油を持ってくるのは誰?
あなたの心は、今なお不安。世の楽しみでは平安を見いだせない;
あなたの魂は、今なお渇いている。天の宝を手に入れて自由になりたい。」
王は、涙を浮かべて聞き入った。アーンフェルトの歌が終わると、カール王はしっかりと握手し、「我が王国のどこででも歌ってよろしい!」と叫んだ。
この賛美歌を翻訳したアンドリュー・S・スクーグは、19世紀終わりから20世紀はじめ、中西部アメリカにスウェーデンから移住した人々の間で、よく知られた人だった。彼は、スウェーデンに生まれ、12歳の時、ミネソタ州のセントポールに移住した。彼は、6年間しか教育を受けなかったが、七つの讃美歌集、教師たちのための非常に多くの著作物を編集し、理論の教科書を書いた。晩年の15年間は、ミネアポリス─セントポール地域において有名なE・オーガスト・スコッグスバーグ牧師と共同で、活発な宗教生活を送った。二人の人は、しばしば、スウェーデン版のムーディとサンキィであるといわれた。
リナ・サンデルは、1867年、ストックホルムの商人C・O・バーグと結婚したが、結婚後も、彼女は、スウェーデン中で親しまれた“L・S”のイニシャルで賛美歌を作り続けた。彼女は、福音賛美歌に非常に大きな貢献をしたので、しばしば、“スウェーデンのファニー・クロスビー”と言われてきた。