聖歌282番 われをはなたざる
作詞;ジョージ・マテソン(1842-1906)
作曲;アルバート・L・ピース(1844-1912)
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」エレミヤ31:3
この賛美歌は、一般に、19世紀後半に書かれた賛美歌の中で最も愛された賛美歌の一 つだと考えられている。この、思想豊かに、芸術的に構成された詩が、全盲の著者によっ て書かれ、しかも、その詩は彼の大きな精神的な悩みの実として書かれたということは、 非常に注目すべきことです。
スコットランドのグラスゴーに、1842年3月27日に生まれたジョージ・マテソン は、少年時代わずかな視力しかなかった。彼が、グラスゴー大学に入学して後、彼の視力 は、急速に衰え、18歳のときに、完全に失明してしまった。このハンディキャップにも かかわらず、彼は、優秀な学生で、大学とスコットランド教会の神学校とを優秀な成績で 卒業した。1886年、彼は、2000人の会員を擁するエディンバラのセント・バーナ ード教会の牧師となった。彼は、次第にスコットランドにおける著名な説教者、牧師のひ とりとなり、エディンバラでは非常に尊敬され、彼の雄弁な説教が多くの聴衆を魅了した。 マテソンは生涯結婚しなかった。しかし、彼の実り多い奉仕の生涯を通じて、献身的な姉 (妹?)によって助けられた。彼の神学的な学びを助けるために、彼女自身、ギリシャ語、 ラテン語、ヘブル語を学んだ。彼女は、マテソンの忠実な同労者であり、助け手であり、 全生涯を通じて、彼の召しを、また、他の牧師としての職務を補助した。 著者にこの詩を書かせた精神的苦悩の原因に関しては様々な推量がなされてきた。実証 されたわけではないが、その中で最もポピュラーなのは、マテソンの婚約者が、結婚する 直前に、彼が完全に失明する時が迫ったことを知り、婚約を破棄した結果であるというも のです。この物語は証明することはできないけれども、この賛美歌の中には、悲しみに暮 れる心を反映した重要なヒントがある。 例えば、2節の「よわき火」とか「借物の光(日本語訳には訳出されていない)」、3節 の「雨の中に虹」、4節の「十字架」などがそれです。幸いなことに、マテソン博士は、 この賛美歌に関する次のような文章を残している。
この賛美歌は、インネランの牧師館において、1882年6月6日の夜、作詞したも のです。その時、私は孤独でした。その日は、妹(姉?)の結婚式の日で、私以外の家族 はグラスゴーに泊まりました。私にとって、あることが起きました。それは、私だけが知 っていることですが、そのことが、私に精神的悩みをもたらしたのです。この賛美歌は、 その悩みの実です。私の現在までの生涯で、それは最も速く作詞された小品です。この賛美歌は、私自身が創作したというよりも、むしろ、ある内なる声に従って書きとらせられたという印象を持っています。ものの5分ほどの間に詩の全体が出来上がり、推敲も書き直しもなく出来上がったことを良く覚えています。私には、韻律の才能はありません。私が今までに作詞したすべての詩は、機械的に作られたものです;これは、高きところから訪れる夜明けのようにやってきたものです。私は、詩に込められた熱情と同じものをもう一度持つことは決して出来ない。
その賛美歌は、1883年一月に、スコットランド教会の月刊誌「生活と仕事」誌上に、 最初に発表された。曲は、一年遅れて、当時、スコットランドの有名なオルガンニスト、 アルバート・L・ピースによって作曲された。彼は、スコットランド賛美歌委員会によっ て要請され、特に、マテソンの詩のために作曲をした。ピース自身が、この優れた曲につ いて、次のように書いている。「その詩を注意深く読んだ後、私は、すぐさま作曲した。 そして、最初の音符を記したインクがほとんど乾かないうちに、その曲が完成したと言っ てもよい。」
マテソンの晩年は、英語で書かれた最も優れた霊想書のいくつかを書くために費やされ た。その中には、「山上の時」、「聖霊の声」、「河畔の休息」などが含まれている。