聖歌248番 ほふられたまいし
作詞;Charlotte Elliott (1789-1871)
作曲;William B. Bradbury (1816-1868)
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えること がなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…父がわた しにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、 わたしは決して捨てません。』」 ヨハネ6:35,37
疑いもなく、この賛美歌は、今までに作られたどの賛美歌よりも多くの人の心に感動を 与え、多くの人々に影響を与えてキリストに導いてきた。この歌詞は、ひとりの病弱な婦 人の心の中に生まれた。彼女は、この詩を、無価値だという激しい感情と絶望の中で書き 記した。
シャーロット・エリオットは、1789年3月18日、イングランドのクラファムに生 まれた。若いとき、彼女は、気苦労のない生活をし、肖像画家として、川柳作者として人 気を得ていた。 しかし、彼女が30歳を過ぎた頃から、彼女の健康は急速に衰え、たちまち寝たきりの 病人となり、その残りの生涯を過ごした。健康が衰えるとともに、ひどく落ち込むように なった。1822年、有名なスイスの伝道者シーザー・マラン博士が、イングランドはブ ライトンのエリオット家を訪れた。彼の訪問は、シャーロットの人生の転機となった。エ リオット嬢の霊と感情の問題のカウンセリングにおいて、マラン博士は、「世の罪を取り 除く神の小羊のもとへ、あなたは、ありのままの姿で、ひとりの罪人として、来なければ ならない。」という真理を、彼女の心に刻みつけた。その日以来ずっと、エリオット嬢は、 そのスイスの友人が彼女をキリストとの個人的な関係に導いた日を、毎年祝った。なぜな ら、彼女は、その日を彼女の霊的な誕生日であると考えたからです。彼女は、この歌詞を、 回心から14年後の1836年になってはじめて書いたけれども、彼女が、その友人の言 葉を決して忘れなかったことは明らかです。それが、この賛美歌の真髄となっているから です。
シャーロット・エリオットは82歳の長寿を全うしたが、その健康は回復することなく、 健康状態が非常に悪化しては、忍耐することがしばしばであった。彼女は、自分の病気に ついて、ある時こう書いた。「神が、神のみが、それが何であるかをご存じです。毎日毎 時、打ち負かされそうになる弱さと無気力と消耗の身体症状と戦い、その身体症状が私に 欲させる、怠惰や憂うつや情緒的不安定といった気ままな生活に身をゆだねず、むしろ、 『人もし我に従い来たらんと思わば、己を捨て、日々、己が十字架を負いて、我に従え』 という私のモットーに従って、毎朝起き上がることの何たるかを」。また、ある時はこう も書いている。「神はご覧になり、神は導き、神は私を守って下さる。神の恵みが私を取 り囲み、神の御声は、絶えず私に、私が今なす神への奉仕において、幸福で、聖くあれと 命じられる」。
エリオット嬢は、この賛美歌を、1836年に書いた。 それは、同年、「病者の賛美歌集」の第二版に収録され、出版された。そこには、彼女 の作品が、115篇載せられた。彼女は、この賛美歌を、彼女自身の牧師をしている兄弟 が、ブライトンに建設しようとしていた貧しい牧師の子供たちのための学校を建てる経済 的な援助になればと書いた。エリオット嬢は、この尊い計画を助けるには、自分はあまり にも無力だと感じていた。おもしろいことに、牧師の病める姉妹の筆から生まれた、この 一つの賛美歌は、バザーなど、彼が計画したすべての企画を併せたもの以上の基金を生み 出した。彼自身はこのような言葉を残している。「私の長い奉仕の生涯において、私は、 いくらかの労苦の実を見ることを許されてきたと思う;しかし、私は、私の姉妹のたった 一つの賛美歌によって、それ以上の事がなされたと感じている。」
シャーロット・エリオットは、全部でほぼ150篇の賛美歌を書いた。次第に、彼女は、 英国の女流賛美歌詩人の中で、最も優れた者のひとりとみなされるようになった。 彼女の死後、世界中から寄せられた個人的な手紙の中に、一千通以上のこの一つの賛美 歌が彼らの生涯にいかに重要な意味を持つかを綴った感謝状が発見されたと言われている。
このメロディーは、有名な福音音楽家であるウィリアム・B・ブラッドベリーによって 作曲された。この曲は最初、“The God of Love Will Soon Indulge."という賛美歌につ けられたものであった。後に、トーマス・ヘイスティングによって、ブラッドベリーの曲 とエリオット嬢の詩が結び付けられた。
永遠の御国において、この病弱な婦人の筆が生みだした一つの賛美歌を通して、その生 涯に劇的な変化を遂げた大勢の人々が明らかになるでしょう。この賛美歌は、礼拝後の招 きの歌としてだけでなく、もっと歌うべきであり、そう出来る賛美歌です。その唯一の主 張は、私たち信者が、よく覚えておくべき事は、私たちの永遠の立場と神との平和とは、 私たちの功によらず、ただキリストの功績によるという事です。