聖歌260番 主よいよいよ
作詞;サラ・F・アダムス(1805-1848)
作曲;ローウェル・メイスン(1792-1872)
曲名;「ベサニー」
参照聖句;創世記28:10~22
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4:8
「主よいよいよ」は、賛美歌研究者たちによって、かつて女流賛美歌作者たちによって書かれた賛美歌の中でも最も優れた賛美歌であると評価されている。サラ・フラワー・アダムスは、1805年2月22日、英国のハローに生まれた。彼女は、43歳で早逝した。しかし、この短い生涯に、サラ・アダムスは、充実した実りある人生を送った。彼女は、ロンドンで、マクベス夫人を演じ、舞台で活躍した。彼女は、また、繊細な肉体を持っていたため、それが、彼女のさまざまの野心の実現には常に障害となったが、多くの文学作品を書いたことで、広く知られている。1834年に、彼女は有名な発明家であり土木技師であったジョン・ブリッジズ・アダムズと結婚し、彼女が死ぬまでの14年間、この有名な二人は、ロンドンで家庭生活を営んだ。彼女の才能、美しさ、魅力、そして優れた人格は、彼女を知るすべての人に、常に深い感動を与えた。
サラの姉、エリザもまた、才能のある女性であった。熟練した音楽家として、彼女は、サラの書いた多くの賛美歌に、作曲した。ある日、彼女たちのユニテリアン(訳者注;三位一体の教理を否定し、神の単一性を強調し、自由と理性と寛容を尊重するグループ)の牧師であるウィリアム・ジョンソン・フォックス師が、たぐいまれなこの二人の姉妹に、自分が会衆のために編集している新しい賛美歌集の準備を手伝ってもらえないだろうかと頼んだ。二人の姉妹はすぐに、この計画に、忙しく関わり、献身するようになった。二人は協力して、13の詩を書き、62の新しい曲を作り貢献した。
この賛美歌の歌詞は、彼の兄エサウから逃れ、家を離れて荒野をさまようヤコブが見た夢がもとになっている。夢から覚めて、御使いが上り下りするのを見たヤコブは、その場所を「ベテル」すなわち「神の家」と呼んだ。ある日、二人の姉妹は、彼女たちの牧師と共に、まもなく出版される新しい賛美歌の最終的な細かい部分を完成させるため、忙しくしていた。牧師は、準備中の、創世記28:10~22に記されたヤコブとエサウの物語からの説教の結論にふさわしい賛美歌を探したいと所感を述べた。姉のエリザが、「サラ。私たちの新しい賛美歌について、とっても良い考えが浮かんだわ。あなた、ヤコブの夢に関して、あなた自身の詩を書いてみない?」と熱心に勧めた。
「素晴らしい考えだ!」と、喜んだ牧師は答えた。その後、創世記に関して、充分な時間を費やして学び、この旧約聖書の物語の雰囲気や感覚を吸収して、サラは、書き始めた。まもなく、彼女は、今日、私たちが歌っている五節で構成される聖書物語の詩を完成させた。
この賛美歌は、時に、キリストの人格や御業について、歌詞のどこにも言及されていないと批判されてきた。サラ・アダムズは生涯のほとんどを、ユニテリアン教会で過ごした。このつながりの影響で、彼女の詩に、福音の情熱が欠落していることは、疑いもない。しかし、とても興味深いことには、この賛美歌は、ほとんどすべての賛美歌集に採用され、様々の国の言葉に翻訳され、世界中の信者の心をつかんだという事です。死の直前に書かれた彼女のいくつかの作品からは、サラ・アダムズが回心の体験をして、ロンドンのバプテスト教会の一員となったことを証している。
「主よいよいよ」は、1841年に出版された新しい賛美歌集に収録された。その賛美歌集は、ロンドンのフォックス派ユニテリアン教会の教理に合わせて作られた賛美歌集として知られている。その賛美歌は、3年後の1844年、アメリカに紹介された。しかし、その賛美歌が人気を得るのは、12年後、アメリカの教会音楽・学校音楽の父として有名なローレル・メイスンが作曲した、現在の「ベサニー」というメロディーが、この詩につけられてからです。ローレル・メイスンの作曲した賛美歌は、他に、聖歌527番「北はグリンランドの」、聖歌158番「十字架にかかりし」、聖歌317番「かみをあがめ」、聖歌122番「たみみなよろこべ」、聖歌94番「ひかりかがやく」などがある。
この賛美歌の使用に関しては、たくさんの興味深い出来事がある。1871年、ヒッチコック教授、スミス教授、そして、パーク教授という、三人の有名な神学者が、パレスチナを旅行中、この賛美歌のメロディーを聴いた。近づき驚いたことに、50人のシリア人の学生が、ある木の下で輪を作って、アラビア語で、「主よいよいよ」を歌っていた。ヒッチコック教授は、後に、この出来事を回顧し、この若いシリア人クリスチャンの賛美を聞いて、かつてない感動をし、涙があふれたと語った。
1889年5月21日、ジョンズタウン市の洪水で、鉄道列車が、渦巻く水の中に飲み込まれた。一両の列車が最後を迎えたとき、その列車の中で、救助の望みも断たれて閉じこめられた、極東へ宣教師として行く途中の女性がいた。その若い女性は、恐怖のあまり、その悲劇を為す術もなく見つめる人々に、静かに語りかけた。そして、彼女は祈り、最後に、「主よいよいよ」を歌った。悲しみの中で、共感した人々が彼女と共に歌う中、彼女は、彼女が愛し仕える神のみもとへの先導者となった。
この賛美歌はまた、多くの偉大な指導者達の愛唱歌でもある。アメリカの暗殺された大統領ウィリアム・マッキンリーは、この賛美歌が愛唱歌であると公言していた。彼が最後の息を引き取るとき、この歌を口ずさんでいたと伝えられる。この賛美歌は、1901年に行われた彼の葬儀や追悼式の時に、アメリカ全土で、広く歌われ、演奏された。1912年、船の楽団がこの賛美歌のメロディーを奏でる中、1500人の人々とともに、冷たい大西洋に沈んだ不運なタイタニック号のお話も、よく知られている。
作者は、ユニテリアン教会に所属していたにもかかわらず、この賛美歌は、神に大いに用いられ、あらゆる国の神の民に、霊的安らぎと祝福とをもたらした賛美歌であると結論せざるを得ない。この賛美歌は、人々の心にある神を知りたい、神の臨在と勝利を経験したいという、普遍的な切望を、非常に適切に表現している。