聖歌248番 かくせやわれを
作詞;Augustus M. Toplady(1740-1778)
作曲;Thomasu Hastings(1784-1872)
『そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たち の先祖は…みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについてきた御霊の岩 から飲んだからです。その岩とはキリストです。』 ── コリント10:1,4──
この賛美歌は、伝統的に、賛美歌の中で、最も有名なもののひとつとして数えられてき た。確かに、英語の賛美歌の中では、最も良く知られた賛美歌の一つです。かつて、「貧 民街から、救世軍によって、ようやく救出された浮浪者から、グラッドストーン総理大臣 (彼の葬儀の際には、ウエストミンスター大寺院のほの暗い空間に、この賛美歌がこだま した)に至るまで、あらゆる種類のあらゆる状態にある人々の霊的な必要に適った賛美歌 である」と表現されたことがある。
多くの賛美歌が、個人的な悩みや、深い霊的な体験の中から生み出されてきたのに対し て、この賛美歌は、明らかに、激しい論争の精神によって生み出された。オーガスタス・ トップレディはアイルランドに滞在中の、16歳の少年の時に、キリストを信じ回心した。 トップレディは、自分の回心についてこう書いている。英国国教会という神の恵みの手段 のもとにかくも長い間座していたこの私が、アイルランドの人目につかない地方において、 納屋の中に共に集った一握りの人々の中で、自分の名前すら綴ることのできないひとりの 人の奉仕によって神の御前に連れ行かれるとは、奇妙なことである。一時、トップレディ は、ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー兄弟とメソジストの人々に魅了された。
しかし、時を経るに従って、彼は、ジョン・カルビンの「選び」の教理を熱心に支持す るようになり、ウェスレー兄弟とその支持者たちが擁護するアルミニウスの見解に、強く 反対するようになった。公開討論、パンフレット、説教によって、トップレディとウェス レー兄弟とは神学論争を繰り広げた。彼らの記録に残る声明の中には、次のようなものが ある。
トップレディ;私は、彼(ジョン・ウェスレー)が、この島にかつて現 われた中で、福音体系に対して最も悪意ある憎しみを向 けた人であると信じている…ウェスレーは…イエズス会 の詭弁法と法王の権威とを合体させた…悪魔的無恥の罪 を犯している。
ウェスレー ;私は、敢えて、懸賞金稼ぎや舞台俳優の精神をもって神 の深みに及ぶ事を語るつもりはないし、煙突掃除人と戦 ったりはしない。
1776年、トップレディはこの賛美歌の詩を‘The Gospel Magazine'誌上に、大英帝 国すら、その国債を償還することができないのに、人がその努力によって、聖なる神の永 遠の正義を満足させることなど決して出来ないという、彼の議論を立証するための記事の クライマックスとして発表した。彼はこの賛美歌に「世界にあるいと聖なる信者のための 生きている時と死ぬまぎわの祈り」と題をつけた。
トップレディの賛美の詩には、悔恨と深刻な悔い改めが必要であるというウェスレー派 の教えや、アルミニウス派の聖化の概念、即ち、いかなる信者も意識的な罪を犯さずに生 きることが出来、それによってヘブル書4:9に記されているような道徳的に完全な状態 である、約束の安息を見出すことが出来るという信仰に対する、明らかな、風刺的批評が いくつか含まれている。第二節のトップレディの反論に注目しよう。
「法の要求に耐え得ぬ我れは、心熱くし泣き沈むともいかでか罪を贖い得べき」
(直訳) 私が滂沱の涙を流すとも、疲れを知らない熱意にあふるるとも 罪を贖うことは出来ない-あなたこそが、あなただけが救い得る
著名な賛美歌学者であるルイ F. ベンソン博士は「良く知られた賛美歌の研究」の中で、 実は、トップレディが、30年ほど前にチャールズ・ウェスレーの書いた「主の晩餐の賛 美歌集」に収められている賛美歌を盗作しているという事実に注意を喚起している。その 賛美歌集の序言に次のような一節がある。
ああ。イスラエルの岩、救いの岩、我がために打たれし岩よ。汝の 脇よりほとばしりいでたる血と水の二つの流れをして、我が魂に赦 しと聖潔とをもたらしめよ。我をして、この水が湧き出しところの、 その山に立ち、その岩の裂け目近くに立ち、聖なる血潮がほとばし り出たるわが主の傷跡近くに立ちし如くに、渇かせよ。
オーガスタス・トップレディは、1740年11月4日、英国のファーンハムに、メイ ジャー・リチャード・トップレディの子として生まれた。彼の父は、息子がまだ赤ん坊の ときに礼拝の最中に死んだ。後に、息子のトップレディは、アイルランドのダブリンにあ るトリニティ・カレッジを卒業し、1762年に、英国教会の牧師に任命された。彼の牧 師としての様々な経歴の中には、ロンドンのレスターにあるフランス・カルビニスト教会 での奉仕が含まれている。そこで、彼は、力強く熱心な福音説教者として知られていた。 彼は、虚弱体質のゆえに、過労と結核から、38歳の若さで、死んだ。アルミニウス主義 への反対運動において、論争好きな説教者として知られていたけれども、トップレディは、 深い霊性を持った福音指導者として、非常に尊敬されていた。彼の死の直前の最後の声明 は重要です。
栄光のゆえに私の胸は毎日、次第に高鳴っている。病気は悩みではない。痛みも何の理 由にもならない。死それ自体、消滅ではない…
トップレディの詩につけられたメロディーは、1830年にアメリカの良く知られた教 会音楽家トーマス・ヘイスティングスによって作曲された。ヘイスティングスは、アメリ カにおいて、教会音楽の向上と前進の仕事にその生涯をささげた最初の教会音楽家であっ た。彼は、かつて次のように書いた。「全能の神に帰すべき敬意は、音楽が表現すること の出来る最も高貴な、最も敬虔なささげものを要求する」
トーマス・ヘイスティングスは1784年10月15日に、コネチカット州のワシント ンに生まれた。彼は、正規の音楽を少ししか受けておらず、アルビノであったため、その 生涯にわたって目の障害に苦しんだにもかかわらず、教会音楽についての50冊以上の本 を書いた。その中には、1000曲の賛美歌と、600以上の彼が作詞した賛美歌の詩が 含まれ、編集した賛美歌集は50にも及んだ。
1858年、ニューヨーク市立大学は、彼の業績を認めて、音楽博士号を彼に贈った。 ローウェル・マンソンとともに、トーマス・ヘイスティングスは、アメリカ合衆国の教会 音楽の発展に最も貢献した器のひとりとみなされている。
この賛美歌の歌詞が争いの目的で作られているにもかかわらず、神は、その摂理の中に、 この賛美歌を選び、過去200年にわたって、カルビン主義神学、アルミニウス主義神学 の両陣営の人々が、霊的益と祝福をもたらす賛美歌として歌うことの出来る賛美歌として 保ってこられたことを知るとき、励まされる。