儀礼――広辞苑によると儀礼を「@社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式。特に敬意をあらわす作法。A社会的慣習として、形式を整えて行う礼儀、礼式。(広辞苑 第五版 新村出編 1998年岩波書店発行)」と定義しています。広義には直接宗教と関係のない意味で一般的に捉えられています。つまり、「儀礼」は特別のものではなく、現代社会で私たちに頻繁に使われるものなのです。例えば、助けてもらったときに「ありがとうございます」と言う行為。誤りを犯したら「ごめんなさい」と言う行為なども一種の儀礼といえます。心を込めて感謝したか、謝罪したかを別にして、このような儀礼は、「人間関係を円滑にし、社会生活の秩序を保つ」という機能を人間社会にもたらしています。
ところで、Aの意味によると儀式も儀礼の一種ですが、儀式はひとつの大切なことにともなって、行われるものです。結婚しようとする二人の意志や愛情にあっての結婚式、その学校の生徒である資格を与えられての入学式、あるなくなった人を追悼する葬式。また、儀式・礼式は宗教と不可分の関係にあります。特に諸外国に比べ宗教活動が盛んでない日本においても、葬式でお坊さんを呼び(仏教)、結婚式は教会で執り行います(キリスト教)。
もともと宗教は大きく二つに分けることができます。自然宗教と創唱宗教です。一般的に原始社会での自然宗教は生育・葬祭・豊穣・居住など生活に必要なことを自然界に求めるものです。「子供が無事に生まれるように・死んだ人があの世で極楽往生できるように・今年もいっぱい作物がとれるように・災害に遭わないように」などのように、自然に対して祈念する気持ちを表面的に表すのが、いわゆる人生儀礼・生産儀礼などです。それらが、その後日本に伝わって来た、仏教・キリスト教などといった創唱宗教の儀礼の形式を借りたものが、今現在日本の冠婚葬祭で行われている儀礼になったのです。
そして、儀礼にはもっとも重要なひとつの機能があります。釈迦の信者であれ、ムハンマドの信者であれ、イエス・キリストの信者であれ、全ての信者は神に自分の信仰をおかなければなりません。自分は神によって救われる! という信仰をおくことです。このような信仰をいつまでも固めておくために、仏教ならお寺で座禅修行を行う、イスラーム教なら年に一度に大規模なメッカの大巡礼を行うなどのような儀礼を行います。霊的なもの(信仰を固めること)を外面的なものにあらわす(儀礼を行う)。それが宗教上のもっとも重要な機能です。
キリスト教、イスラーム教、仏教、これらは周知のように世界の三大宗教ですが。あるひとつの共通点があります。教祖が神格などの啓示を受け、その神が授けた教えをいろんな地域や民族の人に唱えたことです。これは創唱宗教の定義ともいえます。創唱宗教で私の儀礼体験について言えば、去年のクリスマス礼拝でキリスト教プロテスタントのバプテスマ(洗礼)を受けて、私は正真正銘のクリスチャンになりました。
キリスト教のパブテスマとは恵みを媒介する特別な手段です。信者にとっては一生に一度重要で大きな儀礼です。手順としては、まず、牧師の前に立ち「あなたはイエス・キリストを自分を救った主だと信じますか? イエス・キリストをあなたの神だと信じますか?」といった質問を受けます。その人が本当に心から「自分は神によって救われたんだ!」と思い、その全ての質問に心底から「はい、信じます!」と答えることが出来るのならば、次に進みます。受洗者が水槽に入り牧師からの祝福の祈りを受け、頭を仰向けにして体全体を水の中に浸します。以上の手順はイエスキリストが十字架にかけられて死に、そして三日後に復活し再びよみがえったというイメージに基づいて行われます。つまり、受洗者が罪深い過去を捨てまた新生(新しく生まれ変わる)したということです。すなわち、それにあずかる者に真の恵みを伝達する典礼です。
また、バプテスマはいろんな種類があります。頭から水を注ぐ潅水礼、ただ額に水を滴る滴礼と三度水の中に浸す三回浸礼など千百ほどあります。しかし、受けた意味は変わりません。私はバプテスマを受けてから、教会の兄弟姉妹にこう言われました「洗礼を受けたということは、私はこれからも神を信じ、主の中で歩み続ける! という決心を告白する行為です。また、自分はクリスチャンの一員だというユニフォームを身につけるということですよ。」だから、儀礼の形式はどうであれ、内的なもの(霊的なもの)がなければ意味がありません、儀礼は私がクリスチャンになったということを自分の中で自覚し、そして目で見えるようにみんなの前であらわすだけのことです。
キリスト教のもうひとつの儀礼といえば、聖餐式です。聖餐式は、根本的には、私たちの主がなしてくださったことを記念し、主が来られるときまで守るべき礼拝の行為であると考えている(聖書教理ハンドブック ハロルド・リンゼル、チャールズ・ウッドブリッジ共著 山口昇訳 1962年いのちのことば社発行 P307より)私の教会では、毎月の第一周目の礼拝で行われますが、手順としてはパンとぶどう酒を人数分に盛ります。役員の人が、まずパンをみんなに配って、そしてみんな各自で黙祷をし、パンを食べます。最後に役員の人がぶどう酒を配り、また黙祷をし、ぶどう酒を飲みます。聖餐式は主の晩餐ともいいます、それはイエス・キリストが十字架にかけられる前の過越の祭りの日に弟子たちとパンを分け合って、ぶどう酒を飲んだ最後の晩餐で「これはあなた方のための、私の体です。私を覚えてこれを行いなさい。この杯は、私の血による新しい契約です。これを飲むたびに、私を覚え、これを行いなさい。(新約聖書 第一コリント 11章24、25節 P305より)」といったことに対して、聖餐式という儀礼が生まれたのです。
簡単な手順の中に二回にわたる黙祷があるのに気づくでしょう。この黙祷は、私たちがイエス・キリストが世の人を罪から救うために、十字架にかけられて死んで下さったことを記念し、感謝し、そして自分のこれまでの生活を反省するといった霊的な面の役割を果たします。よって聖餐式はただの堅苦しい儀式ではなく、キリストを記念し、これまでの生活を振り返る機会といえるのです。心のない儀礼はただの堅苦しい儀式にしか過ぎないものであって、例えバプテスマ、聖餐式を受けなくても、神が成してくださったことを固く信じ、感謝していれば、クリスチャンであることに代わりがないのです。
ビデオで見た、いろんな宗教の儀礼、イスラーム教のメッカの大巡礼(ハッジ)やヒンドゥー教のガンジス川の沐浴、仏教の座禅などを見ました。クリスチャンの私でさえも驚いたことは、それらの儀礼が大変厳格であったことです。
イスラーム教について、ムスリムは一年に一回のハッジ、メッカに向いての一日五回の礼拝、喜捨、断食、シャハーダ(信仰告白)の五行は義務としてコーランによって固く定められています。その中の巡礼、礼拝の順序も厳密に決められています。
仏教では財を与え、真理を教え、安心を与える布施。戒律を守り、常に自分を反省する持戒。苦しみを耐え忍ぶ忍辱。修行に努め、努力する精進。心を安定統一させる禅定。真実の知恵を開きあらわす知恵という六つの決まりが六波羅蜜に定められています。
私は思いました、「なぜそんなに決まり事が多いのだろうか?」客観的に見ているからかもしれませんが、まるで、宗教に束縛されているようなものではないかと思いました。本気で神に信仰をおくのならば形よりも、まず、神に自分の真心を見せるべきなのです、そうすれば人間の目には見えないけれど、神はきっとわかってくれるはずです。
宗教儀礼は、それが実施される社会の社会経済的条件、外来宗教との接触、政治の介入、などの世俗化によって時とともに変化させて行きます。(「宗教民俗学」宮家準1989年東京大学出版会 P141より)キリスト教について見てみましょう。イエス・キリストが生まれる以前の時代を旧約時代といい、生まれた以降は新約時代といいます。旧約時代の儀礼は、キリスト教の伝統的儀礼といえます。その時代の儀礼は今のユダヤ教の儀礼です。それには、儀礼の数が大変多く定められています。たとえば、いけにえ(初子の子羊や子牛を祭殿で燃やし神にささげること)、祭り(イエスが受難する前に過ごした過越祭など香をたく、ローソクの燈、パンを供えること)、油を注ぐダビデ、サウロのような神に王として選ばれた人の頭に油を注ぐこと)、割礼(生後8日目の男の子に行う)、神の箱(クルビム)、洗盤などいろんな場合で行われていた儀礼は旧約聖書に基づきたくさん定められています。
一方、新約時代の儀礼は、キリスト教の現代的儀礼です。現代のキリスト教はイギリス国教会、ルターは、カルヴァン派によって形成された新教プロテスタントとイタリア・ローマの旧教カトリックに分かれています。プロテスタントの儀式は二つ、私が体験した、バプテスマと聖餐式です。そして、カトリックの儀礼は七つの秘跡(sacraments)といって、洗礼、堅信礼、聖餐、悔悟、終油、品級、結婚です。
以上の二つの時代の儀礼を比べてみれば、現代的儀礼のほうが種類は減って、一つ一つがシンプルになっていることがわかります。
昔ながら行ってきた伝統的な原初宗教は特徴として、地域のコミュニティによって成り立っています。つまり、小さなコミュニティの中で、限られた人間の集団に信仰されることによって手順が複雑で難しくても実行することができました。たとえば、十六世紀のキリスト教の伝来から日本にもキリシタンがいましたが、1587年の秀吉によってのバテレン追放令や17世紀からの鎖国令によってキリシタンの数が大幅に減りました。しかし、こんな時代の中ごく少数ですが、地下にもぐってキリスト教を守り続けた隠れキリシタンがいました。彼らは自分の身の危険をかえりみず、集まって互いにコミュニケーションを交わし、信仰を固めるために密かに儀礼などを行いました。彼らは自分たちがキリシタンであることを悟られないためにも、コミュニティ以外の人たちからはわからない手順と複雑な儀礼を必要としていたのです。それが日本のキリスト教が守られた訳かもしれません。
現代宗教においては、信者が広範囲で、人種・職業・生活レベルにおいて様々な人がいます。また、発達した交通手段によって地域間のコミュニケーションを交わすことが出来るようになりました。たとえば、昔は江戸から京都へ行くのに15日間徒歩で行かなければなりません。しかし、現在では、新幹線で1.5時間しかかかりません。ということは、生活圏がその地域だけにとどまらず、グローバル化しているといっていいと思います。世界が狭くなって、世界中の人々が互いに信仰を表しあうために、誰でもできるシンプルな儀礼が必要です。数多くの人々が行うには、儀礼が単純化した訳です。社会は相変わらず変化し続けていきます、儀礼もそれに従って変わっていきます。儀礼は信仰心を鼓舞し、信徒の支えのために存在します。儀礼を行うことによって人々の関係が深め、心の平安が得られるのです。
儀礼は決して、重く、堅苦しいものではありません。むしろ、日々の生活のストレスに心を磨き減らしている人々に安らぎを与え、平穏な人間社会を作り出すための最高のコミュニケーションの場となるのではないでしょうか。
http://godarea.net/