神様の領域第六部 Part6 日々の生活に必要な力を養う

黙想74 罪を罪と認めて、言い表わしましょう

私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。詩篇38:18

  古い罪の性質はしばしは、罪に言い訳をつけて免れようとします。罪といってもちょっとした程度だから、と軽く見ます。それはやってもいいことだと自分に言い聞かせて、罪を犯す人もいます。また合理化という方法(自分に都合のよい言い方)を使う人もいて、神学的に厄介な問題をさらに曲げて自分の非を正当化しようとします。これには、神様への冒とくに近いものがあります。

  この見え透いた言い訳をしている間、罪はあなたを傷つけつづけます。罪深い行ないというのは、罪がきちんと罪と呼ばれ、認められ、言い表されるまで、その罪によって私たちの心は刺しく不安発作を起こします。そしていつかは、何かがプツンと切れてしまう日が来るのです。

  この詩篇をもう一度ゆっくり読んでみましょう。

黙想78 心の思いが漂っていませんか

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。イザヤ書26:3

  心の思いが、まるで広い海の中を漂っていることがあります。空想という波の上をあてもなく漂っているのです。ありもしないことに思いを駆せては時間を費やし、神s間の約束に焦点を合わせるどころではありません、神様の赦しの海―神様の愛―にたどり着いたならば、そこに錨をおろすのが賢明です。そして、この箇所にあるように、しばらすはそのところに留まるのです。http://godarea.net

黙想80 真の人生観を持っていますか

マタイの福音書6章25~34節
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

  人生の雑多なことに、すっかり心を奪われてしまうことがあります。この世の世界観や生き方に全く捕えられてしまっているため、真の人生観を見失うことがあります。迷路のような道を、私たちは鼠のようにせかせかと走り回っています。

  人生の真のよさは、片田舎の人里離れたところで見つかったりするものです。そのよさとは、何のことでしょう。それはシンプルさです。

  これこそ、混乱している生活の足かせをはず秘密の鍵です。また、混乱と言えば、人生のほとんどは混乱に満ちています。時には、ほとんど大混乱に近い状態に陷ることもあります。

  この箇所にある主のことばの飾りけのない、それでいて美しい言い回しに注目してください。主は弟子たちに彼らの信仰に問題があることを指摘されました。その問題とは、人生に起こることのすべてを見局極めようとしたことです。かれらはには新しい視点が必要でした。それは、シンプルで、幼子のような信仰です。http://godarea.net/

黙想90 手をちょっとゆるめてみましょう

だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 Ⅰペテロの 5:6、7

  抱えている問題を手放すというのは、私たちが考えているほど、たやすいことではありません。問題に心がととらわれすぎて、逆にそれを手放せなくなるので。そのため、祈った後でさえも、祈る前と同じくらいひどく心が悩まされます。主のかたわらで心配の荷をおろそうとしつづけているのに、まるで強力な接着剤でいっついているかのように私たちの心から離れない時があります。

  どうにかして答えを見つけ出さなければならないという考え方が、通常、私たちの手をきつく握り締めさせてしまう原因となっています。問題自体には答えはありません。ですから、祈った後ですぐに答えを得ることができないと、私たちはさらに心配をつのらせるのです。あまり問題に心がとらわれすぎていると、祈ることさえも一緒にやめてしまうことがあります。

  神様が、私たちのことを気にかけてくださっているということに気づかなくてはなりません。神様は私たちの心配を背負ってくださいます。神様は、私たちを助けてくださる真の友でいらっしゃいます。神様に向かって心配事を差し出すなら、神様はちゃんと御手の中でコントロールして下さいます。たとえ、私たちがそのように感じることがなくてもです。

  さあ、その手をゆるめてください。その手にぎゅっと握り締められている不安は、あなたにとって価値のないものなのですから。

http://godarea.net/