神様の領域第五部 Part5 誘惑を避ける

黙想60 勇気をもって不安に立ち向かいましょう

わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。詩篇6:6、7

  もうこれ以上、耐えきれない、という時があります。不安が、なおも執拗につづくようなら、クリスチャンのカンセラーに会いにいくことが必要かもしれません。ひとまず、牧師に相談するのもひとつの方法です。どんな時でも、不安をつのらせて大きくなるまで放っておくのは、賢くありません。不安には立ち向かわなくてはならないのです。そしてそれは早ければ早いほうがよういのです。ダビデ王さえ、預言者ナタンの叱責と忠告が必要だったのですから。受けるべき助けを長い間避けるつづけていると、神経が損なわれてしまいます。不安が自分の手に負えなくなってしまったら、クリスチャンのカウンセラーに合わせてくださるようにお祈りしましょう。正式なカウンセリングの訓練を受けた人なら、適切な方法で問題に取り組み、解決できるように手助けをしてくれます。

黙想64 現実逃避していませんか

恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。そこで私は言いました。「私にはとのように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。」 (詩篇55:5,6)

  学校を無断欠席したくなったり、仕事に行くのがいやになったりしたことがないでしょうか。全てのことから逃げて、どこかほかの場所でまったく新しい人生をはじめてみたいような、そんな気持ちになったことがないでしょうか。私たちはしばしば重圧から逃れたいという思いに駆られますが、縄抜けの名人、フ-ディニのように鮮やかに逃れる人はまれです。隣の芝生は青く見えるでしょうが、その場所でもまた、新たな落とし穴があるものなのです。人生の試練に立ち向かい、その中で成長していくことのほうが、よほどいいのです。私たちのために、神様学ぶべき教訓を用意しておられ、そしてそれは、避けられるものではありません。神様からのチャレンジを受け入れることによって、私たちは、賢く生きるための道具を身に備えたものに変えられていきます。

黙想67 お金のとりこにならないように

「いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」 ルカ8:14 金銭的なことに心がとらわれていると、さらに心配がつのり首が回らなくなります。ある人たちはお金を得ることが人生における第一の目的になり、やがて当然あるべき心の平和が日々締め上げられていきます。生計をたてることに忙しすぎて、人生の真の喜びもなくなります。

  確かに、お金は生活の基となります。お金で必需品や贅沢なものを買います。でも、お金は、いのちではありません。多くの物をお金で得ても、神様からの平安を頂くことはできません。神様を人生のトーテムポールの最先端に、お金は低位に置いておくべきものなのです。

黙想72 偽の罪意識に

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)

  罪が一度限りで始末されるためには、赦しが必要です、罪というのは、それが言い表され、捨て去られてしまうまでは、私たちの良心を侵食していきます。しかし、罪悪感の中には、罪とは関係ないものがあります。これは、偽の罪悪感です。この種の罪意識は、私たち自身が自分で作り上げた厳格で非聖書的な規則を守られなかった時に生じてきます。例えば、毎日、聖書を2章ずつ読もうと決めた人が一日読むのを忘れた時や、1章だた読んで眠ってしまった時などです。そして、次の日にはもう罪の意識に苦しみ始めます。これは、本当に罪だと言えるでしょうか。いいえ、決してそうではないのです。一日どれだけ聖書を読むかについて、聖書のどこにも命じられていません。

  ゴールを設定するのはよいことです。少なくともそれが、私たちとって方向づけとなるからです。しかし、ゴールが人生の土台となってはならないのです。個人的好みや基準に従えなかったからと言って、罪の意識に悩まされることはないのです。しかし、反対に、罪深い行ないからくる真の罪意識について、私たちは言い訳をすべきではありません。

黙想73 物質主義を捨てるには

世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 Ⅰヨハネ2:15、16

  物質主義は、多くのクリスチャンを心の平安から分け隔ててしまう大きな溝です。物を所有することにすっかり心を奪われるなら、目新しい物が目にはいるとそれを手に入れるまで落ち着けません。このことが気がかりの最上位にあるため、他のすべてにまさって優先されるべきことが後回しになってしまいます。

  この所有欲の強い生き方の陰で追い立てているのは、セルフイメージです。物質主義の人はありのままの自分では、どうも居心血がわるいのです。ですから、古い自我を飾りたてるために、手に入り得る最良の物へと頼っていくのです。問題は、そのような生き方からは決して充足を得ることができないということです。

  平安は、虹の向こうにある壺の中にはありません。神様がお造りになった虹そのものの中に平安があるのです。それは、神様が見るようにこの人生を見つめることによってだけ探し出すことができる富なのです。

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