神様の領域第三部 Part3 みことばを生活の中で生かす

黙想32 試練の中で

恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。 出エジプト記20:20

  これはモーセの言ったことばです。神様への恐怖心を病的なまでに抱かせ、私たちを移転させようとサタンはします。このモーセが言ったことばを適用し、サタンのことばに耳を傾けないで拒否しましょう。神様は、私たちの敵ではありません。びくびく怖がる必要はないのです。

  でも、忘れないでください。確かに神様は、私たちの信仰を試したり、調べたるするため、私たちをストレスに溢れた状況の中におかれます。私たちの神様への信仰を試すことの霊的な試験は、後から振り返って見ると私たちの信仰の成長にとって大きな助けであることがわかります。また私たちの優先順位を正すのにも役たちますし、神様や人とのかかわりの中で、自分のどういうところを変えていかなくてはならないか、ということにも気づかされます、神様からの試練は、神様とみことばに対して敬虔になるように促します。その結果、神様への信仰と知識が養われていき、私たちの生活態度も正され、罪を避けていくことができます。

黙想33 運転は神様にお任せしましょう

さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。(ヨブ記22:21)

  神様を相手に論じようなんて、これほど途方もない話はありません。しかし、あなたはどうでしょうか、神様と論じ合っていないでしょうか。私たちは、自分の人生を自分でコントロールしようとします。神様に干渉されて、自分の立てた計画が邪魔されないように、神様を後ろへと追いやります。それでいて、思い通りに計画が運ばないで失敗に終わると、どうしてこんなことが起こるのを神様はお許しになったのか、ちゃんと説明してほしいなどと言います。そのような時の神様からのお答えは、いつもおなじです。「運転は私に任せなさい。」

  今日という日に、神様と和解し、すべてをおゆだねしましょう。そして、運転は神様にお任せしましょう。

黙想34 平安への道

詩篇1
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、
繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

  「瞑想」、このことについて本を書いている人はそう多くいません。東洋の奇妙な宗教儀式のためでしょうか、瞑想することについて私たちは、多少疑い深くなっています。でも、この失われた方法を完全に無視してしまうと、私たちは霊的にバランスを欠いてしまいます。瞑想は平安と静けさへの最善の道なのですから。

  聖書が勧めている瞑想はろうそくの灯った儀式や、東洋の敷物の上でのヨガの姿勢を要求しません。それは、みことばを心の中にあふれさせることを言います。みことばのひとつひとつがしずくのようになり、さざ波をたててきらきらと輝き、それが魂の穏やかなアシスとなっていくまで、心の思いの合間合間に小滝のように降りらせるのです。これが現実的な問題を解決する最善の方法であり、聖書が勧めている瞑想です。みことばを瞑想することによって現実の最も真実な面への理解が、私たちに与えられます。

黙想35 休息をとっていますか

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(詩篇37:7)

  霊的な休息を私たちは充分にとりません。私たちはいつもあわてふためいた日々を過ごしています。そういった状態は、私たちの中で、早まわりのメリーゴーランドのように次々と何かが起こっていることを示しています。病気、転職、勉強、緊急事態や惨事などの困難に出会うと、私たちの心の中は激しくかき乱されます。

  適度な休息は、なかなか習慣づけることが難しいものです。イエス様の足元にただじっと座っていることは怠慢だ、と私たちは思ってしまいます。マルタのように、私たちはいつも忙しくしていなくてはならないと思ってしまいます。しなければならないことがたくさんあるのに、じっと座っていられるマルヤののような人たちに、私たちはどうもなじめません。

  霊的な休息は、怠慢とはちがいます。責任を僻けて通るということではありません。それは、神様が計画どおりに御業をなしてくださる、という確かな思いからくる休息なのです。

黙想36 知恵を用いて

わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。
それらは、あなたの魂のいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。
こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。
あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは心地よい。
箴言3:21~24

  知恵について、何か大切なこととわかっていても、多くの人はそれを絶対に必要なこととは思っていないのではないでしょうか。それは、知恵についてそれが何かを知らないからです。知恵は尊い宝石であり、神様から与えられます。しかし、神様を礼拝するという敬虔な思いがなければ、与えられません。また、それは実際に用いているなら、利益が得られます。

  神様から与えられた洞察を実際に用いるなら、不安な心に平安が訪れ、夜も安らかに眠られようになります。このように、知恵を実際に用いることよって、平安のの道を一歩一歩進んでいけます。この貴重な宝を見つけ出し、どんどん用いて見ましょう。

黙想37 励ましの種を蒔きましょう

心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。(箴言12:25)

  緊張感、過敏症、心配症、不眠症、発汗、頭痛、呼吸亢進、神経性胃炎、心臓の鼓励が速い、頻尿、性不能症、不感症。これらはすべて、あるところで不安が原因して起こることがあります。不安は、しばしば身体的な異常をもたらしたり、心の病を引き起こす原因になったりします。ですから、心に重くのしかかる不安の源を探し出すことが必要です。

  不安がっている人には、時にかなった励ましのことばをかけて、ひとりぼっちではないことを知らせてあげましょう。励ましのことばの種を蒔けば、いつか刈り取ることができます。その親切は、やがて実を結んで自分に返ってきます。あなたの思いやりを感謝する人たちから、今度はあなたが励ましを受けるのです。親切なことばによって不安な思いはあっという間に消し去られてしまうことでしょう。

黙想38 罪の自覚

罪びとたちはシオンでわななき、神を敬わないものは恐怖に取り付かれる。 (イザヤ書33:14)

  健全な恐れというのがあります。それは、恐れというよりも、神様への畏敬といったほうがよいかもしれません。クリスチャンが肉的な生き方に流されてしまうときはいつでも、その結果として、両親のとがめに苦しみますが、それは、神様から来る私たちの魂への警告です。この罪の自覚に働きかける神様の警告をなおざりにしておくと、必ずと言っていいほど苦しみが増し、ついにはまったく平安のに世界へ迷い込んでしまいます。

  しかし、神様の霊の促しに従うならば、苦しみから解放され、真の自由が訪れます。罪を犯した瞬間から背負ってきた重荷は、消え去ります。神様の許しの愛によって不安に支配された罪の鎖から取り外されたときに、初めて本当の喜びが生まれます。http://godarea.net/

黙想44 恵みと憐みと平安

父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みと憐みと平安がありますように。 (2テモ手テ1:2)

  恵みと憐みは姉妹です。この平安を与えるお姉さんたちに会ってみませんか。恵みとは、恵みを受けるに値しない人たちさえられること。憐みとは、人が当然受けるべき非難を浴びせないでいることができる力です。このふたりの姉妹の特性が私たちの生活に織り混じり、そしてその結果が、私たちに平安をもたらします。

  この恵みと憐みを完全にコントロールしておられる唯一の方が、神様です。それは、恵みとあわれみが神様のご性質だからです。この2つの宝石のような特性は、私たち人間の能力をはるかに超えています。私たちが神様に似た特性を表わすようになるために、神様からそれを授けて頂く以外にはありません。

  神様はへりくだった者にさらに多くの恵みをお与えになります。(ヤコブ4:6)そうして憐みは、祈りをとおして与えられます(へブル4:16)。3番目の姉妹である平安は、いつもこの姉妹のあとにつづいて出てきます。

  私たちが敬虔に主に祈り求めるなら、恵みと憐みを受け、この姉妹は私たちにとっての必要な時の助けとなってくれます。やがては、私たちも、他の人たちに恵みと憐みをもって接することができるようになります。

黙想46 偽善は捨てて、ありのままの自分で

しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、憐みと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブ3:17,18)

  英語で言う偽善(ヒポクリット)という言葉は、古代ギリシヤの俳優たちの舞台用語に由来しています。古代ギリシヤのヒポクリット俳優は、その役にふさわしい仮面をかぶって、ひとつの役を演じます。その後、急いで舞台を去り、仮面をかえて再び登場し、今度は全て違う役を演じます。これは、本当にユニックな演出です。

  しかし、今日の偽善者は珍しくありません。偽善には、必ずつけが回ってきます。見せかけだけの自分になろうとしても堅張感が生まれるだけで、平安は決して生まれません。

  天を仰ぎ見るなら、それまでの見せかけの演技から解放され、飾らないありのままの自分でいられます。そして、そこから平安が生まれます。http://godarea.net

黙想48 恐れを締め出す

愛には恐れがありません。完き愛は恐れを締め出します。Ⅰヨハネ4:18

  この、「全き(完全な)愛は恐れを締め出します」、というところに注目して下さい。神様は、この完全な愛の唯一の源である方です。この愛は一方的で無条件な愛です。ですから、私たちにその愛を受けるかわりに何かを返すことを求めません。

  そのような愛の中から、私心のない自分、人生における危機の時の絶望感のかわりに愛に根ざした気づかいが生まれてきます。

http://godarea.net/