神様の領域第二部 Part2 否定的な感情への取り組み

黙想19 怒り

19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19:17、18

  この聖書箇所から、私たちを傷つけた人に対して、上手に注意し、またそうすることが適切であることがわかります。根に持ったり、仕返ししてやろうと思ってはいけません。その罪に報いをするのは、神様です。私たちではありません。ひどいことをされた過去をいつまでも根に持つというその思いには、気づかないうちに、復讐しようとする動機が隠されています。傷つけた人に対して仕返しをしたいという、思いがそこにあるのです。

  いつまでもそのような思いにとらわれつづけていると、心の病を引き起こしことになりかねません。怒りを解決しないままでいると、復讐心を養うことになります。これは罪深いことです。また、怒りに対してあらためて向き合うことを恐れていると、大きな不安に襲われます。

  怒りの感情を持てこと自体はある意味で健全な場合もあります。へペソ人への手紙4章26節によれば、傷つけた人をその日のうちに戒めて注意することは、敬虔なことなのです(そのように命じられています)。このことに気づくなら、人を赦すことも容易になるでしょう。神様に委ねつつ他者を戒めるなら、私たちを不快にした行動が変えられていくかもしれません。

黙想20 挫折

「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」申命記20:3~4

  もう、何もかも捨ててどこかに行ってしまいたいと思ったことがないでしょうか。しばしば挫折は、とても耐え難しくなることがあります。イスラエルの民を例にとってみましょう。この節からわかりますように、彼らは、もうこれで限界というところまできていました。恐れ、うろたえ、足元がふらついて、身体的な耐久力を使い果たしていたのでしょう。しかし、いつものタイミングのよさで、神様は「あきらめないで」という奮起させるメッセージを送りになったのでした。まさに私たちの主らしいと思います。私たちにとってこれ以上の最悪な状態はないと思われるときに、私たちの心を奮い立たせることを神様はしてくださいます。

  しかし、さたんはそのままでは引きさがらないでしょう。あなたをできるだけ打ち砕こうとします。でも。あきらめないでください。神様に従い、その力を叫び求めてください。そして、神様に戦いの勝利を勝ち取っていただきましょう。「神様はあなたが持っている挫折感をとても素晴らしいものに変えてくださいます。」

黙想21 孤独感

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよ。わたくしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(ヨシュア記1:5)

  ひとりぼっち。このことばを口出して言ってみてください。なんと、   きのあることばでしょうか。孤独感を簡単には、それも完全に克服することはできません。しかし、それに立ち向かったいくことはできます。孤独感からうまれるみじめな気持ちにとらわれる必要はありません。神様がいつも私たちと一緒にいてくださるのですから、そして、困難な時にも見捨てるようなことはしない、と約束してくださっているのです。じっくり座ってこの約束に思いを巡らしてみましょう。いつしか、平安を思いが戻ってくるはずですから。

黙想22 落胆

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の水の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上げって行った。(2列王記2:11)

  聖書に出てくる人たちは、ある種の神秘に取り囲まれていたように見えます。彼らは、たくましく、それでいて心優しくして美しい、というように私は想像します。普通なら達成できないようなこと、しんじられないようなことまでもやってのけてしまい、彼らの毎日は、勇ましく冒険に満ちています。この聖書箇所に出てくるエリヤも、そのように見えます。

  でも、ちょっと待ってください。この地上から、火の戦車に乗ってドラマチックに去っていったこの預言者にも、克服しなくてはならない現実的で人間的な感情があったのです。そして、落胆はそのリストの一番上にありました。一時は、とても落ち込んでいたために、死なせてくださいと神様に祈るほどだったのです。

  エリヤに関して驚くべき点は、スーパースター的なところではなく、どのようにして彼が深い落胆を克服したかというところにあります。そして、地上での人生を終える前に、彼は、神様に用いられるほどまで立ち直りました。

  また、私たちも身体的、精神的、そして霊的な必要を満たしてくださる主を待ち望みましょう。そうすることによって、私たちも、落胆する心と取り組むことができ、尽きないチャレンジに積極的に立ち向かっていくことができます。

黙想23 恐れ

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。(詩篇27:1)

  私たちは、自分自身の過敏な感情によって簡単におびえ、気まぐれな感情にすぐ流されてしまいます。そして、あっと言う間に平安を失ってしまいます。心地よい安らぎを切に願う一方、私たちの内側では、なぞめいた恐怖の霊を解き放して楽しんでいるようなところがあります。ホラー映画や怖い話を、見たり聞いたりすることが好きという人は数え切れないほどいます。サスペンスなら、おもしろく、また無害であり得るかもしれません。しかし、自分の感情で作り上げた恐れにふりまわされないようにしましょう。

  私たちはこの人生において真のとりでを持っています。このことを神様に感謝しましょう。私たちが、神様にしがみついていることさえできないほど弱くなっている時でも、神様は決して私たちを手放すことはなさらないですから。

黙想25 自己憐憫

139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

  あなたは今、自分は愛されていない、取るに足らない人間だ、と思っていないでしょうか。もしそうなら、この詩篇の根底に流れる真理を探しってみましょう。神様は、あなたのことを、そして、あなたの人生におけるほんのささいなことまで限りなく関心を寄せておられます。そして、あなたはそのような測り知れないほどの愛に包まれているのです。私たちは感染に理解できませんが、このことは素晴らしすぎるほど真実です。コンピューターで探り当てようとするなら、その容量をはるかに越えるほどの神秘なのです。それは「なぜ」ということばが神様には存在しないからです。

黙想26 眠れない夜に

139:11 たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
139:12 あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。
(詩篇139:11~12)

  アメリカ合衆国不眠症クラブは、国内で最も大きな非会員制クラブのひとつです。何百万というアメリカ人が、毎晩、毛布で頭を覆い、眠るまでの長い時間、不眠のための会費を支払っています。彼らを取り巻いている暗黒の世界は、雷よりも大きくとどろき、なかなか寝つけるものではありません。それは、さらに音を増し、彼らは大声を上げて泣き叫びます。その全世界が、苦悶のうめき声を上げているようです。

  もし、このことがあなたにも起こっているとしたら、あなたに必要なのは、夜の光です。霊的に言うなら、内側の光です。ある人が「私は安心して心を休めることができる。神様には、夜がないのだから」と言っています。あなたもこのことに気づくなら、長く眠れない夜を恐れることはありません。夜のとばりの向こう側には朝日が待機しているのですから。

黙想27 長所と短所

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。   詩篇 139:13~16

  変えようのない心や身体の欠点について思い悩んでいないでしょうか。もっと知的だったら、もっと健康だったら、もっと背が低かったらとか高かったらとか、もうちょっと違っていたらいいのに、と思っていないでしょうか。

  どんなこおにでも完全でありたいと願うあまり、私たちの変えることのできない特性も神様によって造られたものである、ということ忘れてしまいます。完壁な人間はひとりもいないのです。主は、私たちひとりひとりに、長所を与え、弱点をお許しになりました。さらに、神様は御名の栄光のために、そのどちらをも用いることができます。

  取り除かれない弱さや欠点について思い悩むのにエネルギーを無駄に使うよりも、神様に自由に、しかもそのもこころままに御業をしていただくことにむしろ心を傾けましょう。

黙想28 隠れた思い

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
(詩篇139:23~24)

  なんと深いことばでしょうか。神様が私たちの心の奥に秘められた思いを明らかにしてくださるのですから。私たちが持っている感情のその下に、害になる行動がおかしいのは目に見えて明らかないのに、それは何故かということを、はっきり指し示すことができません。答えは奥深いところ潜んでいるからです。ある思いが、無意識のうちに心の奥深くどめられることがあります。たいてい、動機というものは、その心(心=理性+感情+意志)の中から生まれます。ですから、その心が、不健全な論理的思考に影響されると、私たちは通常、「永遠の道」よりも「傷のついた道」のほうを歩んでしまいます。

  私たちの心の最も奥深くにある気持ちに光を照らして明らかにして導いてください、と神様に祈ることによって、私たちは正しい道に戻されます。それは、平穏な道でもあります。神様に、私たちの心を透かして見ていただくというのが、いつも最善な方法なのです。

黙想29 気苦労

25: あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26: そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。
ルカ12:25,26

  根拠もなく心配することがどんなに無駄かということについて、多くの人が本に書いています。読者の中にも、そのとおりだと同意される方がいると思います。このことについて、さらに聞いておかなければならないと言う方もおられるかもしれません。ですから、今回は、少し違う角度から見ていきます。

  どういうわけか、私たちは一生懸命に心配すれば何か解決策がみつかるのではないと思っています。またそのように自分に言い聞かせながら歩んでいるようなところがあります。しかし、それでは解決など見つかりません。実際、私たちは、ありもしないようなことについて、また解決必要などほとんどないようなことについて心配します。実を言うと、私たちは自分の心配にしがみついていたいのです。ひちりよがりですが、そのほうが心地よいからでしょうか。そうすることによって、気持ちが慰められると思っているからなのでしょうか。しかし、結局は新たな心配の悪循環が始まり、しまいには苛立ちの原因になるのです。

  心配するということは自分中心になっていることの表われです。注意してください。心配しても、何の解決にもなりませんから、そこからは何も期待できないのです。心配をそのままイエス様にゆだねて、私たちの主にその解決を期待しましょう。

黙想30 混乱

「それは、神が混乱の神ではなく、平安の神だからです。」 Ⅰコリント14:33

  人生には、時に、驚かされる日もあれば、混乱してしまう日もあります。答えのない疑いに包み込まれて、次に何をするべきなのか、よくわからないでいる自分に気づく時もあります。うろたえの次には、もうひとりの安らぎ泥棒、緊張感がすぐ後を追ってきます。神様は、私たちのはっきり見えない事柄から霧を取り除き、緊張を、霊的に見ることのできる光と取り替えることのできる唯一の方です。http://godarea.net/

黙想31 苦々しい思い

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。(エペソ4:31)

  苦々しい思いは、心の中に小さくとどまっていません。悪い思いを根に持っていると、それを餌にして、苦々しい思いが大きくなっていきます。その根を無視したり、そこには存在しないと思うようにしても、それはより深く根をはっていきます。しばらくの間は隠れているので、それが広がっていくさまははっきり見えません。でも、いつの日か、破壊的な怒りとなって、爆発する日がきます。そのようになって時には、安らぎも心の健康も、すでに損なわれているでしょう。苦々しい思いを、それがまだ蕾のうちに、摘み取ってしまいましょう。赦すことが自然にできるようになることを求め、そして赦す時は惜しまずに赦してあげましょう。甘い土から苦しい実がなることは、まずないのですから。

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