神様の領域第二部 Part Two  41~50節 

41節

もし”過度の感情”にとらわれてしまうならば、
そしてそのために何かの仕事や、
どこかの場所や、
あるいは誰かある人が、
わたしの主に従う道の障害と
なるようであるならば、
その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

42節

ほかの人のために
なにかをするように頼まれた時、
もしそれは重荷と感じるようであるならば、
そして結局怠惰な思い負けて、
指を動かすことをしないならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

43節

人からほめことばを与えられると得意になり、
非難されると落ち込むということで
もしあるならば
誤解を受けた時に
自分を弁護しないで安んじていることが
もしできないならば
愛することよりも愛されることを求め、
伝えるよりも仕えられることを
もし好むならば、
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

44節

囚われた魂が解放されることを求めて
ひたすら心をくだくことよりも、
自由へ道を指示する者として
このわたしがどのように活動するかに
心を奪われているならば、
そして失敗した時にも、
ほかの人に解放のことばが与えることを
まず望むよりも、
自分への失望感にいつまでも
悩まされてしまうようであるならば、
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

45節

すでにその正しさが
誰の目にも明らかにされていることを
実践する者として
人に知られることをもし望むならば、
あるいはまた、
そのことを提唱した人間として
知られることをもし望むならば、
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

46節

個人的な成功といった
ささいなことは忘れ去り、
それが心を決してよぎることがないように
もししないならば、
またふとして
その誘惑が頭をもたげる時
ただちに心から消し去るのでないならば、

もし霊的な賞賛の杯が
私の唇に甘いのであるならば、
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

47節

もし「あなたはわたしのためを思って
ねたみを起しているのか。
主の民がみな、預言者となればよいのに」
ということばが、
ごく自然に私の口から
出るのでないならば、
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

48節

共に仕える交わりの中にいて、
友人をわたくし自身のもとに引き付けたいなどと
もし願うならば、
そしてそのためにほかの人たちが
自分は必要とされていないと感じるならば、
もしわたくしの友情が
ほかの人たちの交わりを深めることをしないで
(わたくしに対し、わたくしのためにという)
偏狭なものであるならば
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

49節

わたくしにとって大切な人が
キリストのために苦しむ時に、
それをみるに忍びないことともし考えるならば、
そしてそのような苦難こそ、
十字架につけられた方のあとに
従う者に考えられる
最も大きな名誉であることを
もし見ることができないならば
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

50節

キリストによってしか
空白を満たされない世界に、
もし私が侵入しようとするならば、
そしてキリストと結びつくことだけを求めて
人を導くかわりに、
私自身をその人とって
必要なものとしてしまうならば、
その時私はカルバリの愛をまったく知らない。

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