神様の領域第二部 Part Two  31~40節 

31節

不当にも(とわたしには思えるわけだが)
わたしを非難する人たちのことを
もし苦々しく思うならば、
そしてわたくし自身が知っているのと同じくらい
彼らがわたしの本当の姿を知るならば
実はもっとひどく非難するであろうことを
もし忘れるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

32節

「はい、わたくしは赦します。
けれども忘れることはできません」と
もし言うならば、
そして世界中のあらゆる海岸のあらゆる砂を
1日に2度すっかり洗い流す神が、
そのような記憶をわたくしの心から
洗い流してくださることがdきないかのように
もし思うならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

33節

ある人の助けをわたくしは必要としているのに
その人は金、銀、宝石で建てるよりも
木や草やわらなどで建てることに
満足しているようにしか思われない時に、
わたくしを理解する者は
ほとんどないだろうと考えてしまい、
そのために自分の光に従うことをためらって、
その助けを受けないように決心してしまうならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

34節

あるひとつの魂(あるいはあるひとつの群れ)を
顧みることがわたくしに委ねられている時に、
もしまわりの世界の声、
わたくしの身のまわりの
クリスチャンの間にさえあるこの世の声に
わたくしの生活が押し流されてしまい、
そのため委ねられたものを
衰えさせるよ
影響のもとにさらしてしまうならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったくしらない。

35節

わたくしが他の人に
最もよく伝えることのできる働きのことを、
実状をよく知らない人たちから
「それは霊的な働きではない」と
非難されるような時、
もし心のうちにで、
「わたくしが求めているものこそ霊的なのに」と
彼らに反論し、しかし実のところ
それはわたくしにとって興味ある仕事、
わたくしの心をそそる仕事に過ぎない
ということでもしあるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

36節

もし単調さを苦しいことと考え、
日常のこまごました仕事を
耐えられないことと思うならば、
もし動きの鈍い人たちが
わたくしをいらいらさせ、
ちょっとした波風が
わたくしの神経をいら立たせるならば、
もし人生のささいなことを
すぐ大げさに騷ぎ立てようとするならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

37節

ほかの人たちが楽な気持でいられるようにと、
もし心を用いることがないならば、
彼らの感情を、
また彼らのちょっとした弱点をも
暖かく包みこむことをしないならば、
もし彼らの心の痛みに
気づくことができないために
それをいやす機会を取り逃すならば、
そして家庭の営みが滑あかに行われることを
困難にしているならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

38節

もし仕事の途中で
邪魔をされて不愉快になり、
個人的な煩わしさでいら立つならば
もしわたくし自身が暗い思いに
されているということで、
まわりの人たちをも暗くしてしまうならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

39節

わたしの句そばにいる魂が
傷つき悩んでいるのに、
もしそれを読む取るだけの思いやりが
わたくしになくて、
無関心のままでいるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

40節

主がわたくしを愛し、
かけがえのない御子を
お与えくださったというのに、
もしその主への献身に条件をつけるならば、
そして祈る時にも
「・・・・・・は除いて」という留保を
ひそかにつけるならば――「主よ、すべてに
おいて従います。・・・・・・だけは別として」――、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

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