21節
もし自分を甘やかして
自己憐憫の甘さの中に浸っているならば、
神から受ける恵みによって勇気をふるうことを
もししないならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
22節
もしわたし自身が
わたしの考えが
絶えず自分自身をめぐって
動くだけであるならば、
自分のことで頭がいっぱいになり
”己れにとらわれないゆったりとした心”を
持つことがほとんどできないならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
23節
うそ偽りのない満ち足りた思いで、
第2位に(或いは第20位に)
甘んじていることがもしできないならば、
また第1位になった場合に、
自分の価値のなさを大げさに
騷ぎ立てなければならないようであるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
24節
わたくしが何かを考えようとする時、
利己主義の影が
いささかなりともよぎるその瞬間に、
心のその扉を閉じることをもししないならば、
そしてわたしたちの中に働いて願いを起こし、
行動させてくださる方の力により、
その扉を閉じたままにしておくのでないならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
25節
他の人たちの見出し得なかったものを
もしかしてわたくしが発見した時、
深い所に隠されている真理を
啓示して下さる方、
暗闇の中にあるものを知って、
それを示してくださる方を
もし忘れるならば、
その光のひと筋を
まことにふつつかなしもべに
与えてくださったのは
主にほかならないことを
もし忘れるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
26節
もし「わたくしにつまずかない者は幸いである」
というみことばを忘れるならば、
そして”理性を超えた方”の
足もとにひれ伏して、
心安らかにしていることができないならば、
あるいはまた、
どれほど小さな誤解の影であろうと
自分がそれを持つのを許して平静でいるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
27節
友との関係において、
疑わしい点は善意に解釈するということを
もししないならば、
語られたことば、なされた行為から
最善のものを引き出そうとする努力を
もし怠るならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
28節
もし人のことばに
すぐ傷ついてしまうならば、
そして友情を築くことが
可能であるにもかかわらず、
冷たいよそよしきを身にまとうことで
もし満足してしまうならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
29節
もし身に覚えがないことで攻撃されて
深く傷つくならば、
そしてこの道は罪なき救い主が
死に至るまでたどられた道であることを
もし忘れるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
30節
突然思いがけないことにぶつかって、
ついいら立ち、
荒いことばを思わず口から出したりすることが
もしあるならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。
*緑まで甘い水に満たされた杯は、
どれほど激しい衛撃を与えられようと、
苦しい水を溢れさせることはあり得ない。