愛!?
ふとして、愛の力に満たされた何かが、わたくしたちの人生に入りこんでくることがある。そしてひととき、永遠の世界を垣間見せてくれる。いや少なくとも”永遠なるもの”の一面を示してくれる・・・・・・そういう時がある。そしてこれらのうち最もすぐれているものは、愛である。
それはわたしたちの上に、あるいはわたくしたちのかかわる事柄の中に、やわらかく、そっと触れてくる何かであるかもしれない。木々の葉を夜明けの風がそよがせるような軽やかさで触れてくる何か、人にはとらえることのできない、またことばで人に語ることのできない何か・・・・・・。
けれどもわたくしたちは知っている、それはわたくしたちの主だと。そしてその時おそらくは、わたくしたちのいる部屋家具と書物と花が存在しているよりもさらに身ちかいな存在感をもって、主が臨在してくださる。そして心はあの古い賛美歌が歌うような甘美な世界の中に引き入れられる。
イエスの愛のとうとうさは、
愛されし者のはか知ることを得じ。
あるいはまた、わたしたちのまわりの人々の愛が、夏の海のようにわたくしたちを侵し、ゆったり安らわせてくれる時がある。事実仲間の愛のすばらしさに、わたしは感嘆の声をあげて、止むない。そして突然気がつく。その人たちの中に、主がおられると。わたしの上に惜しみなく注がれるのは、主の愛にほかならない。おお、あなたの愛する者の中に示される神の愛よ。わたしたちはあなたを礼拝します。
あるいは時に(ごくまれに、と言うべきかもしれない。ここでは黙然としているほうがわたくしたちにとって有益であろうと思われるから。けれども、主がまことに恵み深くあられるゆえに、時として)晴れ渡る空を見上げるように、神の愛を見ることが許されることもある。だがしkし、結局のところ、なんとわずかしかわたしたちには見ることができないのだろう。
「あなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」
これらのことばをわたくしたちは充分にとらえることができない。そもそもわたくしたちは何を理解しているのか、何を知っていると言えるのか。栄光輝く愛、十字架に示された愛の前で、わたくしたちはあわれてふためき、うなだれて、岩なるキリストの陰にかくれ、廛の中にだだ伏すことしかできないではないか。
そしての時、ひとつの間いがわたしたちの心を刺しつらぬく。カルバリの愛の何を、わたしは知っているか。