2011/8/2 火曜日

証し

Filed under: モーセ, オウサン工房, 神様の領域 — admin @ 6:34:23

父親

皆さんにとって父親はどんなイメージですか?ネットでいろいろな意見を調べたら、「一家の主、絶対権力を持つ人」、「家のために稼ぐ人」、「大きな 存在」って思う人がいれば、父親はただの「家でテレビ以外何もしない人」とか「お母さんの言いなり」なんて思う人もいます。それらは全ての父親にありえる イメージですね。ところで、父親の愛というとぱっと来ない人もたくさんいます。例えば、「母の日」と比較すると「父の日」の存在感が非常に薄いって思った ことありませんか。なぜなら、父親の愛は、母親の愛よりも目に見え、形に表われることが少ないからかも知れません。子供にとって、母親の愛は直感的に感じ ることができても、父親の愛を愛として理解するには時間がかかります。

父親のいない家庭は母子家庭といいます。今の世間おいて「母子家庭=不良」とか「母子家庭=貧乏」と 認識します。 ヤンキーではないのに、母子家庭なだけで友達辞めろと言ってきた親御さんもいたりします。更に大事なのは どんなことが起こっても守ってくれる人がいると いう安全感はその子供に与えられないことです。このように育った子供が父親になると満足に自分の子供を愛せないことが多くあります。なぜなら、父として見 本がいなかったからです。

お父さん論みたいなこといっぱい話してしまいましたが、自分の証を話したいと思います。

僕はその母子家庭で育ちました。父の愛がなくなったのは僕が10歳のころでした。そして、十三歳のときに母と日本に引っ越して、それ以来父親との連絡 が途絶えました。現在に至ってはもう11年間父と会っていません。この十一年間は僕が成長する大事な時期でした。いわゆる思春期と青年期です。この時期に 関しては子供にとって父親の愛情と見本がとっても大切です。誘惑に負けないように厳しく叱ってもらったり。女の子の前でどうやって男らしく振舞うのを教え てもらったり。将来の夢はどう決めればいいかを相談に乗ってもらったり。失敗したときの励ましてくれたり。父親はこの時期とっても大事な役を演じているん です。

父親のいない僕はどうしたかというと、これらのこと全て不足に思いませんでした。そもそも父親なんていてもいなくてもよかったってすら思っていたの かもしれません。しかし、今を振り返れば、僕は父親がいなかったのではなく、見えていなかっただけでした。なぜなら、僕の父はいつでもどこでも一緒にいて くれて、誰よりも愛情たっぷりで、誰よりも厳しくしてくれる、天の神です。

慈愛なる父

形なき神様が父親の代わりになれるって信じがたいという人はいるかもしれませんが。それがですね なれるんですよ!それも実の父親以上に!

まずは父親としての存在感です。父親としての温もりですね。もちろん神様が人間に化けて現れたんじゃないんですよ。神様は僕をよい教会に導いてくれ たんです。そこに自分をやさしくしてくれたおじさんたちがたくさんいました。たとえば、やさしい系のおじさんは僕の悩みを全て聞いてくれました。そして、 カメラを担いで母親の代わりに僕の運動会に来てくれました。また、運動系のおじさんはいつもキャッチボールをしてくれました。そして、家庭的なおじさんは 僕がカレーライスが好物のを知ったら必ず週二、三回カレーを作って鍋ごともって来てくれました。 このようにですね、僕は他の子供よりも父親の温もりを感 じることができました。

主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。(詩篇146)

僕にとってはまさにその通りです。父親のいない家庭はやはり生活がギリギリですね。母親は必死に働いてくれましたが、外国人で日本語があまりうまく 話せないこともあって給料は低かったです。母と狭い六畳のアパートで暮らしていました。母が失業して大変だったときは牧師先生の家で居候した覚えもありま す。日本のテレビ番組「一ヶ月一万円生活」って知ってますか?まぁ、芸能人にそのような生活をさせるだけの番組ですけど。僕と母はこの番組を見たら笑っ ちゃいました、うちがこの番組でたら間違いなく優勝だねって。しかし、このような生活でも神様は平安と喜びを与えてくれました。母は大の果物好きです。あ る日、超うれしそうに帰って、どうしたの?って聞いたら、友達にりんご一個もらったってはしゃいてました。僕はですね、中学校の体操服を買ってもらったと きが一番うれしかった気がします。普通の人が当たり前のことだっと思うことでも感謝と喜びがいっぱいでした。家族の中で一番大事なものと言うと神様からの 暖かい愛だと僕は思います。それがある限り平安と喜びの安らぎが絶えることはありません。いくら裕福な家庭であってもこの愛がなければ、幸せを感じること はありません。

神様は聖書を通して自分が優しいお父さんであるということを私たちに語りかけています。その愛の手紙をまとめてみました。

わが子よ、

私はあなたを探り、あなたを知っています。
私はあなたのすわるのも、立つのも知って、あなたの思いを遠くから読み取れます。
私はあなたの歩みとあたなの伏ふすのを見守り、
あなたの道をことごとく 知っています。(詩139:1-3)
あなたの頭の毛さえも、みな数えています。(マタイ10)
あなたは、私の中に生き、動き、また存在しているのです(使徒)
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛いしています。(エレミヤ)
あなたは神の子ども、私の子供だからです。(ヨハネI)

お父さんより

厳格な父

わが子よ。主の懲らしめを軽かろんじてはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。(ヘブル12:5-6)

わたしは患難の炉の中にあなたを選んだ。(イザヤ48:10)

父親の愛情のもう一つの顔は厳格です。厳しい顔です。それは子供が自分勝手に行動しているときに、良い行動と悪い行動をきちんと教え込むことです。しつけのことです。

僕は日本行く前にとても悪い習慣がありました。偏食です、食べ物の好き嫌いが信じられないほど激しかったんです。母は僕にご飯を食べさせるの随分苦 労したみたいです。聖書の言葉を使って言うと僕ににんじんを食べさせることよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいというほどでした。しかし、 神様は厳しく叱ってくれました。どうやって叱ったかというと、腹を空かせることでしたね。母は女一つで家庭を支えるために朝から晩まで働いていました。家 にいる僕は空腹の苦しみを覚えました。しかし、学校が始まるとなんと給食がありました。.僕は未だに人生初の給食のメニュー覚えています。カレーライスに コンソメスープ、りんご切れと牛乳でした。カレーライスは初めてでした。その色で食べる気なれませんでした、が、もうお腹空くいやだったので、無理やり食 べてみました。一口食べたら。。。!! うまい!! こんな食べ物がおいしく感じたのが始めてでした。にんじんとか牛肉とか嫌いなものがはいていたのにも かかわらず、ご飯粒残さず全部食べました!それ以来僕は給食の大ファンになりました。給食の出るもの全部食べました。しかもいつも大盛りで、友達の「これ 嫌いだからあげる」というものまで食べてました。僕がここまで大きく育ったのは給食が好きになったからといっても過言ではないですね。だから、神様は子供 のしつけはとてもうまいんですね。

天の父の厳格さはこれだけのものではありません。私たち人間はとても軟弱で惑わされやすい生き物です。神様は私たちが間違った道に進まないように常 に見守っています。間違った道に進めてしまったら、神様どうやって正してくれるかというと、聖書の書いた通り、困難を与えるんですね。私たちを懲らしめま す。しかし、それは私たちを愛するゆえになさったことです。人間は神様を見つめて歩まなければ、すぐに世界の誘惑に付いて小道に走り、迷子になってしまい ます。神様を見つめるために神様を一番目に愛する心が必要です。しかし、これがなかなか難しいもので、感覚で生きてる人間にとって見えない触れることので きない神様を一番愛するのはとっても難しいです。だから、神様はそれができるように私たちをわざと困難の中において厳しく鍛えます。日本語で「好きなもの には目がない」といいますね。なぜ目がないといいますと、調べたら、これが日本語のおもしろいところですが、三段階があります。目がない→目がないと見え ない→見えないと判断力が落ちる→判断力が落ちても好きである。心を奪われて思慮分別がつかないということですね。たとえば、恋人、お金、勉強、仕事とか しか目になければ、神様のことを見ようとしなくなるんです。「日曜に礼拝あるけど、彼女をピクニック連れて行くから教会サボる」、「彼氏と遅くまで遊んで 疲れたから、今日は聖書読むのやめよう」、「バイトがあるから教会行かない」など神様に喜ばれないことをするなど神様のことよりも世の中のものを最優先に してしまいます。そうなったら気をつけてください、神様は怒ります。その叱りはとっても痛いものです。どんな懲らしめ待ってると思います?私たちが一番大 事だと思っているものを奪い取ってしまいます。恋人と分かれさせます。リストラされます。大学に落ちます。会社が倒産します。神様は人間が苦しみのどん底 の中にしか自分を求めようとないってわかっているからです。僕の場合は恋人だったんですけれども、今を思えば、僕がもしも神様を見つめなおしていなければ 相変わらず寂しがり屋で、甘えんぼのまんまだったかもしれません。神様より大事なものはありません。神様を父親としてみるものは世界を得るものです。

天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73:25-26)

最後に僕がいつも困難で気持ちが凹んでいるときに思い出詩を皆さんにシェアしたいと思います。名前は「足跡」です。知ってる人多いと思いますが、英語で「footprints」アメリカのマーガレット・F・パワーズという女性が書いた詩です。

「足あと」

ある夜、わたしは 夢をみた。
わたしは、神さまと共に なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの わたしの人生が 映し出された。
どの風景にも、砂の上に ふたりの 足あとが残されていた。
一つは わたしの 、もう一つは 神さまの であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上の 足あとに目を留めた。
そこには 一つの 足あとしかなかった。
わたしの人生で いちばんつらく、悲しい時だった。
このことが いつもわたしの心を乱していたので、
わたしは その悩みについて神さまにお尋ねした。
「神さま。わたしが あなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりの 足あとしかなかったのです。
いちばん あなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしには わかりません。」
神さまは、ささやかれた。
「わたしの愛する子どもよ。
わたしは けっして お前のそばを離れたことはない。
お前がもっとも 苦しんでいたとき、
砂の上に一組の足あとしかなかったのは、
わたしが お前を抱いていたからなんだよ。」

2011/8/1 月曜日

十字架を負う

Filed under: お知らせ — admin @ 7:55:39

新松戸福音自由教会からのお知らせ

goodnews201108

◆十字架を負う
彼らは、イエスを引いて行く途中、
いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、
この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
ルカの福音書23章26〜31

Copyright(C)2004.1.1 Wang.Mc Pure Service All Rights Reserved.