2008/2/28 木曜日

試練の中で

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 22:25:14

恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。
出エジプト記20:20

これはモーセの言ったことばです。神様への恐怖心を病的なまでに抱かせ、私たちを移転させようとサタンはします。このモーセが言ったことばを適用し、サタンのことばに耳を傾けないで拒否しましょう。神様は、私たちの敵ではありません。びくびく怖がる必要はないのです。

でも、忘れないでください。確かに神様は、私たちの信仰を試したり、調べたるするため、私たちをストレスに溢れた状況の中におかれます。私たちの神様への信仰を試すことの霊的な試験は、後から振り返って見ると私たちの信仰の成長にとって大きな助けであることがわかります。また私たちの優先順位を正すのにも役たちますし、神様や人とのかかわりの中で、自分のどういうところを変えていかなくてはならないか、ということにも気づかされます、神様からの試練は、神様とみことばに対して敬虔になるように促します。その結果、神様への信仰と知識が養われていき、私たちの生活態度も正され、罪を避けていくことができます。

2008/2/25 月曜日

苦々しい

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:22:21

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。(エペソ4:31)

苦々しい思いは、心の中に小さくとどまっていません。悪い思いを根に持っていると、それを餌にして、苦々しい思いが大きくなっていきます。その根を無視したり、そこには存在しないと思うようにしても、それはより深く根をはっていきます。しばらくの間は隠れているので、それが広がっていくさまははっきり見えません。でも、いつの日か、破壊的な怒りとなって、爆発する日がきます。そのようになって時には、安らぎも心の健康も、すでに損なわれているでしょう。苦々しい思いを、それがまだ蕾のうちに、摘み取ってしまいましょう。赦すことが自然にできるようになることを求め、そして赦す時は惜しまずに赦してあげましょう。甘い土から苦しい実がなることは、まずないのですから。

2008/2/22 金曜日

愛の力

Filed under: 感想と証しの広場 — admin @ 21:20:29

愛する者ちた、お互い愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 ?ヨハネ書4:7

知的障害のある友人のハリーは、教会では私たちの隣に座っています。ある日曜日、私たち夫婦は教会の古い素晴らしい賛美歌を歌うために立ち上がりました。ハリーは言葉がわからないので、立ちませんでした。言葉がわかるとハリーは立ち上がり、大声で、ほとんど調子はずれてに歌います。

私たちの後ろの席で、一人の女性が賛美歌を歌いながら、泣き出しました。その人を困らせたくないので、私たちや周囲の礼拝者たちは、この人の涙に気づかないふりをしました。そうです、一人を除いて礼拝者全員です。ハリーは、立ち上がりました。そして女性の所に行って、暖か抱きしめました。それは、私が目撃した最も感動的な憐れみの行為でした。

ハリーにはある意味の限界がありますが、愛の力とは何かを私たちに教えてくれました。人が苦しみにある時、愛は行動します。

今日の黙想
愛は、悩んでいる人々に憐れみをもって手を差し伸べます。

祈祷:主よ、あなたの憐れみと、それを私たちに示してくれる人々を感謝します。あなたのように、痛みを覚えている人々に反応させて下さい。アーメン。

ジェラー・ウィリアムズ

2008/2/21 木曜日

子供の声

Filed under: 感想と証しの広場 — admin @ 22:45:39

狼は小羊とと共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。(イザヤ書?1:6)

空は青く、太陽は輝き、花は咲き乱れていました。ある夏の日のことでした。しかし、私の心には太陽の輝きはありませんでした。3ヶ月前、夫が死んだのです。私は30歳で、2歳と5歳の二人の息子がいます。5歳のテリーは自分の部屋で静かに遊び、私は机に向かって新聞をめくっていました。突然テリーが部屋から出てきて大声で言いました。「ねえ、公園に行こうよ」私は少しためらいましたが、「いいよ、行きましょう」と言いました。

テリーは私の前を走りぬけ、一目散にすべり台に向かって行きました。2,3回滑ると私のところへ戻ってきて私のところへ戻ってきて私の手を握り、一緒にゆっくり歩きました。きれいな花の前で立ち止まったとき、テリーが私を見上げてこう言うのです。「ママ、心配しないで。僕たちいつか、また幸せになるさ」

テリーが私の手を握りしめてその励ましの言葉を言ったとき、私はこの子の言葉は真実だ、と思いました。私は悲しみの中で神を忘れていたのです。神は私たちが困難と苦しみの中にあるときでも、私たちを見放しはしないことを思い出させ、私たちに慰めと希望を与えるために子供をお使いたなったのです。

祈祷:恵み深い神様、あなたが私たちと共にいて下さることを忘れているとき、私たちに語りかけ続けて下さることを感謝します。アーメン。

今日の黙想
神の愛と臨在を思い出させるものは何でしょうか。

ルイーズ・カーター・キルパトリック

2008/2/20 水曜日

気苦労

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:32:08

25: あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26: そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。
ルカ12:25,26
根拠もなく心配することがどんなに無駄かということについて、多くの人が本に書いています。読者の中にも、そのとおりだと同意される方がいると思います。このことについて、さらに聞いておかなければならないと言う方もおられるかもしれません。ですから、今回は、少し違う角度から見ていきます。
どういうわけか、私たちは一生懸命に心配すれば何か解決策がみつかるのではないと思っています。またそのように自分に言い聞かせながら歩んでいるようなところがあります。しかし、それでは解決など見つかりません。実際、私たちは、ありもしないようなことについて、また解決必要などほとんどないようなことについて心配します。実を言うと、私たちは自分の心配にしがみついていたいのです。ひちりよがりですが、そのほうが心地よいからでしょうか。そうすることによって、気持ちが慰められると思っているからなのでしょうか。しかし、結局は新たな心配の悪循環が始まり、しまいには苛立ちの原因になるのです。

心配するということは自分中心になっていることの表われです。注意してください。心配しても、何の解決にもなりませんから、そこからは何も期待できないのです。心配をそのままイエス様にゆだねて、私たちの主にその解決を期待しましょう。

2008/2/18 月曜日

カルバリの愛を知っていますか(42)

Filed under: カリバリの愛を知っていますか — admin @ 20:16:18

ほかの人のために
なにかをするように頼まれた時、
もしそれは重荷と感じるようであるならば、
そして結局怠惰な思い負けて、
指を動かすことをしないならば、
その時わたくしはカルバリの愛をまったく知らない。

2008/2/17 日曜日

Filed under: お知らせ — admin @ 9:00:00

2008.02.09 ウエルカム礼拝のご案内
新松戸福音自由教会からのお知らせ
goodnews200801

2008/2/16 土曜日

信仰によって義とされる

Filed under: 感想と証しの広場 — admin @ 11:31:04

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。(ガラテヤ書2:16)

日曜日、教会に近づいたとき、私はクリスチャンではない友人が来ていると、言われました。その友人は全く幸せそうに席に着いていました。その時「教会員」の一人が入ってきて、何も考えずにこう言ったのです。「すみません。そこは私の席ですよ」私は、何が起きたのか教会日誌で説明しました。しかし、この場合、受けたダメージはもう取り返しがつかないものでした。

教会の中でのこうした態度は今に始まったことではありません。今日の聖書の中でもこうした例があります。せっかちな使徒べトロが、全くの善意から、まだよく理解する前に口をはさむことがあったのもこの類だと思っています。ですから、私は、パウロがべトロを叱って偽善者と呼んでいる箇所を読むとドキドキしてしまいます。それより前にペトロは異邦人の信者と喜んで時を持っていましたが、その後ユダヤ人クリスチャンの一団がやって来て、その影響を受けたペトロは、今度は異邦人を避けるようになります。これはある種の人々が他の人々より良い扱いを受けることにつながる行為です。

しかし、ペトロは単純に善意から、争いを避けたかったのでしょう。同じように、今日の教会は、キリストは分け隔てなくすべての人を救うという原則に人生と引き替えに力を得た人たちの幸せ維持させることに焦点を当てています。カラテヤ書は、私たちが律法を守ることでは義とされず、救いは特権的な僅かな人のためだけにあるのではない、と私たちを論しています。救いは、私たちが誰であっても、何をして来た人であっても、神の恵みと、イエスが私たちのためにして下さったことを信じる信仰にかかっているのです。

祈祷:主イエス様、すべての人に救いのメッセージを伝えるよう私たちを助け下さい。アーメン。

今日の黙想
キリストを探している人々を妨げているものを、どうしたら取り除くことが出来るでしょうか

スー・マッコウロー

2008/2/8 金曜日

豊かなたましい

Filed under: 神様の領域 — admin @ 11:59:45

ルカ18:18〜23

18: また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

19: イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

20: いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。

21: すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。

22: イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

23: 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。

最後の一つを求めに来た青年

人生を自信満々に生きて来た青年を一人を紹介します。その青年は良い仕事をしている人でした。そして、若さという素晴らしい財産がありました。若さには限りない可能性とビジョン、エネルギーと無限な想像力があります。彼は失敗をも決して恐れませんでした。

そんな彼がイエスの前に来て、ひざまずきました。そして驚くべき質問をしました。「何をしたら、永遠のいのちを得ることができるでしょうか。」

若くて、すべてのものを持っている若い者がわざわざイエスを訪ねて、永遠のいのちについて質問をするのですから、驚きます。その青年は、自他ともに認めるほどの素晴らしい人でしたが、彼には最後に認められたいと願う方がいました。それは神でした。

すべてが備わった青年の問題

あなたは神に会いたいと思いますか。それとも、神に認められたいと思うのでしょうか。もし、神に認められたいなら、神に会うことはできないでしょう。しかし、神に心から会いたいと願う謙虚な心があるなら、神はあなたに会ってくださいます。そのような人には主が見えます。しかし、主に認められたいなら、いくら捜し求めても主を見ることはできません。

この青年の質問、「神様、私が何をすれば永遠のいのとを得ることができますか」は、神に喜ばれる質問です。しかし、彼は心の中で「神様、どのようなことを聞かれても私はみな答えられます。少こなくとも、神様が願うことは私はすでにみなしてきましたから」と考えていました。そこで「私が永遠のいのちを得るためには何をもっとすればよいのでしょか。私に足りないものは何でしょうか」と堂々とイエスに尋ねて来たのです。

しかし、そのような人はなかなか主に会えません。謙虚な心で、悲しむ心で主を求める人に、主は見え始めるのです。事実、金持ちの青年は、永遠のいのちを得たいというよりは、主に認められたいという気持ちで来たのです。あなたは本当に主に会いたい、神に会いたいと願っていますか。

神に会うためには、まず謙遜にならなければなりません。だから、自分が何かを持っていると思っている人は神に会うことが難しいのです。神を試み、神に認められるために来る人には、神は見えません。自信ありげに「神に一度聞いてみよう」などと考える人には、神は絶対に現われてくださらないのです。

だとしたら、救われるために私たちがすべきことは何でしょうか。信じることしかありません。救いは行いによるものではありません。自分が何をしたかではなく、自分がだれであるかに焦点があるのです。

この青年は永遠のいのちに関心がありましたが、それを得る方法を誤解していました。ですから、彼のように論争をしてキリストをしんじようと思わないでください。信仰は論理的に得られるものではなく、聖霊を通して得られるものです。主をただ信じなければなりません。主を知っているから信じるのではなく、信じるから知るようになるのです。

隠された内面の偽善

人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。、

イエスは青年に、法律の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない、偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。

「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」このことばを聞いた青年は非常に悲しみました。

律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にある偽善と虚像をしり、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみなまもりましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者にに分け与え、わたしについて来なさい」と言われたのです。ここで、金持ちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。

私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題を抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的に、また哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。残念なことに、青年は財産のことで苦しみ悩みました。そして。主ではなく財産を選びました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。

たましいのつるべを失った理由

この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです。彼らのようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神様の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりせず、ただ「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。

第二に、傲慢な態度を見せました。神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を慕い求める心で出て来てください。

第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人をがどのような人になるかによって救われることを覚えてください。

第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福されるのです。

これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。こどものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。

神様の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。

祈り

主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

世の中での正しい経済観

みなさんに食べるものと着るものがあるなら、それに満足し感謝してください。なぜなら、この世に生まれた時間も持って来なかったように、この世離れる時も何も持っていけないからです。子供に遺産を残してあげたからといって、ありがたく思うこどもがいるでしょうか。多くの子供は当然のように思います。それが人間です。

聖書は、お金を愛することがすべての悪の根源であると述べています。お金を愛さずに使ってください。お金に支配されずにお金を治めてください。そうすれば大丈夫です。お金が自体が悪いわけではありません。お金を稼ぐことはよい事です。しかし、神がその主人どなるようにしてください。お金を愛し、お金が儲けようとすれば、あれこれ考えて夜も眠れなくなります。お金が出たり入ったりするばかりで、お金はたまりません。これからお金を支配してください。

永遠のいのちとは

永遠のいのちは、単なる永遠不滅ではなく、神の時間を意味します。また、永遠に生きておられる神の人格的な生活に共にあずからことを意味します。神のない永遠な時間は不安です。神のない無限な世界は考えるだけでも不安で恐ろしいものです。

永遠のいのちとは、死後の無限の世界ではなく、永遠なる神に属することを意味します。また、永遠のいのちとは、キリスト自身を意味します。永遠に生きておられる神が人間の身体でこの世に来られました。。その方がキリストです。キリストの中にまことの永遠があります。

永遠のいのちとは、死がありません。死を超えるからです。永遠のいのちを持つ人は肉体に意味を持ちません。肉体には、大きな意味がありません。失敗を恐れません。永遠のいのちを持つ人は状況がどんなに苦しくても絶望しません、なぜならキリストにある神の聖霊を所有しているためです。

ですから永遠のいのちを持つ人には自由があり、平安があります。

隠された内面の偽善

人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。

イエスは青年に、律法の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さいときから守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。

「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」この言葉を聞いた青年は非常に悲しみました。
律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にあると虚像を知り、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみな守りましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者に分け与えわたしについて来なさい、」と言われたのです、ここで、金もちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。

私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的にまた哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。

たましいのつるべを失った理由

この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです、彼のようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりぜず、ただ、「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。

第二に、傲慢な態度を見せました、神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を羨い求める心で出て来てください。

第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人がどのような人になるかによって救われることを覚えてください。

第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福してくださるのです。

これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。子どものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。

神の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。

祈り

主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。この機会に必ずキリストに出会えるように導き、祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2008/2/6 水曜日

雪に結晶

Filed under: 感想と証しの広場 — admin @ 6:00:19

なぜなら、わたくしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたくしたちはその善い業を行って歩むのです。エフェソ書2:10

私がいつもお世話している人たちのために、手作りでいろいろなものを作って楽しんでいます。この2、3年の間は、そうした手作りの品がその人たちのクリスマスツリーの飾りになっています。そのうちの一つに雪の結晶があります。雪の結晶を作るときは、それぞれが同じ形になることが大切です。けれども同じ見本から二つの結晶を作っても、いつもわずかに違ってくるのです。全く同じものは二つとないのです。私が「手作り」で何かを作ると、どれも全く同じになりません。

神が私たちを「手作り」で作られたことを知ると、何と不思議なことかと思います。私たちはすべて人間として、全て神の形に似せて作られているのです。私たちは色々な点で似ています。同じ見本によって造られたからです。しかし、私たちは又、個性があって、互いに違ったところがあります。私たちは異なった目的のために造られ、神の子供として、愛し、愛されるように造られているのです。

私たちは、私たちを造られた神にとって、無二のものであり、特別のものなのです。私たちは、他の誰かでは成しえないそれぞれの目的を成就するために仕えているのです。私たちは自分の目の前に備えられた旅路を感謝し、ここにいるのは神に仕えるためであることを知って、その旅路を進むのです。

今日の黙想
神様が私たちに今日するよ造られた善い業とは何でしょう。

祈祷:恵みの主よ、私たちはあなたを愛し、讃えるために、私たちの周りの人々へ愛と奉仕によってあなたに仕えていることを忘れないようにさせて下さい。アーメン。

オルガ・モスレイ

2008/2/5 火曜日

隠れた思い

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 22:07:34

23 :神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 :私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
(詩篇139:23〜24)

なんと深いことばでしょうか。神様が私たちの心の奥に秘められた思いを明らかにしてくださるのですから。私たちが持っている感情のその下に、害になる行動がおかしいのは目に見えて明らかないのに、それは何故かということを、はっきり指し示すことができません。答えは奥深いところ潜んでいるからです。ある思いが、無意識のうちに心の奥深くどめられることがあります。たいてい、動機というものは、その心(心=理性+感情+意志)の中から生まれます。ですから、その心が、不健全な論理的思考に影響されると、私たちは通常、「永遠の道」よりも「傷のついた道」のほうを歩んでしまいます。

私たちの心の最も奥深くにある気持ちに光を照らして明らかにして導いてください、と神様に祈ることによって、私たちは正しい道に戻されます。それは、平穏な道でもあります。神様に、私たちの心を透かして見ていただくというのが、いつも最善な方法なのです。す。

2008/2/4 月曜日

冬の美

Filed under: 感想と証しの広場 — admin @ 23:48:04

神が息を吹きかければ氷ができ
水の広がりは凍って固まる。
雲は雨を含んで重くなり
密雲は稲妻を放つ。
雨雲はここかしこに垂れこめ
導かれるままに姿を変え
命じられるところを
あまねく地の面に行う。
ヨブ記37:10〜12

私は新雪の降る美しさが好きです。昨年の私の誕生日に、私は窓の外をみつめ、雪が風で踊っているのに心を奪われました。何と素晴らしい贈物でしょう。雪は優しく舞いながら降りてきて、小さなつむじ風に巻かれて行ってしまいました。私は、神の国と、喜びや悲しみの時期や啓示を通して辿ってきた人生の小道について思いめぐらせました。

ニケ月後、私は電話口で「くびなったよ」という夫の取り乱した声を受けていました。夫の28年にわたる勤務が不当に閉じられたのです。一人でつむじ風の中にいるような、こんな喪失感を感にている時に神を信頼するとは、何と難しいことでしょう。しかし私たちは自分の感情に寄り頼むことは出来ません。信頼は一つの選択です。神は人生の冬の景色の中に美を造ると、信じることが出来るでしょうか?私はそこで信頼することを選ぶでしょうか?

私たちは、心痛と不安の1年の中で、今まで避けてきた道、神を信頼する道を選んだのです。神はその過程で予期せぬ祝福を与えて下さいました。私たちは日々神に寄り頼むことに平安を見出したのです。激しい風嵐に日にも、素晴らしい美を作られるのです。

今日の黙想:今日、私はどのように神を信頼することを選ぶでしょうか。

祈祷:神様、あなたの揺るぎない愛のうちに希望をお与えてください。アーメン。

エリザベス・アン・バッシー

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