2007/7/29 日曜日

幸福の始まり

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 23:00:57

人生の追求は幸福の追求です。

人は誰でも幸福に渇いています。
砂漠で一滴の水を希望するように
人は幸福を探しに探し
長い長い旅をします。
しかし、幸福は絵に描いた餅のように手に入れることができません。

幸福は一体どこにあるのでしょうか。
空の上にもなく
地の下にもなく
私の心にもありません。
それにもかかわらず、幸福をあきらめられないことが
私たちの人生です。

幸福はただ、一人のお方にあります。
イエス・キリストです。

今日から幸福の旅を始めてください。
この方と共に。http://godarea.net

2007/7/27 金曜日

人生の選択

Filed under: オウサン工房, 信仰生活 — admin @ 12:30:21

あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え…もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。ヨシュア記24:14-15

  基本的に、私たちは神によって選ばられるが、神を選ぶことができない。しかし、神が私たちをお選びにならないかつ私たちが神を選ぼうとしない限り、私たちは神の中に属することができない、また神のご意志は私たちの中に成就することもできない。

  放浪息子が父の家から離れ、父と一緒にいることを選ばなかったから、父は彼を呼び止めることができなかった。

  人生はいろんなときに選択をしなければなりません。仕事、結婚、品行…..全て選択です。その中で、神のために奉仕しようという選択は一番偉大です!なぜなら神が私たちの中にいると私たちは重心、方向、目的、支え、勇気、力を有することができるようになるからである。そして、私たちは、勇敢に足を踏み出せる、空振りのない、ストレスの感じない、失敗することもなくなります。

  ヨシュアの選択は神に仕えることだった。神は彼に「強くあれ、雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行くどことでも、あなたとともにあるからである。」と命じた。そして、ヨシュアは晩年のときに「主が、あなた方について約束した全ての良いことがひとつもたがわなかったことを。それは、ひとつもたがわず、みな、あなた方に実現した。」と証をしたのである。賛美感謝。

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2007/7/26 木曜日

重荷を負いあいましょう

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:10:32

互いの重荷を負いあい、その様にしてキリストの律法を全うしなさい…….人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ6:2〜5)

 この二つの聖書箇所は、お互いに矛盾しているように見えます。しかし、ここで、使徒パウロは、それぞれ自分で背負わなければならない通常の精神的な荷(5節)を自分自身で背負うようにと、ただし、兄弟姉妹の精神的な荷がかれたに取って一時的に重過ぎるときは愛を持って助けてあげなさい(2節)、と勧めています。しかし、私たちは他の人が自分で負える荷まで、背負ってあげようとします。その結果、私たち自身がその重荷に押しつぶされてしまいます。うまく重荷を背負ってあげたとしても、相手の人にとっては何の助けにもなっていません。自分に与えられた責任を果たすことができないからです。決してその人のためになりません。しかし、一人では負いきれない一時的な重荷をできるだけ負いあうなら、その助け合う愛は、キリストの律法を全うします。
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試練の中で

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:09:18

恐れてはいけません。神が来られてのはあなた方を試みるためなのです。また、あなた方に神への恐れが生じて、あなた方が罪を犯さないためです。(出エジプト20:20)

これはモーセのいった言葉です。神様への恐怖心を病的なまでに抱かせ、私たちを動転させようとサタンはします。このモーセが言った言葉を適用し、サタンの言葉に耳を傾けないで拒否しましょう。神様は、私たちの敵ではありません。びくびく怖がる必要はないのです。
 
 でも、忘れないでください。確かに神様は、私たちの信仰を試したり、調べたりするために、私たちをストレスにあふれた状況の中に置かれます。私たちの神様信仰を試すこの霊的な試験は、後から振り返ってみると私たちの進行の成長にとって大きな助けであることがわかります。また私たちの優先順位を正すのにも役立ちますし、神様や人とのかかわりの中で、自分のどういうところを変えていかなくてはならないか、ということにも気づかされます。神様からの試練は、神様と御言葉に対して敬虔になるように促します。その結果、神様への信仰と知識が養われていき、私たちの生活態度も正され、罪を避けていくことができます。
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2007/7/24 火曜日

ラブ・ソナタ東京で

Filed under: 福音ニュース — admin @ 23:59:41

7月24日(火)の夜にラブ・ソナタ東京が埼玉アリーナで行われました。韓国の教会主催で、韓国のクリスチャンの愛と配慮を身にしみて感じました。このアリーナを借り切る費用や、バスで移動したり泊まったり、食事のことやそれらすべて韓国の教会が負担しているとは、なんとすごいことでしょうか。そして、それと同じくらい、あるいはそれ以上に驚くべきことは、この集会のために積まれている祈りです。当日も、会場の地下で集会の間中ずっと祈り続けている人たちがいました。集会は讃美と愛が満ち溢れ、本当に心温まる、うれしい、ゴージャスで、気品のあるすばらしい時間で、飽きることがありませんでした。きっと天国は、こういうところなのでしょう。

2007/7/20 金曜日

平安への道

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:30:57

まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった水のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える(詩篇1:2,3)

 「瞑想」、このことについて本を書いている人はそう多くいません。東洋の奇妙な宗教儀式のためでしょうか、瞑想することについて私たちは、多少疑い深くなっています。でも、この失われた方法を完全に無視してしまうと、私たちは霊的にバランスを欠いてしまいます。瞑想は平安と静けさへの最善の道なのですから。

 聖書が勤めている瞑想は、ろうそくの灯った儀式や、東洋の式物のうえでのヨガの姿勢を要求しません。それは、みことばを心の中にあふれさせることを言います。みことばのひとつひとつがしずくのようになり、さざ波を立ててきらきらと輝き、それが魂の穏やかなオアシスとなっていくまで、心の思いの合間合間に小滝のように降らせるのです。これが現実的な問題を解決する最善の方法であり、聖書が勤めている瞑想です。みことばを瞑想することによって現実のもっとも真実な面への理解が、私たちに与えられます。
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不安

Filed under: 励ましの言葉 — admin @ 12:13:55

あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
詩篇91:9-11

神様お信じない人には、不安に襲われても避ける所がありません。また真の安らぎもありません。しかし、神様を信じる人には、避け所が確保されています。それに何よりも、真の平安を得ることができます。神様が私たちの避け所だからです。私たちが神様のもとに走り寄っていくならば、安らぎが与えられるということを、神様は約束しておられます。

 神様を信じる人も信じない人も、同じように不安に襲われますが、真の安らぎを得ることができるのは、神様を信じる人たちだけです。神様は、ひとりで背負ってきた重荷から解放してくださいます。それだけではなく、私たち自身を含めてまるごと背負ってくださいます。
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2007/7/19 木曜日

みことばの黙想にゆっくり時間をとって

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:04:53

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 詩篇119:105 不安な人は、先のことばかりを心配していて、今のこの時を喜んでいません。しかし、神様のことばを日々を学び、黙想するなら、不安に悩まされている人も、本当の、そして永久不変の平安を見つけ出すことができます。神様のことばは、平安で、より穏やかな人生への道を照らします。 http://godarea.net

2007/7/17 火曜日

長所と短所

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 12:26:48

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。   詩篇139:13〜16

 変えようのない心や身体の欠点について思い悩んでいないでしょうか。もっと知的だったら、もっと健康だったら、もっと背が低かったらとか高かったらとか、もうちょっと違っていたらいいのに、と思っていないでしょうか。

 どんなこおにでも完全でありたいと願うあまり、私たちの変えることのできない特性も神様によって造られたものである、ということ忘れてしまいます。完壁な人間はひとりもいないのです。主は、私たちひとりひとりに、長所を与え、弱点をお許しになりました。さらに、神様は御名の栄光のために、そのどちらをも用いることができます。

 取り除かれない弱さや欠点について思い悩むのにエネルギーを無駄に使うよりも、神様に自由に、しかもそのもこころままに御業をしていただくことにむしろ心を傾けましょう。
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2007/7/16 月曜日

優しく話しましょう

Filed under: 平安を得るためのヒント — admin @ 23:13:19

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しい言葉は怒りを引き起こす。(箴言15:1)

  心の葛藤の多くは、ピリピリした緊張状態にある対人関係から生まれます。其の緊張状態を避けて通るのは、不可能に近いことがありましから、ここで勇気を持って向き合ってみましょう。しかし、けんか腰ではなく、です。私たちはつみ深いですし、もともと弱い存在です。其の反対に、サタンは狡猾な誘惑者ですから、私たちは、時々、怒りの対決という罠にはまってしまう事があります。

  神様は、ある解決法を持ちです。それは、物柔らかに応じ、せっかん(処罰)の棒は持ち歩かないということです。私たちの性質は弱点だらけです。其の中でも特に私たちのうちにある最悪の部分を刺激するような人たちに、物やわらかく応じるというのが、神様が望んでおられることです。自己防衛をして本来ならわめき返してやりたいところなのですが、そんな時、神様は、もっといい道、平安への道を差し出してくださいます。なぜかですって?神様は私たちが興奮すると血圧も上がるということを知っていらっしゃるからです。そうなると、身体の健康は損なわれますし、精神的にも神経がすり減ってしまいます。そして、霊的な力は使い果たされてしまいます。

  しかし、物柔らかに応じるということは、簡単なことではありません。いつもそうしているというのは、なおさら不可能ですから、自分の声を静めることができるように、神様の助けを求めましょう。相手の方も、それでは、なかなか口論しにくくなるでしょうから。それでは、相手の立場に立って考えてみようかという気持ちにまで、その人の心が動かされることもあるのですから。
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いつまでも根に持たないで、赦しましょう

Filed under: 平安を得るためのヒント, モーセ — admin @ 19:44:45

人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。   箴言19:11

 「赦してあげる。でも、このことは決して忘れない」というのは、「いいや、決して赦さない」と言っているのと、単に言い方が違うだけでほとんど同じです。人を赦さないままいつまでも根に持っていては、決して平安は養あれません。それで、多くの不安熱狂者たちが、仕返しのチャンスに飛びつく霊に支配されてしまいます。

 どんなに威嚇されても動じないほどに、私たちはキリストの内にゆったりと憩う必要があります。しかし、人の足に踏みつけられるだけ踏みつけられなさいと言っているのではありません。憎悪に満ちた人たちの罵倒やひどい仕打ちに、無防備でいろと言っていろのでもありません。私たちの生涯において神様の名誉にかけて断固として立ち上がらなくてはならない状況ならば、聖書はそうすることを禁じてはいません。しかし、私たちの命を短い導火線で爆発させるようなことをしてはならないのです。不当な取り扱いを受けても、神様は、赦してあげなさいといっておられます。そうするなら、怒りの足かせから解放していただけます。http://godarea.net

2007/7/11 水曜日

大歓迎

Filed under: モーセ, 霊想書・黙想 — admin @ 23:21:17

  主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

  私は街に行ったり、公園をそぞろ歩いたりといった、”健常な”人々がすることをしてみたいと思っています。でも私は、少ししか目が見えず、耳も聞こえないし、体も麻痺しているというように、いくつもの障害を抱えているので、多少とも気後れがし、”劣等感”を持っています。いつも盲導犬を連れて行く必要があるので、当然人目を引くことになります。神がともにいてくださっても、居心地はあまりよくありません。
  けれども、神の教会に行くときは、気後れも劣等感も覚えません。神は障害者に優しく、暖かく、情け深い方なので、障害を恥ずかしいとは思わないのです。神の目には、私たちはみな平等です。神を見るための完全な視力も、神に聞くための一対の聞こえる耳も必要ありません。車椅子に座っているから、神のみ手が私たちに届かない、いうことはありません。神の家にいるときは、居心地がいいのです。
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