2007/4/30 月曜日

私の証し

Filed under: 感想と証しの広場 — admin @ 23:39:30

どのようにしてキリストを信じたか、又はどのような素晴らしい事を自分にしてくれたかその体験を話すことを証し(Testimony)と言います。
クリスチャンは、皆それぞれその証しを持っています。神が私にしてくれたすばらしい御業(働き)は、山ほどありますが、何と言っても私がキリストを信じて(受け入れ)、クリスチャン(キリストに属する者という意味)になった日のことは忘れられません。おそらく私の人生においてこの日ほど重要な日はないでしょう。なぜなら死からいのちに移った日だからです。思い出すと心が熱くなります。

別に私は変わった環境で育った者ではありません。ごく普通の平凡な田舎の家庭に育ちました。まわりに熱心なクリスチャンや仏教徒がいたわけでもありません。ただ一つ特筆するとすれば、二人弟がいるのですが、一番下の弟が重度の脳性麻痺で、両親が非常に苦労している姿を見て育ったということです。そういう意味で他の一般家庭よりは、いろいろと制約がありました。しかしその弟を中心に皆が一つにまとまっていました。母方の叔父が、私が大学の2年生の時クリスチャンになり、やがて親の反対を押し切って神学校へ行き、牧師になりました。この叔父に誘われて初めて教会の礼拝に行きました。しかし正直言ってあまり良い印象を持ちませんでした。皆同じような顔をして、表情で、堅苦しく、魅力がありませんでした。服装もほとんど白いブラウスに紺のスカートで地味。私は、その時流行っていたヒラヒラのフリルのブラウスにジーンズでした。ひとり浮き出た感じで、恥ずかしかったのを思い出します。(あれから20年以上立つのに服装が変わっていないのはどうして?今だに一年中ジーンズです。)礼拝は退屈でしたが、どうしたことか賛美歌を聞いていた時、わけもなく涙がポロポロと流れて来ました。厳密に言うと、教会に入るのはこの時が初めてではないのです。5歳の時、幼稚園がカトリックの教会の付属幼稚園だったので、ステンドグラスの美しい古い教会の礼拝堂にときどき入ることができました。私は、そこでイエス・キリストの話を聞き、十字架に架かっている痛々しいキリストの像を見たのです。私たちの罪のために代わりに十字架に架かったという説明は、私には聞いたこともない話で、幼心にも衝撃的でした。こんなこと普通の人間はやらないと思いました。 もしやる人がいるとしたら、このイエス・キリストぐらいだと思いました。この時の体験が、実は私の心の奥底にズ?ッとあり、17年後キリストを信じた時、再び鮮やかに浮上し、その後の信仰生活に大きな役割を果たして来ました。ぼやけた信仰を持たずにすんでいるのです。神のなさることは、心憎いばかりです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」伝道者の書3:11

私は、中高生時代、学校の先生に恵まれず、教師から何かを得ようという期待をやめました。今思えば生意気ですね。しかしとても向上心が強かったので、どうしたかと言えば、日本や外国の古典と言われる本を読み蒔くってそこから何かを得ようと決めたのです。なぜ古典(新刊でなく)にしたかと言えば、長い期間、人々の厳しい評価を耐えて来た物は、間違いないだろうという単純な理由からです。限られた人生、限られた十代という期間、無駄な本を読んで、時間を無駄にしたくなかったのです。今思えば、この選択、間違いなかったように思います。岩波文庫や角川文庫などのほとんどの古典を読みました。なぜって、文庫は、安いからです。古典を読んでいるうちに気づいたことがあったのです。特に翻訳本のゲーテ、トルストイ、ドストエフスキー、ヘルマン・ヘッセ・・・・・・・・・・・・・等、彼らに共通してるのは、人生についてさまざまに模索しながら一つの絶対的真理をつかもうとしている姿勢です。私は、この考え方、この姿勢に非常に動かされ、私もそうしようと思ったのです。私のこれからの全人生をかけて絶対的真理を探そうと決めました。高校生の時でした。受験勉強よりもそのことで心が占められていた。

田舎の夜空は、都会と違って晴れている時はたくさんの星が見えます。ある時、夜空の星を見上げながら、この宇宙はどうなっているのか、今こうやって見ている私は誰なのか、知りたいと思いました。私の真理探求が始まったのです。そんなことを考えながら、東京の大学に入るため、上京して来ました。大学の2年の時、私にとって大きな事件がありました。失恋です。 ひとめぼれで、片思い、告白、そして失恋。これでも失恋です。私にとって初めての挫折でした。(人は、そんなの挫折じゃないと言うかもしれませんが、痛手は多きかったのです。)それまでは、すべてが順調でした。しかし失恋なんかで大学の勉強に影響を与えるのは悔しいと自分を打ちたたいて勉強をしました。(しかし心の中は、失恋以来、ずーっと冷たい風が吹いていました。)そして卒論も自分で満足のいく物ができ、ゼミの先生にもそれなりの評価をしてもらい、めでたしのはずだったのですが、現実には、どうしようもない空しさ、悲しさが自分を支配し、就職活動どころではありませんでした。結局、一年間頭を冷やそうと考え、卒業後実家に帰りました。敗者の都落ちといった心境でした。実家に帰っても表面は普通にしていましたが心の中は、あいかわらず冷たい風が吹いていました。全くやる気のない死んだ状態の自分を見い出すだけでした。何か生産的なことをしなければと自動車教習所に通っていましたが、まるでボーフラだ、生ける屍だと日記に書いて過ごしていました。そんな時です。突然大学の友達から電話がありました。彼女は、大学の時にクリスチャンになり、教会などに誘ってくれてました。彼女は、誠実で聡明で、信頼してました。その彼女が、宇都宮の・・・・教会に・・・・というすてきなカナダ人の宣教師夫妻がいて、その奥様がマリアさまのような人で、手作りのクッキーでもてなしてくださるから来ないかというのです。ボーフラにとっては、マリアさまのようなのも手作りのクッキーも何の魅力のある言葉に感じませんでしたが、行く事にしました。行ってみると、たしかに穏やかな物腰の素敵な宣教師夫人でした。手作りのクッキーもでました。しかし何よりも私の心を強く引き付けたのは、その夫人の口から出た一言でした。夫人はやさしく微笑みながら「聖書読んでいますか?」と私に聞いたのです。何でもないこの言葉が私の心に引っかかりました。

私は、大学時代何度か教会や集会に行って牧師の話しを聞いたりして来ました。しかしどうしても自分のものとして、信仰にまでは至りませんでした。そしてあきらめムードで実家に帰って行ったのです。そしてボーフラになっていたわけです。私がなぜこの夫人の言葉に強く注意を引いたかと言いますと、今まで、信じることができないと嘆きながら肝心の聖書をほとんど読んでいなかったのです。そのことに気づかされ、私は即、家に帰ったら聖書を読もうと心に決めて、その日家に帰りました。布団に入って、夕方から、まず新約のマタイの福音書から読み始めました。読み始めていくうちに、イエス・キリストの行動や言葉に戸惑いました。今まで読んで来たような本の内容と違うからです。
「心の貧しい者は幸いです。・・・」、「悲しむ者は、幸いです。・・・」何のことや。理解に苦しみました。「『わたしのこころだきよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼らのらい病はきよめられた。」(マタイ8:3)「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:31)「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」(マタイ17:23)「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)ここまで大胆に自分のことを権威をもって言う人は、完璧に気が狂っているか、本当に「生ける神の子、キリスト」であるかのどちらかであると思いました。私は、何を言っているのか理解できぬまま読み進めて行きました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと。今まで読んで来た本にはない語り口、そして不思議な全体の調和だと感じつつ。そしていつのまにか私は涙を流していました。ここに私の探していた真理があったと直感でわかったからです。このときの気持ちは、何とも言えず不思議で、感動的でした。まさにこの世の真理を探し当てた境地でした。どこを読んでどのようにわかったかとは私の場合言えないのですが、読んで行くうちに神が私の心を開いてくださり、知る力を与えてくださったとしかいいようがありません。わかってしまったのです。これが絶対的真理だと。ヨハネの福音書を読む頃は、すでに次の日の明け方になっていて、気がつけば、徹夜して読んでいました。私は、むっくりと布団から起き上がり、南側の窓に向かって立ちました。そして私はクリスチャンになる決心をしたのです。ここに書いてある価値観で自分のこれからの人生すべてを生きると決めたのです。悔い改め(方向転換)です。一晩にして全く生き方を変えるわけですから勇気が必要でした。それこそ清水の舞台からとび降りる思いで決心したのです。この日から25年、私の心は、一度もキリストから離れることはありませんでした。神は、しっかりと私を捕らえてくださり、私もどんな時も天の父に、イエス・キリストに、聖書のことばに頼り、彼らにしがみついて来ました。

「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」(へブル13:5)

たくさんの具体的イエス・キリストとの熱い人格的触れ合いを通して、神の愛の深さを教えられて来ました。誰でも初めは、ベビークリスチャンです。フラフラすることもあります。しかしいつも神を第一とし、神の答えを聞こうとし、神の御心(His Will)にそって生きようとする者には、素晴らしい、神の祝福、恵みの世界が開かれて行くことを知りました。ただし、日曜毎に教会に行って、自己満足しているようなクリスチャンには、開かれない世界です。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」 (マタイ7:7,8)

原語(ギリシャ語)では、求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさいになっています。この日(イエス・キリストを受け入れた日)、私は、死からいのちに移ったのです。生まれ変わったのです(新生、The New Birth)。私の霊にいのちの方、キリストの御霊(聖霊)が入ってくださり、まったく新しくなりました。ボーフラは、いのちを得て、いきいきとした人間に変わりました。

この25年前の体験をずっと大切にしてきました。私は何も良いことをしないのに、救ってくださった日だからです。これこそ神の恵みです。この聖書のことばやキリストの十字架の福音の内容は、信じない者にとっては愚かで、退屈なものでも、信じる者には霊の糧となり、平安と力をもたらすものなのです。

2007/4/29 日曜日

神を慕う時に -神のふところに憩う-

Filed under: 霊想書・黙想, 励ましの言葉 — admin @ 13:50:04

私が常日頃とっている態度とは、単純に神に心を傾け、絶えず神を慕い、神を仰ぎ見ることです。それで私の心は、嬉々として母親の胸にすがる乳飲み子にも勝る幸福と喜びにしばしば溢れんばかりなのです。こういう表現をあえて用いるならば、私が味わい、経験している、ことばに尽くせない幸せについて、この状況を「神のふところ」と描写させてください。

時に、どうしても必要なときとか、弱さのゆえにか、脇道にそれることがありますが、たちどころに甘く魅力的な内なる声に迫られて呼び戻されます。その麗しさは到底言いようもありません。私の定めている祈りの時間も、やはり同じことの連続です。時々、私はちょうど自分が、彫像を作ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻師の前に置かれた石のように感じます。私は神のみ前に自分を置いて、私の魂のうちに神の完全なイメージを刻んでください、そして私を神ご自身と完全に似るものとしてくださいと乞い願うのです。

他のときにも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力もいらずそのまま続きます。さわやかに、動かされること無く神の内に憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。

このような状態を怠惰とか、自己欺瞞とか、自己愛と言う人もいるでしょう。たしかに聖なる怠惰祝された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあることは認めます。魂がその中にあるときには、今この時、神を交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。そのようなものは、かえって神との交わりを妨げるだけです。しかし私は断じてそれを欺瞞とは呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神をのみ求めるからです。

神は私たちの最も必要としているものをよくご存知です。そして神がなさることはすべてにおいて益となるものです。もしも神がどんなにか私たちを愛しておられるかを知ることができたならば、私たちにとって楽しいことも、苦しいことも、等しく神の御手から受ける備えがいつもできているはずです。神の御手から来るものは最も苦痛なこと、最も困難なことでさえ、私たちにとって甘美で喜ばしいことです。最も烈しい苦しみにとうてい耐え切れないように思えるのは、私たちの考えなのです。神が御手によってその試練を与えておられるのだと信じ、また愛に富む天の父が私たちを低くし、悲しみも苦しみも与えておられるだと分かれば、すべての苦しい思いは取り除かれ、ただ喜びとなるのです。

私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです。そして、愛は知識によって測られるものですから、知識が広くなればなるほど、愛もまた大きくなっていくのです。このようにして神への愛が大きくなれば、苦しみの時にも喜びの時にも等しく神を愛するものとなります。

■ブラザー・ローレンス:『敬虔な生涯?普段の生活の中におられる神?』(CLC出版)、抜粋

2007/4/16 月曜日

神様の計画

Filed under: 荒野の泉, オウサン工房 — admin @ 23:30:35

「信仰によって、アブラハムは、受け続くべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」           (べプル11:8)

彼はどこに行くべきかは知らなかった。彼は神と共に行くいうことだけで十分であった。彼は約束の言葉よりも約束したもうた方を信頼した。彼は行くべき道の困難をも見なかった。彼は自分の行路を計画したもうた主、しかも永遠に死ぬことのない、目に見えないただひとりの賢い神を見上げ、神は自らを正しとしたもうことを信じた。おお、栄光ある信仰よ、これこそにあなたのなすべきわざであり、あなたのなし得ることである。いと高き提督である主の御知恵に堅く信頼するが故に、確証された順序に従って航行することに満足するこそ、あなたのなし得ることである。地上の最善は天の最微に比べることができないことを確信するが故に喜んで立上り、すべてを捨ててキリストに従うべきである。

信仰の冒険によってあなたの神と共に喜んで出立するだけでは十分でない。あなたがたの想像が描いた旅程表をズタズタに引き裂きなさい。

何事もあなたがたの期待した通りにはならない。

あなたがたの案内者はすでに幾度も通った道は通りなさらない。彼はあなたがた決して見たことのない道からあなたがたを導きなさる。神は、彼があなたがたと共にいましたもう間は、あなたが何事を恐れないことを期待していたもう。
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2007/4/10 火曜日

恩寵を気づかないヨブ

Filed under: 荒野の泉 — admin @ 12:09:01

 「わたしは神に申そう・・・・・何故わたしと争われるかを知らせてほしい」  (ヨブ 10:2)

 ああ、試みられる魂よ、恐らく主はあなたを恩寵に進歩させようとして、このことをなしたもう。あなたが持っている恩寵の中で、試みられなければ決して恩寵として発見されないものがある。あなたの信仰は夏には、冬のようにすばらしく立派には見えないことを知らないのではないか。愛はしばしばほたるのように暗黒に包まれなければ光らない。希望はちょうど星のようなもので、繁栄の陽光では見られない。それはただ逆境の夜にのみ発見される。苦難は黒いくぼみのようなもので、神はその子供らの恩寵の宝石をこれにはめて、更に善く輝かせなさる。

 あなたは跪いて「主よ、わたしは信仰のないことを恐れます。願わくは、わたしに信仰のあることを知らせて下さい」としばらく前に祈ったことがあるでしょう。

この祈りは、多分自覚してはいないが、実は試練あれかしと祈ったのではなかろうか。あなたの信仰が実際に役立つまでは、どうして信仰があると知ることができよう。

 神はわたしたちに恩寵を発見させるために、また恩寵の存在を確かめさせるために、試練を送りたもう。しかもそれは単なる発見ではなく、真に恩寵に成長するのは、清き試練の結果である。

 神は安逸とぜい沢の天幕において、その兵卒を訓練したまわない。しかし、彼らを送り出して強制的な行軍と、困難な働きに用いたまうのである。神は彼らをして流れを渡らせ、川を泳がせ、山々をよじ登らせ、彼らの背に重いバッグをしょわせて、長い疲れる行軍をさせなさる。
キリスト者よ、このことはまさしくあなたがたが通過しつつある苦難の原因ではなかろうか。これこそ神があなたがたと争いたまいつつある理由ではなかろうか。

C・H・スポルジョン

 サタンに悩まされずに居ることは祝福の証拠ではない。
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2007/4/1 日曜日

新しい旅を始める

Filed under: オウサン工房, 信仰生活 — admin @ 22:36:37

何か新しいことに挑戦し、新たな解決を求め、新たな信仰の旅路に踏み出し、私に示されたかすかな光を信頼し、心から同意したとき、私は喜びに満たされました。

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