2008/1/14 月曜日

イエスの生涯の秘訣

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 6:00:32

イエスの生涯が非常に実り多いものであったことの秘訣は、その生涯が絶え間ない祈りと、神との親密な交わりという、肥沃な土壌に根付い ていたことにあります。ルカ福音書は、イエスの生涯におけるいのりについて、最も分かりやすい場面を描き出しています。 イエスの宣教は「”霊”によって引 き回され、40日間・・・(4:1-2)」を過ごされた荒野の祈りから始められました。イエスは、自分の意志で善行を行われたのではなく、「主の霊がわた しの上におられる(同4:18)」と言われたように、神のみ心によって行動されたのです。イエスは毎日を神と共に始められ(同4:42)「神に祈って夜を 明かされた(同6:12)」あと、弟子たちを呼びおせました。

イエスは、神との親密な交わりと人々との語り合いをごく自然に繰り返されました。ペテロの告白の物語(同9:18−20)は次のようにして始まります。「イエスがひとりで祈っておられた時、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」イエスは「祈って」おられたかと思うと、次には、心のうちを探る質問をされました。マタイが 記しているように、神が表されたのはペテロの答えではなく(マタイ16:17),イエスの問いでした、この問いは、イエスの祈りという形で表されました。

最期の時、イエスは、苦しまれて死ぬ時にも、自らの魂を注ぎ続けました。オリブ山でイエスは一心不乱に祈り、こう言われました。「父よ、御心なら、この杯を わたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください (ルカ22:42)」
不当にも十字架にかけられながらも、イエスは敵のために祈り、嘆願しました。「父よ、彼らを御赦しください・・・(ルカ 23:34)」息を引き取る時も、イエスは祈りました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(同23:46)イエスは、生きておられた時と同じように、 全てを進んで神に死なれました。

イエスは、私たちに同じようにすることを求めておられます。私たちの行いを絶え間ない祈りという土壌に根付かせ、 神の恵みという果実を人々のために実らせるのです。これからの59日間、「”霊”によって引き回される」ために毎日祈りながら、何が起きるか見守っていき ましょう。

ステイーブン・D・ブライアント

2007/11/6 火曜日

謙遜ついて(聖書)

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 13:21:25

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)
「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(第?コリント10:12)
「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30)
「そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」(11:20-21)
「高ぶらないで恐れなさい」
「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」(第?コリント12:7)
「み な互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだ りなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを 心配してくださるからです。」(?ペテロ5:5〜7)

2007/11/1 木曜日

神を慕う時に

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 21:56:37

私が常日頃とっている態度とは、単純に神に心を傾け、絶えず神を慕い、神を仰ぎ見ることです。それで私の心は、嬉々として母親の胸にす がる乳飲み子にも勝る幸福と喜びにしばしば溢れんばかりなのです。こういう表現をあえて用いるならば、私が味わい、経験している、ことばに尽くせない幸せ について、この状況を「神のふところ」と描写させてください。

時に、どうしても必要なときとか、弱さのゆえにか、脇道にそれることがあり ますが、たちどころに甘く魅力的な内なる声に迫られて呼び戻されます。その麗しさは到底言いようもありません。私の定めている祈りの時間も、やはり同じこ との連続です。時々、私はちょうど自分が、彫像を作ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻師の前に置かれた石のように感じます。私は神のみ前に自分を置い て、私の魂のうちに神の完全なイメージを刻んでください、そして私を神ご自身と完全に似るものとしてくださいと乞い願うのです。

他のときにも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力もいらずそのまま続きます。さわやかに、動かされること無く神の内に憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。

こ のような状態を怠惰とか、自己欺瞞とか、自己愛と言う人もいるでしょう。たしかに聖なる怠惰、祝された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあるこ とは認めます。魂がその中にあるときには、今この時、神を交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。そのようなものは、かえっ て神との交わりを妨げるだけです。しかし私は断じてそれを欺瞞とは呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神をのみ求めるからです。

神は私たちの 最も必要としているものをよくご存知です。そして神がなさることはすべてにおいて益となるものです。もしも神がどんなにか私たちを愛しておられるかを知る ことができたならば、私たちにとって楽しいことも、苦しいことも、等しく神の御手から受ける備えがいつもできているはずです。神の御手から来るものは最も 苦痛なこと、最も困難なことでさえ、私たちにとって甘美で喜ばしいことです。最も烈しい苦しみにとうてい耐え切れないように思えるのは、私たちの考えなの です。神が御手によってその試練を与えておられるのだと信じ、また愛に富む天の父が私たちを低くし、悲しみも苦しみも与えておられるだと分かれば、すべて の苦しい思いは取り除かれ、ただ喜びとなるのです。

私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたい という飢え渇きを覚えるものです。そして、愛は知識によって測られるものですから、知識が広くなればなるほど、愛もまた大きくなっていくのです。このよう にして神への愛が大きくなれば、苦しみの時にも喜びの時にも等しく神を愛するものとなります。

ブラザー・ローレンス

2007/10/30 火曜日

神様の愛

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 21:20:56

聖書は時間をかけてたくさんの人によって書かれています。しかし、その内容は一貫しており、全体を通して神様の愛が示されています。

世界には、神様と呼ばれるものがたくさんあります。人は、本当の神様を見失うと、神様とは違うもの(偶像)を拝んでしまいます。本当の神様というのは、この世界を造った御方で、最も偉大な御方であります。さらに、この偉大な御方は、私達一人一人を愛して下さっています。

ル カによる福音書14章の放蕩息子の話を読むと、この息子は財産の分け前をもらって自由が与えられたことが書かれています。息子は自分の判断で、お父さんか ら財産の分け前をもらって遠い国に行き、湯水のようにそれを使ってしまいました。その息子が悔い改めて帰ってきた時、お父さんはそのことについては何も言 わずに喜んで彼を迎え、一番良い着物を彼に着せました。

私達にも、この息子と同じように自分の人生を選択する自由が与えられます。しか し、私達が神様のところに帰った時、神様はこのお父さんのように喜んで迎えて下さるのです。また、私達は罪人であって、神様の前に出られるような着物を 持っておりません。神様の前に出るためには、神様の与えて下さったイエス・キリストを着なければなりません。(神様がキリストという一番良い着物を与えて 下さるのです)

私達は皆罪人なので、良い行いによっては天国にゆくことはできませんが、神様はこのような私達を愛して下さって、愛するひ とり子、主イエス様を、私達の代わりに十字架の上でさばくことによって、私達に救いの道を用意して下さいました。信じる者は誰でも、この救いを受けること ができます。

神様から与えられる愛は、どんな人にも与えられる無条件の愛です。

2007/10/19 金曜日

人生は競争よりも忍耐だ

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 23:59:52

詩篇37:1〜11
37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

悪者に腹を立てるな(詩篇37:1〜7)
1〜2節によく表れているこの詩全体のテーマは、悪者によって怒ったり、ねたむなということです。
3〜4節は、悪を行う者が周囲にいる時、むしろ神を全的に信頼することを勧めます。
5〜6節も”主に信頼せよ”というメッセージを繰り返します。
7節には1節と同じように”耐え忍んで待て”というメッセージが繰り返されます。”忍耐”の徳目は聖霊の9つの実にも入るほど、実に尊い品性です (ガラ5:22〜23、?テモ1:5〜7)。大部分の人々が失敗する理由は、”瞬間的に”忍耐できないからです。悪を行う者が、私たちの周りを行き来する とき、その悪者の栄える姿を見るとき、彼をうらやんだり、ねたむ必要はありません。ただ忍耐をもって、信頼によって主を見上げてください。 忍耐は苦いが、その実は甘いということを知っていますか。きょう、あなたが神の前で静かに待ち、沈黙すべき問題は何ですか。

耐えて待ちなさい(詩篇37:8〜11)
9節 悪者に対して忍耐できずに憤るなら、結局は罪を犯すことなります。悪者に対して私ちたが自ら解決する必要がない理由は、悪者は神のさばきによって断ち切られるからです。
10節神にゆだねて待ってください。時が来れば、彼らを見つけ出すことはできなくなります。
11節しかし、神を期待する柔和な者は地を受け継ぎます。忍耐という人格は簡単に鍛錬されるものではありません。種を植えた農夫は実を期待し、雑 草を抜き、害虫を除去し、秋を来るのを待ちます。秋を来れば、彼は必ず実を収穫します。このような原理は霊的なことにも同じように適用されます。待つこと は祈りの生活にも必要です。神の応答が来る時まで、祈って待つことは、まことのクリスチャンの姿です。
祈りの答えが待つずに不安になることがありませんか。祈りの課題の中で、焦らずに神のまつべきものは何ですか。

今日の祈り
待つ時であることを知っていながら、神様が優しさを喜ばれることを知っていながら、弱い私を見ます。自分との戦いに勝利できるようしてください。

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2007/10/17 水曜日

柔和は平和な謙遜な本心から来るのです。

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:24:05

イエスは人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗巣にしてしまった。」 (マルコ福音書11:17)

多くの人は、イエスがどうして説得力があり力を持っていて、なお柔和であられたのか、理解に苦しんでいます。私はある日、事務所に行くためにエレベーター乗ろうとして、一人の女性が話しているのを小耳に挟みました。友達がいくじなしで、自尊心のかけらもない、と言うのです。私は目的の階で下りたとき、「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ(マタイ5:5)」という山上の説教の聖句を思い出しました。

今日の社会で、私たちは柔和と、勇気と自尊心のなさとを混同していることがあります。けれども、柔和は聖書の中では強烈な深い意味を持っています。柔和とは私たちの力を神の支配のもとに置くことです。神へ献身と謙遜によって成長し、心の平和に至るものです。イエスは私たちにこの柔和を求めておられるのです。その一方で、私たちは大胆になるべきときもあります。特に私たちの信仰を言い表すときはそうです。

イエスは、神殿の境内から商人を追い出したとき、恐れや弱気などどのかけらも見せられませんでした。イエスは恐らく勇気や自尊心も持っておられたのです。イエスは神の前には柔和で謙遜な方でしたが、神の真理を語るときは大胆だったのです。

祈祷:神様私たちが柔和であっても弱くならないよう、そして大胆であっても尊大にならないようお導き下さい。アーメン。

2007/10/10 水曜日

何を選ぶか?

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:30:21

神様が天地万物と人間を創造されたとき、神様は人間に「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木か らは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われました(創世記2章15〜17節、3章4〜6節)。しかし蛇は、 「あなた方は決して死にません。・・・。」と神様と正反対のことを言いました。女の人エバが、その蛇の言葉を聞いてその実を見ると、大変よくおいしそうに 見えました。そしてその実を食べてしまいました。本当は、神様の言葉を判断の基準にしなければならなかったのですが、女の人は蛇の言葉に惑わされてしまっ たのです。

ルカ10章38〜42節を読むと、マルタさんは給仕をするために忙しく働いていました。一方、マリヤさんはイエス様の足もとに座ってみ言葉に聞き入って言いました。それが大切だと判断したからでした。マリヤさんのその判断はあっていました。

パ ウロは、人間は律法の行いによって神様に受け入れられると考えていました(ローマ人への手紙3章23〜25節28節)。しかし、救われた後のパウロは、神 様と自分との仲介者がイエス様であると告白しています。(23節:人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない。24節:人は、神様からの恵み とイエス様の犠牲によって義と認めたれる。28節:人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく信仰による)。すなわち、パウロは行いによって神 様に近づくのではなく、イエス様を救い主として信じる信仰によって神様に近づくことを知ったのです。

神様は私達を滅ぼすのではなく救うことを選択し、イエス様はそのために命を捨てられました(ローマ5章6〜11節)。私たちも、神様のみ言葉を聞くこと、イエス様を信じることを選択して救いにあずかりましょう。

2007/10/9 火曜日

罪という病気

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:37:15

ヨブ記12章7節に書いてあるように獣や空の鳥、海の魚、地に尋ねてみれば、それらすべてを創造されたまことの神様がおられることを私達は覚えることができます。この自然界から、私たちは天地万物を創造された唯一の神様を知ることができます。

さて、ヨハネの福音書5章にはベテスダの池の記事が出てきます。その池の周りにはいろいろな人が病気で伏せっていました。これらの人々は、まことの神様の 前での人間の姿をよく教えています。人間は神様の前に良心に従って真っ直ぐに歩くことのできない足なえであり、神様の前には盲目であるのと同じであり、罪 という病を背負った病人なのです。この罪の性質は唯一真の神様を否定してしまうものです。

ベテスダの池のそばにいた、38年もの間病気 で伏せっていた男性は、自分を池に入れてくれる人がいないことを嘆きましたが、このことは私達が世のものに頼っても罪の解決を得ることはできないというこ とを教えています。多くの偶像や迷信、人間の努力では決してこの罪という病気を解決させることはできません。

私達が救われる(罪の解決を得る)ためには、この病人がイエス様の言葉通 りに床を取り上げて立ち上がったように、イエス様を信じ、罪(神様に対する罪、生活上のもろもろの罪)を悔い改めて、神様の前に立ち上がる必要があるのです。

2007/10/8 月曜日

素晴らしい贈り物

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:43:19

どんなに小さいものでも、贈り物をもらって嬉しくない人はいません。
神様は私たちに素晴らしい贈り物を用意してくださいました。

神様は私たちに必要な全てのものを与えて下さいました。
旧約聖書の「創世記」には、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配させよう。すべての草と、すべての木の実をあなたがたに食物として与えよう。」とあります。
もともと、空気も水も、魚も、野菜も果物も全部神様が人間のために用意してくださった贈り物なのです。もちろん、私たちの「いのち」もそうです。

しかし、人間は罪を犯したために贈り物を無駄にしてしまいました。
しかし、神様に反抗して罪を犯してしまった人間は、その贈り物を充分に受け取ることができなくなってしまいました。そればかりでなく、「いのち」と引き換えに「死」を受け取らなければならなくなってしまったのです。

神様は、さらにすぐれた贈り物を用意してくださいました。
神様は私たちを愛しておられるので、そのことをとても悲しまれました。
そして今、神様はさらにすぐれた贈り物を私たちに用意していてくださっています。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)

神様は、私たちにひとり子の「イエス様」という素晴らしい贈り物を与えてくださいました。それは私たちの罪が赦され「永遠のいのち」を得るためなのです。
そして、この贈り物は信仰によって誰でも、どんな人でも受け取ることができます。http://godarea.net

2007/10/5 金曜日

今日、私はあらゆる形の恵みを見て感謝します。

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:38:10

どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んであられることです。    (?テサロニケ書5:18)

2、 3年前から、私は感謝日記というものを書き始めました。毎朝、神と共に静まる時を持ちながら、感謝していることを書き込むのです。たいていは前日のことか ら選んで書き込みます。すぐ思いつくこともありますが、しばらく考え込まなくてはならないこともあります。感謝することが沢山ありすぎる日もあれば、一つ 思い出すのに苦労する日もあります。時々日記を読み返してみると、恵みには、2月の冷たい荒地に咲くスイセンのような小さなことであったり、新しく生まれ た可愛い子の心臓手術が成功したといった大きなものまでさまざまある、ということに気づきます。

神の恵みはあらゆる大きさがあるのです。 目に見えるものもあり、気づかないほどそっと静かに訪れるものもあります。しかし最も大切なことは、それがどれほど小さくても、大きくても、又、どれほど ささやかでも、奇跡的でも、その恵みを神に感謝することを忘れないということです。神はいつも私ちたの傍におられ、いつも私たちを見守っていて下さること を、こうした恵みが表しているのです。

祈祷:すべてのものの与え主なる神様、私たちの恵みのすべてを、あなたに毎日感謝することを忘れないようお助け下さい。アーメン。
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2007/9/28 金曜日

感謝、人生のまことの基礎

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:16:08

詩篇 30
1 主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
3 主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。
4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
5 夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」
7 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御
11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

いのちによって答えられる神(30:1〜5)

ダ ビデは自分が高慢だったときの苦しみを振り返り(6〜10節)、そのような自分を救われ、敵を喜ばせられなかった神をあがめます。彼が、自分の栄えを神に 帰していたなら、よみにまで下る苦しみには遭わなかったでしょう。神の中で生きるときに繁栄がありますが、人は腹が満たされ、太り出すと、神から遠ざかる ものです。ですから、神の人は繁栄のために祈りよりも、”謙遜”のために、また高ぶらないように祈らなければなりません。ダビデは、再び神に泣き叫んで立 ち返り、神は謙遜に神を求めるダビデに”いのち”によって答えてくださいました(2〜3節)。謙遜に罪を告白する者に、神はいのちと健康を下さいます。 「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある」(5節)

主にとこしえまでも感謝します(30:6〜12)

ダ ビデは栄えていたとき、高慢な心で自分の人生は「決してゆるがされない」(6節)と言いました。しかし、人は繁栄によってではなく、「ご恩寵」(7節)に よってゆるがされないのです。順境の中では神の御声をきかないのが「人習慣」(エレ22:21)です。ですから、神の民はいつも”高ぶり”を警戒しなけれ ばなりません。ひいては、霊的な豊かさも高ぶりを生むものです(?コリ2:7)。私たちはいつでも弱さを認め、全能る神の憐みと助けを求めなければなりま せん。神の助けに頼る人だけが、その悲しみが喜びに変わる恵みを経験できるのです。ですから、私たちは「決してゆるがされない」ことを自ら誓うのではな く、神に「とこしえまでも感謝」して生きなければなりません。
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2007/9/27 木曜日

あなたにくださった神のビジョンは何ですか

Filed under: 霊想書・黙想 — admin @ 12:48:24

神様があなたにくださった火が何ですか。
あなたにくださった神のビジョンは何ですか。

神の働きをする人々は、 特別に聖霊による分別力が必要です。神は一時私たちを用いられますが、用いられないときもあります。働きを任せられるときもありますが、その働きを取り 去っていかれるときもあるのです。このようなとき、必要なのは聖霊による分別力です。それがなければ、神が閉ざしておられるにも関わらず、イエスの名に よって、聖霊の御力によって、進んでいた道を続けて進もうとします。これは、その人が失敗をしたり、罪を犯したからではなく、ただ、神の偉大な計画を悟れ ないために生じる問題です。

時に、私たちの中には、そのような状態になっても悟れない人がいます。神は他のところへ導いておられるのに、 気づいてないのです。自分の夢、自分の幻、自分のビジョン、自分の理想、このようなことに没頭するあまり、神の御心を悟るよりも、「これを必ずやり遂げな ければならない」という思いに囚われているからです。

あなたの働きをやり続けることも悪くはないでしょう。しかしそれが本当に神様の願われる道ですか。ただ、自分の野望や欲、自尊心や体面のために続けているのではありませんか。このようなとき、葛藤しながらも意地を張り続けるなら、信仰生活にも疲れてしまいます。
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