2013/11/18 月曜日

馨香之祭

Filed under: モーセ, オウサン工房, 神様の領域 — admin @ 23:23:20

一封母親的信

goodnews201109

摩西,我至愛的兒子!
我知道你6歲時,當神把“醫療傳道”這崇高偉大的理想,種植在你幼年的心田時,他就一直呵護褓守,看顧成長。今年你26歲了,20個年頭過去了,你的志向一直不變,我不得不感慨神的手在你身上。
你給過媽媽無數的驚奇和感動,日語,英語的演講比賽,不只是獎杯,而是通過你的文章所表達的思想,你的受洗,教會侍奉,與神之間的親密關系等通過UCLA畢業典禮,只有你一個在萬人面前高舉神的名,稱祂為阿爸父,一切的榮耀感謝全歸於神時,媽媽是在流喜樂的淚水。你成長的這樣出類拔萃,我知道是神親自栽培你,教導你的結果,你是他可喜E果子。
每走過一段,回頭看的時候,不得不說超越了想像和能力、超越了現實和環境,是超乎所求所想的。你為了說服媽媽,來接受你的決定花了不少的心思和時間,我雖然知道你的決定是為了遵行神的旨意,可我畢竟是只有一個獨生子的寡母,離開媽媽你要去美國留學,我哭了3個月,擦傷了眼簾,你還記得那個樣子嗎? 無法付學費,憑著信心也要上加州大學,遠超孤兒寡母的能力範圍;為了能成為醫生,實現醫療傳道的理想,更為了支撐母親的海外宣教,你把自己的生命放上了祭壇,亞伯拉罕獻以撒被稱為義,你呢,是跑上祭壇獻自已,逼著御代榮天來稱義。請原諒媽媽雖然是個傳道人,但兒行千里母擔憂是親情呀。可是正因為你堅定在神面前的決定,和耐心的說服工作,提升了媽媽的信心和與神的關係,所以媽媽要謝謝孩兒!

下面是媽媽對你新生活,新舞台的祝福
耶利米書1章5節指出
神說,你從起初就屬於我
我未將你造在腹中 我已曉得你
我揀選你,將你分別為聖,…我要與你同在。
神在寶座上,祂對你的人生有偉大的計劃,
所以你立志行事、都是神在你心裏運行、為要成就他的美意。腓利比書2:13
懷抱遠大夢想 對未來充滿期盼。
你有那麼多潛能
你有那麼多才華,想法,創意和潛力
你受造不是要庸庸碌碌,得過且過,永遠在奮力掙扎
你受造是要作首,不作尾,申命記28:14
你是至高神的兒女 你身上有偉大的種子
你受造是要卓越超群 生命豐盛。
神預備了新的山峰要你攀登 新的疆界要你探索
祂為你預備精彩未來
別讓過往的困難奪去夢想
別讓他人待你的方式 破壞你的人生
擺脫這一切,提升期望的層次
懷抱理想,堅定信心,大膽期待祈求,
你看見神打開機會之門 超乎你的想像。

媽媽 於2013.11.18落筆

2011/8/2 火曜日

証し

Filed under: モーセ, オウサン工房, 神様の領域 — admin @ 6:34:23

父親

皆さんにとって父親はどんなイメージですか?ネットでいろいろな意見を調べたら、「一家の主、絶対権力を持つ人」、「家のために稼ぐ人」、「大きな 存在」って思う人がいれば、父親はただの「家でテレビ以外何もしない人」とか「お母さんの言いなり」なんて思う人もいます。それらは全ての父親にありえる イメージですね。ところで、父親の愛というとぱっと来ない人もたくさんいます。例えば、「母の日」と比較すると「父の日」の存在感が非常に薄いって思った ことありませんか。なぜなら、父親の愛は、母親の愛よりも目に見え、形に表われることが少ないからかも知れません。子供にとって、母親の愛は直感的に感じ ることができても、父親の愛を愛として理解するには時間がかかります。

父親のいない家庭は母子家庭といいます。今の世間おいて「母子家庭=不良」とか「母子家庭=貧乏」と 認識します。 ヤンキーではないのに、母子家庭なだけで友達辞めろと言ってきた親御さんもいたりします。更に大事なのは どんなことが起こっても守ってくれる人がいると いう安全感はその子供に与えられないことです。このように育った子供が父親になると満足に自分の子供を愛せないことが多くあります。なぜなら、父として見 本がいなかったからです。

お父さん論みたいなこといっぱい話してしまいましたが、自分の証を話したいと思います。

僕はその母子家庭で育ちました。父の愛がなくなったのは僕が10歳のころでした。そして、十三歳のときに母と日本に引っ越して、それ以来父親との連絡 が途絶えました。現在に至ってはもう11年間父と会っていません。この十一年間は僕が成長する大事な時期でした。いわゆる思春期と青年期です。この時期に 関しては子供にとって父親の愛情と見本がとっても大切です。誘惑に負けないように厳しく叱ってもらったり。女の子の前でどうやって男らしく振舞うのを教え てもらったり。将来の夢はどう決めればいいかを相談に乗ってもらったり。失敗したときの励ましてくれたり。父親はこの時期とっても大事な役を演じているん です。

父親のいない僕はどうしたかというと、これらのこと全て不足に思いませんでした。そもそも父親なんていてもいなくてもよかったってすら思っていたの かもしれません。しかし、今を振り返れば、僕は父親がいなかったのではなく、見えていなかっただけでした。なぜなら、僕の父はいつでもどこでも一緒にいて くれて、誰よりも愛情たっぷりで、誰よりも厳しくしてくれる、天の神です。

慈愛なる父

形なき神様が父親の代わりになれるって信じがたいという人はいるかもしれませんが。それがですね なれるんですよ!それも実の父親以上に!

まずは父親としての存在感です。父親としての温もりですね。もちろん神様が人間に化けて現れたんじゃないんですよ。神様は僕をよい教会に導いてくれ たんです。そこに自分をやさしくしてくれたおじさんたちがたくさんいました。たとえば、やさしい系のおじさんは僕の悩みを全て聞いてくれました。そして、 カメラを担いで母親の代わりに僕の運動会に来てくれました。また、運動系のおじさんはいつもキャッチボールをしてくれました。そして、家庭的なおじさんは 僕がカレーライスが好物のを知ったら必ず週二、三回カレーを作って鍋ごともって来てくれました。 このようにですね、僕は他の子供よりも父親の温もりを感 じることができました。

主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。(詩篇146)

僕にとってはまさにその通りです。父親のいない家庭はやはり生活がギリギリですね。母親は必死に働いてくれましたが、外国人で日本語があまりうまく 話せないこともあって給料は低かったです。母と狭い六畳のアパートで暮らしていました。母が失業して大変だったときは牧師先生の家で居候した覚えもありま す。日本のテレビ番組「一ヶ月一万円生活」って知ってますか?まぁ、芸能人にそのような生活をさせるだけの番組ですけど。僕と母はこの番組を見たら笑っ ちゃいました、うちがこの番組でたら間違いなく優勝だねって。しかし、このような生活でも神様は平安と喜びを与えてくれました。母は大の果物好きです。あ る日、超うれしそうに帰って、どうしたの?って聞いたら、友達にりんご一個もらったってはしゃいてました。僕はですね、中学校の体操服を買ってもらったと きが一番うれしかった気がします。普通の人が当たり前のことだっと思うことでも感謝と喜びがいっぱいでした。家族の中で一番大事なものと言うと神様からの 暖かい愛だと僕は思います。それがある限り平安と喜びの安らぎが絶えることはありません。いくら裕福な家庭であってもこの愛がなければ、幸せを感じること はありません。

神様は聖書を通して自分が優しいお父さんであるということを私たちに語りかけています。その愛の手紙をまとめてみました。

わが子よ、

私はあなたを探り、あなたを知っています。
私はあなたのすわるのも、立つのも知って、あなたの思いを遠くから読み取れます。
私はあなたの歩みとあたなの伏ふすのを見守り、
あなたの道をことごとく 知っています。(詩139:1-3)
あなたの頭の毛さえも、みな数えています。(マタイ10)
あなたは、私の中に生き、動き、また存在しているのです(使徒)
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛いしています。(エレミヤ)
あなたは神の子ども、私の子供だからです。(ヨハネI)

お父さんより

厳格な父

わが子よ。主の懲らしめを軽かろんじてはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。(ヘブル12:5-6)

わたしは患難の炉の中にあなたを選んだ。(イザヤ48:10)

父親の愛情のもう一つの顔は厳格です。厳しい顔です。それは子供が自分勝手に行動しているときに、良い行動と悪い行動をきちんと教え込むことです。しつけのことです。

僕は日本行く前にとても悪い習慣がありました。偏食です、食べ物の好き嫌いが信じられないほど激しかったんです。母は僕にご飯を食べさせるの随分苦 労したみたいです。聖書の言葉を使って言うと僕ににんじんを食べさせることよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいというほどでした。しかし、 神様は厳しく叱ってくれました。どうやって叱ったかというと、腹を空かせることでしたね。母は女一つで家庭を支えるために朝から晩まで働いていました。家 にいる僕は空腹の苦しみを覚えました。しかし、学校が始まるとなんと給食がありました。.僕は未だに人生初の給食のメニュー覚えています。カレーライスに コンソメスープ、りんご切れと牛乳でした。カレーライスは初めてでした。その色で食べる気なれませんでした、が、もうお腹空くいやだったので、無理やり食 べてみました。一口食べたら。。。!! うまい!! こんな食べ物がおいしく感じたのが始めてでした。にんじんとか牛肉とか嫌いなものがはいていたのにも かかわらず、ご飯粒残さず全部食べました!それ以来僕は給食の大ファンになりました。給食の出るもの全部食べました。しかもいつも大盛りで、友達の「これ 嫌いだからあげる」というものまで食べてました。僕がここまで大きく育ったのは給食が好きになったからといっても過言ではないですね。だから、神様は子供 のしつけはとてもうまいんですね。

天の父の厳格さはこれだけのものではありません。私たち人間はとても軟弱で惑わされやすい生き物です。神様は私たちが間違った道に進まないように常 に見守っています。間違った道に進めてしまったら、神様どうやって正してくれるかというと、聖書の書いた通り、困難を与えるんですね。私たちを懲らしめま す。しかし、それは私たちを愛するゆえになさったことです。人間は神様を見つめて歩まなければ、すぐに世界の誘惑に付いて小道に走り、迷子になってしまい ます。神様を見つめるために神様を一番目に愛する心が必要です。しかし、これがなかなか難しいもので、感覚で生きてる人間にとって見えない触れることので きない神様を一番愛するのはとっても難しいです。だから、神様はそれができるように私たちをわざと困難の中において厳しく鍛えます。日本語で「好きなもの には目がない」といいますね。なぜ目がないといいますと、調べたら、これが日本語のおもしろいところですが、三段階があります。目がない→目がないと見え ない→見えないと判断力が落ちる→判断力が落ちても好きである。心を奪われて思慮分別がつかないということですね。たとえば、恋人、お金、勉強、仕事とか しか目になければ、神様のことを見ようとしなくなるんです。「日曜に礼拝あるけど、彼女をピクニック連れて行くから教会サボる」、「彼氏と遅くまで遊んで 疲れたから、今日は聖書読むのやめよう」、「バイトがあるから教会行かない」など神様に喜ばれないことをするなど神様のことよりも世の中のものを最優先に してしまいます。そうなったら気をつけてください、神様は怒ります。その叱りはとっても痛いものです。どんな懲らしめ待ってると思います?私たちが一番大 事だと思っているものを奪い取ってしまいます。恋人と分かれさせます。リストラされます。大学に落ちます。会社が倒産します。神様は人間が苦しみのどん底 の中にしか自分を求めようとないってわかっているからです。僕の場合は恋人だったんですけれども、今を思えば、僕がもしも神様を見つめなおしていなければ 相変わらず寂しがり屋で、甘えんぼのまんまだったかもしれません。神様より大事なものはありません。神様を父親としてみるものは世界を得るものです。

天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73:25-26)

最後に僕がいつも困難で気持ちが凹んでいるときに思い出詩を皆さんにシェアしたいと思います。名前は「足跡」です。知ってる人多いと思いますが、英語で「footprints」アメリカのマーガレット・F・パワーズという女性が書いた詩です。

「足あと」

ある夜、わたしは 夢をみた。
わたしは、神さまと共に なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの わたしの人生が 映し出された。
どの風景にも、砂の上に ふたりの 足あとが残されていた。
一つは わたしの 、もう一つは 神さまの であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上の 足あとに目を留めた。
そこには 一つの 足あとしかなかった。
わたしの人生で いちばんつらく、悲しい時だった。
このことが いつもわたしの心を乱していたので、
わたしは その悩みについて神さまにお尋ねした。
「神さま。わたしが あなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりの 足あとしかなかったのです。
いちばん あなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしには わかりません。」
神さまは、ささやかれた。
「わたしの愛する子どもよ。
わたしは けっして お前のそばを離れたことはない。
お前がもっとも 苦しんでいたとき、
砂の上に一組の足あとしかなかったのは、
わたしが お前を抱いていたからなんだよ。」

2007/7/16 月曜日

いつまでも根に持たないで、赦しましょう

Filed under: 平安を得るためのヒント, モーセ — admin @ 19:44:45

人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。   箴言19:11

 「赦してあげる。でも、このことは決して忘れない」というのは、「いいや、決して赦さない」と言っているのと、単に言い方が違うだけでほとんど同じです。人を赦さないままいつまでも根に持っていては、決して平安は養あれません。それで、多くの不安熱狂者たちが、仕返しのチャンスに飛びつく霊に支配されてしまいます。

 どんなに威嚇されても動じないほどに、私たちはキリストの内にゆったりと憩う必要があります。しかし、人の足に踏みつけられるだけ踏みつけられなさいと言っているのではありません。憎悪に満ちた人たちの罵倒やひどい仕打ちに、無防備でいろと言っていろのでもありません。私たちの生涯において神様の名誉にかけて断固として立ち上がらなくてはならない状況ならば、聖書はそうすることを禁じてはいません。しかし、私たちの命を短い導火線で爆発させるようなことをしてはならないのです。不当な取り扱いを受けても、神様は、赦してあげなさいといっておられます。そうするなら、怒りの足かせから解放していただけます。http://godarea.net

2007/7/11 水曜日

大歓迎

Filed under: モーセ, 霊想書・黙想 — admin @ 23:21:17

  主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

  私は街に行ったり、公園をそぞろ歩いたりといった、”健常な”人々がすることをしてみたいと思っています。でも私は、少ししか目が見えず、耳も聞こえないし、体も麻痺しているというように、いくつもの障害を抱えているので、多少とも気後れがし、”劣等感”を持っています。いつも盲導犬を連れて行く必要があるので、当然人目を引くことになります。神がともにいてくださっても、居心地はあまりよくありません。
  けれども、神の教会に行くときは、気後れも劣等感も覚えません。神は障害者に優しく、暖かく、情け深い方なので、障害を恥ずかしいとは思わないのです。神の目には、私たちはみな平等です。神を見るための完全な視力も、神に聞くための一対の聞こえる耳も必要ありません。車椅子に座っているから、神のみ手が私たちに届かない、いうことはありません。神の家にいるときは、居心地がいいのです。
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機会の泉

Filed under: モーセ, 霊想書・黙想 — admin @ 23:18:32

「神がハガルのめを開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた」(創21:19)

  私はまた泣き出しました。私は夫の仕事のため、仕事や子供、孫、親しい友人や教会の人々から4000キロ以上はなれた場所にやってきたのです。夫は新しい役目が与えられて喜んでいましたが、私はさびしく、何もするきになれず、つらかったのです。
  窓の外を見ると、教会の高い塔が見えました。電話帳を開き、いくつか電話をかけた後、女性のための聖書研究会や夫婦で参加できるプログラムのある教会が見つかりました。教会へはじめていったとき、私は神の愛の滋養に富んだ泉に深く根を下ろし、成長し始めました。
  神は生ける水を私たちに備えておられます。失望のとき、与えられている泉が見えるように目を開いてください、と私は神に願います。私の問題の解決となる人や答えが見つかったり、心の変化が起きたりしますが、いつも泉は見つかります。窓の外を眺めて、教会の塔を見るたびに、私はこの真理を思い出しています。
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2007/7/7 土曜日

波に打たれる小石

Filed under: 荒野の泉, モーセ — admin @ 19:40:33

 「主は私をとぎすました矢となして、えびらに私を隠された」(イザヤ49:2)

  カリフォルニア太平洋岸のペスカデロに「小石の浜」地名の場所がある。長い長い白波の一線が永久に続くうなりをもって押し寄せてくる。そしてそれは海岸に打ち並ぶ小石をまろばして雷のように響き渡る。夜昼も絶え間なく、永久にこの摩滅が続けられる。そしてその結果はどうなるだろうか。

  世界中から来る旅行者たちは、丸いうるわしい小石を採集する為に、この浜に集まってくる。小石は陳列棚に飾られ、または客間に装飾になる。しかし、海の力を打ち砕くがけから離れた場所に旅行者に摘み取られない無数の小石が横たわっている。それらの小石が波浪による混乱と摩滅から逃れて、静けさと平和の中に、ごつごつして醜いままに残されたからである。光沢は実に苦痛によってくる。

    おお その破壊する打撃よ
    うちひるむわが心を刺し貫く苦痛よ
    されど こは見技をなしたもう
    主の工具なるのみ

紙の宝石のほとんどすべては結晶した涙である。

2007/7/4 水曜日

神の「延福室」

Filed under: 荒野の泉, モーセ — admin @ 19:44:19

  「期望所」(Expectation Corner)という魅力的な本があります。それはスローマン(Adam Slowman)という人が主の宝室に導かれた物語であります。彼は中でいろんな面白いものを見ました、その中で「延福室」(Delayed Blessings Office)という部屋があります。中には人々が神様に求めたものがおいてあります。神様はそれらのものをその部屋に隠して、時が来たら人々に与えます。

   「延滞」は「拒絶」ではありません。「延滞」は神様の愛と知恵があります。「それゆえ、主は持っていて、あなた方に恵みを施される。」(イザヤ30:18)私たちが遭っている困難は神様が知っておられる主は私たちが耐えられないほどの試練を与えているのではなく、試練の火が私たちの中にある不純物を燃え尽きるまで待っているのです。

   神様の慈愛を疑って主を憂えしめてはいけません。主の「延滞」の救いのために、頭の上げて主をたたえ賛美すべきであります。そうすれば私たちはもっと豊かな祝福を与えられるのでしょう。

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2007/6/20 水曜日

夏休み

Filed under: モーセ — admin @ 11:09:54

モーセの夏休みを入りました。

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