2013/11/18 月曜日

馨香之祭

Filed under: モーセ, オウサン工房, 神様の領域 — admin @ 23:23:20

一封母親的信

goodnews201109

摩西,我至愛的兒子!
我知道你6歲時,當神把“醫療傳道”這崇高偉大的理想,種植在你幼年的心田時,他就一直呵護褓守,看顧成長。今年你26歲了,20個年頭過去了,你的志向一直不變,我不得不感慨神的手在你身上。
你給過媽媽無數的驚奇和感動,日語,英語的演講比賽,不只是獎杯,而是通過你的文章所表達的思想,你的受洗,教會侍奉,與神之間的親密關系等通過UCLA畢業典禮,只有你一個在萬人面前高舉神的名,稱祂為阿爸父,一切的榮耀感謝全歸於神時,媽媽是在流喜樂的淚水。你成長的這樣出類拔萃,我知道是神親自栽培你,教導你的結果,你是他可喜E果子。
每走過一段,回頭看的時候,不得不說超越了想像和能力、超越了現實和環境,是超乎所求所想的。你為了說服媽媽,來接受你的決定花了不少的心思和時間,我雖然知道你的決定是為了遵行神的旨意,可我畢竟是只有一個獨生子的寡母,離開媽媽你要去美國留學,我哭了3個月,擦傷了眼簾,你還記得那個樣子嗎? 無法付學費,憑著信心也要上加州大學,遠超孤兒寡母的能力範圍;為了能成為醫生,實現醫療傳道的理想,更為了支撐母親的海外宣教,你把自己的生命放上了祭壇,亞伯拉罕獻以撒被稱為義,你呢,是跑上祭壇獻自已,逼著御代榮天來稱義。請原諒媽媽雖然是個傳道人,但兒行千里母擔憂是親情呀。可是正因為你堅定在神面前的決定,和耐心的說服工作,提升了媽媽的信心和與神的關係,所以媽媽要謝謝孩兒!

下面是媽媽對你新生活,新舞台的祝福
耶利米書1章5節指出
神說,你從起初就屬於我
我未將你造在腹中 我已曉得你
我揀選你,將你分別為聖,…我要與你同在。
神在寶座上,祂對你的人生有偉大的計劃,
所以你立志行事、都是神在你心裏運行、為要成就他的美意。腓利比書2:13
懷抱遠大夢想 對未來充滿期盼。
你有那麼多潛能
你有那麼多才華,想法,創意和潛力
你受造不是要庸庸碌碌,得過且過,永遠在奮力掙扎
你受造是要作首,不作尾,申命記28:14
你是至高神的兒女 你身上有偉大的種子
你受造是要卓越超群 生命豐盛。
神預備了新的山峰要你攀登 新的疆界要你探索
祂為你預備精彩未來
別讓過往的困難奪去夢想
別讓他人待你的方式 破壞你的人生
擺脫這一切,提升期望的層次
懷抱理想,堅定信心,大膽期待祈求,
你看見神打開機會之門 超乎你的想像。

媽媽 於2013.11.18落筆

2011/10/21 金曜日

真實的基督徒 (屬靈前輩)

Filed under: オウサン工房, 感想と証しの広場, 神様の領域 — admin @ 22:22:58

chrit

有一天,兒子問我:’媽媽你最受影響和敬仰的人是誰呀?’我不加思索地說:’那當然是主耶穌了’,’那除了主耶穌以外呢?’。看似很簡單的問題,確讓我花了很長時間去思考。歷時歷代多少信心的偉人:亞伯納罕、摩西、大衛、褓羅等等,他們的裡程非常可歌可泣。但是在我生長的時代裡,確有三位已故的基督徒深深地影響著我的人生。

chrit

一、雙目失明的裴叔叔 −最有神的眼睛

我的童年時代

裴叔叔不是生來就瞎眼的,聽說他年輕時,有一位典雅美貌的富家小姐,在聽他布道時,因為他智慧的眼神,拋棄家業而追求他的故事傳為美話佳談。我第一次見到他時,他已是從監獄裡釋放出來雙目失明的老人了,而他的妻子卻有一雙美麗的大眼睛。他的眼睛是怎樣瞎的,誰也不知道,因為他從來不提監獄裡的事,而是說這是神給他的冠冕和最珍貴的禮物。童年的我根本不能明白和理解這些。每周媽媽帶著我去探訪他,在他家裡敬拜神,偶爾他面向我時,那雙能看透我心靈深處的眼睛,連同他送給我的聖句,滋潤撫育我成長,得到從神那兒的智慧和力量。媽媽常說:’他的眼神透出耶穌基督的光芒’。那個時代,沒有盲人用的聖經,也沒有媒體的幫助,他能一句不錯地送給我聖句,是奇跡,也是他愛神話語的表現。

chrit

二、雙肢癱瘓的鄭姑姑 −最美的女人

我的求學時代

我16歲,離開父母,進而去上海讀書。媽媽再三的囑咐:’去看鄭姑姑,她是很美的女人’。為了能看到最美麗的女人,我還記得自己穿上新潮的服裝,第一次去拜訪她的情景。見到她時卻讓我大吃一驚。一間樓梯下的小屋裡,僅只容一張單人床的空間,雙膝癱瘓,臉容浮腫,頭發斑白,她坐在邂澱罅8勤圈づ姑姑一生未嫁,褓持童身,沒兒沒女,沒有家。平反出獄後,一位周弟兄夫婦,以義子的名義接她到自己家裡居住。我看不出她的美麗,只看到她的不幸。隨著每次的看訪,我漸漸被她從內心發出的感謝贊美的歌聲中,以及忍不住流露出的喜I従霖罅ぐ貅)一次地被打動。那種與神同在的幸福,如同少女般泛著紅暈的臉頰裡漫溢出來,實在很美很美。

鄭姑姑雖然蒙受不白之冤,為了對主耶穌基督的信仰,吃了許多苦,但她對主忠心,對人有愛心,靠上帝的大能大力和恩典,站立住了,作出了美好的見證。無論在什麼情況下,她都能感謝贊美神,以聖經上神的話為自己的食糧,滿有喜樂。以愛心幫助人,幫助過許多基督徒大學生。也幫助和安慰一起落難的修女和信徒。從不怨天尤人,總是感謝神在修理自己,煉淨自己,能夠合乎主用。許多來看望她的人,原是為了安慰她;可反而得到她的勸勉和激勵。

我想 ”我是一只關在籠中的小鳥”這首蓋恩夫人的詩歌,可以把鄭姑姑的景況表現的一覽無余。

我是一只關在籠中小鳥
遠離青蔥花草佳美田郊
為禰被囚 我心何等高興
終日向禰歌唱 吐露柔情

禰愛捆綁我的浪漫翅膀
俯首細聽我的幽靜歌唱
甜美的愛 激勵何等深沉
甘作囚奴 不願高飛遠遁

誰能識透此中鐵窗風味
因神旨意竟變祝福恩惠
哦主 我愛禰所定的道路
願萬有向禰贊美到永古

chrit

三、雙手貧窮的親媽媽 −最窮的錢包

我的成年時代

我30歲那年,70歲的媽媽走完了她的一生,回了天家。媽媽的遺物中,有一個自己縫制的破舊錢包,其中裝有幾毛錢和幾個零幣,這是她一生的遺產。沒有人相信,40多年的婦科醫生,會這樣的貧窮。在她的葬禮上,從早到晚,三天三夜,四面八方湧來的弟兄姊妹絡繹不絕。追思禮拜一場接著一場。在他們的述說中,我才知道母親一生中,默默所作的事跡。她的雙手不僅養育了我們5兄妹,還醫治周濟不計其數貧困人,為的是領他們信主。正像她生前教導我們說:’你施舍的時候,不要叫左手知道右手作的。馬太6:3 ’施比受更有福。使徒20:35’我明白了穿著發白的還打著補丁的衣服來幼兒園接我的,讓我在小朋友面前含羞丟人的老土媽媽,沒有一樣金銀首飾也從來不化妝的媽媽;我明白了當我把她的破舊家具偷偷扔掉換成新家具時,對女兒悲傷失望的媽媽。

媽媽,對不起你!

媽媽你知道嗎?摩西將來要像你一樣,延續你醫療傳道的事業。這是他的理想。

chrit

四、美好的榜樣,屬靈產業,

以上三位長輩,他們渡過了滿載風暴的人生,面對過狂風駭浪,忍受過試煉的煎熬,嘗受過許多的憂傷;盡管如此,他們還能褓存純真的信仰,沒有自怨自艾,反而饒恕並祝福傷害過他們的人。他們對神執著忠誠的愛,活化在點點滴滴的生活中。他們活出了基督的樣式,活出了神的道,活出了神的愛。他們將基督的平安、喜樂、安慰和豐富,如同滿帶芳香、滋潤的花雨,澆灌在我干渴的心靈裡。

在我過去的歲月中,多是遠離神的日子,在迷失中,斐叔叔的眼睛總望著我,讓我回想起他送給我的一句一句神的話語,指明方向,引導我走回義路。

在我傷心痛苦中,鄭姑姑溫柔美麗的微笑,鼓勵我,激勵我,再爬起來背起自己的十字架繼續向前走,她熱切地期望我得到天國福分。

在功名利祿的誘惑中,媽媽的右手左手讓我知道一個基督徒的人生觀、價值觀的重要,因而不偏離神的規範。做出合乎神心意的抉擇。

他們雖已不在世上,但留下來價值非凡的屬靈遺產,卻支撐著我一生一世去追隨神,歸向神。

chrit

五、信仰的承續 , 福杯滿溢

19世紀末,一位英國傳教士把福音傳到了中國河南省安陽縣的一個小村莊。一位滿面愁容,9度流產的瘦弱婦人,因信耶穌基督蒙恩得救,順利產下一女嬰,那就是我的母親。由於祖父祖母是基督徒,沒有男尊女卑的思想,送女兒以至於到了外省就學。我的父母結婚較晚,生了5個孩子,我是家中最小的。記事以來,就常在爸媽的膝上聽聖經故事,小聲唱聖歌,偷偷去做家庭禮拜。

13歲那年受洗。從媽媽,斐叔叔,鄭姑姑長輩關愛為止,我基本沒有偏離神的道。但成人以後,漸漸變得冷淡,凡事自我作主,直到有一天,神狠狠地破碎了我所苦苦營建的一切。面對一堆破碎的夢,才發現這一切毫無價值。慈愛的天父重新塑造我心,他呼召我,並領我到新的天地,恢復了教會生活,工作和神學兩立。

2005年,父親來日本參加我神學院的畢業典禮,那無比喜樂的神情,讓我回想起,當我願意陪媽媽去教會禮拜時,她興奮地告訴別人,’這是我小閨女來聚會了’ 那無比喜樂的神情。那比我給他們說,得到名譽地位、物質利益、功成名就等等時的表情要美好燦爛的多。我一直為還沒有盡孝心,他們就離開我了而懊悔莫及,唯一讓我心裡好受一點的就是,父母親的這兩次喜E表情。父親說:’到摩西為止,我們4代基督徒的家庭,終於出了一個傳道人。’

2010年,我來美國,再度進修神學,很慚愧的說,我還沒有邁出傳道人這一步。 ’自己拙口笨舌,又是女人,孩子上學,經濟生活,無法接受獻金,甚至喜歡自己的專業’等等理由猶豫著,害怕著,但神的手不離開我,他把我能依靠的資本一點一點拿去,讓我無路可走跟著他,我知道這是神特別的愛。他看的起我,才揀選我,磨練我,他耐心等了我10多年,還沒有放棄我,用他的愛燃起我傳福音的熱誠,吸引我跟隨他而無怨無悔。

御代榮天
2011.10.21

2011/10/16 日曜日

真実なクリスチャン

Filed under: オウサン工房, 感想と証しの広場, 神様の領域 — admin @ 16:16:47

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ある日、息子(モーセ)は私に質問して「お母さん、あなたが最も尊敬した人と影響を受けた人は誰ですか?」、 私は何も考えずに答えました「イエスさまよ」。「主イエス以外は?」。とても簡単な問題に思えましたが、確かに私は長時間考えさせられました。歴史上の偉大な人物であるアブラハム、モーセ、ダビデ、パウロなどは、彼らの信仰は非常に壮大で素晴らしいのですが、ただ私の成長時期に身近にいた三人のクリスチャンの先輩達が深く私の人生に影響を与えてくれました。

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一、両目が盲目の裴おじさん−最も生き生きした目
私の幼少時代
裴おじさんは生まれた時は盲人ではありませんでした。彼の若い頃、あるお金持ちの家の美しい娘さんが、彼の説教を聴いて、彼の知恵のまなざしに一目惚れしました。彼女は家の財産をすべて放棄して裴おじさんを追いかけました。 これは美しい物語りとしてみんなに語り告がれました。その後、彼は迫害され刑務所で20年間過ごしました。 私は始めて彼に会った時、彼は刑務所から釈放されたばかり、もう両目が失明していた老人でした。けれども、かえって彼の妻は美しい大きい目を持っていました。なぜ彼は失明したのか?誰も理由を知らないのです。彼は刑務所内の事を何も話してくれないのです。彼はこう言いました「これは神様から与えられた冠と最も貴重な贈り物です。」 幼少期の私に全然わからない、理解もできなかったです。 毎週、母は私を連れて、彼の家に礼拝すること続いていた。彼が私に向いた時、深みの目は私の心の奥までを見えるようで、聖書のことばを潤い語り、知恵と力を与えてくれました。私のいのちを育てて、成長しました。母親常に言った「 彼のまなざしはイエス・キリストの光ようです」。
あの時代は、盲人が使える聖書は無くメディアもなかったのです、でも、彼が私に教えた御言葉のひとつひとつが間違い無く、すばらしい奇跡で彼の心の中に神の御言葉を刻み込まれていました。

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二、両足が不自由の鄭おばさん−最も美しい女性
私の学生時代
16歳の時、親元を離れて上海の大学へ行きました。 母親からに再三言われた事は「鄭おばさんを会いに行って、彼女はとても美しい女性よ。」 美人に会いに行くと思って、私は綺麗な洋服を着て行きました。彼女を最初に訪問した場面今でもはっきり覚えています。予想外で驚きました。 地下の小さくて暗い部屋の中に、シングルベッドがただ一つありました。その上に両足が不自由で、顔が腫れた白髪の彼女がいました。 鄭おばさんは、一生未婚で、家族、家もありませんでした。裴おじさんと同じように刑務所に入れられていました。釈放されて以来、若いクリスチャンの夫婦は、養子の名義で彼女を継いで自分の家に迎えました。 私はとても彼女を美しい女性としてみる事ができませんでした、ただ彼女の不幸しか見えませんでした。けれども、週に一回彼女のもとに行くことになって。彼女の説教はやさしく、暖かくて、彼女の賛美の声は私の心の底まで届きました。彼女の敬虔、謙遜な姿勢は私の模範になりました。神様が共におられる幸福感が彼女の聖潔な顔に溢れて、ピカピカに輝く。確かに誰も比べなれないほどの美しさでした。
彼女はたとえ無実の罪を背負っても、イエスキリストの信仰のために、苦痛を受けて、ただ主に忠実に、人を愛する。神様の力と恵みよって、しっかり立って、美しい証しができました。どんな状況でも神に感謝と賛美をもって、神の御言葉を自分の食糧として、喜びに溢れる。彼女はキリストの愛によって多くのクリスチャンの大学生を助け、 同じように困難に遭う伝道師と信者をたすけ慰めました。鄭おばさんは嘆きの声一つ出さずに、苦難は神様に仕える器なるための訓練と思っていました。彼女を慰めるため来る人は、結局彼女に励まされました。
Jeanne Guyonジーン・ギュイヨン夫人が書いた詩「箱の若鳥」ように、鄭おばさんの生涯にぴったりだと思います。

A little bird I am

Shut from the fields of air;
Yet in my cage I sit and sing
To Him who placed me there;
Well pleased a prisoner to be,
Because, my God, it pleases Thee.
Nought have I else to do
I sing the whole day long;
And He whom most I love to please,
Doth listen to my song;
He caught and bound my wandering wing
But still He bends to hear me sing.
My cage confines me round;
Abroad I cannot fly;
But though my wing is closely bound,
My heart’s at liberty,
My prison walls cannot control
The flight, the freedom of the soul.
Ah! it is good to soar
These bolts and bar above,
To Him whose purpose I adore,
Whose Providence I love;
And in Thy mighty will to find
The joy, the freedom of the mind.”

十字架の恵みが溢れて?牢は神を閉め出さず

私を取り囲む壁は堅く、私は一日中閉じ込められている。
しかし、わたしを縛るこの壁は、私を神から閉め出さない。
この私の地下牢こそ、麗しい場所。
私の愛する神が、ここにおられるゆえ
私を圧迫する彼らは知っている。
一人でいることはつらいことだと。
しかし彼らは知らない。私を祝福するお方を。
錠や石を通って来られる方を。
神は私のこの暗い牢を明るいものとし、
私の心を喜びで満たしてくださる。
神よ、あたなの愛は、私のため息や涙を賛美に変えてくださる。
魂の深みからあなをあがめ、それは時間や場所を忘れさせます。
良いか悪いか私は求めません。ただあなたのきよいみこころとの一致以外は。
それこそは私の宝となり、わたしの益をもたらすものです。
悲しみを喜びに変え、痛みから喜びを刈り取るのです。
何が起ころうとも、それは十分です。
神こそすべてのすべてであることを知ることこそ。

chrit

三、両手が貧しい母親−最も貧乏な財布
私の成年時代
私の30歳の時に、70歳の母親が天に召されました。 母親の形見の中で、5センチ四方の白色の布切れで作った手作りの財布があった。中に幾かの小銭があった。これは母親一生の財産でした。40年超えて働いた産婦人科医なのに、こんな惨めに貧しいとは、誰も思えなかった。母親の葬式追悼礼拝は朝から晩まで、三日間絶えることなく続いた。礼拝に参加するために四方から来る兄弟姉妹が絶えませんでした。彼らの証により、私はやっと母親の人生観と価値観を知った。黙々と人のために仕える母親の姿勢を理解できました。母親でその両手で私たち5人の子どもを育て、また、数え切れない経済的に恵まれない患者さんを助け、病気を治療し、生活の援助までしました。彼らに神様を信じさせるためだった。「マタイ福音書6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」,「使徒20:35 受けるよりも与えるほうが幸いである。」母親は聖書の教え通り人生を生きました。
幼稚園に来て私を迎えてくれるお母さんは、いつも一着しか持っていない古い洋服を着ていて、化粧とアクセサリーもしなかった。私はいつも友達の前で母親のことを恥ずかしく思いました。まだ、私が無理やり母親の古い家具を捨て、新しい家具に換えるときに、私に向かって失望と悲しい母の目。それらのことを思い出すと、胸に悔いがいっぱいでした。
お母さん、ごめんなさい! お母さん、あなたの孫? モーセがあなたの足跡につき、医学を志すことに決意しました。将来、あなたような医者になって、体と心が病んでいる人に神様のこと伝えたいと願っています。

chrit

四、美しい模範、霊的な遺産
以上の3人の先輩は、暴風雨の満載する人生を過ごし、激しい風と波に直面し、試煉の苦しみを忍耐し、多くの憂え悲しみを経験しました。それでも、彼らは純粋な信仰を保ち、嘆きと恨むことなく、逆に、彼らを害した人々をゆるし、祝福しました。彼らの忠実、執着した神に対する愛は、彼らの生活に現れました。キリストのように生き、御言葉の通りに生き、神の愛を生きることができました。 彼らはキリストの平安、喜び、慰め、豊富を、溢れる芳香、潤いのある花雨ように、私の渇く心に流し込み、注ぎました。
過去の私は神から遠く離れたこともありました。見失うときに、斐のおじの目は私を見守った。彼が私を送り届けようと思い立つ一つ一つの御言葉が、方向を示し、私を義の道に帰ることを導きました。
苦しいときに、鄭おばさんのやさしい笑みは私を励ましました。再び起き立ち上り、自分の十字架を背負って前に歩むことができました。彼女は切に私が天国の幸せの得ることをねがいました。
お金、地位の誘惑に遭ったときに、母親の右手と左手が私にクリスチャンの人生観、価値観の重要性を教えました。キリストの道から離れることなく、 神様の御心に合う選択をしました。
彼らはもうこの世にいない。けれども、残ったかけがえのない霊的な遺産は、私が一生神に求め、ついて行くことを支えています。

chrit

五、信仰の継承、祝福が満溢れる
19世紀の末は、1人のイギリス宣教師は中国河南省安陽県の小さい村に福音を伝えました。1人の悲しい、弱々しい、9度も流産した婦人は神様を信じた後、御恵みによって女の子を産みました。この嬰は私の母親でした。 祖父祖母はクリスチャンで、男尊女卑の思想がなく、女の子の私の母親を大学まで送りました。 私の親の結婚は遅かった。5人の子供の中、私は末子でした。小さい頃、常に両親のひざの上で聖書の話を聴き、賛美をし、家庭教会で礼拝しました。
13歳で洗礼を授けられました。 母親、斐のおじさん、鄭おばさんの先輩から多大な影響を受けました。その間に、私は神様から離れませんでした。しかし、成人になった後、だんだん神様を中心とする生活からずれて、すべてを自分で決めるようになってしまいました。大学、仕事、家庭は全部自分で選択したものでした。至るまで或る日、神は私の心尽くして営んだものをすべて壊しました。欠片になったそれらを目の前にして、なんの価値もないことだと気がついた。憐れみ深い天の父様は再び私の心を造り、私を呼びかけ選び、新しい環境を与え、教会生活の復帰を導き、仕事と神学校の両立をさせました。
2005年、父親が来日し、私の神学の卒業式に出席しました。あの喜びとうれしい表情は、私の思い出の中にある母親との表情が重なりました。私が母親に付き添って教会へ行って礼拝するときに、母親は姉妹たちの前に、「ほら、うちのかわいい娘が教会に来たよ」とあの喜びとうれしい表情だった。 私はまったく親孝行をしてあげられことなく、両親が居なくなった。後悔ばかりの私は、少し慰められるのは両親のこの表情でした。父親はこう言った「モーセまで、4代のクリスチャンファミリは、やっと一人の伝道者を出すことができる」。
それから、2010年、私はアメリカに来て再度神学校に入り。しかし、神に対して申し訳ない気持ちがあっても、いまだに宣教の道を踏み出せない。「 私は口と舌の重い人、女性だし、息子は学生だし、経済生活はどうなるか、献金を受け取ることができないし、自分の専門を好きだし…」等々のような理由で言い訳ばかりでした。でも、神様は私の手を離さない、私が頼るものを少しずつ持って行かれて、自分の道がなくなった私が神に従順するようにと、これは神様の特別な愛であると知らされました。
神は私を愛するこそ、私を選んで、私を鍛練し、神は10年もの間に、私を忍耐し待ち続け、私をあきらめなかった。神の愛が私の情熱を燃やし、福音を伝える道を導いて行きます。
1人の田舎の婦人の信仰によって、4代家族は祝福され。無名の山村からアメリカのUCLAまで、この素晴らしい恩恵みは祖母が想像もできなかったでしょう。

御代荣天
2011.10.16

2011/8/2 火曜日

証し

Filed under: モーセ, オウサン工房, 神様の領域 — admin @ 6:34:23

父親

皆さんにとって父親はどんなイメージですか?ネットでいろいろな意見を調べたら、「一家の主、絶対権力を持つ人」、「家のために稼ぐ人」、「大きな 存在」って思う人がいれば、父親はただの「家でテレビ以外何もしない人」とか「お母さんの言いなり」なんて思う人もいます。それらは全ての父親にありえる イメージですね。ところで、父親の愛というとぱっと来ない人もたくさんいます。例えば、「母の日」と比較すると「父の日」の存在感が非常に薄いって思った ことありませんか。なぜなら、父親の愛は、母親の愛よりも目に見え、形に表われることが少ないからかも知れません。子供にとって、母親の愛は直感的に感じ ることができても、父親の愛を愛として理解するには時間がかかります。

父親のいない家庭は母子家庭といいます。今の世間おいて「母子家庭=不良」とか「母子家庭=貧乏」と 認識します。 ヤンキーではないのに、母子家庭なだけで友達辞めろと言ってきた親御さんもいたりします。更に大事なのは どんなことが起こっても守ってくれる人がいると いう安全感はその子供に与えられないことです。このように育った子供が父親になると満足に自分の子供を愛せないことが多くあります。なぜなら、父として見 本がいなかったからです。

お父さん論みたいなこといっぱい話してしまいましたが、自分の証を話したいと思います。

僕はその母子家庭で育ちました。父の愛がなくなったのは僕が10歳のころでした。そして、十三歳のときに母と日本に引っ越して、それ以来父親との連絡 が途絶えました。現在に至ってはもう11年間父と会っていません。この十一年間は僕が成長する大事な時期でした。いわゆる思春期と青年期です。この時期に 関しては子供にとって父親の愛情と見本がとっても大切です。誘惑に負けないように厳しく叱ってもらったり。女の子の前でどうやって男らしく振舞うのを教え てもらったり。将来の夢はどう決めればいいかを相談に乗ってもらったり。失敗したときの励ましてくれたり。父親はこの時期とっても大事な役を演じているん です。

父親のいない僕はどうしたかというと、これらのこと全て不足に思いませんでした。そもそも父親なんていてもいなくてもよかったってすら思っていたの かもしれません。しかし、今を振り返れば、僕は父親がいなかったのではなく、見えていなかっただけでした。なぜなら、僕の父はいつでもどこでも一緒にいて くれて、誰よりも愛情たっぷりで、誰よりも厳しくしてくれる、天の神です。

慈愛なる父

形なき神様が父親の代わりになれるって信じがたいという人はいるかもしれませんが。それがですね なれるんですよ!それも実の父親以上に!

まずは父親としての存在感です。父親としての温もりですね。もちろん神様が人間に化けて現れたんじゃないんですよ。神様は僕をよい教会に導いてくれ たんです。そこに自分をやさしくしてくれたおじさんたちがたくさんいました。たとえば、やさしい系のおじさんは僕の悩みを全て聞いてくれました。そして、 カメラを担いで母親の代わりに僕の運動会に来てくれました。また、運動系のおじさんはいつもキャッチボールをしてくれました。そして、家庭的なおじさんは 僕がカレーライスが好物のを知ったら必ず週二、三回カレーを作って鍋ごともって来てくれました。 このようにですね、僕は他の子供よりも父親の温もりを感 じることができました。

主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。(詩篇146)

僕にとってはまさにその通りです。父親のいない家庭はやはり生活がギリギリですね。母親は必死に働いてくれましたが、外国人で日本語があまりうまく 話せないこともあって給料は低かったです。母と狭い六畳のアパートで暮らしていました。母が失業して大変だったときは牧師先生の家で居候した覚えもありま す。日本のテレビ番組「一ヶ月一万円生活」って知ってますか?まぁ、芸能人にそのような生活をさせるだけの番組ですけど。僕と母はこの番組を見たら笑っ ちゃいました、うちがこの番組でたら間違いなく優勝だねって。しかし、このような生活でも神様は平安と喜びを与えてくれました。母は大の果物好きです。あ る日、超うれしそうに帰って、どうしたの?って聞いたら、友達にりんご一個もらったってはしゃいてました。僕はですね、中学校の体操服を買ってもらったと きが一番うれしかった気がします。普通の人が当たり前のことだっと思うことでも感謝と喜びがいっぱいでした。家族の中で一番大事なものと言うと神様からの 暖かい愛だと僕は思います。それがある限り平安と喜びの安らぎが絶えることはありません。いくら裕福な家庭であってもこの愛がなければ、幸せを感じること はありません。

神様は聖書を通して自分が優しいお父さんであるということを私たちに語りかけています。その愛の手紙をまとめてみました。

わが子よ、

私はあなたを探り、あなたを知っています。
私はあなたのすわるのも、立つのも知って、あなたの思いを遠くから読み取れます。
私はあなたの歩みとあたなの伏ふすのを見守り、
あなたの道をことごとく 知っています。(詩139:1-3)
あなたの頭の毛さえも、みな数えています。(マタイ10)
あなたは、私の中に生き、動き、また存在しているのです(使徒)
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛いしています。(エレミヤ)
あなたは神の子ども、私の子供だからです。(ヨハネI)

お父さんより

厳格な父

わが子よ。主の懲らしめを軽かろんじてはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。(ヘブル12:5-6)

わたしは患難の炉の中にあなたを選んだ。(イザヤ48:10)

父親の愛情のもう一つの顔は厳格です。厳しい顔です。それは子供が自分勝手に行動しているときに、良い行動と悪い行動をきちんと教え込むことです。しつけのことです。

僕は日本行く前にとても悪い習慣がありました。偏食です、食べ物の好き嫌いが信じられないほど激しかったんです。母は僕にご飯を食べさせるの随分苦 労したみたいです。聖書の言葉を使って言うと僕ににんじんを食べさせることよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいというほどでした。しかし、 神様は厳しく叱ってくれました。どうやって叱ったかというと、腹を空かせることでしたね。母は女一つで家庭を支えるために朝から晩まで働いていました。家 にいる僕は空腹の苦しみを覚えました。しかし、学校が始まるとなんと給食がありました。.僕は未だに人生初の給食のメニュー覚えています。カレーライスに コンソメスープ、りんご切れと牛乳でした。カレーライスは初めてでした。その色で食べる気なれませんでした、が、もうお腹空くいやだったので、無理やり食 べてみました。一口食べたら。。。!! うまい!! こんな食べ物がおいしく感じたのが始めてでした。にんじんとか牛肉とか嫌いなものがはいていたのにも かかわらず、ご飯粒残さず全部食べました!それ以来僕は給食の大ファンになりました。給食の出るもの全部食べました。しかもいつも大盛りで、友達の「これ 嫌いだからあげる」というものまで食べてました。僕がここまで大きく育ったのは給食が好きになったからといっても過言ではないですね。だから、神様は子供 のしつけはとてもうまいんですね。

天の父の厳格さはこれだけのものではありません。私たち人間はとても軟弱で惑わされやすい生き物です。神様は私たちが間違った道に進まないように常 に見守っています。間違った道に進めてしまったら、神様どうやって正してくれるかというと、聖書の書いた通り、困難を与えるんですね。私たちを懲らしめま す。しかし、それは私たちを愛するゆえになさったことです。人間は神様を見つめて歩まなければ、すぐに世界の誘惑に付いて小道に走り、迷子になってしまい ます。神様を見つめるために神様を一番目に愛する心が必要です。しかし、これがなかなか難しいもので、感覚で生きてる人間にとって見えない触れることので きない神様を一番愛するのはとっても難しいです。だから、神様はそれができるように私たちをわざと困難の中において厳しく鍛えます。日本語で「好きなもの には目がない」といいますね。なぜ目がないといいますと、調べたら、これが日本語のおもしろいところですが、三段階があります。目がない→目がないと見え ない→見えないと判断力が落ちる→判断力が落ちても好きである。心を奪われて思慮分別がつかないということですね。たとえば、恋人、お金、勉強、仕事とか しか目になければ、神様のことを見ようとしなくなるんです。「日曜に礼拝あるけど、彼女をピクニック連れて行くから教会サボる」、「彼氏と遅くまで遊んで 疲れたから、今日は聖書読むのやめよう」、「バイトがあるから教会行かない」など神様に喜ばれないことをするなど神様のことよりも世の中のものを最優先に してしまいます。そうなったら気をつけてください、神様は怒ります。その叱りはとっても痛いものです。どんな懲らしめ待ってると思います?私たちが一番大 事だと思っているものを奪い取ってしまいます。恋人と分かれさせます。リストラされます。大学に落ちます。会社が倒産します。神様は人間が苦しみのどん底 の中にしか自分を求めようとないってわかっているからです。僕の場合は恋人だったんですけれども、今を思えば、僕がもしも神様を見つめなおしていなければ 相変わらず寂しがり屋で、甘えんぼのまんまだったかもしれません。神様より大事なものはありません。神様を父親としてみるものは世界を得るものです。

天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73:25-26)

最後に僕がいつも困難で気持ちが凹んでいるときに思い出詩を皆さんにシェアしたいと思います。名前は「足跡」です。知ってる人多いと思いますが、英語で「footprints」アメリカのマーガレット・F・パワーズという女性が書いた詩です。

「足あと」

ある夜、わたしは 夢をみた。
わたしは、神さまと共に なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの わたしの人生が 映し出された。
どの風景にも、砂の上に ふたりの 足あとが残されていた。
一つは わたしの 、もう一つは 神さまの であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上の 足あとに目を留めた。
そこには 一つの 足あとしかなかった。
わたしの人生で いちばんつらく、悲しい時だった。
このことが いつもわたしの心を乱していたので、
わたしは その悩みについて神さまにお尋ねした。
「神さま。わたしが あなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりの 足あとしかなかったのです。
いちばん あなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしには わかりません。」
神さまは、ささやかれた。
「わたしの愛する子どもよ。
わたしは けっして お前のそばを離れたことはない。
お前がもっとも 苦しんでいたとき、
砂の上に一組の足あとしかなかったのは、
わたしが お前を抱いていたからなんだよ。」

2008/2/8 金曜日

豊かなたましい

Filed under: 神様の領域 — admin @ 11:59:45

ルカ18:18〜23

18: また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

19: イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

20: いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。

21: すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。

22: イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

23: 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。

最後の一つを求めに来た青年

人生を自信満々に生きて来た青年を一人を紹介します。その青年は良い仕事をしている人でした。そして、若さという素晴らしい財産がありました。若さには限りない可能性とビジョン、エネルギーと無限な想像力があります。彼は失敗をも決して恐れませんでした。

そんな彼がイエスの前に来て、ひざまずきました。そして驚くべき質問をしました。「何をしたら、永遠のいのちを得ることができるでしょうか。」

若くて、すべてのものを持っている若い者がわざわざイエスを訪ねて、永遠のいのちについて質問をするのですから、驚きます。その青年は、自他ともに認めるほどの素晴らしい人でしたが、彼には最後に認められたいと願う方がいました。それは神でした。

すべてが備わった青年の問題

あなたは神に会いたいと思いますか。それとも、神に認められたいと思うのでしょうか。もし、神に認められたいなら、神に会うことはできないでしょう。しかし、神に心から会いたいと願う謙虚な心があるなら、神はあなたに会ってくださいます。そのような人には主が見えます。しかし、主に認められたいなら、いくら捜し求めても主を見ることはできません。

この青年の質問、「神様、私が何をすれば永遠のいのとを得ることができますか」は、神に喜ばれる質問です。しかし、彼は心の中で「神様、どのようなことを聞かれても私はみな答えられます。少こなくとも、神様が願うことは私はすでにみなしてきましたから」と考えていました。そこで「私が永遠のいのちを得るためには何をもっとすればよいのでしょか。私に足りないものは何でしょうか」と堂々とイエスに尋ねて来たのです。

しかし、そのような人はなかなか主に会えません。謙虚な心で、悲しむ心で主を求める人に、主は見え始めるのです。事実、金持ちの青年は、永遠のいのちを得たいというよりは、主に認められたいという気持ちで来たのです。あなたは本当に主に会いたい、神に会いたいと願っていますか。

神に会うためには、まず謙遜にならなければなりません。だから、自分が何かを持っていると思っている人は神に会うことが難しいのです。神を試み、神に認められるために来る人には、神は見えません。自信ありげに「神に一度聞いてみよう」などと考える人には、神は絶対に現われてくださらないのです。

だとしたら、救われるために私たちがすべきことは何でしょうか。信じることしかありません。救いは行いによるものではありません。自分が何をしたかではなく、自分がだれであるかに焦点があるのです。

この青年は永遠のいのちに関心がありましたが、それを得る方法を誤解していました。ですから、彼のように論争をしてキリストをしんじようと思わないでください。信仰は論理的に得られるものではなく、聖霊を通して得られるものです。主をただ信じなければなりません。主を知っているから信じるのではなく、信じるから知るようになるのです。

隠された内面の偽善

人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。、

イエスは青年に、法律の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない、偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。

「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」このことばを聞いた青年は非常に悲しみました。

律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にある偽善と虚像をしり、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみなまもりましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者にに分け与え、わたしについて来なさい」と言われたのです。ここで、金持ちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。

私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題を抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的に、また哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。残念なことに、青年は財産のことで苦しみ悩みました。そして。主ではなく財産を選びました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。

たましいのつるべを失った理由

この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです。彼らのようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神様の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりせず、ただ「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。

第二に、傲慢な態度を見せました。神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を慕い求める心で出て来てください。

第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人をがどのような人になるかによって救われることを覚えてください。

第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福されるのです。

これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。こどものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。

神様の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。

祈り

主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

世の中での正しい経済観

みなさんに食べるものと着るものがあるなら、それに満足し感謝してください。なぜなら、この世に生まれた時間も持って来なかったように、この世離れる時も何も持っていけないからです。子供に遺産を残してあげたからといって、ありがたく思うこどもがいるでしょうか。多くの子供は当然のように思います。それが人間です。

聖書は、お金を愛することがすべての悪の根源であると述べています。お金を愛さずに使ってください。お金に支配されずにお金を治めてください。そうすれば大丈夫です。お金が自体が悪いわけではありません。お金を稼ぐことはよい事です。しかし、神がその主人どなるようにしてください。お金を愛し、お金が儲けようとすれば、あれこれ考えて夜も眠れなくなります。お金が出たり入ったりするばかりで、お金はたまりません。これからお金を支配してください。

永遠のいのちとは

永遠のいのちは、単なる永遠不滅ではなく、神の時間を意味します。また、永遠に生きておられる神の人格的な生活に共にあずからことを意味します。神のない永遠な時間は不安です。神のない無限な世界は考えるだけでも不安で恐ろしいものです。

永遠のいのちとは、死後の無限の世界ではなく、永遠なる神に属することを意味します。また、永遠のいのちとは、キリスト自身を意味します。永遠に生きておられる神が人間の身体でこの世に来られました。。その方がキリストです。キリストの中にまことの永遠があります。

永遠のいのちとは、死がありません。死を超えるからです。永遠のいのちを持つ人は肉体に意味を持ちません。肉体には、大きな意味がありません。失敗を恐れません。永遠のいのちを持つ人は状況がどんなに苦しくても絶望しません、なぜならキリストにある神の聖霊を所有しているためです。

ですから永遠のいのちを持つ人には自由があり、平安があります。

隠された内面の偽善

人間の持っている問題の中で、表に現れているものは些細なことに過ぎません。深刻な問題はその中にあります。この青年の問題を見てみましょう。

イエスは青年に、律法の要求、すなわち「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」を語られました。すると、青年は「そのようなことはみな、小さいときから守っております」と答えました。これに対してイエスは言われました。

「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」この言葉を聞いた青年は非常に悲しみました。
律法の問題には自信がありましたが、イエスがお金の問題を取り上げられたからです。主は青年の内面にあると虚像を知り、それをあらわにされました。「私が何をすれば永遠のいのちを得られるのでしょうか」と余裕満々に微笑む青年に、「あなたは律法をみな守りましたか。それなら、あなたの持ち物を全部売って貧しい者に分け与えわたしについて来なさい、」と言われたのです、ここで、金もちの青年の関心は永遠のいのちではなく、財産にあったことがわかります。

私たちは、家庭、友人、職場、宗教など、多くの問題抱えて生きています。多くの人々は、自分の問題を語る時、高尚に、専門的に、学問的にまた哲学に話したがります。しかし、実際はこの金持ちの青年のように、財産に主な関心が注がれている場合がよくあります。青年は結局どうしたでしょうか。彼は金持ちでしたから、この話を聞き、思い煩いながら帰りました。金持ちの青年は、主を目の前にして主を失ってしまいました。なぜでしょうか。お金がそうさせたのです。

たましいのつるべを失った理由

この青年の致命的な欠点は、第一に、神を信じるためではなく神に認められるために来たことです、彼のようにならないでください。「神様、私を憐れんでください。私は罪人です」という心で神の前に来てください。神を問い詰めたり試みたりぜず、ただ、「私を助けてください。私には救いが必要です」という心で神の前に来てください。

第二に、傲慢な態度を見せました、神の前に出る時は、謙遜に両手を挙げ、神を羨い求める心で出て来てください。

第三に、救いへ至る道を誤解していました。何をするかではなく、その人がどのような人になるかによって救われることを覚えてください。

第四に、お金を愛しました。お金から自由になれれば、すべてのものから自由になることができます。お金から自由になる時、神は祝福してくださるのです。

これからは、主だけを見上げ、主から離れないでください。しっかり、しがみついてください。子どものような心でイエスを見上げ、恵みを求めてください。「主よ、私にはあなたが必要です。もう疲れました。今まで自分の好き勝手に生き、自分が人生の主人であると思っていました。主よ、どうか私を憐れみ、救ってください」と求める時、主はあなたに訪れてくださいます。

神の御前に出る時は、謙遜な切なる心で求めなければなりません。「この機会に主にお会いしたいと思います。あなたをもっと知りたいのです」という心で求めて行かなければならないのです。

祈り

主よ、私を金持ちの青年のように帰ってしまわないようにしてください。私が財産のために試みにあっても、主を見捨てることがないように、主を離れることがないように助けてください。この機会に必ずキリストに出会えるように導き、祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2008/2/1 金曜日

近くいるほど大切に

Filed under: 神様の領域 — admin @ 23:59:59

オパデヤ書1:10〜16
他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなた(エドム)もまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。
あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。”

要約
エドムに神のさばきが下った理由は、彼らがイスラエルと兄弟であったにもかかわらず、イスラエルの災難の日にただそれを眺め、むしろ他の国々と共に、あるいはそれ以上にイスラエルを迫害したからです。

同盟国も役に立たない(1:10〜14)
エドムの徹底した滅亡の裏には、イスラエルに対してエドムが行った暴虐がありました。エドムはエサウの子孫であり、エサウはヤコブの兄です。両者は互いに憎みあう間ではありませんでした。神はイスラエルに、エドムは兄弟の国であるので、憎んではならないと言われました(申23:7)。しかし、エドムは違いました。ユダが滅び去る機会が来ると、だれよりもひどい暴虐を行い、バビロンがユダを捕囚としたとき、ためらうことなく賛同しました。”兄弟の国”ならば、ユダが艱難と苦難に遭ったとき、略奪に加わったり、眺めているべきではありませんでした。しかし、彼らは兄弟の国、イスラエルの財宝を強奪し、逃げる者の前に立ちはだかり、生き残った者を敵軍に引き渡すという暴虐を行います。

○私たちはむしろ近い人にいい加減な傾向があります。兄弟を愛さずに、隣人を愛すると言えますか。

万国をさばかれる日(1:15〜16)
神様のさばきは万国に向かってなされ、人々は行いの通りにさばかれます。これに先たって、預言者は、エルサレムが艱難に遭う日、すなわち、エドムが喜び日に対して言及します。今、預言者はこの日を再び語り、その日は主が万国を”罰せられる日”になると言いました。この特別な日は、預言者ヨエルを始め、様々な預言者が語った”主の日”を指します。この日は神の救いの日であると同時に、さばきの日になるのです。「あなたがしたように、あなたにもされる。」神のさばきは決して任意に臨むものではありません。預言者は主の聖なる山で酒を飲み、歓楽に酔ったエドムのように、すべての国々が滅ぶと宣言しました。神は歴史の裏側に立ち尽くしている方ではなく、歴史の主人です。

○神は罪を見過ごされる方ではありません。このような神の前で罪に対して敏感になり、きよい生活をしていますか。

黙想
神の民は互いに憎み合ったり、圧追し合ってはいけません。互いに少しずつ異なる点があっても、キリストの血潮の福音を信じる限り、私たちは互いにひとつの兄弟です。兄弟の中で憎まれたり、圧追を受ける人は、むしろ神様の憐れみを受けますが、憎み、圧追する人は、エサウが受けたさばきを受けることになるのです。

今日の祈り
神様は他人の失敗を見て喜ぶ心を喜ばれません。クリスチャンであっても、心の中で罪を犯し、他の人を傷つけていないか悔い改める心を持てますように。

2008/1/25 金曜日

共に成長していく共同体

Filed under: 神様の領域 — admin @ 23:25:00

ヨハネの手紙 1:9〜15
9: すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10: 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11: 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12: しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13: それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14: そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15: ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。

要約
ヨハネは兄弟たちの妨げとなり、キリストを受けいれもぜず、むしろ受け入れようとする者たちを妨害するデオレベスを責め、彼の行為を見習わないよう注意します。クリスチャンは悪を見ならわず、善を見ならすべきです。

悪を見ならってはなりません(ヨハネ1:9〜11)
教会にいつも毒麦がいるものです。敵は教会の内部にいることもあるのです。教会は福音を伝えることにも力を注ぐべきですが、聖徒の信仰を養育することにも力を注がなければなりません。私たちは利己心のために、或いは間違った考え方によって、神の教会に害を及ぼし得るものです。デオテレペスが行ったことは、本来の使命を忘れた教会が、どれほど神の栄光を遮ってしまうかをよく示しています。彼がこのような間違った行動をしたのは、かしらになりたいという高慢さのためです。彼は自らも善い行いをしないばかりか、自分が持っている権威を利用し、他の人も善いことをできないよう妨げたのです。私たちも同じ間違いをしないよう、歴史から教訓を得なければなりません。

○教会が目指す優先順位をまず考え、教会に仕えていますか。それとも認められたという高慢さが先に立っていますか。

すべての人に称賛される者になりましょう(ヨハネ1:12〜15)
デオテレパスの間違った行いにも関われず、デメテリオは善い行いの手本を示しました。デメテリオはすべての人に認められ、神の真理のみことばに照らして誠実な人して認められました。指揮者になるためには、他の人から認められなけれななりません。また、神の教会は有名、無名の真実な人々によって立てられていきます。善と悪が共存しても、神の国は建てられていきます。状況が異なることもありますが、神の教会を愛し、真理のもみことばに従う心は、いつでも教会の成長に必須です。神の子どもはいつでも教会を建て上げることにおいて、ともに顔を合わす人々です。神は個々人の信者ではなく、各教会ではなく、共に働くことのできる聖徒と教会をくださいました。

○どうすればすべての人の称賛を受ける指導者になれますか。また、どのように神の御国を共に立てあげていきますか。

黙想
互いに挨拶することはとても意味のあることです。この地から天の都に行く旅で、愛の挨拶は兄弟姉妹に誠実さと優れたことを追求し続けていくようにという励ましです。「神の恵みを共に相続した仲間よ、耐え抜いていきましょう」と語るのです。賛美歌の歌詞のように、私たちはシオンに向かって進んでいます。その旅の途中で、私たちは仲間の旅行者を助けてあげなければなりません。愛の挨拶は共に旅を続けられるよう動機を与え、霊感を与えます。

今日の祈り
神様の教会を建てることの助けとなれますように。利己心と優越感を捨て、謙遜になることで、神様に仕え、聖徒に仕え、信仰の手本とならせてください。

2008/1/19 土曜日

知恵あること、愚かなこと

Filed under: 神様の領域 — admin @ 12:28:42

ローマ人への手紙16:17〜27
17: さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。
18: なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。
19: あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。
20: 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
21: わたしの同労者テモテおよび同族のルキオ、ヤソン、ソシパテロから、あなたがたによろしく。
22: (この手紙を筆記したわたしテルテオも、主にあってあなたがたにあいさつの言葉をおくる。)
23: わたしと全教会との家主ガイオから、あなたがたによろしく。市の会計係エラストと兄弟クワルトから、あなたがたによろしく。
24: 〔わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように、アァメン。〕
25:26:願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書を とおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるか た、
27: すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。

要約
ローマ教会にいる偽教師たちは、教会を分裂させ、自分たちの腹だけを満たしていました。ですから、パウロはローマ教会の聖徒たちに、彼らから離れることを進めます。パウロは最後に同労者たちの安否を伝え、神に栄光を帰します。

間違った教えに対する警告(16:17〜20)
パウロはローマの聖徒たちに教会の中で間違った教えによって真理を混乱させ、聖徒たちを誘惑し、紛争を起す者たちを警戒し、彼らから遠ざかるよう 強く警告します(17節)パウロはそのような人々を指してサタンだと断言します(20節)そして、善にはさとく、悪にはうとくあるよう勧めます(19 節)。また、遠からず神が、まじりけのない真理と教会の一致を壊そうとするサタンの妨げを踏み砕かせてくださると断言し、彼らに惑わされないようにと励ま します。自らの利己的な欲を満足させるため、教会の純潔を壊し、教会の中に紛争を起すことは、サタンのなすことです。神が彼らを必ず踏み砕かれるという確 信と恐れが聖徒たちにはなければなりません。

○教会に分裂を引き起す不平と非難の言葉に同調していませんか。教会が真理の上に立てるようとりなしていますか。

祝福と賛美(16:21〜27)
最後にパウロはコリントにいる同労者たちのあいさつを、ローマの聖徒たちに伝えます(21〜23節)。全地に散らばっている聖徒たちが、キリスト を同じ主として仕えているというただひとつの理由によって互いにあいさつをかわすことは、神が聖徒たちに福音を信じ、従うようにされ、福音によって聖徒た ちにくださった美しい特権です。このような特権は、神が聖徒たちに福音を信じ、従うようにされ、福音によって聖徒たちを堅く立たせてくださった結果です。 パウロはローマの聖徒たちに、彼が伝えた福音の主題と起源、目的と力が何であるかをもう一度まとめながら、神にささげる荘厳な賛美をもって書信を結びま す。「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

○同じ主に仕えるいるという理由だけで、苦難にある国や地域にいる聖徒たちのためにとりなしていますか。

黙想
クリスチャンは悪に対しては愚鈍で、善いことに対しては知恵深くなければなりません。「善にはさとく、悪にはうとく」ということは、その善を知る だけでなく、それを行う方法を知ることです。しかし、善と距離を置いて生きてきた人々は、善を知らないだけでなく、行おうとしても、どこからはじめるべき かわかりません。善にさとく、悪にうとくあることが、クリスチャンの姿勢です。

今日の祈り
私の究極的な義務は、パウロのように最後まで”送られた者”になることであると悟らせてください。そして、すべての民が主を信じ、救われますように。

2008/1/11 金曜日

みことば、いのち、そして、実

Filed under: 神様の領域 — admin @ 12:59:09

ローマ人への手紙15:1〜6

1: わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
2: わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
3: キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。
4: これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
5: どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
6: こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

要約
聖徒はキリストの共同体の中で、一つの心を持たなければなりません。強い者は弱い者の欠点を受け入れなければなりません。イエスもそのようにされたからです。私たちがそうするべき理由は、神の栄光のためなのです。

信仰が弱い者に対して(1〜3節)
信仰の共同体の中には信仰の成長をなす聖徒もいますが、まだ初歩段階にとどまっている聖徒もいます。問題は信仰が成熟した聖徒が自分の喜びと満足を追求しようと、自分の信仰を自慢の種とすることです。個人の信仰の強さが神様の賜物であることを忘れ、個人の業績や自慢とみなすとき、信仰共同体には葛藤と分裂が起こるものです。パウロはこれに対して明らかな指針を提示します。自らの喜びではなく、他の人が喜ぶように行動し、善をなし、徳を立てようとする姿勢で行動せよということです。すらわち、信仰が強い者が信仰が弱い者を助けなければならないということです。これは、信仰が強い者の霊的成長のために自分の立場を低くする謙遜な姿勢を言います。

○謙遜に、信仰が弱い聖徒を配慮していますか。挑戦的な言葉よりも、聖徒を立てる称賛の一言をかけてみましょう。

みことばを学び、適用する理由(4〜6節)
私たち神のみことばを学び、適用する理由は、なぐさめの中で忍耐し、神の国に対する望みを持つためです。みことばを学び、適用するほど、その心の中には、神の国に対する望みが大きくなります。苦難の中でもその望みを放廃ぜず、忍耐となぐさめを豊かに味わうのです。みことばを学び、適用しながらも、こうした恵みを味わっていないなら、みことばを正しく学び、適用できずにいるということの反証です。神のみことばは単純な知識ではなく、聖徒に霊的な活力を供給する神のいのちそのものです。みことばを学び、適用することで、神のいのちが私たちの心の中に種として蒔かれ、育ち、やがて、忍耐と望みへと実を結び、この実によって父なる神に栄光をささげるのです。

○心が苦しいとき、みことばの中でなぎさめと励ましを得ていますか。それとも、他のものになぐさめを見出しますか。

黙想
私たちの周りの人々とのまことの交わりのために、どれだけ私たち自身の益を犠牲にし、譲って生きていますか。私たちは兄弟姉妹の弱点を受け入れるために、自らどれだけ犠牲を払っていますか。私たちは相手の益のために自分を犠牲にできる交わりをしなければなりません。これがまさにクリスチャンの交わりの態度です。私たちの中で、まことの交わりを願っておられますか。それなら、お互いを喜ばせるために力を注ぐ人になってください。

今日の祈り
神様を知る知識が深く、広くなるほど、この地に来られた主を覚えます。今日もイエス様が謙遜に仕えられた姿を、私の生活の中で表せますように。

2007/12/15 土曜日

悔い改め、人生の逆転せよ

Filed under: 神様の領域 — admin @ 8:26:19

オパデヤ書1:1〜9

要約
神は預言者お通して、エドムにさばきを宣言されます。神はエドムの高慢を責められます。彼らの財物は奪われ、信じていた国々から裏切られます。これは、神が彼らを滅ぼすことを決められたからです。

高慢があなた自身を欺いた(オパデヤ書1:1〜4)
神は異邦の民族もさばかれます。旧約の様々な箇所で、このような国々に対する預言が語られています。ところで、神が異邦のエドムを対象に預言を語 られた意図は何でしょうか。「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた」、「あなたが驚のように高く上っても、星の間に巣を作っても」(4節)というみことば を通して、エドムがとても高慢になっていたことを知ることができます。エドムは出エジプトの時から、イスラエルと敵対関係にあり(民20:18、20)ダ ビデの時代には主従関係になるほど、関係が良くありませんでした(?サム8:14)。その後は、ユダの滅亡以後(BC 586)、エドムは残りのイスラエ ルの民に対して高慢になり、それゆえ、あからさまにユダヤ人を蔑視したものと思われます。
エドムの高ぶりを叱責される神のみことばから悟ることは何ですか。あなたもまた、時に岩の裂け目に住む驚のように高ぶっていませんか。

完全に絶やされる(オパデヤ書1:5〜9)
一度神のさばきが始まれば、誰も妨げることができません。預言者はエドムがどれほど完全に滅ぼされたかを詳しく説明しました。何よりも、彼らは経 済的に荒廃しました。ぶどう泥棒でも、取るだけ取れば、彼は残しておくものです。しかし、エドムは、隠しておいた宝までも完全に奪われます。そのときは、 隣国との同盟も意味がなく、親しくしていた友も裏切り、ついには、彼らから食糧を得ていた者までもが、わなを仕掛けるほど、エドムは轍底して見捨てられま す。また、知恵のある指導者たちもみな滅ぼされ、遂には、軍事力の喪失します。もしかして、自分でも気づかないうちに頼りとしていたものがありませんか。 神は、私たちが頼っていたものを完全に取り除かれます。
恵みの神という言葉で、神の戒めを軽くみなしていませんか。罪に対する神の徹底さを知っていますか。

今日の祈り
神様だけを頼ると言いながらも、実際困難に出会うとこの世の完全な要塞を頼っていないか省みます。心から神様に頼る者となれますように。

2007/12/8 土曜日

愛の眼鏡をかけなおせ

Filed under: 神様の領域 — admin @ 6:00:05

詩篇41:1〜13
1:貧しい者をかえりみる人はさいわいである。 主はそのような人を悩みの日に救い出される
2:主は彼を守って、生きながらえさせられる。 彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。
3:主は彼をその病の床でささえられる。 あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる
4:わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。 わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。
5:わたしの敵はわたしをそしって言う、 「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
6:そのひとりがわたしを見ようとして来るとき、 彼は偽りを語り、その心によこしまを集め、外に出てはそれを言いふらす。
7:すべてわたしを憎む者はわたしについて共にささやき、 わたしのために災を思いめぐらす。
8:彼らは言う、「彼に一つのたたりがつきまとったから、 倒れ伏して再び起きあがらないであろう」と。
9:わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも わたしにそむいてくびすをあげた。
10:しかし主よ、わたしをあわれみ、わたしを助け起してください。 そうすればわたしは彼らに報い返すことができます。
11:わたしの敵がわたしに打ち勝てないことによって、 あなたがわたしを喜ばれることをわたしは知ります。
12:あなたはわたしの全きによって、わたしをささえ、とこしえにみ前に置かれます。
13:イスラエルの神、主はとこしえからとこしえまでほむべきかな。  アァメン、アァメン。

要約
ダビデは神が弱い者を助けてくださると確信します。また、彼は、敵が迫害し、親しい友までも自分に敵対する状況を悲しみます。しかし、彼は神が究極的に勝利を保障してくださることを確信します。

いつくしみに信頼せよ(詩篇41:1〜10)
世は弱い者を踏み付けるように誘導します。しかし、ダビデは弱い者に心を配る者が祝福を受け、神がそのような者を災いの日に救ってくださると告白 します。彼はこのような告白を通して、彼がいつも弱い者を助けていたことを決して忘られず、守ってくださることを期待しました。また、神が災いの日に自分 を救われ、いのちをよみがえらせてくださると確信しました。ダビデは、人々の悪い行いに対しても、主に打ち明けました(5〜9節)。そして、主は自分を決 して敵の手に渡されないと告白しました。ヘブライ語の表現を調べると、これはmとても強い意志が込められたものです。主は病床にいるダビデを慰められま す。そして、必ずダビデをその病から勝利させてくださるのです。
苦難は私たちを気後れさせますが、この時が、神の真実さを確信するときです。神があなたを金のように鍜練して送り出されることを信じますか。

究極的な人生の目標(詩篇41:11〜13)
敵に打ち勝つ力は、私たちに向かう神の愛です。ダビデは神が自分の祈りを必ず聞いてくださることを確信し、この詩を結びました。彼は、敵が自分に 対して勝利の歓呼を叫ぶことができないでいる状況を見て、自分を愛される神の愛を見ました。また、ダビデは神の助けと憐れみに頼っただけではなく、神に信 頼する”誠実さ”を示しました。「誠実を尽くしている私を強くささえ」(12節)とは、”神が私の誠実さをご覧になり、私をささえてくださる”と解釈する ことができます。すなわち、彼は神が自分の悔い改めを誠実さとして認めてくださったと確信しました。ダビデは”アーメン”を二回繰り返して告白すること で、神に対する彼の信頼がより深まることを表現します。
あなたが神の愛を確信するときはいつですか。敵の攻撃から救ってくださる神の救いを日ごと謙遜に求めていますか。

今日の祈り
無駄な苦労だと世の人々はあざ笑ったも、神様と共に歩むことで、その苦難すらも感謝できる誠実なクリスチャンとして生きられますように。

2007/12/1 土曜日

望みと成熟は比例する

Filed under: 神様の領域 — admin @ 6:00:42

詩篇37:30〜40
37:30 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。 37:31 心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。 37:32 悪者は正しい者を待ち伏せ、彼を殺そうとする。 37:33 主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。 37:34 主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。 37:35 私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。 37:36 だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。 37:37 全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。 37:38 しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。 37:39 正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。 37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。

要約
神は義人を悪者の手から守られます。この地で悪者が栄えるとしてても、それは一時的なものです。悪者の最後は滅亡であり、ただ主だけに頼る者たちは、救いを得ます。

義人に目を留められる神を見よ(詩篇37:30〜36)
義人は神のみおしえに従って生きる人です。その心に、「神のみおしえ」(31節)があり、神のみことば通りに従う人の歩みは決してよろけません。 これは神のみおしえに従う人々が味わう特権です。ですから、悪者が義人を倒す機会を伺っていても、神は彼らのたくらみを妨げられ、さばきの時、義人を罪に 定められません。悪者たちはやがて断ち切られます。ですから、聖徒は悪者の攻撃を恐れるよりも、すべての問題の解決者となられる神を望み、神のみことばを 守ることに集中しなければなりません。このように、真実に神を求める者たちは、地を受け継ぎます。神を求めることはどんな状況においても、そのお方に信頼 する態度です。神に望みを置き、求めた分だけ、私たちの信仰も成熟し、ます。
あなたの心には「神のみおしえ」が中心にありますか。神を求め、もことばを守ることに集中できないようにする要素は何ですか。

神の救いを信頼せよ(詩篇37:37〜40)
詩篇の筆者は「全き人」と「直ぐな人」の生き方に目を留めるよと語ります。終わりには彼らに平安が訪れることを見よと語ります。悪者に向かって最 後まで平和を保った人は平安の祝福を味わいます。彼ら自身だけでなく、その子孫も祝福を味わいます。”犯罪者たち”は神が定められた権威に背く者たちを指 します。彼らは完全に滅ぼされ、彼らの子孫は断ち切られます。神は艱難に遭うとき、正しいもの救いのとりでとなってくださいます。詩人は、救われる方は神 であり、神だけに頼ることを勧めます。ですから、聖徒たちは悪を行う者たちに、怒ったり、戦うべきではありません。もし、心に不安と怒りが込み上げるな ら、神の前にけ駆け寄って祈り、そのお方の摂理を確信してください。
きょう、神にさらに頼るべきことは何ですか。不安と怒りに駆られるとき、最も先にどんな行動をとりますか。

今日の祈り
私の心に神様の律法が生きているのか、それを頭でだけ理解しているのではないが点検し、主のみことばが生きていることが私を通して証しされますように。

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